日蓮が釈尊の一代聖教の中から法華経を選択したように、我々も、なにがしらの選択が必要に思われるのですね。確かに仏教の経典すべてを学ぶことは好ましいことでしょうが、仏教の専門家でもない庶民である我々にとって、すべてを学ぶことはできませんし、また、すべてを学ぶ必要があるかといえば、ないといえるでしょう。別に全部を学ばなくとも、然るべき根本となるものを軸にすればよいと思います。
御書でいえば、400編以上の御書がありますが、ひとつを選ぶとすれば、「如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄)」になるでしょう。日蓮仏法の根本の書といえば、本尊抄に決まるといってよいでしょうし、反論はないものと思われます。
では、次に法華経の内でどの品を選ぶかといえば、本尊抄を読めば分かるように如来寿量品になります。
本尊抄と寿量品とが我々が研鑚すべき、また、繰り返し読むべき書となります。毎日、本尊抄を読み、また、寿量品を読むということは、さほど困難ではありません。もちろん、本尊抄を全部読むとなりますと1時間程度の時間がかかりますから、本尊抄の一部を読むということになりますが、とにかく、毎日、本尊抄を少しずつ読んでいけば、13日程度で1周します。寿量品においては、勤行において、「自我偈」を読誦しますので、毎日、寿量品に親しんでいるといえます。
毎日の信仰において、「南無妙法蓮華経」との題目を唱えていますが、どこに向かって唱えているかといえば、日蓮の大曼荼羅に向かって唱えています。やはり、日蓮仏法の信仰において、本尊、日蓮の大曼荼羅が中心になります。
このように考えますと、「本尊、日蓮の大曼荼羅」、「本尊抄」、「寿量品」が日蓮仏法の信仰における三大部といえるでしょう。この三大部に集中しながら自らの信仰を透徹させるのがよいと思うのですね。
もちろん、その他の御書、その他の法華経の品を読むわけですが、根本として、毎日触れる書として、本尊抄、寿量品を選択し、その軸を確固たるものにした上で、その余の書に広げていくという姿勢が重要です。あれもこれもといったふらふらした姿勢は、信仰において好ましくありません。
一般庶民である我々の信仰としては、一番重要なところを見定めることが肝要です。「本尊、日蓮の大曼荼羅」、「本尊抄」、「寿量品」という三大部に毎日触れながら、信仰していくことは、それほど難しくはありません。ある意味、易行ですね。易行だからといって、功徳が少ないわけではありません。むしろ、易行であるからこそ、実行できるわけですから、確実に功徳が得られます。毎日のことですから、いつの間にか相当な蓄積となります。できないことをやろうとしても、できないわけですから、功徳など発生しません。しかし、できること、所謂、易行であれば、あとはするかしないかだけですから、さっさと発心して信仰を進めていけば良いですね。
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