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2023年11月05日

速成は堅牢ならず

人は、インスタントにすぐに結果を求めがちですが、その結果が大したことがなく、すぐに陳腐になり、使い物にならない場合が多いのではないでしょうか。

やけに急ぎますが、そんなに急いで出来上がったものが長持ちすることはなく、いわば、安物買いの銭失いに似た状態になるだけでしょう。

中国の古典に学びながら、どのように行動すればよいのか、考えてみましょう。
物盛んなればすなわち必ず衰え  驍ればまた替あり
速成は堅牢ならず  すみやかに走れば顚躓多し
灼灼たる園中の花  はやく発きてまたまず萎む
遅遅たる澗畔の松  鬱鬱として晩翠を含む
賦命は疾徐あり  青雲は力めて致し難し
語を寄せて諸郎に謝す  躍進は徒為のみと
『蒙求・小学 (中国の古典)』村山吉広 編訳 講談社 235頁

現代語訳を見てみましょう。
物が盛んであれば必ず衰える  栄えている者も没落する
速成されたものは堅牢でなく  急いで走ればつまずきが多い
きらびやかに咲く園中の花も  開いたかと思えばすぐにしぼむ
成長のおそい谷間の松は  やがて緑が濃くなってその姿を保つ
運命には早いおそいがあり  立身出世は人力では定めがたい
申しわけはないけれど  焦ってもこればかりはどうにもならない
『蒙求・小学 (中国の古典)』村山吉広 編訳 講談社 234頁

「速成は堅牢ならず」ですから、急いでも意味がないようです。慌てず、焦らず、ゆっくりと、じっくり物事に取り組むことですね。いろいろな知識にしても、すぐにものにしたい、身に付けたいと思いがちですが、付け焼き刃の知識は、すぐに忘れがちであり、いざというときに役に立ちません。堅牢でないのですね。

やはり、知識を得るならば、堅牢な知識でなければなりません。そのためにも、速成でなく、歩みが遅遅たる状態でありながらも、じっくりと知識を充実させることです。そうすることによって、その知識をいつでも活用できる状態にすることができます。

いつまでも浮き足立つのではなく、どっしりと構えて物事に取り組むべきですね。まさに、「速成は堅牢ならず」との言葉は、ある意味、安心感を与えてくれます。何事もスピードだ、早ければよいという安易な、そして、軽薄な風潮に流されてしまいがちですが、やはり、ここは中国の古典から学び、慌てる必要はないことを確認したいところです。

いままでの人生を振り返りますと、急ぎすぎて、息切れがしておりました。どこかで、早ければよい、何事も早く身に付けるのが有利だ、得策だという感覚に苛まされていたように思います。

別に慌てることはないのですね。息切れがするような人生は、つまらないと感じはじめております。深呼吸して生きていく方が人間的であると思うのですね。

たしかに、仕事の面では、スピードも大切でしょう。しかし、仕事にしても、私生活の面にしても、大事なところは、じっくり、ゆっくり身に付けていくことを意識する必要があります。

堅牢な知識、堅牢な技術、堅牢な対応術等々、堅牢なるものを身に付ける方が、長い目で見れば、実は、得策なのですね。誰かに後れを取るのが嫌だという気持ちは分かりますが、別に、他人が早く進もうが、他人には他人の人生速度があるのであり、自分の人生速度とは関係がないのですね。それが関係あると誤解するから、早く早くという誤作動が起こるわけです。

「速成は堅牢ならず」という言葉を自分のものにする中で、自分自身の人生が開かれていくことでしょう。

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posted by lawful at 00:11| 生き方

2023年11月04日

「河合殿御返事」を読む

 人にたまたまあわせ給うならば、むかいくさきことなりとも、向かわせ給うべし。えまれぬことなりとも、えませ給え。かまえてかまえて、この御おんかぼらせ給いて、近くは百日、とおくは三ねんつつがなくば、みうちはしずまり候べし。それより内になに事もあるならば、きたらぬ果報なりけりと、人のわらわんはずかしさよ。かしこ。
  卯月十九日    日蓮 花押
 かわいどの御返事
『日蓮大聖人御書全集』新版 1952頁〜1953頁 (河合殿御返事)

仕事をしていますと、嫌な人、困った人との出会いがあるものです。相手にしたくないのですが、一応、仕事に関連する場面においては相手をしなければなりません。ストレスが溜まるのですね。

日蓮の書を読むと、「向かい臭きこと」とあり、これは嫌なことをあらわしていると思いますが、それも「臭きこと」と表現していることから、相当に嫌なことをあらわしていると考えてよいでしょう。

つまり、とんでもない嫌なことがあっても、向かい合いなさいというのですね。いわば、覚悟を決めなさいと言っているようです。安易な気持ちで物事に対処してはならないとの教訓が得られます。

また、笑顔になれないことであっても、笑顔で対処しなさいと言っています。顰めっ面では、うまくいくこともうまくいかないですから、笑顔で穏やかに対処せよということです。

御文にある「この御おん」は、どのような御恩のことを言っているのだろうかと考えますと、仏教的な御恩、つまり、功徳のことなのだろうと推測します。どうにかして、この功徳を得て、百日、三年という間、問題がなければ、身の回りは平穏であるだろうと言っています。

百日、三年の間に何かあったならば、果報、功徳がなかったのだなと、人が笑い恥ずかしいことであるよ、と言っており、どうなるかはあなた次第ですよ、あなたの信仰心次第ですよということが含意されているように感じます。

まずは、自分で対処しなければならないことについては、覚悟を決めて対処し、笑顔で対処できるほどの余裕を持ち、根本的な仏教的な功徳を得て、あとは、天にまかせるという感じでしょうか。くよくよするなということでしょうね。

やるべきことを徹して行い、悩んでも仕方のないことには時間、エネルギーを使わないという姿勢が肝要です。

「河合殿御返事」は、昭和定本では第四巻に収録されており、御書新版で新規で収録されていることから、昭和27年以前には確認されておらず、その後に発見された御書です。新たに発見されるのは、断簡が多く、まとまった内容の御書は少ない中で、短い御書でありながら、中身が濃く、強い教訓が得られる御書ですね。

最後の「かしこ」ですが、昭和定本では「かしく」となっています。『日蓮聖人真蹟集成』第5巻144頁で真筆を確認しても、最後の文字が「こ」なのか「く」なのかが判読できず、この部分はよく分からないですね。「かしこ」は女性が手紙の末尾に書くことばであり、日蓮が「かしこ」と書くとは思えません。

いずれにしても、「河合殿御返事」は、人生においてどのように行動すべきかを示してくれており、「覚悟」を決めなさいということ、つまり、「覚り」、「悟り」を得ていきなさいというメッセージが読み取れます。

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2023年10月09日

自分にないものを数えるのではなく、自分にあるものを数える人生

「少欲知足」という言葉は、御書において、以下の通り、2カ所出てきます。
ただ正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ。
『日蓮大聖人御書全集』新版 1434頁 (曽谷殿御返事(成仏用心抄))

よき師とは、さしたる世間の失無くして、いささかのへつらうことなく、少欲知足にして慈悲有らん僧の、経文に任せて法華経を読み持って人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中に吉き第一の法師なりと讃められたり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 695頁 (法華初心成仏抄)

「曽谷殿御返事(成仏用心抄)」も「法華初心成仏抄」も真蹟がない御書ですが、内容が信仰に深く関わるものであるため、よく読まれている御書ですね。

「少欲知足」は、僧侶にからめて述べられており、僧侶のあるべき姿をあらわす言葉として使用されています。修行の身である僧侶が欲望まみれでは話になりませんので、欲は少なくとされるのは納得できます。また、今所持しているもので満足せよということ、つまり、足るを知ることが大事とされるのもよく分かります。

では、「少欲知足」は、僧侶だけの指針であるのか。別に僧侶に限る必要はないと思います。我々にとっても意義深い指針と思えるのですね。

人は、自分にないものを数え始めると不幸になります。あれもない、これもないと言い続けると心が塞ぎがちになるものです。いわば、欲が肥大化しているのですね。当然、足るを知るなどという状態ではありません。足りない、足りないですからね。「少欲知足」と反対の生き方をすると不幸になります。

一方、自分にあるものを数え始めると、いろいろなものがあると再認識し、自分が恵まれていることに気付きます。いつの間にか顔がほころんで幸せになります。これもある、あれもあるとなって、欲が肥大化する必要がなくなるのですね。まさに、「少欲知足」な状態となり、幸せな生き方となります。

自分にないものを数える人生ではなく、自分にあるものを数える人生を歩むことが「少欲知足」といえるでしょう。

もちろん、自分に足りない点は、補う必要があります。その際、単に足りない、足りないと嘆くのはよくないですね。自分の持っているものに基づき、その自分の持っているものを最大限活用しながら、自分の足りない点を補うという姿勢が大切です。いたずらに、あれもこれもと強欲になるのではなく、ひとつひとつ着実に自分の至らない点を改善するのがよいですね。

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2023年09月03日

唱法華題目抄を読む

「三類の強敵」とは、俗衆増上慢、道門増上慢、僭聖増上慢のことですが、「唱法華題目抄」において、法華経の文と妙楽大師の法華文句記巻八の四の文とを出して、まとめてくれています。御書を読めば、「三類の強敵」が文証付きで理解できるのですね。御書新版では、8頁から9頁にかけて記載されています。

「悪知識」とは、簡単に言うと、人を不幸に陥れる人間のことですが、「唱法華題目抄」では、涅槃経の文、章安大師の言葉を引用しながら説明を加えています。
故に、涅槃経二十二に云わく「悪象等においては心に恐怖なく、悪知識においては怖畏の心を生ず。何をもっての故に。この悪象等はただ能く身を壊るのみにして、心を壊ること能わず。悪知識は二つともに壊るが故に。乃至悪象に殺されては三趣に至らず、悪友に殺されては必ず三趣に至る」文。この文の心を章安大師宣べて云わく「諸の悪象等は、ただこれ悪縁なるのみにして、人の悪心を生ずること能わず。悪知識は甘談・詐媚・巧言・令色もて人を牽いて悪を作さしむ。悪を作すをもっての故に人の善心を破る。これを名づけて殺となす。即ち地獄に堕つ」文。文の心は、悪知識と申すは、甘くかたらい、詐り媚び、言を巧みにして、愚癡の人の心を取って善心を破るということなり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 10頁 (唱法華題目抄)

ここで言う「悪象」は、単なる悪人、ただの悪人といった感じですね。確かに注意すべき悪人ではあるのですが、自らの心に悪心を抱かせるほどの悪人ではないため、悪人の程度としては、大したことがないといえます。

しかし、「悪知識」となると、善き心が破られ、悪心とさせられ、結局、地獄に落とされるというのですから、根本的な悪人といえます。注意すべきは、「悪知識」ですが、この「悪知識」は、甘い言葉で近付いてくるというのですね。詐術を使い人を騙しながら、媚びへつらうことさえします。また、口がうまいようで、弁舌爽やかであり、人の心の中にある愚かな側面を見逃さず、そこに集中攻撃をかけながら、人の善き心を破るのですね。

これは、見破るのが困難といえましょう。人は甘い言葉で寄ってこられると、つい気が緩むようで、まんまと騙されるのですね。

「悪知識」を信用してはいけないのですが、信用してしまった場合、どうなるのか。「唱法華題目抄」の記載を確認してみましょう。
日本国中の諸人は仏法を行ずるに似て仏法を行ぜず、たまたま仏法を知る智者は国の人に捨てられ、守護の善神は法味をなめざる故に威光を失い利生を止め、この国をすて他方に去り給い、悪鬼は便りを得て国中に入り替わり、大地を動かし、悪風を興し、一天を悩まし、五穀を損ず。故に、飢渇出来し、人の五根には鬼神入って精気を奪う。これを疫病と名づく。一切の諸人、善心無く、多分は悪道に堕つること、ひとえに悪知識の教えを信ずる故なり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 11頁 (唱法華題目抄)

仏法を知る智者が不遇になるようですね。また、守護の善神はどっかに行ってしまうようです。その代わりに悪鬼が国中を暴れ回り、地震、悪天候、不作、飢饉、疫病と数々の災難を起こすのですね。これが「悪知識」の故というのですから、いよいよ「悪知識」には気を付けなければなりません。根本的な悪が「悪知識」というわけです。

また、「唱法華題目抄」では、本尊と行儀についても述べられています。
 問うて云わく、法華経を信ぜん人は、本尊ならびに行儀、ならびに常の所行はいかにてか候べき。
 答えて云わく、第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、あるいは題目を書いて本尊と定むべしと法師品ならびに神力品に見えたり。また、たえたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造っても法華経の左右にこれを立て奉るべし。また、たえたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし。
 行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし。道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず。常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし。たえたらん人は一偈一句をも読み奉るべし。助縁には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸の菩薩・二乗・天人・竜神八部等、心に随うべし。愚者多き世となれば、一念三千の観を先とせず。その志あらん人は、必ず習学してこれを観ずべし。
『日蓮大聖人御書全集』新版 17頁〜18頁 (唱法華題目抄)

文応元年の段階で、曼荼羅本尊の相貌の主要な部分があらわれています。法華経八巻が本尊と言っていますね。また、一巻、一品という言い方もしています。その後、あるいは題目と言っています。法華経八巻が本尊であり、その一部である一巻、一品だけでなく、題目も本尊ということであり、これを書いて本尊と定めるとしています。

題目だけでは物足りない向きには、釈迦如来、多宝仏を書くとあり、また、十方の諸仏、普賢菩薩等をも書いてよしとしています。まさに、曼荼羅本尊の中心部分の相貌があらわれています。

その本尊の前での行儀はどうすべきか。「必ず坐立行なるべし」ですから、座ったり(坐)、立ったり(立)、歩いたり(行)ということであり、座るだけではないのですね。立ったままでもよく、歩いてもよいわけで、動きがある行儀となっています。座るにしても、正座してもよいし、椅子に座ってもいいですね。そもそも立ったままでもよく、歩いてもいいわけで、正座にこだわる必要もなければ、座ることにこだわる必要もないでしょう。信仰は動きの中にあるといえるでしょう。

「道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず」ですから、歩いたり(行)、立ったり(住)、座ったり(坐)、横に寝たり(臥)してよいとあります。横になる以外は、「坐立行」と変わりがありません。横になっていても題目をあげることができますから、信仰の形としては、柔軟性がありますね。ある意味、信仰心がしっかりしていれば、なんでもありということでしょう。ただ、その信仰心がぐらぐらなのが凡夫なのでしょうね。

最後に「唱法華題目抄」では、よく引用される最後の文を見てみましょう。
ただ法門をもって邪正をただすべし。利根と通力とにはよるべからず。
『日蓮大聖人御書全集』新版 23頁 (唱法華題目抄)

つい、宗教というと「利根と通力」が重要と感じてしまいますが、日蓮仏法にとっては、「利根」という、いわば才能のようなもの、勝れた資質のようなものは、確かに重要ではあるけれども、根本とすべきほどのものではないのですね。また、「通力」という、いわば超能力のようなもの、絶大な力といったもの、魔力といったものは、日蓮仏法においては、どうでもよいようです。日蓮仏法は、あくまで「法門」によるべしということなのですね。

世の宗教を概観しますと、「通力」を売り物にしている宗派がありますが、日蓮からすると偽物ということですね。宗教は、やはり、「法門」で判断すべきですし、「法門」に基づいて信仰したいと考えています。「通力」で信仰するのは困難ですね。あやふやなものというよりは、単なるインチキなのですから、そもそも、信仰に値しません。

信仰する場合は、「法華経」、「御書」を中心として信仰していくべきでしょう。

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2023年08月07日

初心の功徳

妙楽大師、「五十展転」の人を釈して云わく「恐らくは、人謬って解せる者、初心の功徳の大なることを測らずして、功を上位に推り、この初心を蔑る。故に、今、彼の行浅く功深きことを示して、もって経力を顕す」文。文の心は、謬って法華経を説かん人の、この経は利智精進・上根上智の人のためといわんことを、仏おそれて、下根下智・末代の無智の者のわずかに浅き随喜の功徳を四十余年の諸経の大人・上聖の功徳に勝れたることを顕さんとして、「五十展転」の随喜は説かれたり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 6頁〜7頁 (唱法華題目抄)

「初心の功徳」という言葉が出てきます。『法華文句記』巻10の中にある妙楽大師の言葉ですね。信仰を始めたばかりの人にあらわれる功徳のことをいいます。

信仰において、重要なのは信仰を始めたその時なのでしょうね。しかし、親が法華経信仰をしている場合、生まれたときから信仰の世界にいるわけで、その場合、「初心の功徳」と言われてもピンとこないところもあります。

しかし、改めて、信仰とは、法華経とは、御書とは、本尊とは、との問いを発し始めると、まさにその時が、事実上、信仰を始めたときといえるかもしれません。その時に信仰をしていく中であわられる功徳が「初心の功徳」といえるでしょう。

また、長年、信仰を続けてきた場合であっても、常に心新たに信仰をするならば、その時が初心ともいえるわけで、常に「初心の功徳」を得ることができると考えられます。

この「初心の功徳」は、初心の時の功徳ですから、浅い、深いでいうと浅い信仰になります。浅い信仰であるから、功徳も浅いのかというと、そうではないのですね。

「彼の行浅く功深きことを示して、もって経力を顕す」ということですから、修行が浅くとも、功徳は深いのですね。これが法華経の力であるというわけです。浅い修行では浅い功徳、深い修行で深い功徳というのではなく、浅い修行でも深い功徳を得ることができるのが法華経であり、そうであるからこそ、法華経が素晴らしいといえるのですね。

「初心の功徳」という考え方は、信仰する上で有り難い考え方ですね。仏道修行が段階的であり、徐々に功徳を得ていくものだとするならば、いつまでたっても大した功徳が得られず、途中で嫌になってしまうでしょう。

また、「利智精進・上根上智の人」には、深い功徳があるが、「下根下智・末代の無智の者」には、浅い功徳しかないとなれば、これまた、信仰を続けるのがばかばかしくなるというものです。

しかし、法華経信仰は、「初心の功徳」を強調しますから、「行浅く功深き」であり、はじめから法華経の真髄の功徳を得ることができるのですね。信仰を続けることが容易といえるでしょう。

もちろん、「利智精進・上根上智の人」になるよう努力はすべきですが、そこが根本ではないのですね。「初心の功徳」を大切にする信仰、これが根本ということです。
posted by lawful at 06:00| 御書

2023年08月06日

仏と神との融合

つらつら微管を傾け、いささか経文を披きたるに、世皆正に背き、人ことごとく悪に帰す。故に、善神は国を捨てて相去り、聖人は所を辞して還りたまわず。ここをもって、魔来り、鬼来り、災起こり、難起こる。
『日蓮大聖人御書全集』新版 25頁 (立正安国論)

仏教の正しい法に背き、悪道に陥ると、善神はいなくなってしまうと言っています。そのため、魔と鬼とがあらわれ、災難が起きると言います。

善神がいれば、魔と鬼があらわれることもなく、災難が起きるにしても、大事にはならないわけですね。

善神にはどうしても国にいていただかなければなりません。去ってもらっては困るのですね。

このように日蓮は、「立正安国論」において、善神が必要不可欠と述べているといってよいでしょう。善神を排除していないのですね。よって、曼荼羅本尊には、「天照大神」、「八幡大菩薩」が勧請されています。その他の神々も善神として連なっていると考えるのがよいでしょう。

ある意味、日蓮仏法は、神仏習合となっています。立正安国論の記述や曼荼羅本尊の相貌をみるとそれは明らかです。日本の神々と仏教とを融合させたのが日蓮仏法といえるでしょう。

日蓮が正しい法とするのは、法華経ですが、法華経を中心に信仰をする中で、曼荼羅本尊に向かって、勤行、唱題をしていきますと、「天照大神」、「八幡大菩薩」が目に入ります。仏道修行をしているのですが、同時に、伊勢の神宮と宇佐神宮とに参拝していることになるのですね。また、その他の神々も連なっていると考えますと、八百万の神の神社に参拝しているのと同様となるわけです。

法華経の修行をしながら、神々にまでその信仰が広がっていきます。曼荼羅の世界は、この世の中をすべて包含するわけですから、ある意味、当然の事柄なのですが、カルト的に信仰をしますと、特定の教団のみを至高とするようになり信仰が偏るのですね。やはり、法華経の記載、御書の記載、曼荼羅本尊の相貌を確認しながら信仰するのがよいですね。

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2023年07月08日

孟子の言葉

『孟子』離婁章句下に、以下の言葉があります。
孟子曰く、大人は言必ずしも信ならず。行い必ずしも果ならず。惟だ義の在る所のままなり。

孟子がこう言った。
「萬人に勝れた人(大人)は、必ずしも言行一致するとは限らない。
どうかすると、人との約束も実行しない場合がある。
事情が変って、先約を実行しない方が、却って人に対して親切になることもあり得るからだ。
又、一たん始めた事は飽くまでやり通す。無論、これは悪いことではない。しかし始めて見て、これは間違っていたと氣のつくような場合は、さっさと中止した方がよい。どこまでも無理押しして、自分ばかりでなく、世間にも迷惑のかかるような結果になることは、当然避けなければならない。
この見極めをつける心掛けは、義として大切なことだ。」
杉村顕道 『孟子講義』 1985.12

大人(たいじん)とは、一体いかなる人物か、それについて孟子が述べた言葉ですが、なかなか味わい深い言葉です。

確かに、言ったことを守ること、約束を守ることは重要であり、人間としての基準といえましょう。ただし、その基準は絶対的な基準ではないようです。ひとつの基準ではあるけれども、程度とすれば、あまり高くない程度の基準なのでしょう。ある意味、小人の基準ともいえるかもしれません。

大人(たいじん)は、約束を守るという基準に縛られることなく、本当に人のためになる行動を行うという基準があり、その場合、約束を破ることもあり得るということです。単に、約束を守るという基準を遵守すればよいという安易な姿勢ではなく、高度な判断を踏まえて適切な行動をするのが大人(だいじん)なのですね。

決められた基準を守るだけの人間は、小人であり、それはそれで重要ですが、それだけでこと足れりとならないのがこの世の中です。その時、その時に応じた価値のある行動が必要とされることがあり、そのような行動を創造しうる人物が大人(たいじん)というわけです。

また、何事も始めたことは最後までやり通すのがよいという基準もありますが、これも大切ではあるけれども、さほど重要ではないと思いますね。世の中は変化し、また、自分自身も変化する中で、最初の方針がそのまま通用するわけもなく、常に、変化していく必要があります。やり始めたことも、常に、修正を加えながらブラッシュアップしていくのが適切ですね。

大人(たいじん)としての練り上げられた判断に基づき、行動に修正を加え、より価値的な行動をしていくことが肝要です。あるひとつの基準を絶対視して、身動きができないような人物は小人であり、大したことは為せません。やはり、大人(たいじん)でなければならないといえるでしょう。

孟子の言葉は、現代においても力を持ち得ていますね。さりげない言葉でありながら、我々に深い思索を要求し、安逸な基準で満足するなと言っているようであり、常に、自分の頭で考え、その上で行動せよと迫ってくるようであります。

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2023年07月04日

自分自身の仕事を効果的にする方法

All of us are “experts” on other people and see them much more clearly than they see themselves. To make the boss effective is therefore usually fairly easy. But it requires focus on his strengths and on what he can do. It requires building on strength to make weaknesses irrelevant. Few things make an executive as effective as building on the strengths of his superior.
Drucker, Peter F.. The Effective Executive (Harperbusiness Essentials) (p.106). HarperCollins. Kindle 版.

生産性のある、効果のある仕事をするためには、自らのスキルを上げることだと思いがちです。確かに、自分のスキル、技量を上げることは大切ですが、所詮、一人の力など大したことはありません。

ほとんどの仕事は、規模の大小はあるにせよ組織を通じて行われています。職場において身近な人とは、まさに上司であり、この上司の強みを生かすと自分の仕事が効果的になり、生産性アップに繋がるというわけです。

昔の翻訳を見てみましょう。
われわれはすべて、他人についてはいはば〈専門家〉であり、彼ら自身よりもわれわれのほうが彼らのことをよくわかる立場にある。それゆえ、上長の効果を高めることは、たいていの場合比較的容易な事柄である。ただ、それには、上長の強み、つまり、彼がなしうる事柄に焦点を合わせる必要がある。それは、彼の弱みというものが問題でなくなるように、彼の強みを基礎とすることを要求するのである。その上長の強みを基礎にして仕事を進めることほど経営者の効果を高めてくれる事柄は、めったにないのである。
『経営者の条件』野田一夫・川村欣也訳 ダイヤモンド社 1966年 178頁

自分のスキルを上げることは、正直なところ困難を極めます。時間はかかる、労力はかかる、要は、疲れるのですね。もちろん、自らのスキルアップをしなければなりませんが、それだけでは、すぐに生産性は上がりません。

ドラッカーは、もっと簡単な方法があると教えてくれています。ドラッカーは、上司の強み、上司が得意とすることを生かすことが肝要であるといいます。これならば、今すぐにでもできます。また、自分の労力は大して必要としません。上司が仕事しやすいようにサポートするだけでも、組織の生産性は大幅に上昇します。

新しい翻訳を確認してみましょう。
誰もが人については専門家になれる。本人よりもよくわかる。したがって、上司に成果をあげさせることはかなり簡単である。強みに焦点を合わせればよい。弱みが関係なくなるように、強みに焦点を合わせればよい。上司の強みを中心に置くことほど、部下自身が成果をあげやすくなることはない。
P F ドラッカー. ドラッカー名著集1 経営者の条件 (p.144). ダイヤモンド社. Kindle 版.

上司は、自らの効果、成果を上げるキーパーソンであり、上司の強みに着目し、上司の弱みが露見しないようにサポートするならば、それが自分のためになるというのですね。

ある意味、仕事とは、上司の活用といってもよいでしょう。ほとんどの人間は、上司を活用できていないようです。よって、生産性も上がらず、効果的にもならず、利潤が上がらないのですね。

どうすれば上司の強みが生きるか、どうすれば上司の弱みが出ないようにできるか、そのためには、どのようなサポートをすればよいか、そのようなことを考えながら仕事をするのがよいでしょう。

上司が機嫌よく仕事をして成果が上がれば、自分の成果も連動して上がっていきます。利潤も増え、職場の環境も改善に次ぐ、改善となります。

万一、上司の強みを生かすことが嫌であるとか、上司をサポートするのが嫌だと感じているならば、その職場は、その人にとってふさわしくない職場でしょうから、その場合は、転職するしかないでしょうね。

ドラッカーの言うことが実践できる職場でなければ、ドラッカーのアドバイスは何の価値も有しません。ある程度の職場をドラッカーは前提にしていますので、ブラック企業の場合、ドラッカーは参考にならないでしょう。自分自身の仕事を効果的にするといっても、まずは、ドラッカーの本の内容が実現できる職場に恵まれることが重要ですね。

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posted by lawful at 22:38| ビジネス

2023年07月03日

何が重要で何が正しいかより、方法、順番が大切であること

The adaptation needed to think through the strengths of the boss and to try to make them productive always affects the “how” rather than the “what.” It concerns the order in which different areas, all of them relevant, are presented, rather than what is important or right.
Drucker, Peter F.. The Effective Executive (Harperbusiness Essentials) (p.106). HarperCollins. Kindle 版.

ドラッカーは、ビジネスの上で、大切なこと、注意すべき点について述べています。

昔の翻訳を見てみましょう。
上長のもっている強みというものを把握し、そして、その強みを生かすように努力するために必要な部下としての適応は、その事柄の〈内容〉には関係しないで、たんにその〈方法〉にのみ関係するのである。それは、なにが重要であり、なにが正しいかということよりは、むしろ、それぞれ問題に関連のある違った事柄が、どのような順序でとりあげられるべきかといったようなことに関係する。
『経営者の条件』野田一夫・川村欣也訳 ダイヤモンド社 1966年 177頁

ビジネスにおいても、つい、何が重要か、何が正しいかに目を奪われますが、それよりも大切なのは、方法であり、物事を行う順番なのですね。

人生においては、何が重要か、何が正しいかが大切になりますが、あくまでビジネスの場合、所詮は、利潤追求ですから、哲学的議論よりは、お金がスムーズに流れる方法やお金が流れやすい順番に注意しておくことが大切です。

新しい翻訳も見てみましょう。
上司の強みを生かすには、問題の提示にしても、「何を」ではなく、「いかに」について留意しなければならない。何が重要であり何が正しいかだけでなく、いかなる順序で提示するかが大切である。
P F ドラッカー. ドラッカー名著集1 経営者の条件 (p.144). ダイヤモンド社. Kindle 版.

仕事をしていく際、上司や同僚の強みを生かした方が自分にとっても有益です。これは重要でない、これは正しくないなどと哲学的考察を行う必要などなく、単に、儲かる方法、儲かりやすい順番を注視しながらビジネスを行っていくことですね。

然るべき利潤が確保され、継続的な利潤が見込まれる場合は、何が重要か、何が正しいかということにもエネルギーを注いでもよいと思いますが、ビジネスにおいては、まずは、利潤確保の方法、順番を確実にすることを忘れてはなりません。

もちろん、ビジネスにおいて、何が重要で、何が正しいかを把握することは重要ですが、そのようなことは、ある意味、ビジネスを行う前におおよそ把握しておくべきことであり、実際にビジネスをスタートさせてからは、方法、順番に気を付けながら利益確保に励むべきでしょう。

利益が確保できているということは、顧客が満足しているということですから、ビジネスが正しく行われており、重要なことにコミットできているということになります。

利益確保が正しさを証明し、重要なことを行っている証拠となるのですね。

どうしても、重要であるか、正しいかなどと書生論を振り回しがちですが、方法、順番が大切であるという処世論でいくべきでしょう。ドラッカーの言葉は、我々が見落としがちな点を指摘しており、ハッとさせられます。

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posted by lawful at 19:19| ビジネス

2023年07月02日

読む人、聞く人

It is generally a waste of time to talk to a reader. He only listens after he has read. It is equally a waste of time to submit a voluminous report to a listener. He can only grasp what it is all about through the spoken word.
Drucker, Peter F.. The Effective Executive (Harperbusiness Essentials) (pp.105-106). HarperCollins. Kindle 版.

ドラッカーは、人間を読む人と聞く人に分類しています。ほとんどの人は、どちらかというわけです。

ネットの世界で考えてみますと、ブログを読んだ方が理解が早い場合、読む人といえるでしょう。また、動画で音声を聞く方が理解が早い場合、聞く人といえましょう。

読む方にしても聞く方にしても、自分の得意な方で情報収集する傾向があるでしょうね。

上記の英文の翻訳ですが、昔の翻訳を確認してみましょう。
一般に読むタイプの人間に対して、いろいろと口で説明してもむだである。彼は、読んだ後でなければ人の意見に耳を傾けないからである。同じように、原則として聞くタイプの人間に印刷された報告書を提出してみても時間のむだである。彼は、その書類が言おうとしている事柄を、口をとおして説明してもらう場合にのみ、その意味をほんとうに把握することができるからである。
『経営者の条件』野田一夫・川村欣也訳 ダイヤモンド社 1966年 176〜177頁

a voluminous report を「印刷された報告書」と翻訳していますが、voluminous は、大部の、巻数の多いという意味ですが、印刷されたものは、大概、大部で巻数が多いという意味合いを加えて印刷された報告書としたのかもしれません。丁寧に翻訳され、字数が多くなっていますね。

では、新しい翻訳を見てみましょう。
読む人に対しては口で話しても時間の無駄である。彼らは、読んだあとでなければ聞くことができない。逆に、聞く人に分厚い報告書を渡しても紙の無駄である。耳で聞かなければ何のことか理解できない。
P F ドラッカー. ドラッカー名著集1 経営者の条件 (pp.143-144). ダイヤモンド社. Kindle 版.

a waste of time について、最初は、「時間の無駄」と翻訳していますが、二番目においては、「紙の無駄」と翻訳しています。分厚い報告書が無駄になるという意味合いで紙の無駄と翻訳したのでしょう。こちらは、簡便な翻訳となっており、字数が少なくなっています。

昔の翻訳と新しい翻訳を比べてみますと、雰囲気が大きく違います。ドラッカーの原文を確認しますと、これまた、雰囲気が違うのですね。

翻訳は助かりますが、それなりに英語を勉強し、原文で読むと日本語で読む感覚とは違う感覚が得られ、ある意味、違うものを読んでいる感覚すら覚えるときがあります。できうる限り原文で読む機会を増やしていきたいものです。

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posted by lawful at 15:40| 英語

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