夫れ、諸宗の人師等、あるいは旧訳の経論を見て新訳の聖典を見ず、あるいは新訳の経論を見て旧訳を捨て置き、あるいは自宗に執著し、曲げて己義に随い、愚見を注し止めて後代にこれを加添す。
『日蓮大聖人御書全集』新版 149頁 (法華取要抄)
法華経信仰、御書信仰、本尊信仰をする中で、重要なのは成仏であり、仏の境涯を得ることにあります。また、その成仏、仏の境涯を自分の周りの人々に広げていくことが肝要なことです。それ以外のことは枝葉末節といってよいでしょう。
しかし、宗門なり、教団なりの、所謂、既得権益を得ている人々にとっては、自宗、自分の教団の利益が一番重要になるようであり、「執着」が生じるようです。そのため、既得権益を守るために、正しいものの考え方を曲げて「己義」を構えはじめるのですね。自分に都合のいいようなことを言い始めるわけです。
それだけでなく、愚かな見解、くだらない意見、すっとんきょうな話をし始め、ご丁寧に文書にして後世に残そうとするのですね。
「自宗に執著し、曲げて己義に随い、愚見を注し止めて後代にこれを加添す」との言葉は、短いながら端的にカルト的教団の特色を言い得ており、日蓮の筆の見事さを感じます。
このような教団とは距離を取り、活用できるところだけ活用するのが賢明な態度でしょう。すべてが悪いという教団は、ほとんどなく、それなりにいいところがあるものです。そのいいところだけいただければよいわけで、悪いところを直すために教団改革が必要であるならば、その教団で生活している人が改革すればよいことであって、一信徒や一会員が苦心する必要はありません。
この「法華取要抄」の指摘のとおり、「執着」、「己義」、「愚見」が感じられる場合、適切な距離を保ち、よく観察して、危害を加えられないように十分注意することですね。
ある意味、宗教、教団という枠だけでなく、世の中を見回しますと、「執着」、「己義」、「愚見」が垣間見られることがあります。おかしいなと感じたら注意する。このような態度が求められます。