ただ正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ。
『日蓮大聖人御書全集』新版 1434頁 (曽谷殿御返事(成仏用心抄))
よき師とは、さしたる世間の失無くして、いささかのへつらうことなく、少欲知足にして慈悲有らん僧の、経文に任せて法華経を読み持って人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中に吉き第一の法師なりと讃められたり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 695頁 (法華初心成仏抄)
「曽谷殿御返事(成仏用心抄)」も「法華初心成仏抄」も真蹟がない御書ですが、内容が信仰に深く関わるものであるため、よく読まれている御書ですね。
「少欲知足」は、僧侶にからめて述べられており、僧侶のあるべき姿をあらわす言葉として使用されています。修行の身である僧侶が欲望まみれでは話になりませんので、欲は少なくとされるのは納得できます。また、今所持しているもので満足せよということ、つまり、足るを知ることが大事とされるのもよく分かります。
では、「少欲知足」は、僧侶だけの指針であるのか。別に僧侶に限る必要はないと思います。我々にとっても意義深い指針と思えるのですね。
人は、自分にないものを数え始めると不幸になります。あれもない、これもないと言い続けると心が塞ぎがちになるものです。いわば、欲が肥大化しているのですね。当然、足るを知るなどという状態ではありません。足りない、足りないですからね。「少欲知足」と反対の生き方をすると不幸になります。
一方、自分にあるものを数え始めると、いろいろなものがあると再認識し、自分が恵まれていることに気付きます。いつの間にか顔がほころんで幸せになります。これもある、あれもあるとなって、欲が肥大化する必要がなくなるのですね。まさに、「少欲知足」な状態となり、幸せな生き方となります。
自分にないものを数える人生ではなく、自分にあるものを数える人生を歩むことが「少欲知足」といえるでしょう。
もちろん、自分に足りない点は、補う必要があります。その際、単に足りない、足りないと嘆くのはよくないですね。自分の持っているものに基づき、その自分の持っているものを最大限活用しながら、自分の足りない点を補うという姿勢が大切です。いたずらに、あれもこれもと強欲になるのではなく、ひとつひとつ着実に自分の至らない点を改善するのがよいですね。