覚音寺(かくおんじ)は長野県大町市八坂にある寺院。現在は金峯山修験本宗に属し、本堂、観音堂や庫裡が残る。仁科三十三番札所の二十三番番札所である。
歴史
本尊の千手観音立像(像高約168センチメートル)の胎内から、昭和10年(1935年)の解体修理の際、紙本摺仏千手観音像18枚、白銅製円形和鏡1面、表裏に墨書のある木札が発見された。
木札の墨書銘によれば、治承3年(1179年)に仁科盛家とその縁者が施入したもので、「信州安曇郡御厨藤尾郷」に属し、「覚薗寺」といい、快尊上人が勧請して建立したとされるが、開創年代は未詳である。また信濃国をさして「信州」という呼称の初出とされている。脇侍の持国天立像(建久5年銘、像高約176センチメートル)、多聞天立像(建久6年銘、像高約160センチメートル)は、本尊とともに重要文化財に指定されている。
当初は戸隠山の天台宗勧修院の隠居寺であったが、次第に衰微した。江戸時代には幾度か補修を重ね、文禄4年(1595年)に安曇郡の国衆細萱河内守長知が観音堂を再興し、広津の成就院2世によって曹洞宗に改宗したとされる。宝永7年(1710年)弾誓寺の木食山居故信法阿によって本尊が修復された。昭和23年(1948年)に寺号を取得、金峯山寺の末寺となった。
現在の観音堂は明治45年(1912年)の類焼後に再建された。
文化財
重要文化財
木造千手観音立像(藤尾観音堂安置) 像内納入木札に治承三年十一月廿八日とあり
附 銅鏡菊ニ双雀文様 1面
木造持国天立像・多聞天立像
所在地 長野県大町市八坂1625
山号 藤尾山
宗派 金峯山修験本宗
本尊 千手観音
創建年 不詳
開山 快尊上人
札所等 仁科三十三番札所23番
2024年11月24日
2024年11月18日
村上家住宅(むらかみけじゅうたく)は、富山県南砺市上梨集落にある合掌造り家屋
村上家住宅(むらかみけじゅうたく)は、富山県南砺市上梨集落にある合掌造り家屋。国の重要文化財に指定されている。
概要
村上家住宅の位置する上梨集落は、県内最古の木造住宅である上梨白山宮を有するなど、五箇山内でも特に歴史ある中心的集落の一つであった。
村上家住宅の建築年代について、基本的には江戸時代中期ころの建築と考えられているが、地元には、戦国時代の1570年(元亀元年)に勃発した石山合戦の頃に建築されたとの伝承がある。石山合戦が行われた頃、ウシやノボリの材木を一人で持ち上げる怪力の男が村上家の建築を手伝っていたが、石山本願寺陥落の悲報が伝えられたことで落胆し、材木を持ち上げられなくなってしまったというものである。この伝承がそのまま史実とは考えにくいが、戦国時代の武家造りから書院造りに移行する過渡期の様式を示すなど、古風・古式の遺構が残る事は村上家住宅の大きな特徴である。
特徴
村上家住宅の主な特徴は以下の通り。
書院造りの遺構といわれる家長寝室の「帳台構え」がある。
加賀藩によって百姓家に禁止された「長押(なげし)」を取りはずした跡がある。
中の出居に面して、初期書院造り床棚の「一文字棚」を設けてある。
大家族の次男以下および使用人の寝室に「中二階」を充てている。
加賀藩へ納めた火薬原料の「塩硝製造まや」が残っている。
生活用具・生産道具・運搬具など、多くの民具を保存し展示する。
アクセス
最寄のインター:東海北陸自動車道五箇山インターチェンジ
最寄の空港:富山空港
最寄の駅:新高岡駅・城端駅
最寄のバス停:上梨(世界遺産バス 新高岡駅・城端駅経由)
公開時間・料金
9:00-16:00
入場料:高校生以上300円(団体の場合350円)、小・中学生200円(団体の場合150円)、幼児・障害者
所在地 富山県南砺市上梨742
位置 北緯36度24分38.04秒 東経136度55分51.62秒
類型 役宅
形式・構造 合掌造り、切妻造、茅葺
延床面積 桁行22.2m×梁間11.4m
建築年 江戸時代後期
文化財 重要文化財(1958年5月14日指定)
概要
村上家住宅の位置する上梨集落は、県内最古の木造住宅である上梨白山宮を有するなど、五箇山内でも特に歴史ある中心的集落の一つであった。
村上家住宅の建築年代について、基本的には江戸時代中期ころの建築と考えられているが、地元には、戦国時代の1570年(元亀元年)に勃発した石山合戦の頃に建築されたとの伝承がある。石山合戦が行われた頃、ウシやノボリの材木を一人で持ち上げる怪力の男が村上家の建築を手伝っていたが、石山本願寺陥落の悲報が伝えられたことで落胆し、材木を持ち上げられなくなってしまったというものである。この伝承がそのまま史実とは考えにくいが、戦国時代の武家造りから書院造りに移行する過渡期の様式を示すなど、古風・古式の遺構が残る事は村上家住宅の大きな特徴である。
特徴
村上家住宅の主な特徴は以下の通り。
書院造りの遺構といわれる家長寝室の「帳台構え」がある。
加賀藩によって百姓家に禁止された「長押(なげし)」を取りはずした跡がある。
中の出居に面して、初期書院造り床棚の「一文字棚」を設けてある。
大家族の次男以下および使用人の寝室に「中二階」を充てている。
加賀藩へ納めた火薬原料の「塩硝製造まや」が残っている。
生活用具・生産道具・運搬具など、多くの民具を保存し展示する。
アクセス
最寄のインター:東海北陸自動車道五箇山インターチェンジ
最寄の空港:富山空港
最寄の駅:新高岡駅・城端駅
最寄のバス停:上梨(世界遺産バス 新高岡駅・城端駅経由)
公開時間・料金
9:00-16:00
入場料:高校生以上300円(団体の場合350円)、小・中学生200円(団体の場合150円)、幼児・障害者
所在地 富山県南砺市上梨742
位置 北緯36度24分38.04秒 東経136度55分51.62秒
類型 役宅
形式・構造 合掌造り、切妻造、茅葺
延床面積 桁行22.2m×梁間11.4m
建築年 江戸時代後期
文化財 重要文化財(1958年5月14日指定)
2024年11月17日
長谷寺(ちょうこくじ)は鳥取県倉吉市にある天台宗の寺
長谷寺(ちょうこくじ)は鳥取県倉吉市にある天台宗の寺。寺号は「はせでら」とも読む。中国三十三観音霊場第三十番札所。
概要
『伯耆民談記』等に伝える寺伝によれば、奈良時代の養老5年(721年)、法道を開山として創建されたという。当初は長谷(ながたに)村(現・倉吉市長谷、長谷寺の西方)にあり、後に現在地に移されたという。草創の詳しい事情や中世までの沿革は判然としないが、中世には禅宗寺院であった。鳥取市河原町片山の国英神社(くにふさじんじゃ)蔵の正安3年(1301年)銘の梵鐘には「伯州久米郷長谷寺鐘」とあり、この時点での寺の存在が確認できる。
豊臣秀吉の時代に寺領を失い衰退するが、米子城主中村一忠によって再興。この頃天台宗に転じた。
境内は打吹山山中、打吹城越中丸跡近くの斜面地にあり、室町時代再築の本堂は急斜面に対応した懸造の建築である。
本堂には重要文化財に指定の厨子内に秘仏の本尊木造十一面観音菩薩坐像を安置する。 また本堂内壁面に室町時代から江戸時代に奉納された秀逸な絵馬が多数掛けられていたことから(現在は庫裏に展示)、「絵馬の寺」として広く知られる。
文化財
重要文化財(国指定)
本堂内厨子 - 本堂内に安置する禅宗様の厨子。室町時代後期、桁行一間、梁間一間、一重、入母屋造、こけら葺き。国の重要文化財 (1988年12月19日指定)
年中行事・祭事
2月下旬 - 長谷の牛玉授け
2月下旬 - 長谷の観音市
交通アクセス
山陰本線 倉吉駅から日本交通・日ノ丸バス市内線西倉吉方面行きで12分、「長谷寺西口」下車、徒歩10分
山陰本線 倉吉駅から日本交通・日ノ丸バス市内線西倉吉方面行きで12分、「赤瓦・白壁土蔵(明治町)」下車、打吹公園経由遊歩道で徒歩30分
所在地 〒682-0824 鳥取県倉吉市仲ノ町2960
位置 北緯35度25分36.2秒 東経133度49分6.2秒
山号 打吹山
宗派 天台宗
本尊 十一面観音
創建年 伝・721年
開基 伝・法道
札所等 中国三十三観音霊場第30番
文化財 厨子(国の重要文化財)ほか
概要
『伯耆民談記』等に伝える寺伝によれば、奈良時代の養老5年(721年)、法道を開山として創建されたという。当初は長谷(ながたに)村(現・倉吉市長谷、長谷寺の西方)にあり、後に現在地に移されたという。草創の詳しい事情や中世までの沿革は判然としないが、中世には禅宗寺院であった。鳥取市河原町片山の国英神社(くにふさじんじゃ)蔵の正安3年(1301年)銘の梵鐘には「伯州久米郷長谷寺鐘」とあり、この時点での寺の存在が確認できる。
豊臣秀吉の時代に寺領を失い衰退するが、米子城主中村一忠によって再興。この頃天台宗に転じた。
境内は打吹山山中、打吹城越中丸跡近くの斜面地にあり、室町時代再築の本堂は急斜面に対応した懸造の建築である。
本堂には重要文化財に指定の厨子内に秘仏の本尊木造十一面観音菩薩坐像を安置する。 また本堂内壁面に室町時代から江戸時代に奉納された秀逸な絵馬が多数掛けられていたことから(現在は庫裏に展示)、「絵馬の寺」として広く知られる。
文化財
重要文化財(国指定)
本堂内厨子 - 本堂内に安置する禅宗様の厨子。室町時代後期、桁行一間、梁間一間、一重、入母屋造、こけら葺き。国の重要文化財 (1988年12月19日指定)
年中行事・祭事
2月下旬 - 長谷の牛玉授け
2月下旬 - 長谷の観音市
交通アクセス
山陰本線 倉吉駅から日本交通・日ノ丸バス市内線西倉吉方面行きで12分、「長谷寺西口」下車、徒歩10分
山陰本線 倉吉駅から日本交通・日ノ丸バス市内線西倉吉方面行きで12分、「赤瓦・白壁土蔵(明治町)」下車、打吹公園経由遊歩道で徒歩30分
所在地 〒682-0824 鳥取県倉吉市仲ノ町2960
位置 北緯35度25分36.2秒 東経133度49分6.2秒
山号 打吹山
宗派 天台宗
本尊 十一面観音
創建年 伝・721年
開基 伝・法道
札所等 中国三十三観音霊場第30番
文化財 厨子(国の重要文化財)ほか
2024年11月13日
旧青木家那須別邸(きゅうあおきけなすべってい)は、明治時代に青木周蔵の別邸として建築された栃木県那須塩原市にある建造物
旧青木家那須別邸(きゅうあおきけなすべってい)は、明治時代に青木周蔵の別邸として建築された栃木県那須塩原市にある建造物。1999年(平成11年)12月21日に国の重要文化財に指定された。
概要
明治前期の那須野が原では明治政府による殖産興業政策を背景に土地の払い下げを受けた元勲や旧大名華族による開拓が行われた。ドイツ公使を務めた青木にもドイツの貴族地主への憧れがあったとされ、那須に青木農場を開設し、1888年(明治21年)に別邸が建築された。設計者はドイツで建築学を学び、日本建築学会の創設者の一人としても知られる松崎萬長である。
建築当初は2階建ての中央棟のみだったが、1909年(明治42年)に付属棟と東西の平屋が増築された。
館は木造2階建ての部分と平屋建ての部分で構成され、自然石と玉石を積んだ基礎の上に建設されている。ドイツで学んだ松崎の設計だけあって、軸組、小屋組、窓の意匠など随所にドイツ建築に多用される工法が見て取れる。外観で特徴的なのは蔦型とうろこ型のスレートであり、とりわけ蔦型は他では見られない特徴的なものである。外観は真っ白だが、これは青木夫妻の好みであったという。
1989年(平成元年)に建物は栃木県に寄贈された。その後、2008年(平成10年)3月に南東側約50メートルに移転して復元・改修された。現在は「明治の森・黒磯」の一施設として一般公開されている。
青木周蔵はドイツ貴族の娘エリザベート・フォン・ラーデと結婚しており、2人の間の一人娘ハンナ(花子)はドイツ貴族に嫁いだことで、ドイツ・オーストリア貴族の家系の中には青木周蔵の子孫が存在するようになった。その一人であるザルム=ライファーシャイト=ライツ伯爵家の当主ニクラス・ザルム=ライファーシャイト=ライツ伯爵は、自邸のシュタイレック城(ドイツ語版)に近いオーストリア・リンツ市と、高祖父青木周蔵が開発に尽力した那須塩原市の仲介を行い、平成17年度から那須塩原市はリンツ市に中学生海外派遣を行うようになり、2009年(平成21年)からは那須塩原市もオーストリアからの生徒の受け入れるようになった。その縁で2016年(平成28年)に両市は姉妹都市提携を行い、2022年(令和4年)には、この旧青木家那須別邸において両市市長が調印式を執り行っている。
2019年(令和元年)には二クラスと、その母のナタリー(青木周蔵の曽孫)が来日して旧青木家那須別邸を訪問した。二クラスは青木周蔵が創立した那須塩原町の青木小学校の100周年記念行事に出席するために来日したことがあり、その時にもここに立ち寄っているが、ナタリーの来日は初めてだった。ナタリーは「今回、初めてここに来て先祖の足跡をたどれ、うれしく思っている」と述べた。
概要
明治前期の那須野が原では明治政府による殖産興業政策を背景に土地の払い下げを受けた元勲や旧大名華族による開拓が行われた。ドイツ公使を務めた青木にもドイツの貴族地主への憧れがあったとされ、那須に青木農場を開設し、1888年(明治21年)に別邸が建築された。設計者はドイツで建築学を学び、日本建築学会の創設者の一人としても知られる松崎萬長である。
建築当初は2階建ての中央棟のみだったが、1909年(明治42年)に付属棟と東西の平屋が増築された。
館は木造2階建ての部分と平屋建ての部分で構成され、自然石と玉石を積んだ基礎の上に建設されている。ドイツで学んだ松崎の設計だけあって、軸組、小屋組、窓の意匠など随所にドイツ建築に多用される工法が見て取れる。外観で特徴的なのは蔦型とうろこ型のスレートであり、とりわけ蔦型は他では見られない特徴的なものである。外観は真っ白だが、これは青木夫妻の好みであったという。
1989年(平成元年)に建物は栃木県に寄贈された。その後、2008年(平成10年)3月に南東側約50メートルに移転して復元・改修された。現在は「明治の森・黒磯」の一施設として一般公開されている。
青木周蔵はドイツ貴族の娘エリザベート・フォン・ラーデと結婚しており、2人の間の一人娘ハンナ(花子)はドイツ貴族に嫁いだことで、ドイツ・オーストリア貴族の家系の中には青木周蔵の子孫が存在するようになった。その一人であるザルム=ライファーシャイト=ライツ伯爵家の当主ニクラス・ザルム=ライファーシャイト=ライツ伯爵は、自邸のシュタイレック城(ドイツ語版)に近いオーストリア・リンツ市と、高祖父青木周蔵が開発に尽力した那須塩原市の仲介を行い、平成17年度から那須塩原市はリンツ市に中学生海外派遣を行うようになり、2009年(平成21年)からは那須塩原市もオーストリアからの生徒の受け入れるようになった。その縁で2016年(平成28年)に両市は姉妹都市提携を行い、2022年(令和4年)には、この旧青木家那須別邸において両市市長が調印式を執り行っている。
2019年(令和元年)には二クラスと、その母のナタリー(青木周蔵の曽孫)が来日して旧青木家那須別邸を訪問した。二クラスは青木周蔵が創立した那須塩原町の青木小学校の100周年記念行事に出席するために来日したことがあり、その時にもここに立ち寄っているが、ナタリーの来日は初めてだった。ナタリーは「今回、初めてここに来て先祖の足跡をたどれ、うれしく思っている」と述べた。
2024年11月10日
大山寺(たいさんじ/おおやまでら)は徳島県板野郡上板町に所在する真言宗醍醐派の寺院
大山寺(たいさんじ/おおやまでら)は徳島県板野郡上板町に所在する真言宗醍醐派の寺院。仏王山(ぶつおうざん)、玉林院(ぎょくりんいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国別格二十霊場第一番札所、四国三十六不動尊霊場第一番札所、阿波西国三十三観音霊場(東部)第二十五番札所。
本尊真言:おん ばさら たらま きりく
御詠歌:さしもぐさ たのむちかひは 大山の 松にも法の 花やさくらむ
概要
寺院は大山(標高691.3 m)の中腹の標高450 mあたりにあり、山頂からの眺望は「徳島百景」の一つとなっている。往時は、阿波の麓からの参拝者ばかりでなく、讃岐側からは山を越えればすぐに当寺にこれたため半数は讃岐からの参拝者であったという。
境内
山門(仁王門):室町時代作と伝わる住職さんお気に入りの仁王像。小字名が「仁王門」である。
鐘楼門:仁王門よりここまで約260段。
本堂:本尊は開帳され無い秘仏であったが、開創1,200年のとき一度だけ開帳された。脇仏は「大山無動」と称する土御門上皇が阿波遷幸のおり寄進した不動明王坐像と毘沙門天立像。
大師堂:向かって左に役行者、右に理源大師、三宝荒神、愛染明王、聖天。
回廊:両堂を繋ぐ回廊で背面と通路を間仕切りし壇を設け木造彫刻の西国三十三所写し仏が並べられている。
駿馬「薄雪」の墓と銅馬:墓は旧参道15丁目の元結掛堂の傍らに葬られ建立された五輪塔を当地に移されたもの。銅馬は1852年蜂須賀藩が京から迎えた鋳造師の子によって造られ、それまでは木製で上に銅製の馬頭観音が乗っていたが、銅馬が造られるとき仏像は胎内に入れられたと伝わっている。馬小屋は2021年春に改築された。
熊野大権現社(祠)
西国三十三所の写し石仏:天保2年のもので、以前は当寺への参道脇に点在していたものを境内に集められ大師堂の前に置かれている。
歌碑句碑:健二「売られゆく牛は気配に聡くして 手綱持つ手を舐めて動かず」、「雪嶺をなるべき明日へ鐘を撞く」、千恵子「ほととぎす音のこゑのみな月の陶質もろき空のいろかな」、「千体の仏の声か・・あらし」、紫山「でヾ虫ののらりくらりのあと乾く」が本堂エリアの境内にある。
短歌の小径:本堂に向かって左の境内左端から奥の院へ上る道に十数基ある。平成26年4月徳島短歌創刊777号記念事業。
本坊
所在地 徳島県板野郡上板町神宅大山14-2
位置 北緯34度9分34.3秒 東経134度23分59.6秒
山号 仏王山
院号 玉林院
宗派 真言宗醍醐派
本尊 千手観世音菩薩
創建年 (伝)500年前後
開基 (伝)西範僧都
正式名 仏王山 大山寺
札所等
四国別格二十霊場1番
四国三十六不動尊霊場1番
阿波西国三十三観音霊場25番
文化財
銅経筒(国の重要文化財)
本堂、大師堂、回廊、鐘楼門(登録有形文化財)
本尊真言:おん ばさら たらま きりく
御詠歌:さしもぐさ たのむちかひは 大山の 松にも法の 花やさくらむ
概要
寺院は大山(標高691.3 m)の中腹の標高450 mあたりにあり、山頂からの眺望は「徳島百景」の一つとなっている。往時は、阿波の麓からの参拝者ばかりでなく、讃岐側からは山を越えればすぐに当寺にこれたため半数は讃岐からの参拝者であったという。
境内
山門(仁王門):室町時代作と伝わる住職さんお気に入りの仁王像。小字名が「仁王門」である。
鐘楼門:仁王門よりここまで約260段。
本堂:本尊は開帳され無い秘仏であったが、開創1,200年のとき一度だけ開帳された。脇仏は「大山無動」と称する土御門上皇が阿波遷幸のおり寄進した不動明王坐像と毘沙門天立像。
大師堂:向かって左に役行者、右に理源大師、三宝荒神、愛染明王、聖天。
回廊:両堂を繋ぐ回廊で背面と通路を間仕切りし壇を設け木造彫刻の西国三十三所写し仏が並べられている。
駿馬「薄雪」の墓と銅馬:墓は旧参道15丁目の元結掛堂の傍らに葬られ建立された五輪塔を当地に移されたもの。銅馬は1852年蜂須賀藩が京から迎えた鋳造師の子によって造られ、それまでは木製で上に銅製の馬頭観音が乗っていたが、銅馬が造られるとき仏像は胎内に入れられたと伝わっている。馬小屋は2021年春に改築された。
熊野大権現社(祠)
西国三十三所の写し石仏:天保2年のもので、以前は当寺への参道脇に点在していたものを境内に集められ大師堂の前に置かれている。
歌碑句碑:健二「売られゆく牛は気配に聡くして 手綱持つ手を舐めて動かず」、「雪嶺をなるべき明日へ鐘を撞く」、千恵子「ほととぎす音のこゑのみな月の陶質もろき空のいろかな」、「千体の仏の声か・・あらし」、紫山「でヾ虫ののらりくらりのあと乾く」が本堂エリアの境内にある。
短歌の小径:本堂に向かって左の境内左端から奥の院へ上る道に十数基ある。平成26年4月徳島短歌創刊777号記念事業。
本坊
所在地 徳島県板野郡上板町神宅大山14-2
位置 北緯34度9分34.3秒 東経134度23分59.6秒
山号 仏王山
院号 玉林院
宗派 真言宗醍醐派
本尊 千手観世音菩薩
創建年 (伝)500年前後
開基 (伝)西範僧都
正式名 仏王山 大山寺
札所等
四国別格二十霊場1番
四国三十六不動尊霊場1番
阿波西国三十三観音霊場25番
文化財
銅経筒(国の重要文化財)
本堂、大師堂、回廊、鐘楼門(登録有形文化財)
2024年11月08日
上野東照宮(うえのとうしょうぐう)は、東京都台東区上野恩賜公園内にある神社
上野東照宮(うえのとうしょうぐう)は、東京都台東区上野恩賜公園内にある神社。旧社格は府社。その豪華さや由来から三大東照宮の一つに数えられることが多い(ただし他の東照宮への配慮からか、自称してはいない)。近隣の芝東照宮は自らを「日光東照宮・久能山東照宮・上野東照宮に並ぶ四大東照宮の一つ」としている。正式名称は東照宮であるが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれ、別名「三処権現」とも呼ばれる。
徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る(なお、御朱印には創建当初の御祭神「東照神君、天海僧正、藤堂高虎」の文字が見受けられる)。
歴史
寛永4年(1627年)、藤堂高虎が上野の高虎の敷地内に創建した。社伝によれば、元和2年(1616年)、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと高虎と天海に遺言されたという。『江戸図屏風』はこの頃と見られる現在とは異なる形状の社殿が描かれている。
現在の社殿は慶安4年(1651年)に家康の孫である徳川家光が改築したもので、上野戦争や関東大震災や第二次世界大戦でも奇跡的に焼失を免れている。上野戦争では旧幕府軍の本陣が上野東照宮境内に置かれたにもかかわらず焼き討ちや打ち壊しに遭うこと無く、関東大震災では鳥居すら倒れず、東京大空襲では焼夷弾を社殿脇に被るものの不発弾であったために倒壊を免れている。そのため強運の神様として、また家康を祭神としていることから出世、勝利、健康長寿の神様として信仰されている。また上野駅から徒歩5分とアクセスも良く、都内では珍しい江戸初期建築として特に海外からの観光客からも人気がある。
社殿は金箔がふんだんに使われていることから金色殿と呼ばれている。重要文化財である社殿・唐門・透塀は2009年(平成21年)1月から2013年(平成25年)まで修復工事が行われ、2014年(平成26年)から公開されている。500円の拝観料で透塀内を見学できる。ただし社殿内部は文化財保護のため非公開としている。
文化財
重要文化財
東照宮社殿 3棟1基
本殿・幣殿・拝殿(合1棟)附:棟札4枚 慶安4年(1651年)
唐門
透塀
石造明神鳥居 寛永10年(1633年)に酒井忠世が寄進
(附指定)銅燈籠 50基
紫地葵紋付桐文散辻が花染胴服
交通
JR東日本線(山手線・高崎線・常磐線・東北新幹線他):上野駅 公園口より徒歩5分
京成本線:京成上野駅 池之端口より徒歩5分
地下鉄銀座線・地下鉄日比谷線:上野駅 不忍口より徒歩10分
所在地 東京都台東区上野公園9-88
位置 北緯35度42分55.3秒 東経139度46分14.1秒
主祭神 徳川家康
徳川吉宗
徳川慶喜
社格等 府社
創建 寛永4年(1627年)
例祭 4月17日
徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る(なお、御朱印には創建当初の御祭神「東照神君、天海僧正、藤堂高虎」の文字が見受けられる)。
歴史
寛永4年(1627年)、藤堂高虎が上野の高虎の敷地内に創建した。社伝によれば、元和2年(1616年)、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと高虎と天海に遺言されたという。『江戸図屏風』はこの頃と見られる現在とは異なる形状の社殿が描かれている。
現在の社殿は慶安4年(1651年)に家康の孫である徳川家光が改築したもので、上野戦争や関東大震災や第二次世界大戦でも奇跡的に焼失を免れている。上野戦争では旧幕府軍の本陣が上野東照宮境内に置かれたにもかかわらず焼き討ちや打ち壊しに遭うこと無く、関東大震災では鳥居すら倒れず、東京大空襲では焼夷弾を社殿脇に被るものの不発弾であったために倒壊を免れている。そのため強運の神様として、また家康を祭神としていることから出世、勝利、健康長寿の神様として信仰されている。また上野駅から徒歩5分とアクセスも良く、都内では珍しい江戸初期建築として特に海外からの観光客からも人気がある。
社殿は金箔がふんだんに使われていることから金色殿と呼ばれている。重要文化財である社殿・唐門・透塀は2009年(平成21年)1月から2013年(平成25年)まで修復工事が行われ、2014年(平成26年)から公開されている。500円の拝観料で透塀内を見学できる。ただし社殿内部は文化財保護のため非公開としている。
文化財
重要文化財
東照宮社殿 3棟1基
本殿・幣殿・拝殿(合1棟)附:棟札4枚 慶安4年(1651年)
唐門
透塀
石造明神鳥居 寛永10年(1633年)に酒井忠世が寄進
(附指定)銅燈籠 50基
紫地葵紋付桐文散辻が花染胴服
交通
JR東日本線(山手線・高崎線・常磐線・東北新幹線他):上野駅 公園口より徒歩5分
京成本線:京成上野駅 池之端口より徒歩5分
地下鉄銀座線・地下鉄日比谷線:上野駅 不忍口より徒歩10分
所在地 東京都台東区上野公園9-88
位置 北緯35度42分55.3秒 東経139度46分14.1秒
主祭神 徳川家康
徳川吉宗
徳川慶喜
社格等 府社
創建 寛永4年(1627年)
例祭 4月17日
2024年11月06日
結縁寺(けつえんじ、英語: Ketsuen-ji)は、千葉県印西市の寺院
結縁寺(けつえんじ、英語: Ketsuen-ji)は、千葉県印西市の寺院である。山号は晴天山。院号は西光院。
概要
千葉県印西市結縁寺にある真言宗豊山派の寺院である。山号は晴天山と称しており、本尊として不動明王を祀っている。なお院号は西光院と称している。
本尊
不動明王
歴史
寺伝によれば、神亀年間(724年〜729年)に行基の開山によって創建されたという。また、源頼政の家臣が、頼政の戦死後その首をこの地に葬って一寺を建立したとも伝えられる。
文化財
本尊は「銅造不動明王立像」として国指定重要文化財となっている。像高47センチメートルであり、裳(下半身にまとう衣)前面の刻銘により1303年(旧暦嘉元元年)の造像とわかる。牙は片方を上、片方を下に向けて出すが、眼はいわゆる天地眼とせず、両眼を見開いている。
所在地 千葉県印西市結縁寺516番地
北緯35度47分25.2秒 東経140度8分6.2秒
山号 晴天山
院号 西光院
宗派 真言宗豊山派
本尊 不動明王
創建年 神亀年間
(724年〜729年)
開山 行基
文化財 銅造不動明王立像
概要
千葉県印西市結縁寺にある真言宗豊山派の寺院である。山号は晴天山と称しており、本尊として不動明王を祀っている。なお院号は西光院と称している。
本尊
不動明王
歴史
寺伝によれば、神亀年間(724年〜729年)に行基の開山によって創建されたという。また、源頼政の家臣が、頼政の戦死後その首をこの地に葬って一寺を建立したとも伝えられる。
文化財
本尊は「銅造不動明王立像」として国指定重要文化財となっている。像高47センチメートルであり、裳(下半身にまとう衣)前面の刻銘により1303年(旧暦嘉元元年)の造像とわかる。牙は片方を上、片方を下に向けて出すが、眼はいわゆる天地眼とせず、両眼を見開いている。
所在地 千葉県印西市結縁寺516番地
北緯35度47分25.2秒 東経140度8分6.2秒
山号 晴天山
院号 西光院
宗派 真言宗豊山派
本尊 不動明王
創建年 神亀年間
(724年〜729年)
開山 行基
文化財 銅造不動明王立像
2024年11月02日
美保神社(みほじんじゃ)は、島根県松江市にある神社
美保神社(みほじんじゃ)は、島根県松江市にある神社である。式内社で、旧社格は国幣中社。
えびす神としての商売繁盛の神徳のほか、漁業・海運の神、田の虫除けの神として信仰を集める。また、「鳴り物」の神様として楽器の奉納も多い。
祭神
右殿に大国主神の子の事代主神、左殿に大国主神の后の三穂津姫命を祀る。三穂津姫命は大国主神の幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)である「大物主神」の后神。事代主命は神屋楯比売神(かむやたてひめ)と大国主神との間の子供なので義理の母親にあたる。
『出雲国風土記』には、大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述がある。元々の当社の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により事代主神と三穂津姫命とされたものと見られる。
歴史
創建の由緒は不詳であるが、8世紀に編纂された『出雲国風土記』の神社台帳に記載される古社である。延喜式神名帳では小社に列する。
中世より横山氏が神職を世襲した。近世頃から「大社(出雲大社)だけでは片詣り」と言われるようになり、出雲大社とともに参拝者が増えるようになった。出雲大社とあわせて「出雲のえびすだいこく」と総称される。
1885年(明治18年)に国幣中社に列せられ、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となった。
交通
松江駅2番のりばから一畑バス美保関ターミナル行きに乗車(所要時間約40分)。美保関ターミナル終点より美保関コミュニティバス美保関行きに乗り換えて美保関終点下車(所要時間約30分)。美保神社入口バス停から徒歩約1分。
初詣シーズンやゴールデンウィーク、夏から初冬の土曜日・日曜日・祝日と12月3日には、日ノ丸バスにより米子空港・境港駅との直行バス「えびすライナー」が運行される。
公民館の横に駐車場(無料:十数台分のスペース)と公衆便所があり、神社までは徒歩1分。
所在地 島根県松江市美保関町美保関608
位置 北緯35度33分44.32秒 東経133度18分21.77秒
主祭神 事代主神
三穂津姫命
社格等 式内社(小)
旧国幣中社
別表神社
創建 不詳
本殿の様式 美保造
札所等 出雲國神仏霊場8番
例祭 4月7日(青柴垣神事)
主な神事 神迎神事
虫探神事
諸手船神事
えびす神としての商売繁盛の神徳のほか、漁業・海運の神、田の虫除けの神として信仰を集める。また、「鳴り物」の神様として楽器の奉納も多い。
祭神
右殿に大国主神の子の事代主神、左殿に大国主神の后の三穂津姫命を祀る。三穂津姫命は大国主神の幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)である「大物主神」の后神。事代主命は神屋楯比売神(かむやたてひめ)と大国主神との間の子供なので義理の母親にあたる。
『出雲国風土記』には、大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述がある。元々の当社の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により事代主神と三穂津姫命とされたものと見られる。
歴史
創建の由緒は不詳であるが、8世紀に編纂された『出雲国風土記』の神社台帳に記載される古社である。延喜式神名帳では小社に列する。
中世より横山氏が神職を世襲した。近世頃から「大社(出雲大社)だけでは片詣り」と言われるようになり、出雲大社とともに参拝者が増えるようになった。出雲大社とあわせて「出雲のえびすだいこく」と総称される。
1885年(明治18年)に国幣中社に列せられ、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となった。
交通
松江駅2番のりばから一畑バス美保関ターミナル行きに乗車(所要時間約40分)。美保関ターミナル終点より美保関コミュニティバス美保関行きに乗り換えて美保関終点下車(所要時間約30分)。美保神社入口バス停から徒歩約1分。
初詣シーズンやゴールデンウィーク、夏から初冬の土曜日・日曜日・祝日と12月3日には、日ノ丸バスにより米子空港・境港駅との直行バス「えびすライナー」が運行される。
公民館の横に駐車場(無料:十数台分のスペース)と公衆便所があり、神社までは徒歩1分。
所在地 島根県松江市美保関町美保関608
位置 北緯35度33分44.32秒 東経133度18分21.77秒
主祭神 事代主神
三穂津姫命
社格等 式内社(小)
旧国幣中社
別表神社
創建 不詳
本殿の様式 美保造
札所等 出雲國神仏霊場8番
例祭 4月7日(青柴垣神事)
主な神事 神迎神事
虫探神事
諸手船神事
2024年10月29日
崇福寺(そうふくじ)は、長崎県長崎市にある黄檗宗の寺院
崇福寺(そうふくじ)は、長崎県長崎市にある黄檗宗の寺院。大雄宝殿と第一峰門は国宝建築である。興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数えられる。長崎に4つある唐寺の一つ。
幕末には日本のミッション・スクールの濫觴として立教大学の源流となる私塾や、唐通事の子弟のための訳家学校のほか、英学寄宿舎である培社等が設けられ、日本の英学と語学教育の基礎が築かれた。吉田松陰や高杉晋作、坂本龍馬などの志士も多く訪れ、明治維新で活躍する外交官や通訳者も育むなど、日本の近代化において重要な舞台となった。
歴史・概要
寛永6年(1629年) 長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が、福州から超然を招聘して創建。中国様式の寺院としては日本最古のものである。福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や支那寺と称せられた。
文化財
重要文化財
三門 - 1849年建立、桁行三間、梁間二間、二重門、入母屋造、本瓦葺、左右脇門付
鐘鼓楼 - 1728年建立、桁行三間、梁間二間、二重、入母屋造、本瓦葺
護法堂(天王殿、関帝堂、韋駄殿、観音堂) - 1731年建立、桁行三間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺。中央に観音、向かって右に関帝、左に韋駄天を祀るため、観音堂、関帝堂、韋駄殿、天王殿の称がある。
媽姐門 - 1666年建立、三間三戸八脚門、入母屋造、桟瓦葺
絹本著色仏涅槃図 呉彬筆 明・万暦38年(1610年)
幕末の志士と崇福寺
1950年(嘉永3年)、長崎遊学中の吉田松陰は、鄭幹輔を幾度も訪ねて学んだが、その際に崇福寺にも訪れている。
高杉晋作も、1862年(文久2年)に崇福寺に居たウィリアムズを訪ね、政治制度や国際情勢を学び、特にウィリアムズから学んだ大統領制などの民主制度は、奇兵隊の発想の元になったと言われる。
坂本龍馬も崇福寺を訪れており、龍馬とともに海援隊士として活躍した瓜生震(培社塾長の瓜生寅の弟)も崇福寺にあった培社で学び、龍馬の友人である林謙三(のちの安保清康)も培社で学んでいる。
このように、幕末の舞台となった崇福寺であるが、2010年に放送されたNHK大河ドラマ「龍馬伝」でロケ地となり、伊勢谷友介演じる高杉晋作が、福山雅治演じる坂本龍馬と対面するシーンとして登場している。
所在地 長崎県長崎市鍛冶屋町
位置 北緯32度44分32.1秒 東経129度53分1.2秒
山号 聖寿山
宗派 黄檗宗
創建年 寛永6年(1629年)
開基 超然
文化財 大雄宝殿・第一峰門(国宝)
三門・鐘鼓楼・護法堂・媽姐門他(重文)
幕末には日本のミッション・スクールの濫觴として立教大学の源流となる私塾や、唐通事の子弟のための訳家学校のほか、英学寄宿舎である培社等が設けられ、日本の英学と語学教育の基礎が築かれた。吉田松陰や高杉晋作、坂本龍馬などの志士も多く訪れ、明治維新で活躍する外交官や通訳者も育むなど、日本の近代化において重要な舞台となった。
歴史・概要
寛永6年(1629年) 長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が、福州から超然を招聘して創建。中国様式の寺院としては日本最古のものである。福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や支那寺と称せられた。
文化財
重要文化財
三門 - 1849年建立、桁行三間、梁間二間、二重門、入母屋造、本瓦葺、左右脇門付
鐘鼓楼 - 1728年建立、桁行三間、梁間二間、二重、入母屋造、本瓦葺
護法堂(天王殿、関帝堂、韋駄殿、観音堂) - 1731年建立、桁行三間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺。中央に観音、向かって右に関帝、左に韋駄天を祀るため、観音堂、関帝堂、韋駄殿、天王殿の称がある。
媽姐門 - 1666年建立、三間三戸八脚門、入母屋造、桟瓦葺
絹本著色仏涅槃図 呉彬筆 明・万暦38年(1610年)
幕末の志士と崇福寺
1950年(嘉永3年)、長崎遊学中の吉田松陰は、鄭幹輔を幾度も訪ねて学んだが、その際に崇福寺にも訪れている。
高杉晋作も、1862年(文久2年)に崇福寺に居たウィリアムズを訪ね、政治制度や国際情勢を学び、特にウィリアムズから学んだ大統領制などの民主制度は、奇兵隊の発想の元になったと言われる。
坂本龍馬も崇福寺を訪れており、龍馬とともに海援隊士として活躍した瓜生震(培社塾長の瓜生寅の弟)も崇福寺にあった培社で学び、龍馬の友人である林謙三(のちの安保清康)も培社で学んでいる。
このように、幕末の舞台となった崇福寺であるが、2010年に放送されたNHK大河ドラマ「龍馬伝」でロケ地となり、伊勢谷友介演じる高杉晋作が、福山雅治演じる坂本龍馬と対面するシーンとして登場している。
所在地 長崎県長崎市鍛冶屋町
位置 北緯32度44分32.1秒 東経129度53分1.2秒
山号 聖寿山
宗派 黄檗宗
創建年 寛永6年(1629年)
開基 超然
文化財 大雄宝殿・第一峰門(国宝)
三門・鐘鼓楼・護法堂・媽姐門他(重文)
2024年10月28日
子嶋寺(こじまでら)は、奈良県高市郡高取町観覚寺にある高野山真言宗の寺院
子嶋寺(こじまでら)は、奈良県高市郡高取町観覚寺にある高野山真言宗の寺院。山号は子嶋山(報恩山とも[要出典])。本尊は大日如来。開山は寺伝では僧・報恩と伝える。
平安時代中期作の国宝・両界曼荼羅図(子島曼荼羅)を伝えることで知られる。「清水の舞台」で知られる京都東山の清水寺は子嶋寺の僧・延鎮によって開かれたとされ、平安時代中期以降は真言宗子嶋流の道場として栄えるなど、歴史的に重要な寺院である。
なお、以前は大和七福神(三輪明神、大黒天(子嶋寺)、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)のひとつであったが、現在は経営上の理由から大黒天の朱印は子嶋寺から長谷寺に移管されている。
歴史
創建
奈良時代以前の創建を伝えるが、草創の時期や経緯については複数の説がある。現在の子嶋寺は近鉄壺阪山駅近くにあるが、各種史料に「子嶋山寺」と見えるところからも、創建当時は山間部に位置していたと思われる。平安時代中期には一時衰退し、興福寺の僧・真興(しんごう)によって中興された。寺号は古くは子嶋寺または子嶋山寺、真興による中興以降は「観覚寺」、近世には「千寿院」と称されたが、近代に入って「子嶋寺」に復称した。子嶋寺付近の地名を「高取町大字観覚寺」というのは旧寺号に由来する。
アクセス
近鉄吉野線壺阪山駅下車、徒歩
所在地 奈良県高市郡高取町観覚寺544
位置 北緯34度27分7.8秒 東経135度47分55.1秒
山号 子嶋山
報恩山
院号 千寿院
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
真言宗子嶋流
本尊 大日如来
創建年 奈良時代
開基 報恩大徳
正式名 子嶋山千寿院子嶋寺
報恩山千寿院子嶋寺
別称 観覚寺
子嶋山寺
桙削寺
文化財 紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図(子島曼荼羅)(国宝)
木造十一面観音立像(重要文化財)
平安時代中期作の国宝・両界曼荼羅図(子島曼荼羅)を伝えることで知られる。「清水の舞台」で知られる京都東山の清水寺は子嶋寺の僧・延鎮によって開かれたとされ、平安時代中期以降は真言宗子嶋流の道場として栄えるなど、歴史的に重要な寺院である。
なお、以前は大和七福神(三輪明神、大黒天(子嶋寺)、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)のひとつであったが、現在は経営上の理由から大黒天の朱印は子嶋寺から長谷寺に移管されている。
歴史
創建
奈良時代以前の創建を伝えるが、草創の時期や経緯については複数の説がある。現在の子嶋寺は近鉄壺阪山駅近くにあるが、各種史料に「子嶋山寺」と見えるところからも、創建当時は山間部に位置していたと思われる。平安時代中期には一時衰退し、興福寺の僧・真興(しんごう)によって中興された。寺号は古くは子嶋寺または子嶋山寺、真興による中興以降は「観覚寺」、近世には「千寿院」と称されたが、近代に入って「子嶋寺」に復称した。子嶋寺付近の地名を「高取町大字観覚寺」というのは旧寺号に由来する。
アクセス
近鉄吉野線壺阪山駅下車、徒歩
所在地 奈良県高市郡高取町観覚寺544
位置 北緯34度27分7.8秒 東経135度47分55.1秒
山号 子嶋山
報恩山
院号 千寿院
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
真言宗子嶋流
本尊 大日如来
創建年 奈良時代
開基 報恩大徳
正式名 子嶋山千寿院子嶋寺
報恩山千寿院子嶋寺
別称 観覚寺
子嶋山寺
桙削寺
文化財 紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図(子島曼荼羅)(国宝)
木造十一面観音立像(重要文化財)