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2019年06月28日

妙法蓮華経(本編)その16

如来寿量品第十六

お釈迦様は、求法者たちが何度も重ねて教えを請い、その心が揺るがないことを知って話しました。

この世の神々も人々も私は釈迦国の王子として生まれ、ガヤー市の近く(現在のブッダガヤ)で悟りを得たと思っておりますが、そうではありません。私が成仏したのは無量無辺百千万億那由他阿僧祇却という遠い過去のことでした。はるかな過去から私はあなた方一人ひとりに適切であるように、いろいろな仏の名で法を説きました。そのなかには寿命の長い仏もいれば短い仏もあります。また、まさに涅槃に入るとも語り入滅を示しました。

私が菩薩道を行じて成就した寿命は今なお尽きず、これまでに倍する寿命があります。それなのに「今まさに滅度(亡くなること)するであろう」と告げるのは、如来の方便をもって人々を教化(信仰に向かわせること)するためです。なぜなら、もし仏がいつまでも世に在るとなれば、徳の薄い人は怠惰とおごりが生じ、どんなに時が過ぎても仏を見ることがありません。しかし、仏が滅すると聞けば徳が薄い人々でも仏を慕う心が生まれて善根を植えることになります。そのために実には滅しないにも関わらず滅度すると告げるのです。そのことを「良い医師の巧みな治療」という例話で語りましょう。→良医治子の譬喩

その医師には多くの子がいます。ある時、医師は所用があって遠い他国に行きました。その後、子供たちは誤って毒を飲みその毒の作用が表れて悶え苦しみます。

そこへ戻ってきた父である医師は苦い薬を調合し言いました。「これは効き目があり色と香りと味が良い薬である」と

子供たちの中で正気を失っていない者(症状が軽い者)はすぐに薬を服用しました。しかし意識がもうろうとし症状が重い子はその薬を飲みません。毒が深く回って正気を失っているために色と香りの良い薬を見ても苦くて飲めないと思ってしまったのです。そこで父は「私は年老いて衰え死期が迫っている。ここにと薬を置いていくから飲みなさい」と言い残してまた他国に行き使いを送って「父は死んだ」と知らせました。

子供たちは、みなし子になったと思い深く悲しみ、ついにその心が正気になって薬を飲んだのです。すると、毒の病はことごとく治癒しました。そして父は子供たちが苦しみから解放されたのを知って家に戻り子供たちにその姿を見せたのです。

私が仏になってから時に「今まさに滅度す」と告げたのは父である医師と同じように方便の力で皆を救うためだったのです。

お釈迦様は、そのことを改めて詩によって説きました。

自我偈自我得仏来 所経諸却数 無量百千万億 載阿僧祇なり


私が仏になったのは無量百千万億歳阿僧祇却の彼方昔のことです。生きとし生ける者を救うために方便をもって涅槃を示し、しかも実には滅度することなく法を説いてきました。

世が衰退して、生きる者が皆大火に焼かれているように見える時でも私の国土である娑婆世界は安穏であり神々と善人たちが常に住んでいます。

私の国土は清らかな幸福に満ちた浄土であり、私の浄土は壊れることはありません。それなのに人々は炎に炎に焼き尽くされているかのように見て憂いと怖れと様々な苦悩が充満しているかのように思っているのです。

あなた方知恵ある者は、ここに疑いを生じることがあってはなりません。それはあの医者が巧みな方便をもって病の我が子を治療するために、実はそうではないのに死んだと知らせたのを偽りだと言えないのと同じです。

私もまた世の父として様々な苦しみを救う者です。人が愚かにも心得違いをしているために実際には生きていても滅すと告げます。そして私はいつもこの様に念じています。「どのように人びとを無上道(仏の道)に入らしめ速やかに仏心を成就させようか?」と

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2019年06月16日

妙法蓮華経(本編)その15

従地涌出品第十五

霊鷲山上空の集会には、他の仏の国土からガンジスの砂よりも多く菩薩の道をゆく求法者たちが参じていました。彼らはお釈迦様にこの娑婆世界での宣教を託せられるように願いました。ところがお釈迦様はお許しにはなりません。なぜならこの娑婆世界にすでに6万のガンジスの砂の数ほどの多くのお釈迦様の弟子がいます。彼らが法華経を説き広めるからです。

そのとき地中から無量千万億の菩薩が涌きだしてきました。その地涌の菩薩たちは娑婆世界の下の虚空にいて、お釈迦様が法華経を説かれるのを聞き、宣教の時が来たのを知って地中から現れたのです。

その先頭に立つ上行(勝れて行じる者)、無辺行(無限に行じる者)、浄行(清浄に行じる者)、安楽行(堅固に行じる者)の四大菩薩がお釈迦様に礼拝して「お釈迦様には御身に病なく、御心に煩いなく、安らかなお気持ちであられましょうか」と再会を喜び申し上げました。

お釈迦様が人々に告げられますには、この菩薩たちはお釈迦様が娑婆世界において仏になってから教化(教え導き、良い方向に向かわせること)した直弟子だということでございました。

そのことに人々の心には疑いが生じ困惑いたしました。

お釈迦様が成仏後に伝導された年月は40余年にすぎません。それなのに、これほど多くの菩薩を教化することはできないと思われたからです。すると弥勒菩薩が(みろくぼさつ)がお釈迦様に、「このようなことは世の中の人が信じられることではございません・・・例えば肌が麗しく髪は黒々とした25歳の若者が100歳の老人を指さして[これは我が子だ]と言い、老人も若者を[これは我が父、我らを養育したひとである]と言うようなものです。多くの人が疑念を抱き法に背く罪を犯す原因となってしまいましょう。願わくばこのことを解き明かして疑念をお解きください」と尋ねました。





2019年06月13日

妙法蓮華経(本編)その14

安楽行品第十四

お釈迦様は法華経を説くには、身体言葉意識の三つと人々を救いに導きたいという誓願において揺るがないこと。すなわち、四つの安楽行を示されました。

第一の身安楽行は菩薩の行処(行ずるべきこと)と親近処(近づくべきところ)に心を定めて人々に説くことです。菩薩の行処とは忍耐において揺るがず、しなやかに法を悟り粗暴にならないことです。菩薩の親近処とは国王、王子、大臣など世俗の力に近づかないことです。異教の徒や呪術を学ぼうとする者、賭け事や遊びふける者たちなど近づけずにいることです。ただし、仏道を開こうとするならば、愛しみの心をもって近寄り、心を静かに保って法を説きなさい。それが菩薩の親近処です。

第二の口安楽行では、その人の良さ・悪さ、長所や欠点を口にしてはなりません。また、嫌悪の心を持ってはいなりません。菩薩の道をゆく求法者は、人々の安穏を願って法を説きなさい。和顔をもって語り相手の問いに適切に答えなさい。ただ一心に伝導者であることの因縁をもって「自ら仏道を成じ、人々もまたそのようにあらしめたい」とのみ念じるのです。知恵ある者はこのように心を修めることによって安楽です。

第三の意安楽行は、ねたみ、怒り、おごり、へつらい、あざむき、偽りの心を離れて常に素直であることです。人々に慈悲の心をもたらし諸仏には慈父への思いを起こし、求法者たちには師への思いをおこして、深く敬いの心をもって礼拝しなさい。

第四の誓願安楽行は、このように願うことです。「世の人々の過ちは大きくて方便の教えさえ聞こうとしない。しかし、たとえそうであっても自分が無上の悟りに達したときには人々を無上菩提に至る道に導こう」と

菩薩の道をゆく求法者が安楽行において揺るぎないならば、どんな世でも完全に法を説くことができます。なぜなら、この経は過去、現在、未来の一切の諸仏の人力によって護られているからです。そのことを一つの例えによって説きましょう。

かの転輪聖王(伝説の帝王)がその威勢をもって諸国を平定するときのことを思いなさい。将兵に戦の手柄があればどんな褒美でも与えますが、ただ髻(もとどり)の中の明珠だけは与えません。その珠は帝王の頭頂に輝く象徴でありただ転輪聖王だけが持てる宝玉なのです。それを与えれば諸王や家臣たちは驚き必ずや大きな疑惑にとらわれてしまいます。

如来もまた同じです。禅定と知恵の威力をもって真理の王国を築き、三界(全世界)の帝王たる者が如来です。しかるに、従わない魔王がいるゆえに如来の弟子たる修行者たちが共に戦うのです。そして順次に涅槃(悟りの境地)の城を与えてついには法華経を説くのです。

法華経は生けとし生ける者を一切智に至らしめるものであっても、どの世でも批判されやすく信じることが難しい経典です。それゆえ、これまで説かれることはなかったのです。それを今、私が説きます。

この法華経は諸仏の第一の教説であり、諸経の中で最も深いものです。この法華経は諸仏、如来の秘密の蔵であり諸経の最上なるものです。諸仏が長夜に守護しみだりに説くことがなかった法華経を今はじめてあなた方のために広く説き示すのです。私が世を去った後、あなた方の身と言葉と意識と誓願において四つの安楽行を心に抱きなさい。法華経を読誦すれば、その人に憂いと苦しみはなく病苦もなく貧困にあえぐこともありません。どこに行くにもその人に畏れのないことは、あたかも獅子王であるかのようです。知恵の光明は太陽のようにその人の道を照らします。

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2019年06月12日

妙法蓮華経(本編)その13

勧持品第十三

そのとき薬王菩薩ら二万の菩薩たちとお釈迦様の養母であった摩訶波闍波提ら六千人の比丘尼(尼僧)と八千万億もの法を求める者たちがお釈迦様から宣教を命じられることを願い申し上げました。

私どもにこの経を説き広めるよう勅命されますならば、私どもはお釈迦様のみ教えのままに妙法を宣教いたします。お釈迦様の滅後の悪世においても妙法を説き広めます。人々の中には私どもをののしり刀や杖で暴力をふるう者もおりましょう。私どもはそれに耐えてゆきます。

悪世の比丘たちはよこしまな知識を持ち、心のゆがみは強く悟りさえ得ていると思い込んで歪んだ誇りに身をゆだねるでしょう。

彼らは私どもを誹謗してこのように語るでしょう。「あの者たちは利益や名誉を得たいと思って偽りの教えを説いている。自分たちで法華経を作り世間をたぶらかしているのだ。法華経の修行者たちは邪見の者である」と・・・

汚れ多い悪世には恐怖が満ちています。悪鬼が修行者の変装をして私どもをののしり罵詈雑言を浴びせるでしょう。けれども私どもは仏を敬い信じることによって忍耐の鎧を身につけます。私どもは身命を愛さず、ただ無上道(このうえなく優れた道、すなわち仏道)が見失われることのみを惜しみます。お釈迦様にはお見通しのごとく、濁世のよこしまな僧たちは仏の方便の威力を知らず私どもを僧院から追放して塔や寺院にさえ近づけないようにするでしょう。それでも私どもは、お釈迦様の勅命を奉じてどんなことにも耐えてゆきます。

村や里でも都でも、法を求める者があればそこに行って御教えを説きます。私どもはお釈迦様の使者ゆえ恐れるものはありません。お釈迦様は心配することなく安穏でおられますように。

私どもはお釈迦様の前において、また、ここに参集の十万の御前において誓います。

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妙法蓮華経(本編)その12

提婆達多品第十二

お釈迦様は語りました

遠い過去の世に私はある国の王でした。そのとき阿耨多羅三藐三菩提(無上のさとり)に至る方法を求めて太子に国政を委ねこのように布告しました。

「大乗の教えを授けてくれる者があれば、私は生涯その人の部下として仕えよう」
そのとき一人の仙人が「もし大王が忠実な部下になるなら妙法蓮華経を説きましょう」と言いました。

私は仙人に仕えることになり、ついに仏になることができたのです。

そのときの仙人というのが今の提婆達多(だいばだった)です。大悪人として知られる提婆達多は私の善智識(良き友)だったのです。私は提婆達多に導かれて菩薩の道である六波羅蜜(布施、精進などの六つの徳目)において完全な者となりました。この提婆達多もこの後に仏になります。その仏の名を天王如来(神々の王)といい、その世界を天道(神々の階梯)といいます。

男であれ女であれ妙法蓮華経を聞き疑惑を生じることがなければ、仏のもとに生まれて聖なる蓮の花に包まれるのです。

そのとき文殊菩薩が大きな蓮華に着座して霊鷲山の上空に現れました。龍王の海中の宮殿から戻ってきたのです。文殊菩薩は龍王の海で法華経だけを説き無数の者を導きました。わずか八歳の龍王の娘もおり無上の悟りに達しました。

しかし舎利弗らはそのことを信じられません。そとへ当の龍女が忽然と表れ、お釈迦様に宝珠を差し出しました。お釈迦様は快く受け取ります。法華経の力によって龍女が悟りに達するのと同じように速やかだったと申します。

龍女は、たちまち男子に変身して遠く南の世界に行き、聖なる蓮に着座して仏の姿を現しました。そして南方世界の神々や人々に法を説く姿を霊鷲山の上空から遥かに望むことができたのでした。




2019年06月10日

妙法蓮華経(本編)その11

見宝塔本第十一

そのとき、金銀他様々の宝玉に輝く塔が地面から湧き出して霊鷲山上の空中に高くそびえました。そして塔から「讃えよ、讃えよ。。。お釈迦様が妙法蓮華経を説かれたことを。お釈迦様が説かれたことはまさに真理なり」と声が響きました。

それは多宝如来の塔でした。はるかな過去の世に一人の菩薩が「もし仏とならば入滅の後、十方国土のいずれにても法華経が説かれるところに我が塔廟を現じよう。そして法華経が真の教えであることを証明する者となろう」と誓願を立てて修行し多宝如来となったのです。そして入滅のとき「我が遺骨を分かつことなく全身を塔に納めよ」と弟子たちに命じました。

この如来の力と誓願によって法華経が説かれているところに塔が出現し、空中にそびえて「讃えよ、讃えよ」と声を発するのです。その塔の扉が開かれると中に多宝如来が座しておりました。

そして多宝如来は宝塔の中の座の半分をあけてお釈迦様に呼びかけました。「お釈迦様、どうぞこの座に」おつきください」と

こうして人々は宝塔に二人の如来が並んで座した姿を仰ぐことができたのです。そればかりかお釈迦様は人々を空中に引き上げ、虚空の高みの仏の近くに置かれました。そしてお釈迦様は人々に告げました。

「あなた方の中で、この娑婆世界において妙法蓮華経を説き広める者は誰であろうか?今、その人の時が近づいています。私はまもなく入滅します。私はその人に妙法蓮華経をゆだねたいと望みます」と





妙法蓮華経(本編)その10

法師品第十

それからお釈迦様は「妙法蓮華経を聞いて心に喜びを生じる者があるならば、その人は阿耨多羅三藐三菩提(無上のさとり)を得るでしょう」と誰もが仏になれると説かれました。

「法華経の一字一句でも心に持ち(受持)、目で読み(読)、暗唱し(誦)、説き広め(解説)、写経(書写)し、この五つの行いにおいて仏道に生きる者でありなさい。」と

法華経を読誦する人は如来の威光を自らの威光とし、如来の尊厳をもって自身を厳かで立派にする人です。その人は如来が人々の中に遣わす使者なのです。

お釈迦様はまた、このように語りました。高原穿しょくの例です。

私の滅後においてこの経を受持し人々のために法を説く者は如来の衣に包まれて保護されます。どこにおいても妙法蓮華経を受持、読誦、解説、書写して、その経巻のあるところに塔を建てなさい。美しく大きく塔を築きなさい。塔は仏の遺骨を納めて建立するだけのものと考えてはなりません。なぜなら妙法蓮華経が如来の全身なのですから、その塔の中に如来がおられるのです。在家であれ出家であれ菩薩の道をゆこうとしているのに、もし法華経を見ることも聞くこともなければ、その人はまだ無上の悟りから遠く離れてゆきます。逆に法華経を見、聞き、信受する人は無上のさとり(阿耨多羅三藐三菩提)が近いと知りなさい。

たとえば、高原の荒れ野で水を求めて土を掘る人がいたとしましょう。地を掘っても乾いた土が出てくるだけなら、まだ水は遠いと思うでしょう。けれども湿った土があれば水は近いと思い泥が出てくるようになれば、必ず水を得られると確信するでしょう。

菩薩の道も同じです。もし法華経を聞くことも学ぶこともなければ、無上のさとりは遠くにあると思います。しかし、法華経に出会えばそれは近くにあると確信できるのです。なぜなら菩薩の無常の悟りは皆、この妙法蓮華経から生じるのですから。

私の滅後に法華経を説き広めようと願うときは、如来の室に入り、如来の衣を身につけ、如来の席に座って人々に法華経を説かなければなりません。

如来の部屋は人びとを哀れむ心、すなわち大いなる慈悲の心です。如来の衣とは耐え忍んで常に心柔らかであること、すなわち柔和忍辱の心(腹を立てない心)です。如来の座とは全て空であること、すなわち、どんなものも互いに関わり合いながら常に変化しているという万物の真理です。

それらにおいて心ゆるがず人々に法華経を説き伝えなさい。しかしこの経は諸仏秘要(諸仏が秘匿してきた法)です。みだりに人に授けてはなりません。この経は如来の現在(釈迦在世の時)でさえ怨み嫉みが多いのです。まして如来の滅後には様々な苦難があるでしょう。もし法華経を説いて人々からののしられ、刀で斬りつけられ、棒で殴られ、石や物を投げつけられても仏を念じて耐え忍びなさい。千万億の世界において私の身体は堅固であり仏の威力をもって護衛の武士を出現させます。諸仏が護念したもうゆえにその人は多くの人々を喜びに導くことができます。





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