アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2019年03月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
リンク集
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
みっきいナムナムさんの画像
みっきいナムナム
プロフィール

人気ブログランキング

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2019年03月26日

無量義経(プロローグ)

徳行品第一

その時お釈迦様はマガダ国の都、王舎城の霊峰・霊鷲山に弟子の摩可迦葉(まかかしょう)、舎利弗(しゃりほつ)
ら徳高い出家の尊者2000人と共にありました。そこには文殊菩薩、観世音菩薩ら八万の菩薩たちがいまし
た。神々も、国王も、王子たちとその家来も民たちも、それぞれ眷属(けんぞく)百千万と参詣してお釈迦様の
御足に礼し、お釈迦様の周囲を百千も巡って香をたき、花を散じそれぞれの仏を供養してから一面に座しました

その時大荘厳菩薩がお釈迦様の御前に天草、天香を散じ天衣、宝珠などを上空から無数に降らしましたので
四面に雲のごとく集まり、お釈迦様に捧げられました。

また、神々の旗やのぼりは上空を覆い、天人たちは伎楽を演奏しておりました。そして皆一心に声を同じくしてお釈迦様を讃えたのでございます。

「多いなるお釈迦様には垢なく染なし、天・人・象・馬の調御師にして道風香一切に薫ず」


説法品第二

その時大荘厳菩薩が「我ら八万の菩薩は如来の法(教え)についてお尋ねしたいことがございます」と
お釈迦様に問いました。「はやく無上の悟りを成就したいと欲せば、どの法門を修行すべきでしょうか?」と

お釈迦様は菩薩らの問いに喜び「菩薩の道を行く者は無上の悟りに至ることができるその法門の名は無量義
である。」と答えられたのでございます。

人びとの性質、欲望が測りしれない無量であるがゆえに説法も無量であり、説法が無量なら義もまた無量
なのですよ。しかし万物は本来、無相(空)であるゆえにただ一法(一つの教え)から無量の義が生じる
のです。

さらにお釈迦様は次のように語りました

「私は、人々の性質が同じでないことを見て方便力をもってそれぞれに法を説くことに
 しました。私ははしめに鹿野園において四諦(苦、集、滅、道の真理)で仏法が衆生の迷いや悪を打ち破る
 さまを転じました。それは出家して声聞(仏の教えを聞く弟子のこと)の修行をする人のためでした。
 それから十二の因縁を説いたのは縁覚(修行者の性質)のためでした。次に菩薩の道をゆく者のために
 いろいろな大乗経典を説きました。けれども諸仏の不可思議甚深の境界は声聞、縁覚の二乗も菩薩も
 知ることができず、ただ仏と仏のみが究めています。ですからもしはやく無上菩提を願うならこの
 大乗無量義経を学ぶべきです。」

方便力
とは

人それぞれに教えを説く手立てのことです。その人の境遇や立場を思い、その人に相応しい手立てを選んで
教えを説くというのはとても難しいことですが、その人の幸せを願い正しい教えを適切に説くにはこの
法華経の教えを私たち自身が先ず学ぶことです。「人を思いやる」とはそこから始まるのです。ただ最後に
行きつくのは一乗・・・ただ一つの真理なのです。








2019年03月25日

法華経はどのようにして生まれたの?





法華経は紀元前5世紀頃、お釈迦様が説かれた多くの教えの中でもっともわかりやすくまとめ記された経典で
お釈迦様がお亡くなりになる前にインドの霊鷲山の頂で、多くのお弟子さんたちに説かれた教えとされております。

そのお釈迦様がお亡くなりになられた後、仏教界は複数の教団に別れ、その教団間で争いや対立が起こって
おりました。それらの教団を大きく二つに分離する概念、これがいわゆる大乗仏教と小乗仏教です。

@大乗仏教とは文字通り「大きな乗り物」ということで全ての人が平等に救われる教えいいます
A小乗仏教は多様化した仏教思想から生まれたもので、差別や激しい対立が深刻となっておりました。
 その多様化した旧来の伝統教団の一つ一つが「小さな乗り物」と例えられました

従来、この二つの教法は別々のものと見なされていたのですが、これはあくまでも表面上の見方であって
どれも仏が衆生を同じ方向に導くための方便として説かれたのが法華経なのです。

つまり、みんな同じ、どんな人でも平等に仏に成る。文字通り成仏することができ悟りを開くことにより
人びとの様々な苦しみから救われ幸せになることができると説かれているのです。

法華経の経典は、大きく分けて3部に構成されています。
これは小説に例えればプロローグ〜本編〜エピローグと捉えて頂ければ結構かと存じます。
このブログではそのプロローグからエピローグに至るまでわかりやすく、丁寧に解説してまいります。

2019年03月24日

このブログを通して皆さんに伝えたいこと





このブログを通して皆さんに伝えたいのは

・仏が存在するのは私たちが生きるこの世界である
・この世を捨てても浄土には辿り着けない
・今を生きるこの世界でこそ希望を見出すべきだ
・自らの幸せのために社会の平穏を願う。


では仏に成るとはどういうことなのか?

ここでは昔話の笠子地蔵を取り上げてみましょう。その昔、貧しい暮らしをしていた老夫婦のご主人が
街で売れなかった笠を自宅へ帰る途中、道端のお地蔵様の頭に「この寒さの中寒かろう」とかぶせてあげました

「仏の心」とは正にその「寒かろう」なのです。自分が今、厳しい寒さの中にいるから目の前のお地蔵様も
同じように凍えているように思えたのでしょう。「仏に成る」とは売れ残った笠をお地蔵様にかぶせてあげたことなのです。

法華経の経典にはみんな誰にでも仏の心が備わっている(後で詳しく解説しますが)と記されております。これは
人間だけではなくこの世に生きる動物から植物に至るまで全ての命の数だけ仏の数が存在しているのです。

ですが、自分自身の心を見れば別の心が存在していることに気づきます。
お釈迦様は私たち自身の心の中に10の世界(自身)が備わっていると説かれました。
つまり@地獄、A餓鬼、B畜生、C修羅、D人間、E天井、F仏教の徒(信者)、G修行僧、H菩薩、I仏
これら全てがお互いに関わり合い、今の心を形成しているのです。

法華経の道(仏の道)は己が何者なのか?」を問うことから始まります。
仏に成るまでの道のりは法華経の教えを照らし合わせ、今の己の心を知ることから始まるのです。







はじめに

現代社会を生きるうえでなぜ法華経が役立つのか?
現代社会を生きていくなかで私たちは様々な苦しみ、悲しみと遭遇します。
そんな思いに本来、人としてあるべき真心を押し潰されてしまうから断ち切れぬ迷いが生じ
人びとは醜い争いに巻き込まれたり、訳もなく他人を攻撃したり、傷つけあったりするのです。
今、社会問題になっているいじめ、子どもへの虐待、DVなどは、目の前にあるはずの仏から目を背け
己の中に潜む鬼や魔物に心を支配されることが醜い事件をもたらしているのです。

法律さえ作ればそれらの問題が解決できるというのはそれは大きな間違いであって
それはただの対策でしかありません。自分の思い違い、心得違いに気づきあらゆる仏と向き合い
己の中にも仏がいるのだと気づくことで初めてその迷いは苦しみから救われるのです

その手立てを説く教えが法華経であって経典の中にその答えが詰まっているのです
ただ、読者の多くが法華経と聞くと「な〜んだ・・・新興宗教の勧誘か」と思われるでしょう。
なのでこのブログでは法華経を学問という角度から見つめ
「法華経とは何ぞや?」その答えをわかりやすく、読みやすく言葉を替え記事にしていこうと思います。

なぜ法華経の教えをブログに書こうと思ったのか?
私は立場上は法華経の在家信仰者ですが職場などで些細なことで人間関係が険悪になったり
知らないうちに他人を傷つけ自暴自棄になることがよくあるのですが、その度に自分自身を見失って正しい
道を踏み外した時は自分自身の意識から法華経の教えが離れてしまったときでもあると気づかされたことが
これまで何度もありました。

仏の道とは己が何者なのか?を問うことから始まります。私自身、このブログを書くことを
通じて法華経を丁寧に読み直して、その教えの一つ一つを自分の心に重ねる作業(これは経典を読誦、書写し
実践するという法華経の教えの一つ)を進めることで己の中に眠る仏と巡り合えるかもしれない・・・
それに気づいたときに今まで私に関わってきた全ての者たちに初めて「ごめんなさい」そして「ありがとう」を
真心から言えることができたとき・・・その時こそ自分自身の成仏と考えたからです。

なので解説を織り交ぜながらその時の私の心情を記事として書くこともあるでしょう。
つまり私も皆さんと同じ現代社会を生きる
衆生の一人なのです







タグ:法華経
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。