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2019年08月21日

妙法蓮華経(本編)その25

観世音菩薩普門品第二十五

その時、無尽尼菩薩(尽きない意思を持つ者)がお釈迦様に礼拝して尋ねました。「かの観世音菩薩は何の理由(因縁)があって観世音と呼ばれているのでしょうか?」と

お釈迦様は、無尽尼菩薩に言いました

人々がどのような悩み苦しみを受けていても、もし観世音菩薩の名を聞いて一心に唱えるならば、菩薩はただちにその声を聞いて苦しみから解き放ちます。それゆえこの菩薩は観世音(救いを求める声を自在に聞き取る者)と呼ばれるのです。

観世音菩薩は仏の身を現して救うことができるのであれば仏の姿をして法を説きます。縁覚や声聞の身で法を説くこともあります。

世の主神である梵天の王の身、地を治める恵みの神である自在天の身、神々の王である大自在天の身、神々の軍団の総帥である天の大将軍の身、北方守護の毘沙門天の身を現すこともあります。

地上の各地を治める人間の王の身、良家の家長たる居士の身、宰官の身、神々を祀る婆羅門の身、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の身でも法を説きます。女の長者・居士・宰官・婆羅門の身・童男・童女の身を現して救うことができるのであれば、その姿で法を説きます。

天・龍・夜叉・阿修羅・迦楼羅・緊那羅の神々と精霊たち、及び人・非人の姿で現れ救うことができるのであれば、その姿で法を説きます。金剛の武器をもって悪心を滅ぼす執金剛神の身を現して救うことができるのであれば、その姿で法を説きます。それゆえ、この娑婆世界において施無畏者(癒しの救済者)と呼ばれるのです。

このように聞いて無尽尼菩薩は観世音菩薩を供養したいと望み、首にかけていた瓔珞をはずして観世音菩薩に捧げました。「どうか法のためにこの瓔珞をお受けください」と

観世音菩薩はその瓔珞を二つに分けその一つを釈迦牟尼仏に、もう一つを遥かな高みの多宝如来の塔に懸けたのでした。お釈迦様は、さらに尊敬の念をもって観世音菩薩の救いの力の偉大さを説きました。

観世音菩薩の衆生を救いたいという思いの深さは海のようであり、その深く大きな所を思議(言い表すことができないほど)することはできません。観世音菩薩は幾千億の仏に仕えて大清浄の願を起こしたのです。観世音菩薩の名を聞きその姿を見て心に念じて過ごすならばどんな苦しみでも菩薩が消滅させます。

たとえ害意をもった者によって大きな炎の穴に落とされようとも念彼観音力(彼の観音の力を念じれば)炎の穴は涼やかな池に変わります。あるいは大海に漂流して龍・怪魚などの鬼に襲われようとも念彼観音力で波浪は静まり船が沈むことはありません。あるいは須弥山の峰の断崖から突き落とされようとも、念彼観音力でその身は太陽のように空中に浮かびます。あるいは悪人に追われて金剛山の巨石を投げ落とされようとも念彼観音力、一本の毛髪さえ傷つくことはありません。

あるいは盗賊に囲まれ、まさに刀で斬りつけられようとするとき念彼観音力、盗賊でさえもただちに慈しみの心に目覚めて闘争は治まります。

あるいは王の悪政に苦しみ刑場に引かれて命を取られようとするときでも念彼観音力、刑吏の刀は粉々に砕けます。あるいは首を鎖でつながれ手足に枷をはめられようとも念彼観音力、戒めは解けて放たれます。あるいは呪詛、種々の音楽などの邪悪な鬼法に身を害されようとするときでも念彼観音力、その害は鬼法を用いる人に返ります。

あるいは羅刹、毒龍など諸々の鬼類、悪霊に襲われようとも念彼観音力、いささかも害を受けません。もし、鋭い牙や爪を持つ猛獣に囲まれて恐怖におののくときでも念彼観音力、猛獣たちはたちまち逃げ去っていきます。

トカゲ・大蛇・毒蛇・サソリなど毒の煙を火が燃えるように吐く者に取りつかれても念彼観音力の声を聞いた途端に走り去ります。天を不吉な雲が覆い、雷がとどろき、雹が降り大雨になろうとも念彼観音力、暗雲はたちまち散って消滅します。

人々が災いを被りその身に大きな苦しみが迫るとき、それがどんなに多くの苦しみであっても観音の妙智力は世間の苦を除きます。観世音菩薩は智恵の威力を具足し広く智の方便を駆使して十方諸国のどこの国であってもその身を現します。そして観世音菩薩は地獄・餓鬼などの恐怖と苦悩の世界の老病死の苦しみを次第に除いてことごとく苦を消滅させます。

観世音菩薩は真観・清浄観・広大知恵観・悲観・慈観において全てを駆使して見守ります。常に願い、常に仰いで礼拝しなさい。観世音菩薩には無垢清浄の光があります。その光は太陽が輝くように闇を破り、災いの風と火を鎮めて世間をあまねく照らし明るくします。

悲体の戒は雷が空を震わせるように慈しみの意(こころ)は、干天を覆う大雲のように大地に甘露の法の雨をそそいで煩悩の炎を消します。

争いの法廷に引かれておびえ戦場の軍陣にあって恐怖におののくとき、かの観音の力を念じればどんな憎しみ怨みもことごとく退散します。

かの菩薩は妙音観世音(真理の世界から世に響く聖なる智恵の音)であり、梵音海潮音(穢れなき慈悲の心をこめて大海の潮が日々に違わず岸辺に押し寄せるかのような音)であり、勝彼世間音(世の全てに優れた威力のある音)です。

それゆえ常に観世音菩薩に祈りなさい。心から祈りを捧げて疑いを生じることがあってはなりません。穢れなき聖者である観世音菩薩は苦悩と死の災いに満ちた世界にあって拠りどころとなり、一切の功徳を具え、慈しみの眼をもって生きとし生ける者を見守る者です。

その福聚(ふくじゅ)の海は無量です。それゆえこの観世音菩薩に礼拝し祈りを捧げなさい。

そのとき持地菩薩(大地を維持する者)が座から起ちお釈迦様に告げました。

お釈迦様に申し上げます。「衆生の誰でも観世音菩薩の自在なる業が説かれた普門示現の威神なる力の章を聞くならば、その人はまさに知るべきです。」その功徳少なからずとお釈迦様がこの普門品を説かれたとき集会の八万四千の人々が皆他に等しいもののない阿耨多羅三藐三菩提(無上の悟り)を求める心を起こしました。

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2019年07月18日

妙法蓮華経(本編)その20

常不軽菩薩品第二十

遠い過去に仏の威光におぼれて増上慢の比丘たちが大きな勢力を持つ世がありました。当時、菩薩の道をゆく一人の比丘がいました。名を「常不軽(常に軽蔑された男)」といいます

この比丘は誰に対しても気軽にあいさつをし接していました。相手が出家した者であれ在家の者であれ男であれ女であれ誰にでもあいさつをしてこのように讃えました。「私はあなた方を敬い軽んじることはありません。あなた方は皆、菩薩道を行じて仏になることができるのですから」

この比丘は経典の読誦には専心せず、ただ礼拝の行だけを行っていました。ところが人々の中には心が濁っていてかえって怒る者がおりました。「この比丘は勝手に[軽んじず]と言い、我らが[仏になれる]とまるで自分が仏であるかのように記を授けるとは・・・そんな予言は信じるものか」

比丘を杖で打ち石を投げつける者もいました。それでも、この比丘は「私はあなた方を軽んじません。あなた方は皆仏になれるのですから」と言い続けたので、人々は比丘をあざけって「常不軽」と名付けたのです。

そして比丘は臨終のとき法華経の読経が空中に響くのを聞きよく受け止めて、眼・耳・鼻・舌・身・心の六根清浄を得ました。すると、すでに臨終の時であったにも関わらず寿命は二百万億那由他の歳に増え、広く人々に法華経を説いたのです。この常不軽菩薩とは他の誰でもありません。私、釈迦牟尼仏が常不軽だったのです。私が宿世(現世)において、もし法華経を受持せず、読誦せず人々に説くこともなければ速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上の悟り)を得ることはなかったでしょう。

ところで、私が比丘であった時怒りの心をもって私をののしった人々はその後、二百億劫にわたって仏に逢うことはできず、法を聞くことなく僧と出会うこともなく過ごして一千劫の間、阿鼻地獄(無間地獄)で苦しみを受けました。そしてその罪を終えて再び常不軽菩薩に会い、無上の悟りに至る教えを受けることになりました。

かつて法の型に執着していた人々でも皆、菩薩の教化によって無上の仏道に置かれたのです。その者たちが今、この集会に参列しています。彼らは皆、無上の悟りにおいて退くことのない者となりました。彼らは今や信士・信女(男女の信徒)となり私の前で法を聞いています。

私は前世において人々に法華経が第一であることを聴受せしめ開き示して涅槃に住まわせ、それぞれに経典を持たせてきました。億憶万劫より不可思議却の末まで法華経を聞くことができるでしょう。諸仏もまた常にこの経を説いています。

まさに知りなさい。この法華経は菩薩の道をゆく全ての求法者を幸せにならしめて無上の悟りにみちびくものであることを

疑いの心を生じることなくありなさい。広く一心にこの経を説きなさい。そうするならば世世(全ての世界)で仏の下にあり速やかに仏道の成就に至ります。

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2019年07月06日

妙法蓮華経(本編) その17

分別功徳品第十七

お釈迦様の寿命が永遠であることを聞いたとき、神々も人々も無生法忍(事物が空であることを深く知る者)を得ました。また、菩薩の道をゆく多くの求法者が間持陀羅尼門(仏の言葉の霊威を保持すること)や
楽説無碍弁財(相手の求めに応じて自在に法を説く力)、旋陀羅尼(呪文の効験をめぐらせる力)を会得しました。そしてお釈迦様は、彼らが阿耨多羅三藐三菩提(無上の悟り)に至るまでの時の長さを区分して、それぞれに祝福の予言を授けました。そしてお釈迦様はこのように申されました。

この法華経を読誦し受持するならば、そのことによってその人は如来の位を戴いております。私のために塔や寺を建てる必要はありません。なぜなら妙法蓮華経を受持し読誦するならば、そのことによって塔を建てることになります。その塔は高く広く天の高みに至るものです。

この経を聞いて受持し書写し他の人にも書写させるならば、それは僧院を建立するのに等しく、美しい僧院、堂閣を幾百千万億も無量に仏と僧に捧げることになります。ましてこの経をよく持し、そのうえ布施、持戒、忍辱、精進、禅定、知恵の六波羅蜜を行じるならば、その功徳は最も勝れており無量無辺です。

よく耐え忍んで心身の調和を願い怒りをもたず言葉を謹みなさい。自惚れ(うぬぼれ)の心を離れて知恵に心を向け難詰(欠点を指摘し厳しく相手を非難すること)する人がいても怒らず、その人の幸せのために法を説きなさい。

その人が法華経の一部分でも唱えるなら、そこに塔は建てられ敬いと祈りが捧げられます。このような仏の子が地にあれば私はその人を祝福していつでもどこでもその人が歩むときも立ち止まるときも眠るときも私はその人と共にあります。

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2019年06月28日

妙法蓮華経(本編)その16

如来寿量品第十六

お釈迦様は、求法者たちが何度も重ねて教えを請い、その心が揺るがないことを知って話しました。

この世の神々も人々も私は釈迦国の王子として生まれ、ガヤー市の近く(現在のブッダガヤ)で悟りを得たと思っておりますが、そうではありません。私が成仏したのは無量無辺百千万億那由他阿僧祇却という遠い過去のことでした。はるかな過去から私はあなた方一人ひとりに適切であるように、いろいろな仏の名で法を説きました。そのなかには寿命の長い仏もいれば短い仏もあります。また、まさに涅槃に入るとも語り入滅を示しました。

私が菩薩道を行じて成就した寿命は今なお尽きず、これまでに倍する寿命があります。それなのに「今まさに滅度(亡くなること)するであろう」と告げるのは、如来の方便をもって人々を教化(信仰に向かわせること)するためです。なぜなら、もし仏がいつまでも世に在るとなれば、徳の薄い人は怠惰とおごりが生じ、どんなに時が過ぎても仏を見ることがありません。しかし、仏が滅すると聞けば徳が薄い人々でも仏を慕う心が生まれて善根を植えることになります。そのために実には滅しないにも関わらず滅度すると告げるのです。そのことを「良い医師の巧みな治療」という例話で語りましょう。→良医治子の譬喩

その医師には多くの子がいます。ある時、医師は所用があって遠い他国に行きました。その後、子供たちは誤って毒を飲みその毒の作用が表れて悶え苦しみます。

そこへ戻ってきた父である医師は苦い薬を調合し言いました。「これは効き目があり色と香りと味が良い薬である」と

子供たちの中で正気を失っていない者(症状が軽い者)はすぐに薬を服用しました。しかし意識がもうろうとし症状が重い子はその薬を飲みません。毒が深く回って正気を失っているために色と香りの良い薬を見ても苦くて飲めないと思ってしまったのです。そこで父は「私は年老いて衰え死期が迫っている。ここにと薬を置いていくから飲みなさい」と言い残してまた他国に行き使いを送って「父は死んだ」と知らせました。

子供たちは、みなし子になったと思い深く悲しみ、ついにその心が正気になって薬を飲んだのです。すると、毒の病はことごとく治癒しました。そして父は子供たちが苦しみから解放されたのを知って家に戻り子供たちにその姿を見せたのです。

私が仏になってから時に「今まさに滅度す」と告げたのは父である医師と同じように方便の力で皆を救うためだったのです。

お釈迦様は、そのことを改めて詩によって説きました。

自我偈自我得仏来 所経諸却数 無量百千万億 載阿僧祇なり


私が仏になったのは無量百千万億歳阿僧祇却の彼方昔のことです。生きとし生ける者を救うために方便をもって涅槃を示し、しかも実には滅度することなく法を説いてきました。

世が衰退して、生きる者が皆大火に焼かれているように見える時でも私の国土である娑婆世界は安穏であり神々と善人たちが常に住んでいます。

私の国土は清らかな幸福に満ちた浄土であり、私の浄土は壊れることはありません。それなのに人々は炎に炎に焼き尽くされているかのように見て憂いと怖れと様々な苦悩が充満しているかのように思っているのです。

あなた方知恵ある者は、ここに疑いを生じることがあってはなりません。それはあの医者が巧みな方便をもって病の我が子を治療するために、実はそうではないのに死んだと知らせたのを偽りだと言えないのと同じです。

私もまた世の父として様々な苦しみを救う者です。人が愚かにも心得違いをしているために実際には生きていても滅すと告げます。そして私はいつもこの様に念じています。「どのように人びとを無上道(仏の道)に入らしめ速やかに仏心を成就させようか?」と

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2019年06月10日

妙法蓮華経(本編)その10

法師品第十

それからお釈迦様は「妙法蓮華経を聞いて心に喜びを生じる者があるならば、その人は阿耨多羅三藐三菩提(無上のさとり)を得るでしょう」と誰もが仏になれると説かれました。

「法華経の一字一句でも心に持ち(受持)、目で読み(読)、暗唱し(誦)、説き広め(解説)、写経(書写)し、この五つの行いにおいて仏道に生きる者でありなさい。」と

法華経を読誦する人は如来の威光を自らの威光とし、如来の尊厳をもって自身を厳かで立派にする人です。その人は如来が人々の中に遣わす使者なのです。

お釈迦様はまた、このように語りました。高原穿しょくの例です。

私の滅後においてこの経を受持し人々のために法を説く者は如来の衣に包まれて保護されます。どこにおいても妙法蓮華経を受持、読誦、解説、書写して、その経巻のあるところに塔を建てなさい。美しく大きく塔を築きなさい。塔は仏の遺骨を納めて建立するだけのものと考えてはなりません。なぜなら妙法蓮華経が如来の全身なのですから、その塔の中に如来がおられるのです。在家であれ出家であれ菩薩の道をゆこうとしているのに、もし法華経を見ることも聞くこともなければ、その人はまだ無上の悟りから遠く離れてゆきます。逆に法華経を見、聞き、信受する人は無上のさとり(阿耨多羅三藐三菩提)が近いと知りなさい。

たとえば、高原の荒れ野で水を求めて土を掘る人がいたとしましょう。地を掘っても乾いた土が出てくるだけなら、まだ水は遠いと思うでしょう。けれども湿った土があれば水は近いと思い泥が出てくるようになれば、必ず水を得られると確信するでしょう。

菩薩の道も同じです。もし法華経を聞くことも学ぶこともなければ、無上のさとりは遠くにあると思います。しかし、法華経に出会えばそれは近くにあると確信できるのです。なぜなら菩薩の無常の悟りは皆、この妙法蓮華経から生じるのですから。

私の滅後に法華経を説き広めようと願うときは、如来の室に入り、如来の衣を身につけ、如来の席に座って人々に法華経を説かなければなりません。

如来の部屋は人びとを哀れむ心、すなわち大いなる慈悲の心です。如来の衣とは耐え忍んで常に心柔らかであること、すなわち柔和忍辱の心(腹を立てない心)です。如来の座とは全て空であること、すなわち、どんなものも互いに関わり合いながら常に変化しているという万物の真理です。

それらにおいて心ゆるがず人々に法華経を説き伝えなさい。しかしこの経は諸仏秘要(諸仏が秘匿してきた法)です。みだりに人に授けてはなりません。この経は如来の現在(釈迦在世の時)でさえ怨み嫉みが多いのです。まして如来の滅後には様々な苦難があるでしょう。もし法華経を説いて人々からののしられ、刀で斬りつけられ、棒で殴られ、石や物を投げつけられても仏を念じて耐え忍びなさい。千万億の世界において私の身体は堅固であり仏の威力をもって護衛の武士を出現させます。諸仏が護念したもうゆえにその人は多くの人々を喜びに導くことができます。





2019年05月18日

妙法蓮華経(本編)その7

化城喩品第七

はるかな過去に、大通智勝如来(偉大な神通と智恵)という仏がありました。この仏には出家する前に16人の子がおりました。子らは父が仏になって阿耨多羅三藐三菩提(無上のさとり)を得たのを知ると、父の下へ行き教えを求めました。

そのとき世界が揺れ動き、天界の梵天の宮殿まで強い光に照らされて明るく輝きました。梵天の王たちは驚いてその光のもとをたずねました。そして大通智勝仏が菩提樹下の獅子座に座り十六人の王子が如来に教えを請う姿を見たのです。

そこで諸梵天の王たちは仏の御足をいただいて礼拝し仏に法輪(仏の教えを信じることによって自己の煩悩が打ち消される様子)を転じて生きとし生ける者に救いの道を開かれるようにと願いました。「我らの宮殿は長き夜に我らが積みし福徳をもって飾り、如来の光明を受けて厳かなり。願わくば我らに哀れみを垂れこの宮殿を納めたまえ。願わくば、この功徳をもってあまねく一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成じさせたまえ」と

そのとき16人の王子は出家して入門僧になりました。そして子らの願いを受け入れて智勝仏は妙法蓮華経を説かれたのです。その16人の入門僧は菩薩の道を行き、自ら常に妙法蓮華経を説き、今みな無上のさとりを得て仏となり、今は八方の国土において法を説いています。その16番目の仏が私、釈迦牟尼仏です。私は人々を順次に無上の仏道に導きます。如来の知恵は信じがたく解りにくいものであり、段階を経なければ信じることも理解することもできないからです。そのことを例話(化城宝処の譬喩)で示します。

例えば、行程500日の険しい道があったとしましょう。この道を通りぬけたところに宝の地があるというので多くの人が宝を求めて歩きはじめました。ところが難所にさしかかると人々はすっかり疲れてあきらめにとらわれ、このように言います。「私らは疲れきってしまいました。こんな恐ろしい道はとても進めません。先はまだまだ遠いしもう引き返したいと思います。」、そのとき彼らを引率していたリーダーはこのように思いました。「あわれな人びとよ、大きな宝を得られるのにどうして引き返したいと望むのか?」と

そこでリーダーは方便の力をもって途中、三百日のところに美しい城を出現させました。「さあ、恐れることなく行きましょう。あの城まで行けば休めます。それから宝の地に進めば望みの宝を得て帰ることができるでしょう。」

人びとは「こんな険しい道の途中に城があるとは」と喜び、自らすすんで城に入りました。その城内には美しい楼閣が数多くあって男女でにぎわい、園林の小川には涼しげに水が流れ沐浴の池は清らかでした。その城で人びとは思いのままに過ごして心は喜びに満ち、もう心身をを休めることができたと思います。そこでリーダーは城を消し去り人びとに告げました。「宝の地は近くにあります。私が城を出現させたのは、あなた方の疲れを癒やすためでした。城は幻です。その安息を離れて先に進みましょう。」

比丘(出家の修行者)たちよ、如来は生きとし生ける者の導師であり、同じように人びとを導きます。生死、煩悩の悪道は険しく遠くてもそれを超えてゆくことはできるのです。

しかし、はじめから一仏乗(どんな仏道も究極には一つであること)を説けば人びとは「仏道ははるかに遠い」とあきらめて道を進もうとしません。仏は人びとの心が弱く貧しいところになじむのこと知り、方便の力をもって生死の道の中途に休息の場を作りました。いわゆる涅槃にも段階を設けたのです。そして人々が声聞や縁覚の涅槃に至ればこのように告げます。「あなたがたが安息している所は真の涅槃ではありません。しかしあなたがたは既に仏の知恵の近くにいます。よく精進して一切を見通す仏の知恵を求めなさい。あなた方は諸仏の知恵に入れます。」



2019年05月17日

妙法蓮華経(本編)その6

授記品第六

それからお釈迦様は摩訶迦葉らに記(未来の予告)を告げました。

私の弟子である迦葉は未来の世において三百万億の諸仏のもとで広く法を説き、自ら仏になることができます。

その仏の名は光明如来(光り輝く者)、その仏の国は光徳(光と輝きの世界)その世は大荘厳(きわめて美しい風景)といいます。その清らかな国に汚物はまったくありません。がれきもなく棘をもついばらもなく、地は平らで穴や断崖はありません。大地は瑠璃色に輝き、進路は黄金のガードレールで区切られ宝玉の樹木が並木をなし、宝石の花々を散らして地を浄めます。その国には千億をはるかに倍する数の菩薩がいます。聖者の道をゆく声聞の修行者もまた無数です。悪魔とその一族はいても悪事をすることもなく仏法を護ります。
 私の弟子、須菩提は名相如来(月の光)その世は有宝(宝玉の輝き)、その国は宝生(宝玉の生じるところ)といいます。その地は平らで水晶の大地は美しく花でおおわれどこまでも清らかです。
 私の弟子摩訶迦旃延(まかかせんねん)は諸仏の滅後に塔を建てる者でになります。菩薩の道をゆきみずから仏になり名は”ジャーン・ブナーダの黄金の輝き”といいます。
 私の弟子、大目犍連(だいもつけんれん)も一千由旬の七宝の塔を建てみずから仏になります。その仏の名は”タマーラの葉と旃壇の香り”、世は喜びの満ちるとき、その国は心楽しき地とよばれています。

わたしの弟子たちよ。私は一人ひとりに未来に仏になるであろうと記を授けます。わたしとあなたがたは遠い過去からの深い縁があります。そのことをこれから語ります。




妙法蓮華経(本編)その5

薬草喩品第五


お釈迦様は、さらに例話(三草二木の譬喩)を説かれました。

この三千六千世界(全世界)を想いなさい。山地、渓谷に草木が生えて草むらや林をつくり、いろいろな薬草が生えています。この全世界を雲がおおい、どこにも等しく雨を降らせたとしましょう。

同じ雨を受けても小さな草木は少し、中くらいの草木は中ほどに、大きな草木は多く雨を受けてそれぞれに生長します。

人びとも私の言葉を聞いてその力に従ってそれぞれの境涯を得ます。もし神々のもとにありたいと願い天上に生を受けるならばそれは小さな薬草です。仏の教えを求めて煩悩を滅して涅槃(さとり)に達したいと望み、独り山林に座し、縁起の法において縁覚のさとりを得るならば中ほどの薬草です。自ら仏になることを願うならば最上の薬草です。

また、仏道に心を定めて自身が仏になることを疑わずにあるなら小さな樹木です。そして仏の教えを説き伝えて人々を救いに導くならばそれは菩薩であり大きな樹木です。

あなた方が菩薩の道を行くならばまだ小さい樹木であっても大きくなっていくことができます。迦葉よ、あなたが歩んできた出家の聖者の道も真実には菩薩の道であり草木が慈雨を受けて育つように未来にことごとく仏になることができます。






2019年05月16日

妙法蓮華経(本編)その4

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信解品第四


そのとき摩訶迦葉ら4人の高弟がお釈迦様を仰いで申し上げました。「わたくしどもの信解するところを譬喩に託して申し上げます」と

ある人がまだ小さいときに父の家を出たとします。彼は他国で貧窮し衣食を求めて諸国を放浪する者になりました。いっぽう父も子を探して他国におもむきましたが見つけられませずに、ある町に居を定めました。その家は富み栄えて屋敷は王宮のようになりましたが、父が我が子を忘れることはごさいません。
「私は年老いて多くの財ががある。私から離れた子が私のもとに戻るならば蔵に満ちた財物を受け継がせることができるのに」と

あるとき、貧窮した子は旅の道すがら偶然に富豪の屋敷の前にやってまいりました。そして邸内の富豪の姿を遠くに見ましたが、父とは気づかないばかりか恐れを抱きました。「ここは私がいる場所ではない。私は貧しい人びとのところで私にふさわしい仕事を見つけよう」と、そのとき父である富豪もその子を見たのでございます。そして「探していた我が子がここに来てくれた」と喜び、従者に命じて子を追わせました。
ところが子の心は富貴なものになじまずただ恐れるばかりです。そこで父は子にトイレ掃除の仕事を与え屋敷に出入りさせたのでございます。そのうえ富豪は汚れた作業服を身にまとって自ら掃除用具を持ち我が子に近づいて励ましの言葉をかけました。そうして長い歳月がたち子は富豪の屋敷で自由にふるまえるようになりましたが、自分が貧しい雇われ人であるという思いから抜け出すことはできません。トイレ掃除の仕事が性に合っていると勤しむので、富豪はそれから20年もその仕事をさせました。

そうしてようやく子の心は開けて高貴なものになりました。けれどもかつて心がいやしかったのを恥じておりますことを父は知り、いよいよ死に臨んで国王や大臣を招き、我が子を紹介してこのように告げました。

「この者は私の実の子です。この者はかつて私のもとを離れてさまよい辛苦すること50年あまりにして私のもとに戻りました。私の財宝はこの者のものです。」

お釈迦様に申し上げます。その大富豪はすなわち如来であります。その子はすなわち我らであります。お釈迦様は常に衆生は仏の子なりと説かれているのですから。→すなわち帰依

私どもは三苦、すなわち苦が苦において生じ、苦が苦において離れゆき、苦が苦によって移ろいゆく世界にあって身を焼くような迷妄に惑い、無知なるゆえにいささかの楽しみに満足しておりました。お釈迦様は私どもの迷いを取り除き涅槃(さとりの境地)に至る出家の道において一日の価値を与えられましたから私どもは「仏法の中でつとめはげんで多くを得たものよ」と思っていたのでございます。

私どもは自身が真に仏の子であることを知ろうとせずにおりました。

今、お釈迦様は私どもに法の王たる多いなる宝を惜しみなく与えられたのでございます。

2019年05月11日

妙法蓮華経(本編)その3

譬喩品第三




お釈迦様は、弟子たちの長老である舎利弗に「あなたは未来の世々に幾千万億のほとけにまみえて教えをうけ、ついに自ら仏になって法華経を説くであろう」と未来記(予言)をさずけました。その仏の名は華光(紅蓮の輝き)その国を離垢(汚れなき所)といいます。

その国は瑠璃をもって地となし、黄金の糸をもって八つの蓮華の花びらが結びつけられているところです。
この華光如来の世は大宝荘厳(大いなる宝で飾られた時)と呼ばれます。このように祝福された舎利弗はお釈迦様に願いました。
 ここに1200人の修行者がいます。この者らは「生きる苦しみ、老いる苦しみ、死への苦しみから離れよ」というというお釈迦様の教えに従い、阿羅漢(出家した聖者)の道において執着心を捨て、生死に悩み苦しむことのないところに達しています。しかし、今ここでまだ聞いたことがないお釈迦様の言葉に触れ疑念を抱いております。どうかこの者らのために教えを授け疑念を晴れさせてください。。。と

そこでお釈迦様はひとつの「三車火宅の譬喩」
と言われる例を語りどんな仏の道も一つの道につながることを示されたのでございます。

あるところに一人の富豪がいて多くの子がいたとします。その屋敷が炎に包まれても子供たちは遊びに夢中で屋敷から避難しようとしません。火災の恐ろしさを知らずただ楽しいからと愚かにも遊びをやめようとしないのです。富豪である父は、子供たちが喜んで外に出てくるように誘い出しました。「門の外に羊が引く車、鹿が引く車、牛が引く車がある。今なら好きな方に乗せるけど、後では乗せることができない」と言うと子供たちは門から駆け出してきて三種の車のうちそれぞれ好きな車を欲しいと言いました。すると父はどの車よりも高価で大きな車をみ三人に与えたのです。それらの車は様ざまな宝玉で飾られ、大きな白い牛に引かれて風のように速く走ります。

仏とは、この富豪のことで一切世間の父です。そして仏というものは世界が朽ち古びた家が燃えている時に現れます。なぜなら人びとは生老病死の苦しみと悲哀のなかにありあがら心は暗く閉ざされていて、むさぼり、怒り、愚かさの三つの毒の炎に焼かれています。そのような人びとを苦しみの苦しみの炎から救い出してこの上ない悟りを得させたいと仏は望むのです。

この世は炎に包まれた火宅で、危険なうえに汚らしいものがあふれています。
フクロウ、カラス、トカゲ、蛇、ムカデ、ヤスデ、イモリ、タヌキ、ネズミなどの悪しき蟲などがはいまわっています。汚物があふれ流れてウジ虫がのたうっています。キツネや狼などが恐ろしく吠えて人の死体を食いちぎり野犬が群がって肉を引き裂いています。

世の中には魑魅魍魎、夜叉、悪鬼が徘徊して人肉を食らい、怪鳥どもが不吉な卵をかえし、妖獣どもが仔に乳をふくませています。飢えた鬼は地に潜み、あるいは空を飛び犬の脚をつかんで弄び肉を食いちぎっています。怪鳥は飢えに襲われて狂奔し、館の窓という窓におおいかぶさって外を見ています。

この鬼神どもは館が炎に包まれても自分では逃れるすべを知りません。愚かにも穴に逃げ込んで争いを止めず殺し合い血を飲み肉を喰らい合っています。餓鬼どもは頭に火を燃やしながらながらなお食おうとして悶え走ります。

そのとき父なる富豪は子供たちが何も知らずに遊んでいるのを知って三種の車を与えると言って表に誘い出しみんなに等しく白い牛が引く車を与えたのです。

私もまた一切世間の父です。私はすでに三界の火宅を離れ寂然として林野におります。そして私はこの三界を所有する者です。今この苦しみ多い三界において私だけが人々を護り救うことができるのです。

舎利弗よ、あなたは妙法蓮華経(お釈迦様の教え)を人々に宣べ伝えなさい。


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