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みっきいナムナム
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2019年05月19日

妙法蓮華経(本編)その9

授学無学人記品第九

そのとき、阿難と羅睺羅(らごら)の二人の比丘(修行者)も阿耨多羅三藐三菩提(無上のさとり)の祝福を与えられるように願いました。阿難はお釈迦様の身近に長く仕えてきた弟子です。常にお釈迦様のそばにいて誰よりも多く教えを聞き学んできました。そして羅睺羅(らごら)はお釈迦様の子供でよく戒めを守り、ひたすら修行していました。

そこでお釈迦様が記を授けられますには、阿難は未来に山海恵自在通王如来(大海のような知恵に通じた者)となり、羅睺羅(らごら)は蹈七宝宝草如来(七宝の紅蓮を踏みゆく者)という仏になるということでございました。

また、お釈迦様はそのとき2000人の修学中の僧、修学を終えた僧にも記を授けました。「この者たちは微塵の数ほど多くの諸仏のもとで法を保持し、十方において同時にさとりを得て仏になります。その名はみな同じで法相如来(宝玉の輝きの王)と呼ばれます。」と


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妙法蓮華経(本編)その8

五百弟子受記品第八

お釈迦様の弟子のなかで弁舌にすぐれて「説法第一」といわれる富楼那(ふるな)という比丘に記を授け未来に法明(真理の輝き)という名の仏になると告げました。さらに1500人の比丘たちに順次に阿耨多羅三藐三菩提(無上のさとり)の記を与えたのです。

比丘たちは歓喜し、お釈迦様の足をいただいて礼拝しました。そして衣裏繫珠の譬喩をもってその心を懴悔しました。

私どもは愚かにも如来の知恵を得られますのに、わずかな知恵さえあれば十分と満足しておりました。
例えば、ある人が友の家で酒に酔って眠りこけてしまったようなものでございます。友は公用があって出かけなければならなかったのでその人の衣服の裏に高貴な宝玉を縫いつけて家を出ました。しかし彼は酔いつぶれておりそのことを知りません。彼は衣食を求めて他国におもむき、はなはだ困窮して少しでも得るものがあれば、とそれで満足しておりました。その後、友と偶然に出会ってその友は「あなたはどうして貧しさに苦しんでいるのか?」と尋ねました。「私は昔、あなたが望みを叶えられるように宝玉を衣服の裏に縫いつけておきました。その宝玉をあなたは今も持っています。」

お釈迦様に申し上げます。仏もまたこの友のようであります。お釈迦様は無上のさとりへの願いを植えつけてくださいました。それなのに私どもは無知であるがゆえに覚えず、知らず阿羅漢の聖者の道において平安を得たと思い、貧しいまま小さな望みに満足していました。しかし、私どもも実際には菩薩への道であることを知り、無上のさとりの記を受けることができました。この喜びはかつてないものでございます。



2019年05月18日

妙法蓮華経(本編)その7

化城喩品第七

はるかな過去に、大通智勝如来(偉大な神通と智恵)という仏がありました。この仏には出家する前に16人の子がおりました。子らは父が仏になって阿耨多羅三藐三菩提(無上のさとり)を得たのを知ると、父の下へ行き教えを求めました。

そのとき世界が揺れ動き、天界の梵天の宮殿まで強い光に照らされて明るく輝きました。梵天の王たちは驚いてその光のもとをたずねました。そして大通智勝仏が菩提樹下の獅子座に座り十六人の王子が如来に教えを請う姿を見たのです。

そこで諸梵天の王たちは仏の御足をいただいて礼拝し仏に法輪(仏の教えを信じることによって自己の煩悩が打ち消される様子)を転じて生きとし生ける者に救いの道を開かれるようにと願いました。「我らの宮殿は長き夜に我らが積みし福徳をもって飾り、如来の光明を受けて厳かなり。願わくば我らに哀れみを垂れこの宮殿を納めたまえ。願わくば、この功徳をもってあまねく一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成じさせたまえ」と

そのとき16人の王子は出家して入門僧になりました。そして子らの願いを受け入れて智勝仏は妙法蓮華経を説かれたのです。その16人の入門僧は菩薩の道を行き、自ら常に妙法蓮華経を説き、今みな無上のさとりを得て仏となり、今は八方の国土において法を説いています。その16番目の仏が私、釈迦牟尼仏です。私は人々を順次に無上の仏道に導きます。如来の知恵は信じがたく解りにくいものであり、段階を経なければ信じることも理解することもできないからです。そのことを例話(化城宝処の譬喩)で示します。

例えば、行程500日の険しい道があったとしましょう。この道を通りぬけたところに宝の地があるというので多くの人が宝を求めて歩きはじめました。ところが難所にさしかかると人々はすっかり疲れてあきらめにとらわれ、このように言います。「私らは疲れきってしまいました。こんな恐ろしい道はとても進めません。先はまだまだ遠いしもう引き返したいと思います。」、そのとき彼らを引率していたリーダーはこのように思いました。「あわれな人びとよ、大きな宝を得られるのにどうして引き返したいと望むのか?」と

そこでリーダーは方便の力をもって途中、三百日のところに美しい城を出現させました。「さあ、恐れることなく行きましょう。あの城まで行けば休めます。それから宝の地に進めば望みの宝を得て帰ることができるでしょう。」

人びとは「こんな険しい道の途中に城があるとは」と喜び、自らすすんで城に入りました。その城内には美しい楼閣が数多くあって男女でにぎわい、園林の小川には涼しげに水が流れ沐浴の池は清らかでした。その城で人びとは思いのままに過ごして心は喜びに満ち、もう心身をを休めることができたと思います。そこでリーダーは城を消し去り人びとに告げました。「宝の地は近くにあります。私が城を出現させたのは、あなた方の疲れを癒やすためでした。城は幻です。その安息を離れて先に進みましょう。」

比丘(出家の修行者)たちよ、如来は生きとし生ける者の導師であり、同じように人びとを導きます。生死、煩悩の悪道は険しく遠くてもそれを超えてゆくことはできるのです。

しかし、はじめから一仏乗(どんな仏道も究極には一つであること)を説けば人びとは「仏道ははるかに遠い」とあきらめて道を進もうとしません。仏は人びとの心が弱く貧しいところになじむのこと知り、方便の力をもって生死の道の中途に休息の場を作りました。いわゆる涅槃にも段階を設けたのです。そして人々が声聞や縁覚の涅槃に至ればこのように告げます。「あなたがたが安息している所は真の涅槃ではありません。しかしあなたがたは既に仏の知恵の近くにいます。よく精進して一切を見通す仏の知恵を求めなさい。あなた方は諸仏の知恵に入れます。」



2019年05月17日

妙法蓮華経(本編)その6

授記品第六

それからお釈迦様は摩訶迦葉らに記(未来の予告)を告げました。

私の弟子である迦葉は未来の世において三百万億の諸仏のもとで広く法を説き、自ら仏になることができます。

その仏の名は光明如来(光り輝く者)、その仏の国は光徳(光と輝きの世界)その世は大荘厳(きわめて美しい風景)といいます。その清らかな国に汚物はまったくありません。がれきもなく棘をもついばらもなく、地は平らで穴や断崖はありません。大地は瑠璃色に輝き、進路は黄金のガードレールで区切られ宝玉の樹木が並木をなし、宝石の花々を散らして地を浄めます。その国には千億をはるかに倍する数の菩薩がいます。聖者の道をゆく声聞の修行者もまた無数です。悪魔とその一族はいても悪事をすることもなく仏法を護ります。
 私の弟子、須菩提は名相如来(月の光)その世は有宝(宝玉の輝き)、その国は宝生(宝玉の生じるところ)といいます。その地は平らで水晶の大地は美しく花でおおわれどこまでも清らかです。
 私の弟子摩訶迦旃延(まかかせんねん)は諸仏の滅後に塔を建てる者でになります。菩薩の道をゆきみずから仏になり名は”ジャーン・ブナーダの黄金の輝き”といいます。
 私の弟子、大目犍連(だいもつけんれん)も一千由旬の七宝の塔を建てみずから仏になります。その仏の名は”タマーラの葉と旃壇の香り”、世は喜びの満ちるとき、その国は心楽しき地とよばれています。

わたしの弟子たちよ。私は一人ひとりに未来に仏になるであろうと記を授けます。わたしとあなたがたは遠い過去からの深い縁があります。そのことをこれから語ります。




妙法蓮華経(本編)その5

薬草喩品第五


お釈迦様は、さらに例話(三草二木の譬喩)を説かれました。

この三千六千世界(全世界)を想いなさい。山地、渓谷に草木が生えて草むらや林をつくり、いろいろな薬草が生えています。この全世界を雲がおおい、どこにも等しく雨を降らせたとしましょう。

同じ雨を受けても小さな草木は少し、中くらいの草木は中ほどに、大きな草木は多く雨を受けてそれぞれに生長します。

人びとも私の言葉を聞いてその力に従ってそれぞれの境涯を得ます。もし神々のもとにありたいと願い天上に生を受けるならばそれは小さな薬草です。仏の教えを求めて煩悩を滅して涅槃(さとり)に達したいと望み、独り山林に座し、縁起の法において縁覚のさとりを得るならば中ほどの薬草です。自ら仏になることを願うならば最上の薬草です。

また、仏道に心を定めて自身が仏になることを疑わずにあるなら小さな樹木です。そして仏の教えを説き伝えて人々を救いに導くならばそれは菩薩であり大きな樹木です。

あなた方が菩薩の道を行くならばまだ小さい樹木であっても大きくなっていくことができます。迦葉よ、あなたが歩んできた出家の聖者の道も真実には菩薩の道であり草木が慈雨を受けて育つように未来にことごとく仏になることができます。






2019年05月16日

妙法蓮華経(本編)その4

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信解品第四


そのとき摩訶迦葉ら4人の高弟がお釈迦様を仰いで申し上げました。「わたくしどもの信解するところを譬喩に託して申し上げます」と

ある人がまだ小さいときに父の家を出たとします。彼は他国で貧窮し衣食を求めて諸国を放浪する者になりました。いっぽう父も子を探して他国におもむきましたが見つけられませずに、ある町に居を定めました。その家は富み栄えて屋敷は王宮のようになりましたが、父が我が子を忘れることはごさいません。
「私は年老いて多くの財ががある。私から離れた子が私のもとに戻るならば蔵に満ちた財物を受け継がせることができるのに」と

あるとき、貧窮した子は旅の道すがら偶然に富豪の屋敷の前にやってまいりました。そして邸内の富豪の姿を遠くに見ましたが、父とは気づかないばかりか恐れを抱きました。「ここは私がいる場所ではない。私は貧しい人びとのところで私にふさわしい仕事を見つけよう」と、そのとき父である富豪もその子を見たのでございます。そして「探していた我が子がここに来てくれた」と喜び、従者に命じて子を追わせました。
ところが子の心は富貴なものになじまずただ恐れるばかりです。そこで父は子にトイレ掃除の仕事を与え屋敷に出入りさせたのでございます。そのうえ富豪は汚れた作業服を身にまとって自ら掃除用具を持ち我が子に近づいて励ましの言葉をかけました。そうして長い歳月がたち子は富豪の屋敷で自由にふるまえるようになりましたが、自分が貧しい雇われ人であるという思いから抜け出すことはできません。トイレ掃除の仕事が性に合っていると勤しむので、富豪はそれから20年もその仕事をさせました。

そうしてようやく子の心は開けて高貴なものになりました。けれどもかつて心がいやしかったのを恥じておりますことを父は知り、いよいよ死に臨んで国王や大臣を招き、我が子を紹介してこのように告げました。

「この者は私の実の子です。この者はかつて私のもとを離れてさまよい辛苦すること50年あまりにして私のもとに戻りました。私の財宝はこの者のものです。」

お釈迦様に申し上げます。その大富豪はすなわち如来であります。その子はすなわち我らであります。お釈迦様は常に衆生は仏の子なりと説かれているのですから。→すなわち帰依

私どもは三苦、すなわち苦が苦において生じ、苦が苦において離れゆき、苦が苦によって移ろいゆく世界にあって身を焼くような迷妄に惑い、無知なるゆえにいささかの楽しみに満足しておりました。お釈迦様は私どもの迷いを取り除き涅槃(さとりの境地)に至る出家の道において一日の価値を与えられましたから私どもは「仏法の中でつとめはげんで多くを得たものよ」と思っていたのでございます。

私どもは自身が真に仏の子であることを知ろうとせずにおりました。

今、お釈迦様は私どもに法の王たる多いなる宝を惜しみなく与えられたのでございます。

2019年05月11日

妙法蓮華経(本編)その3

譬喩品第三




お釈迦様は、弟子たちの長老である舎利弗に「あなたは未来の世々に幾千万億のほとけにまみえて教えをうけ、ついに自ら仏になって法華経を説くであろう」と未来記(予言)をさずけました。その仏の名は華光(紅蓮の輝き)その国を離垢(汚れなき所)といいます。

その国は瑠璃をもって地となし、黄金の糸をもって八つの蓮華の花びらが結びつけられているところです。
この華光如来の世は大宝荘厳(大いなる宝で飾られた時)と呼ばれます。このように祝福された舎利弗はお釈迦様に願いました。
 ここに1200人の修行者がいます。この者らは「生きる苦しみ、老いる苦しみ、死への苦しみから離れよ」というというお釈迦様の教えに従い、阿羅漢(出家した聖者)の道において執着心を捨て、生死に悩み苦しむことのないところに達しています。しかし、今ここでまだ聞いたことがないお釈迦様の言葉に触れ疑念を抱いております。どうかこの者らのために教えを授け疑念を晴れさせてください。。。と

そこでお釈迦様はひとつの「三車火宅の譬喩」
と言われる例を語りどんな仏の道も一つの道につながることを示されたのでございます。

あるところに一人の富豪がいて多くの子がいたとします。その屋敷が炎に包まれても子供たちは遊びに夢中で屋敷から避難しようとしません。火災の恐ろしさを知らずただ楽しいからと愚かにも遊びをやめようとしないのです。富豪である父は、子供たちが喜んで外に出てくるように誘い出しました。「門の外に羊が引く車、鹿が引く車、牛が引く車がある。今なら好きな方に乗せるけど、後では乗せることができない」と言うと子供たちは門から駆け出してきて三種の車のうちそれぞれ好きな車を欲しいと言いました。すると父はどの車よりも高価で大きな車をみ三人に与えたのです。それらの車は様ざまな宝玉で飾られ、大きな白い牛に引かれて風のように速く走ります。

仏とは、この富豪のことで一切世間の父です。そして仏というものは世界が朽ち古びた家が燃えている時に現れます。なぜなら人びとは生老病死の苦しみと悲哀のなかにありあがら心は暗く閉ざされていて、むさぼり、怒り、愚かさの三つの毒の炎に焼かれています。そのような人びとを苦しみの苦しみの炎から救い出してこの上ない悟りを得させたいと仏は望むのです。

この世は炎に包まれた火宅で、危険なうえに汚らしいものがあふれています。
フクロウ、カラス、トカゲ、蛇、ムカデ、ヤスデ、イモリ、タヌキ、ネズミなどの悪しき蟲などがはいまわっています。汚物があふれ流れてウジ虫がのたうっています。キツネや狼などが恐ろしく吠えて人の死体を食いちぎり野犬が群がって肉を引き裂いています。

世の中には魑魅魍魎、夜叉、悪鬼が徘徊して人肉を食らい、怪鳥どもが不吉な卵をかえし、妖獣どもが仔に乳をふくませています。飢えた鬼は地に潜み、あるいは空を飛び犬の脚をつかんで弄び肉を食いちぎっています。怪鳥は飢えに襲われて狂奔し、館の窓という窓におおいかぶさって外を見ています。

この鬼神どもは館が炎に包まれても自分では逃れるすべを知りません。愚かにも穴に逃げ込んで争いを止めず殺し合い血を飲み肉を喰らい合っています。餓鬼どもは頭に火を燃やしながらながらなお食おうとして悶え走ります。

そのとき父なる富豪は子供たちが何も知らずに遊んでいるのを知って三種の車を与えると言って表に誘い出しみんなに等しく白い牛が引く車を与えたのです。

私もまた一切世間の父です。私はすでに三界の火宅を離れ寂然として林野におります。そして私はこの三界を所有する者です。今この苦しみ多い三界において私だけが人々を護り救うことができるのです。

舎利弗よ、あなたは妙法蓮華経(お釈迦様の教え)を人々に宣べ伝えなさい。


2019年05月04日

妙法蓮華経(本編)その2




方便品第二

そのとき、お釈迦様は弟子たちの長老である舎利弗(しゃりほつ)に語りました。

「仏の知恵は深く、その知恵の門はくぐることも信じることも難しいものです。ただ、仏と仏のみが諸方の実相(万物の真実)を見極めているのです」と、真実において人も事物も

  1. 如是相=その相(姿)のようにあります
  2. 如是性=その性(性質)のようにあります
  3. 如是体=その体(形)のようにあります
  4. 如是力=その力(能力)のようにあります
  5. 如是作=その作(作用)のようにあります
  6. 如是因=その因(過去の由来)のようにあります
  7. 如是縁=その縁(置かれた状況)のようにあります
  8. 如是果=その果(現在の結果)のようにあります
  9. 如是報=その報(未来のあり方)のようにあります
  10. 如是本末究竟等=全ては究極において平等で、その平等のままにあります


しかしながら、よく修行に励んで阿羅漢(出家の聖者)の境地に達した声聞、縁覚(仏の教えに寄らない者たち)でも真実を知ることはできません。菩薩の道をゆく者でも仏の知恵をおしはかることさえできません

それでお釈迦様は「これ以上のことを語れば、かえって心を閉ざす者もいます。もはや説くことをやめます」と集まった人々に告げました。それを聞いて悟ったと思い込んでいる増上慢(思い上がった者たち)が立ち去っていきました。敬いを受けるべき優婆塞、優婆夷(在家の男女)に不信の者がいます。この者たちは自身の欠点に愛着を持つゆえに真実(本当の自分の姿)を恐れて逃げ出し、ここには教えに心が開かれた者だけが残ったのです。そこでお釈迦様は説法を願う舎利弗の願いを受け入れ再び教えを説きました。


諸仏は一大事の因縁ゆえに世に現れます。諸仏は衆生(全て命あるもの)に仏知見を開き、人々に清浄な境地を得させたいと望んで世に出現するからです。諸仏は衆生に仏の知見を示したいと望んで世に出現します。諸仏は仏の知見を悟らせたいと望むゆえに世に出現します。諸仏は衆生を仏の知見の道に入らしめたいと望むゆえに世に出現します。諸仏はただ、この一大事の因縁ゆえに世に現れるのです。そして無量の方便(手だて)を用いてそれぞれに教えを説いても、それはただ一つの大きな乗り物、すなわち一つの仏乗に導くためです。

仏を供養する者は塔をたて,様々な宝玉をもって清らかに飾り仏を供養しなさい
石の塔、木の塔、煉瓦の塔、どのような材でも塔をたて仏に敬いを捧げなさい
もし荒野にあるときは土の塔でもよいのです。子供が砂遊びで造った塔のようなものでもよいのです
仏の姿を像に造って心を捧げなさい。金銀ほか様々な宝玉をもって、あるいは銅、鉄などの金属、木材、泥、漆の布などに仏の人相を描いて仏像を造り人にもそれを勧めなさい。その人びとには仏の道が成就されています。子どもが戯れに草や木の枝で描いた仏像でも、指の爪で掻き描いた仏像でもよいのです。その人びとは祈りの心を呼びさまし慈悲の心に目覚めて仏の道を成就し、数知れね人びとを菩薩の道に導く者となります。
塔あるいは仏像、仏画に香や花を捧げ、敬いの心をもって祈りなさい。鼓を打ち、角笛を吹き、笙や琵琶など管弦の楽の音と高らかな讃歌の声をもって仏を讃えなさい。

もし心から仏を讃えることができない人でも、たとえ一本の花でも仏の像に捧げるならその人は無数の仏に出会えるのです。ただ手を合わせ頭を少し下げるだけでもその人は無量の諸仏の祝福を得るでしょう。たとえ散乱の心であっても仏の塔に入り一度でも祈りの声を発するならばすでに清らかな幸福にあります。過去と現在の諸仏もしくは如来の滅後でも、この経を聞くことがあれば既に仏道の成就にあるのです。しかし六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天道)に生を受けた者たちは徳の少ない貧弱な心のために生きるか死ぬかの険しい道をますます険しく踏み入り、まるで牛が尾を愛するように迷いと欲望を離れられずにいます。(これを六道輪廻
といいます)。

偽りは信じやすく正しいことは見ようとしません。私がかつて悟りに達したときそのことを深く悲しみました。そのとき梵天や帝釈天などの神々が法輪を転がすことを求めたけれども、無知に覆われている人々をどのように導けるでしょうか?私は過去の諸仏に思念を向けました。そして諸仏が方便(手立て)の力をもって全ての衆生を導いたように私も三乗の教えを示しあなたがた一人ひとりに説いていこうと決意しました。

今、仏の子らを見るに仏の道を求める者は千万億(無量)の多くに達し敬いの心をもって私の下に参集しています。それゆえ私はこの念(おもい)をなしました。

私が世に出たのは仏の遠く深い教えを説くためである。今がその時である。私は方便を捨てて無上道(一つしかない道)を開きます。仏の言葉を聞いて心に喜びを持ち、一言の祈りでも捧げるならばそれは過去・現在・未来の三世の諸仏に及びます。そして自ら仏に成ることができるのです。疑うことなく仏を目指しなさい。



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