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2019年02月05日

闇の雄叫び 23 (漂泊)

自室で横になっていても、なにやら急に寝床がガクンと傾いたように平衡感覚を奪われる。
ベッドの真ん中で寝ている筈なのに、端からごろりと転げ落ちそうな感覚に陥り焦る。
不意に訪れるメニエール症からの回転型眩暈によるものだ。
もっとも、仕事を辞めたあたりのひと頃から比べると、だいぶその頻度や強さも緩和されつつあったが、スーパーでの買い物中なんかに突然グラっと襲われても危ないので、少量の買い物の時でさえしっかりカートを押し歩くのが身についた。
まるで歩行器の代わりといえようか。
一度、手持ちカゴで買い物している最中に、突然グラリと感覚が回り出したことがあった。
その日はすぐ傍にあった鮮魚用の腰高の冷蔵棚に咄嗟に腰を寄り掛け身を支えられたので、あたかも品物を覗き込むようなフリをしながら眩暈が収まるまで耐えることができ、しゃがみ込みや転倒は免れた。
きっとそれ以来だろう、尚のことスーパーでは必ずカートを押し歩く癖がついてしまったようで、随分とまあヨロヨロのポンコツになってしまったものだと我ながら情けなくもなる。
なので、公共交通機関の乏しい地方の田舎在住とはいえ、車の運転もしばらく控えていた時期もあり、かなり高くついたがタクシーで通勤や通院、そして買い物することもしばしあった。
身体を壊すと色々と不便だし出費も嵩むし職も失う。

仕事を辞めて以来、発作らしい発作は起こさなくなった管理人の心臓だが、深夜眠っている最中に父が突然叫び出すと、やはり毎度のことだが吃驚して目覚めることになり、ドキンと飛び跳ねた左胸の冷たく尖った痛みでしばらくのあいだ冷や汗を垂らすのが常となっていた。こればかりはなかなか改善しないし、やはり慣れない。どうにもこうにもセンシティブな反応を示す心臓になってしまったものである。

そんな日々に横たわりながら、果たしてこれらの症状は、いつかは治る日が訪れるのだろうかと考える。
この数年の過労からか矢継ぎ早に生み出すことになったであろう疾病やら症状達の数々を、いつの日か綺麗さっぱり消し去ることは出来るのだろうかと自問する。
しかしながら身体というものは、壊すのは簡単だが戻すのはそう簡単ではなく、むしろ必ずしも元通りには戻らないものだということも、長年生身の人間をやってきているので身をもって知ってもいる。

月日、年月を掛け辟易しきった身体が、ちょっとやそっと休んだからといって即座に快方する筈も無く、反しては、喰らうのは一瞬の怪我も、長きの治療を要したり一生の障害が残ることだってある。それは身体に限らず心にしたってそうだ。
いずれ壊れた身体や精神というものは、そう易々と回復するものではないし、治らない場合だって多々あるものだ。



(まさか、ここまでなるとはなぁ・・・)

(あっという間に、病気の問屋になっちまったなぁ・・・)



日々の労働から遠のき、にわかに身体が楽になったせいで体力が戻ったようにも錯覚するが、やはり不意に眩暈に襲われもし、深夜父の叫び声を切欠に心臓がキーンキーンと痛み出す。
会社を辞めた頃より処方の数は減ってはきたが、どうやらまだまだ管理人は”立派な病人”のようである。自分自身には決して使いたくはない表現ではあるのだが。



(この療養生活は、いつまで続くのだろうか・・・)

(いや、いつまで続けられるのだろうか・・・)



いつまで続くのかは病状次第で予想もつかないが、いつまで続けられるかは十分に承知していた。
会社を辞めるにあたり、一旦処分した有価証券資産や、目減りの一途を辿っていた預貯金を合わせても、そう長くは横たわってもいられないのが明白だった。



(この先、社会復帰って、出来るのだろうか・・・)



日々そのことを思案するも、だからといって、仮に管理人が健康を取り戻したところで、再び外に働きに出るような選択だけは避けた方が賢明なのだろうと頷きもする。
分かり切ったことだが、もし父がその時も今の状態と変わっていなければ、結局は会社を辞める前と同じことの繰り返しにしかならいからだ。
父の先のことなど分かる筈もなく、分からない以上、この先も父の状態は今と大して変わらないか、今よりもっと酷くなっている状況を想定するのが妥当であり、そこに希望的観測や楽観を入れる余地は微塵も無いのだ。

また、父のこととは別に、仮に健康を取り戻せた管理人がいたとしても、その先の社会に果たして受け皿が存在するのであろうかということも、重々懸念されるところとなっていた。
そう、管理人はもうイイ歳なのだ。白髪混じりのオジサンなのだ。



(この先、もう就職はしない。 したら負けだ・・・ ただの繰り返しだ・・・)



会社を辞めるにあたって、ぼんやりとそんな思いを携えていたのが偽らぬところだった。
もちろん長年暮らしてきた既存社会は有難いものだったが、不思議と未練は無くなっていた。
そのことは、仮に戻れたところで今のままじゃ本末転倒だと悟っての線引きからでもあり、また、必ずしも就職することだけが生きる手段でもなかろうと、このほど管理人を無職に追いやった介護生活から、日々問われることにもなっていたからだ。



(これからは、都合よく生きられるようにならなければならない)



なんと不埒で品の無い言葉であろうか。
無職になった途端、この体たらくである。
かつて会社員だった管理人が、まさか将来こんな誓いを立てようとは想像すらしたこともない。
しかしながら、人は変わらなければならない局面で舵を変えなければそこで終いだ。
それでも舵を変えなければ、そのまま目前の滝に呑まれ淘汰されるのを受け入れるしかない。
もっとも、それを美徳とするのも個々の自由ではあるが。



(現状、ヘロヘロ介護ニートの俺だが、何処かに生きる手段はある筈だ)



一見、だらりと楽してサボっているような自宅療養の日常も、やはり時折眩暈を覚えれば、夜毎心臓の痛みに怯えることにもなり、いったいいつまでこんな状態が続くのだろうかと憂いる日々となる。
だが、すぐにも治りたいのは山々なのだが、きっとすぐには治らないのだということも、日々身をもって教えられることにもなるので、やはりじっと向き合うしかないのが現実だとも知る。

それでも儘ならない己に苛立ちを覚えれば、では何のためにお前は会社を辞めたのか、こうして家で横たわっているのかを自身に問い直し、とりもなおさずそれは、当たり前にしていた仕事すら満足に出来なくなったからであり、病気を快方させたかったからに他ならないのだと自答する。まさに悶々苦悶の日々である。

そんなさなかでも頭だけは多少なりとも働くようなので、あれやこれやと、この先の”歩き方”を模索してもみる。
そう、時間だけはあるのだからして。
もっと厳密に述べれば、財源は限られているものの、それでもそれが尽きるまでの時間は残されていると言えるだろう。案外、限られている筈の財源も、使いようによっては延命するか、ひょっとして化けることもあるかもしれない。



(必ずしも世の中と足並みを揃えなくても、暮らせる手段を考えなければ・・・)

(作らなければ・・・)



本を読み、ネットを調べ、また本を読み、ネットを調べ、動けるときはセミナーを聞いてみたりもする。
長年ただただ垂れ流してきたかに思える父の介護療養費用も、今後どうにかして減らすか抑える手段はないものかと、国や地元自治体の制度を調べては、何度も役所に出向いてあれこれ相談してみたりもする。
これまでケアマネージャーに一任していたことでも、ひょっとして都道府県や市町村別に存在するかもしれない老人介護や医療に関わる諸々の施策や助成や補助の有無可能性などなどを、自ら調べ動いて仔細に掘り下げてみたりもする。こちらが知らないままでは、制度はただそこで鳴りを潜めているだけなのだ。

無職、無収入、病気療養中という憂いる惨状とは引き換えに、どうやらインプットの時間に辿り着いた感もある。
ぐるっと舵を回したら、どうやら漂泊し出したようである。滝に呑まれるのは御免だが、依然不穏な体調を覚えながらも、まずは自室で、そして小さく自室から漕ぎ出すことにした。
ずっと停泊しているよりはマシであろうか。





posted by ココカラ at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 介護

2019年01月29日

闇の雄叫び 22 (先のない安堵)

深夜ビクっと目が覚めると、階下の部屋から父の叫び声が聞こえる。
どうやら断続的に叫び続けているようだが、いつ頃から叫んでいたのだろう。
たった今しがたか、5分か10分前か、それともだいぶ前からか叫んでいたのか。
気づいた以上いつまでも放置しているわけにはいかない。ここは住宅地だ。皆眠りについた深夜である。
胸の痛みを覚えながらぼんやり床から這い出し、照明を絞った深夜の薄暗い階段をヨロヨロ降りて父の様子を見に行く。
介護ベッドで喚き叫んでいる父に話しかけ、注意をこちらに向かわせ興奮状態をなだめる。
気を反らせるためストローで麦茶を飲ませたりもする。
深夜、何度もこれを繰り返す。
その都度たいてい管理人は「ビクっ」と起こされることになるので、毎回胸の痛みを覚える。
ときには、キーンと冷たい感覚も誘発し、痛みに加えて息がしばらく苦しくなるときもある。
自分自身のそんな状態もなだめながら、深夜に喚き散らす父もなだめすかせる。
とうぜん纏まった睡眠が取れずにいるので、不穏で朦朧とした日常だけが横たわる。
だが、夜が明けてからのことを心配することは無い。
会社を辞めて、しばらく経っていた。



会社を辞めた時点で、管理人の既往はさらに増えていた。
いつしか常駐化しだした側頭の激痛からは脳梗塞の兆候を示唆され、かと思うと、激しい胃痛胸焼けと吐血下血が続いて検査を受けると初期胃ガンの兆候を見つけられ急遽投薬治療を受けることになり、長引く風邪かと思われた息苦しさは、やがて呼吸すら儘ならない状態へと陥り気管支喘息と診断され吸入器を持たされる始末。
この短期間で見事なまでの既往の種々数々は、いったいどうしたことか。ヘロヘロを通り越したポンコツが、またさらにポンコツになっているではないか。既往の数もそうだが病院巡りと治療代と薬代だけでさらにさらに目が回る。

当初、介護と仕事両面に奔走していたら、疲れからの人生2度目の水疱瘡になっていたことに驚き呆れ、そしてメニエール症にグラグラ襲われだしたかと思うと今度は心臓発作。やがては脳梗塞やら胃ガンの兆候まで露見し、そしてまさかの気管支喘息。仕舞には「虚弱」と診断され、俺はポンコツではなく、もう”廃車”なんだと知る。
介護、仕事、体調悪化、病院巡り、薬漬けという、疲労、過労、心労、ストレス、散財の、果て無き螺旋。

「・・・もう、どうにもならんのか?」
「辞める以外に・・・方法は無いのか?」

辞表を提出した当初、上役や同僚達は皆そう言った。だが、そんな彼らも分かっていた通り、もはやどうしようもない顛末となっていた。さらには本社から社長や役員達までも出向いてくれ、おそらくは”引止め”の面談らしき場まで持ってくれたのだが、どうしようもないものはどうしようもなく、万策尽きての結論なのだった。

「スイマセン・・・ もう、わたくし、来るところまで来てしまったようでして・・・」

社の規範で言うところの、ありとあらゆる福利厚生は隅々まで使い切っていた。
だがなにより管理人自身、もう勤務自体が苦痛となってしまっていた。
これ以上会社にぶら下がる訳にもいかず、これ以上身体を壊すのも沢山だった。

「皆様には迷惑ばかり掛けて、本当に申し訳ない・・・」

退職の挨拶とは、おおよそ「お世話になりました」が一般的であるだろう。
だがこの卑屈な挨拶をした帰り道、これでようやく気兼ねなく横になれるなぁと安堵したのが正直なところとなった。
そう、ただただ”休眠”ということをしてみたかったのである。
こうして管理人の会社勤めは終焉を迎え、それまでの一切合切のキャリアは水泡と帰した。
実に呆気ないものである。



深夜、幾度となく騒ぎ出す父の相手をしながら、やがて明けてくる窓の白味に気づいても、もう、一日の始まりに怯えることは無いのだと安堵する。
日中は介護ヘルパーに任せ、夜から朝までは、騒ぎ出したら俺が起きて相手になってやれば良いのだ。もう出勤することも無くなったので、夜中に何度起こされようが、夜通し起きることになろうが、翌日に向けての寝不足や体調を気にすることも無い。もう誰にも「スミマセン、今日休ませていただきます」を言わなくても良い。常に具合が悪いのだから好きなときに横になっていれば良い。調子が良くなったら起きりゃ良い。またフラフラクラクラと具合が悪くなったら横になれば良い。そしてまた父が騒ぎ出したら起きて相手をしてやれば良い。明日のことは考えず、夜通し見てあげてやれば良い。
親の介護と自身の数々の疾病で社会から完全ドロップアウトした筈だというのに、なにやらホッと晴れ晴れしている自分が妙に愉快に思えていた。一番大事な収入を失ったというのに、なんたることかの滑稽さである。

それにしても人間の身体とは、いや、俺の体力やら気力とやらは、こんなにも脆いものだったんだなぁと落胆する。それとも逆に俺という人間は、ここ数年間、案外人並み以上にタフに立ち回ってきたほうだったのかなぁと、どこか縋るような思いで、これまでのヘロヘロでフラフラでボロボロの経緯を振り返りもする。
そして、よくぞ今もこうして生きてるよなぁと、収まりかけた胸の痛みを覚えながら考えもする。
あのまま勤務を続けていたら、ひょっとして今日は生きてなかったのかもなぁと想像したりもする。
やはり人間は生きる以上、睡眠を取らなきゃ完全にイカレてしまうものなのだなぁと、当たり前のことを改めて知らされる思いとなる。

気がつけば父の叫び声も収まり、小さな寝息をたて始めている。
どれ、俺もベッドに戻ろうかと、父の口の周りのよだれを拭き、布団を掛け直す。
時計を見ると明け方を過ぎており、そろそろ世の中が動き始める頃だと知る。
だがもう俺には関係ないことだと、先行きの知れた安堵に横たわらんと自室に戻る。
行き詰まりの隠れ家に、身を潜めるているかのような思いが、そこでは動き出す。
確かなことは、それまでの半日近い日常から”労働”という動作が忽然と消えたことにより、急激に身体が楽になっていったのは言うまでも無い。
復帰の見込みも無いまま社会から転落し、収入を断たれ経済破綻へのカウントダウンが開始された筈なのに、生命とは素直で愚直なものである。



posted by ココカラ at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 介護

2018年02月11日

闇の雄叫び 21 (淵に立つ)


目覚めると、まだ胸の中央左寄りのあたりが痛い。
時計を見ると、そろそろ起きて朝の身支度を整えねばならない時間でもある。
それにしても生きていた。
生きて目を覚ますことが出来たらしい。
それともここは、既にあの世なのだろうかと考えもしたが、それを確かめる手立ても知らないので、まずは起きて顔を洗うことにした。起き上がると、やはり胸の痛みが小刻みに疼く。

昨夜はあの後、わりと早くお開きになったので、来客を見送った後はそのままタクシーに乗り帰宅した。
帰宅しても依然胸の痛みは続いたままで、全身はさらに冷たさを増し、息苦しいのも変わらない。
深夜の自室で、このままどうなってしまうのだろうかと、ただただ恐ろしいだけである。

不意に思い立ち、地元に唯一の公立の救急病院に電話を入れ、これから向かう旨と症状を説明してみる。
すると、自分で電話をするくらい”元気”があるのだから、来院しても受け入れは出来ないと断られる。一度、近隣の開業医で診て貰って、そこで急を要すると判断されたのなら、紹介状を持って来て下さいとのことも付け加えられる。

(救急受診したいのに紹介状だと!?)

これが救急病院の現実なのかと呆気に取られる。
まるでお役所仕事といえようか。いや、きっとそれ以下だろうか。

そう言えば、具合を悪くして自分で救急車を呼んだら「自分で呼べるなら軽症」と判断されて来て貰えず、手遅れになって亡くなった一人暮らしの若者のニュースがあったなと、思い出す。
怪我や病気といった自分の緊急時に、必ずしも自分以外の誰かが介せるとは限らない筈なのに、いったい何のための救急医療なのだろうかと大いに疑問を抱いたものだが、どうやら管理人自身がまさにその渦中に立たされたらしいことを知って身震いした。

急病人や怪我人を受け入れる病院側にも様々な事情があり、何処かで線引きをしなければ運営自体が回らないのも事実ではあろうが、緊急を要する者にとってのその対応は、まるで不条理で絶望的な悪夢を見せられているようなものでしかない。
例えるなら、通り魔に襲われ警察官に助けを求めたら、今は休憩時間だから後にしてくれと言われたような、そんな悪夢とも言うべきか。

接待の帰り道、何故あのままタクシーで病院に向かわなかったのかと後悔した。
そしてそのまま胸を抑えながらでもして病院に駆け込んでいれば、ひょっとして診て貰えたかもしれないのにと、深夜の自室で一人後悔する。

左胸は相変わらず痛いままで、その奥にある心臓であろう塊が、ぐるんぐるんとひっくり返ったり、ぐうーっと延びたり縮んだりしている様が、まるで目で見るように伝わり不気味でしかない。

タクシーを呼び強引にでも救急病院に行こうかと思いつつも、もしその間に、このまま死んだらどうなるのだろうと色々思案することになり、自分が死んだ後にそのまま残ってしまうであろう金融や証券口座の所在や、ネットや携帯といった各種の有料通信サービスの契約先、会社で使っているデータフォルダ等の諸々のパスワードの類などをメモ書きに残し、それを家族宛、会社宛と走り書きで振り分ける。
管理人がこの世の淵に立たされて辛くも出来た事といえば、せいぜいその程度であっただろうか。

やがて異様な程の強い眠気に支配され、もはや動こうにも動けなくなり、スーツを着たままベッドに横たわるしかなくなった。タクシーを呼ぼうと手にしていた携帯も、操作する力すら出てこない。
尖った筋肉痛のような胸の痛みと、冷たさを増してゆくだけの手足の感覚をはっきり覚えながら、意識だけは静かに静かに霞んで行く。
きっとこのまま死ぬのだなと覚悟した。
まさか再び目覚めるとは思わなかった。



胸の痛みを覚えながらも、その日は新人2名を受け入れる担当になっていたので出社しない訳にはいかなかった。
だが出社しても痛みと息苦しさは続き、結局のところ午前中に別の人間に代わってもらい病院へ行く始末となる。
新人の教育中に担当者が抜けるなど前代未聞だった。
はなから休んでいれば良かったと痛烈な後悔をする羽目になり、”出社する”という責任の重さを改めて知ることになる。



「心身ともに健康な状態でなければ、おおよそ考えられないような重大なミスや事故怪我に繋がることになる。各自体調管理を厳にし、もし体調が悪い者がいたら決して無理をしないように」



それは管理人自身が、いつも社の朝礼や教育などで言っていたことだった。
その本人が、おそらく心臓発作らしき症状を抱えたまま出社しているのだ。
「俺はいったい何をやっているのだ」と、ここのところ、ただ右往左往することしか出来ないだけの自分を見詰めることになり、もはや呆れるどころの話ではない。挙句には新人教育を途中で抜けて病院に駆け込む始末となろうとは、もう俺は完全に終わったなと悟った。
掛かりつけの医師からは、案の定、心臓発作を起こしていると診断された。



「最初のアタック(発作)が出たときに、直ぐにでも診て貰っていればもっと詳しく分かったのですがね」

「はあ・・・」

「相当痛かったり、苦しかったんじゃありませんか?」

「はい・・・ 死ぬのかなぁと思いました・・・」

「当たり前です、死んでいたかもしれませんよ」

「・・・・・・」

「とにかく安静にして下さい。あと、今日からニトロペンを持ってもらいますからね」

「はぁ、ニトロですか・・・」



掛かりつけの医師には、なぜ直ぐにでも救急病院に行かなかったのかと問われたが、昨夜の救急病院との経緯を説明すると医師は舌打ちし、「・・・ったく、相変わらずだなあの病院は。それじゃあ救急病院の意味が無いだろ!」と、憤りを漏らした。
そんな医師の態度からも、救急病院とは大方こんなものなのだろうかと、改めて知ることにもなり、もし今後このような事態が身に起きたのなら、可能であれば第三者に通報や連絡を取り付けてもらうのが一番なのかもしれないなと悟ることにもなった。
そんな別の意味での危機対策をも、この心臓発作の一件では教わることにもなる。



「ところで、まだ胸が痛いのですが、これはこのままなのでしょうか・・・」

「今は発作自体は収まっていますが、いわゆる、心臓が”こむら返り”した直後なので、暫く痛みは残って当然ですよ。足が攣ったあとなんかも暫くは痛いままですよね、まぁ、あれと同じだと思ってください」

「はあ・・・」

「それにしても最近色々続き過ぎですね。余程忙しいのでしょうけど、しっかり休養しなきゃまた倒れますよ」

「ええ・・・」



前回はメニエールで倒れ、今度は心臓発作である。
ともにどちらもその時点では大事には至らなかったが、それにしても今回は心臓発作だった。
必ずしも”大事に至らなかった”などとは到底言い切れない筈の事態でもあり、とうとうここまで来てしまったかと、ある種の諦めを知った気にもなったのが正直なところである。
そう。単に、その時点では大事に至らなかっただけに過ぎないのだ。

若い頃からこれまで、怪我や病を患うといった経緯は何度かあった。
だがその都度治療やリハビリに専念し、治すところをしっかり治し、再び社会へと戻ってきた。
ここさえ治せば、これさえ乗り切れば、また仕事に戻れる、また社会で活躍できるのだと。

そこには復帰への明確な目標があり、具体的な再建ビジョンがはっきり見えていた。
なので転んでも都度立ち上がり、あとは復帰に向けて全力で戦うだけで良かった。

だが、このほど続けざまに起こっている一連の症状や疾病ばかりは、どうやらそんな単純に向き合えそうな相手では無いことを身をもって知らされた気がした。
なによりもうクタクタだった。
基本的な日常の根幹から揺らいでしまっての結果だったのだ。
痛いところに薬を塗って、傷が塞がるまで待てば良いという対処療法で済む訳が無かった。



(下手すりゃ、あの瞬間で死んでたんだな・・・)



結局のところ既存社会に対する未練が、自分自身をここまで追い込んだのだなと知る。



(もう、いい加減、どうしようもないのだな・・・)



いっつのとっくに社会の淵に立っている己というものを、ようやく認める気になった。



(それにしても俺は、この先どこまで落ちて行くんだろうなぁ・・・・・・)



その後も管理人の既往は増え続ける。
根幹がボロボロになると、人間はありとあらゆる病に羅患するということを、その後も身をもって知ってゆくことになる。





posted by ココカラ at 02:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 介護

2018年01月15日

闇の雄叫び 20 (追い討ち)


「・・・の件ですが、このまま進めて問題ないでしょうか?」

「・・・電話口で構わないのだが、ちょっと確認したいことがあってな」

「・・・ところで、いつごろから出社って可能ですか? いえいえいえ、決してその・・・」

「”様子見”でも構わないから、そろそろ顔出しくらい出来ないか?」



医者の言いつけを守ろうにも、結局のところサラリーマンとしての限界がある。
戻ったばかりの有給休暇をすり減らし、辛うじて出勤を試みたのは眩暈で寝付いてから一週間後のことだった。
決して本調子とは言えない体を引き摺り、何処となくぼんやりしたままの感覚を知りながらも、それでも業務に戻ってみることする。

しかしそこには本当の意味での居場所は既に無く、自身さえ、つい先日まで当たり前に出来ていた筈の業務が随分と覚束なくなっているのを知ることになる。

周囲はまるで映像の早回しを見るかのように目まぐるしく展開し、その活気ある流れの中で、ただ一人スローモーションでいるらしい自分に気付く。

だが、それにどう追いついたら良いものかとただ焦るだけとなり、それまで長年当たり前に出来ていたこと、そして指導してきた筈のことを試行錯誤しながら追いかけている自分に対し言い様のないもどかしさを覚え、余計に焦る。
いったいこれは、どうしたことだと。

しかし、いつまで藻掻こうが”勘”は戻らず、ただ疲労だけが堆積し、そんな焦るばかりの日々が一巡したところであることに気付くことになる。
それは、ただやっとの思いで”そこに居ただけ”の自分の姿というものだった。



(俺は、ポンコツになった・・・)



出勤を再開した以上、当然ながら戦力とみなされる。
社内の環境は戻った人材を織り込んでの体制が敷き直されることになる。
だが、その戦力に戻れぬまま、ただ日々だけが過ぎてゆく。
とにかく疲れ、次の瞬間コトリと意識を失いそうな感覚に常時陥る始末となり、午後にもなると、早打ちしている鼓動が聞こえるようになる。
息が苦しい。
大きく息を吸い込んでいる筈なのだが、酸素が薄い気がしてならない。



(ダメだ・・・ 倒れそうだ・・・)



不意に自分を呼ぶ声がして、意識が覚醒する。
書類を確認し、指示を与える。
また別の者の案件に対応し、そちらの様子を窺う。
あれこれ遣り取りし、解決する。
自分の業務に戻る。
再び意識が遠のいていくのを覚える。



(これで、働いていると言えるのか・・・?)



そんな日々が、ただ流れてゆく。
帰宅後は相変わらず父の雄叫びに振り回され、まともに眠れない夜というものが、以前と変わらぬ日常となっていた。
ある日のこと、普段あまり言葉を交わすことのなかった他部署の同僚が、すれ違い様に管理人を呼び止めこう言った。



「顔色・・・ ゾンビみたいだよ・・・ 帰ったほうがいいよ・・・」


 
自分でも、”やばい顔色”になってきていたのは自覚していたが、普段殆ど会話もしない人間に言われたとあっては、尚のことそれはこたえる事にもなった。
この頃からだろうか、周囲から「大丈夫ですか?」「今日は帰ったほうが良いのでは?」などと、まるで当然の挨拶かの如く言われるようになり、そろそろサラリーマンとしての潮時を知ることにもなる。

だが、ではどうやって暮らしてゆけば良いのかと、またもや永遠に答えの見つからない自問自答へ陥るだけとなり、結局のところ収入を絶やす訳にはいかないので、出勤だけは続けることになる。
完全に会社のお荷物になっていることを知りながら。



ある接待での酒席の最中、胸に激烈な痛みを覚え全身の動きを止められた。
例えるならその痛みは、筋肉痛のあの痛みが突然胸の中で起こったと言った方がよいだろうか。
それとも”こむら返り”が心臓で起きたとでも言おうか、いずれにしろ、人生で初めて覚えた冷たく激烈な胸の痛みに驚き、焦り、戸惑い、それでもそれを必死に堪えるしかなかったビジネスの場というものでもあった。
全身は、急に体温を奪われたような冷たい感覚だけが妙に際立ち、息は吐けるのだが、吸うのが異常に苦しかった。
きっとこれが心臓発作というやつなのだろうと直ぐにも気付いた。



(このままここで転がり、また大勢の皆に迷惑を掛けることになるのだろうか)

(下手すりゃ、このまま死ぬのだろうか)

(こんなところで、こんな場面で・・・)

(それにしても俺の人生は、あっという間にクソみたいになっちまったな・・・)

(クソ・・・ 畜生・・・ クソ・・・・・・)



誰かが歌うカラオケが聞こえ、周囲は賑やかな嬌声で沸いている。
そんな喧騒の中、酔って眠くなったフリをして、腕を組んで目を閉じ背を丸める。
組んだ腕の右の掌で、釘を打ち込まれたように激しく痛む左胸を鷲掴みにし、摩ったり、叩いてみたりする。
もういい加減、何もかもが嫌になった瞬間でもあった。

このまま俺が死ねば、保険金が入って父を認知症専門の有料老人ホームに入れられる。
そうすれば母は楽になるだろう。
そう思いながらも、痛む心臓をドンドンと叩き、必死で呼吸を整えていた。






posted by ココカラ at 13:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 介護

2017年12月26日

闇の雄叫び 19 (螺旋)


仕事を休み、ぼんやりと改善しつつある眩暈の揺れを覚えながら、これまでも何度となく自問自答してきたことを、自室のベッドに横たわりながら反芻することになる。

それは出口の見えない虚しさだけの回想でもあり、急に何もすることがなくなった日々がもたらした、不意な時間軸的余裕だったのかもしれない。
そこでは、本当にどうしようもない程の堂々巡りを自問し、答えにすらならない自答をただひたすらに繰り返すだけとなる。

これまでの父の件では、そしてそれに纏わる自身の立ち回りとは、いったいどうするのが最善だったのだろうか? あの時点では、どう判断し、どう動けば良かったのだろうか?と、自己のこれまでの選択を遠く近くと見詰め、どれにおいても後悔を覚え、ただ藻掻くことを繰り返す。

仕事を持つ現役世代の「子」が、常に介助や見守りが必要な親を自宅で介護するとなると、当然、子は仕事には出られず、余程の財産や貯金でも持っていない限り、すぐにも収入は絶たれ生活は破綻する。
いわば、親を自宅介護することで、その世帯は一家共倒れコースに乗っかることになる。
なので、この方策は選択しなかった。

では、親の介護を外部の施設、とりわけ”有料老人施設”などに預けた場合では、子は仕事を辞めずに収入を得ることは出来るものの、殆どの場合、その収入以上の高額な費用を支払うことになるので、やはり生活は破綻する。
これについては実際に破綻しかけたので、よって、これも選択することはない。
結局のところ、親を施設に預けたら預けたで、いつしかその高額な費用を賄えなくなり、やはり一家共倒れコースに乗っかることになる。

ただし預けていられる間は、家族は24時間の見守りや介護作業から解放され、夜は人並みに眠ることが許される。
これは家族側にとってはとても大事なことで、心身ともに健康衛生上、人間が生きる上で最も尊守されるべきことになる。
だが「この世の沙汰こそ金次第」と言おうか、それをするには余程潤沢な経済力がなければ続かないのが現実で、やはり我が家の選択肢としては外される。

ならばと、特養や老健、ショートスティ、そして日帰りではあるがデイサービスの利用を考えるも、常に雄叫びを上げ続け、周囲に暴力的な言動を浴びせ捲る父は、他の利用者への配慮からも入所を断られる始末となる。
よって、これらの施設利用こそ、はなから選択肢には上がらない。

そして唯一残された在宅介護以外の選択肢が、精神病院への入院だったが、本人の循環器系の持病により、それはあっさりと潰えてしまった。

最後に残ったのが、結局のところ自宅での在宅介護となった。
ただし、自宅で介護はするものの、その介護作業の殆どは通いの訪問ヘルパーに委託して、子は生活収入を絶やさないためにも社会に出向き、仕事は辞めずに続けるという方策である。 

この方策であれば、諸々の合算費用も収入を上回ることは殆ど無く、ギリギリのところで現役世代の社会生活と、要介護者の暮らしを両立させることを維持できる一番の得策となり、事実、父を施設から戻してからの我が家は、その方策でやってきた。
というか、在宅介護世帯で子の介護離職を回避するには、この方策しかなくなるのである。

だが、結局のところ、これも破綻を迎えようとしていた。

父は夜通し叫び続け、それを宥め制する為にも管理人は眠ることを許されず、それでも収入を絶やす訳にはいかないので仕事を続けるしかなく、そうこう奮闘しているうちに疲労で倒れ、途端に社会生活どころではなくなった。



(どうすれば良かったのだろうか・・・・・・)



新たな年度へと切り替わり、戻ったばかりの有給休暇を大事に使わなければと誓った矢先から、その貴重な有給休暇を連日消費するだけの生活に入ろうとは、いったいどういう運命なのだろう。
やはり俺は、父に殺されることになるのだろうかと、思わずにはいられない。



(親の面倒見てたら仕事には行けない・・・)

(けど、仕事辞めたら収入無くなる・・・)

(そうなったら、一家共倒れだ・・・)

(やはり、どうにかしてでも、働かないと・・・)

(じゃあ、誰が親を見る・・・?)

(やっぱり、何処か施設に預けてでも・・・)

(でも、認知症専門の有料ホームに入れるのは、もう無理だ・・・) 

(そのせいで、貯金、ほぼ使い切ったし・・・)

(もう、あんな高い施設、絶対入れられないし・・・)

(特養なら、有料ホームより安いけど、騒ぐから断られるし・・・)

(精神病院も、老人医療費で安く済む筈だったけど、持病のせいでダメになったし・・・)

(結局は、ウチで看るしかないのか・・・)

(けど、ウチで看てたら、仕事行けないし・・・)

(そうなると、やっぱ、収入無くなるし・・・)

(介護ニートだし・・・)

(そのうち、生活費も無くなるし・・・)

(結局は、一家共倒れだし・・・)

(やだよ、そんなの・・・)

(やっぱ、働いていたい・・・)

(最低限でも、自分の生活、欲しいよ・・・)

(ここの家だって、続けていきたいし・・・)

(やっぱ、仕事辞めるワケにいかないし・・・)

(だがら、ヘルパーさんに来てもらって、働きに出てるのに・・・)

(けど、夜帰ってきて、眠ることも出来なきゃ、結局は無意味だし・・・)

(毎晩毎晩、雄叫びで起こされて、寝不足のまま、仕事してたから・・・)

(だから、こうなったんだし・・・)

(メニエールだかなんだか知らないけど、変な病気なって、ぶっ倒れたし・・・)

(このままじゃ、俺まで寝たきりになるみたいだし・・・)

(今も、目、回ってるし・・・)

(横なってるのに、転げ落ちそうな感覚だし・・・)

(どうなっちまうんだよ・・・)

(どうしたらいいんだよ・・・)

(結局のところ、働いても、働かなくても、一家共倒れかよ・・・)

(施設に入れても、自宅で看ても、ヘルパーさんに来てもらっても、結局は、一家共倒れコースかよ・・・)

(糞ジジイ・・・ お前って、凄いな・・・)

(ここで寝てるだけなのに、凄い破壊力だよな、ホント・・・)

(お袋のこと、潰すし・・・)

(俺まで、このザマだよ・・・)

(テメェには、誰も敵わねえよ・・・ ったく・・・)



自分自身を「イイ歳こいた中年オヤジ」として自覚していたが、まるで青臭い若造のぼやきの如く、ただ稚拙に腐るしかないのが正直なところだった。

何をどう思案し実行しようが、何らの解決にも辿り着けず、どちらに動いても、どう避けようとも、いくら逆立ちしようとも、そこに変わらずしっかり佇んでいたものとは、結局のところ、頭打ちの無い疲労と、覚えたくもない嫌気と、涙すら忘れるほどの散財といった、底知れぬ螺旋が続くだけだったのだ。
その螺旋へと管理人は自ら入り込み、ただひたすら目を回して倒れるまで、暗に駆けずり回っていただけに過ぎなかったのである。



(もう、どうしようもないのかもなぁ・・・)

(会社、戻れるようになるのかなぁ・・・)



真っ先に訪れるであろう、経済的不安に対し、ただ怯えるだけだった。
だがそこに解決の糸口は微塵も見当たらず、思案することさえ嫌になる。



(宝くじでも、当たりゃなぁ・・・)

(億とは言わず、取り敢えず、500万くらいあれば、色々解決できそうなんだけどなぁ・・・)

(けど、親父は何歳まで生きるのだろうか・・・)

(となると、やっぱ、当てるなら、億かぁ・・・)

(そうだ、当たったら、久しぶりに、アルコール飲んでみたいな・・・)

(うん、ビールがいいな・・・)

(あと、刺身なんかも、食ってみたいな・・・ へへへへ・・・)



そんな絵空事のような思考さえ繰り出し始め、そろそろ生活破綻というものが見えかけてきたこのころ。
なにやら面倒臭い症例の眩暈で寝付くことになってからというもの、自身の中心を失ったような気分へと傾いたままになる。

そこではどうにもこうにも思考が霞んでゆくのを知りながら、かといって、足掻く気力さえ無になっている自分を眺めることにもなってゆく。

それは、常駐し続ける眩暈や疲労のせいからだったのか、それとも管理人本来の人間性が、度重なる困窮の最中(さなか)から暗に露呈してしまったことによるものなのかは、定かではなかったが。



(ほんとに、この先、どうなるんだろ・・・)



もう何もしたくない、何も考えたくもない、と、素直にそう思う日々が横たわる。



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2017年12月24日

闇の雄叫び 18 (狼狽える寝たきり中年)


どこかの天井が見える。
四方を布に囲まれた空間の上に、その縦長の天井は見えている。
それは職場の天井でも無ければ自宅のでも無さそうだが、どうやらその縦長の狭い空間の真下で、管理人は仰向けになっていたようである。

不意に左腕に、かなりの重苦しい痛みがのし掛かっていることに気付く。
加えることその痛みには、徐々に氷り付いていきそうな冷たさも増し始め、一時でもこの腕を切り離して欲しいとさえ思えるほどの激烈な痛みへと覚醒してゆく。
慌てて顔を起こし左腕を凝視すると、そこには点滴のチューブが入っており、そこで「あっ」と思い出す。

左腕を雁字搦めにする痛みの原因は、「比重の重い薬品になるので、終わるまで相当痛いかもしれません」と看護士から説明されることになった、眩暈止めの点滴であったことを思い出す。

そしてここは病院の処置室であること、周囲の布は仕切りのカーテンであったこと、医師に「あなたは”メニエール”で倒れたのだ」と説明されたことなど、徐々に徐々にと、ここ数時間のうちに身に起こった出来事の経緯を辿って行くことになる。



(そうだよ・・・ 俺、会社で倒れたんだ・・・)



突然周囲の視界や平衡感覚が暴れ出し、ワケの解らぬまま職場で倒れ、その後しばらく身動きすら出来ないまま床に転がっていたのを覚えている。
それでも、血相変えて駆け寄ってきた同僚に、「大丈夫だ、ただの眩暈だ」と強がっていたのも覚えており、その後自力で壁と床を這いずりながら応接室に辿り着くと、そこのソファに倒れ込んだのだ。

周囲がオロオロしていたのを覚えている。
いや、周囲をオロオロさせてしまったのだ。
その観衆の中を、「大丈夫だ、大丈夫だ」と言いながら、応接室に向かったのを覚えている。
救急車を呼びますね、という誰かの呼び掛けにも、「大袈裟にするな」「仕事に戻れ」などと制していたのも覚えている。

皆が狼狽える中、一人応接室のソファでぐったりし、大変なことになってしまった、一体何が起きたというのだと、その具合の悪さと不気味さに、為す術もなく横たわるしかなかったのを覚えている。

それにしても、俺はとんだ迷惑野郎になっちまったと、依然回転したままの職場の天井を凝視したまま、そのバツの悪さと悔しさらしき思いに、ただオロオロと狼狽えるしかなかったのを覚えている。



(俺は・・・ この先・・・ どうなるんだ・・・?)



それは、体調的にどうこうと言うよりも、社会での立ち居地というものが、この一件によって今度こそ”御破算”になってしまうのではないか、といった怯えだった。

父の脳溢血での入退院を起因とし、その後の認知症に発展してからの更なる通院や介護での遅刻、早退、欠勤を常態化し続けてきた挙句、今度は管理人本人がこの様(ザマ)となった。

父の一件以来、家の事ではこれまで随分と擁護され、かなりの温情を以ってして会社には気遣われて来た筈だった。
だがいつしかそのことは、感謝以上に、申し訳なさやバツの悪さ、そして居心地の定まらぬ日々へと追い込まれることにもなり、もしこれ以上、家で何かトラブルでも起きようものなら、そして自分自身、何か仕事でヘマでもやらかそうものならと、今度の今度こそ立場は無くなるであろうと、一挙手一投足が震える思いで慎重に慎重を重ねながら業務を過ごす日々にもなっていた。

そんな中で、ずってりと転んだのが自分自身となった。
親の件でもなく、仕事のミスでもなく、自分自身そのものが、ワケも判らぬまま地面に転がったのだ。
もういい加減、会社に見限られても可笑しくはないだろう、いよいよ俺は社会から転落するのだろうと、回る天井を見遣りながら悟るしかなかった。
左腕に冷たい激痛を覚えながら、診察室での医師の言葉が思い出される。



「どうやら、メニエールが出ていますね」

「めにえーる・・・?」

「ええ、メニエール病による回転型の眩暈を起こしています」

「なんだか良く判らないのですが、それって、よく聞くところの”眩暈”とは違うのですか?」

「そもそも眩暈というものは、色々な要因があって発生するものですが、今あなたに起きているのは ―――― 」



医師の説明によると、一言で眩暈といってもその要因は様々あるようで、脳神経や血管、三半規管の疾患といった機質的な原因から、過度の疲労や睡眠不足を起因にするものまで多岐に渡るとのことだった。

そこで実際の管理人に起きている眩暈の種類は、問診からも間違いなく過度の疲労や睡眠不足から起こったであろう眩暈と判断され、更にはその持続する眩暈の質からも「内リンパ水腫」という、内耳のリンパが増えて水ぶくれの状態になってしまうというメニエール病独特の症状からの回転型眩暈と推察されることになった。
早い話が、単純な疲れだけからの眩暈では無いとのことで、疲労や睡眠不足の度が超し過ぎると陥る場合もある、常駐性を伴っていく眩暈ということだった。


「ところで、一日にどれくらい眠れているんですか?」

「それが、よくわからんのです」

「数時間とか? まさか数分とか?」

「まったく眠れない日もあれば、気が付いたら、朝になってる日もあったりで・・・」

「これまでに、眩暈やフラつきを自覚したことはありますか?」

「ええ、こういう日常になってからは、何度も」

「そのときは、立っていられたのですか?」

「ええ、今回みたいに、倒れるまでではなかったです・・・」

「いま、かなり危険な状態です、ご自身でもお分かりですよね」

「まぁ・・・」

「いずれにせよ、人間の身体は旨く出来ているもので、これ以上活動が無理となると、あとは本人がどう頑張ろうがその時点でバッタリ倒れて否が応でも横たわるしかなくなるんです。いわば、強制的に自己休眠せざるをえなくなるんです。例えるなら電気のブレーカーみたいな働きですね。一定の負荷を超えるとバチンと落ちてしまい、原因も解決せずにただスイッチだけ入れ直しても、またバチンと落ちますよね。あれと同じ状態です。なので貴方も眩暈が収まるまでは、仕事に戻ろうなんて絶対に思わないでくださいね。もし戻ったら間違いなく、また倒れますから。考えて下さい、もし何らかの動作中だったり、階段を歩いている最中だったり、車の運転中だったりしたら、とんでもないことになりまよ」

「はぁ・・・」

「とにかく今のあなたは、ちょっと休んで直ぐに復活出来るなんていう、そんな生易しい状態では無くなっています。いいですか?今しっかり休んで、とことんこの症状から脱しない限り、一生このままですよ。一生、四六時中、眩暈の状態が固定され、眩暈のまま生きることになりますよ。そうなったら歩く事だって儘ならなくなるんですよ」



医師に、そう諭されもしたが、こんな状態ではもはや仕事どころではなかった。
寝ても立っても、頭が、視界が、足元の感覚が、グルグル、ふわふわと怪しいままなのである。
ただならぬ、単純ではない眩暈を、厄介な病気を、俺は誘発してしまったのだなと、容易に察しがついた。

病院の処置室で左腕の激痛に耐えながら、とうとうこんな事になってしまった、何でこんな目に遭わなければならないのだと、カーテンに狭く囲まれた天井を見詰めながら、ただ呆然とするしかなかった。

ならば、ではいったい、俺はこれまでどうすれば良かったのだろうか、どういう立ち回りを以ってして、これまでやってきたら良かったのだろうかと、後悔すらしようの無い遣り切れなさに、ただ縦横と呑まれて行くだけだった。



(いったい、何なんだよ・・・・・・)



その後、2つの病院による精密検査の結果、管理人の脳や三半規管に機質的要因は見当たらず、やはり眩暈の原因は、過度の疲労や睡眠不足を常態化させていたことに起因したメニエール病を発症したことによるものだと診断されるに至った。

さらには、この症状が進めば、外での社会生活どころか、簡単な日常生活そのものまでが困難となり、そうなったら専門の病院や施設に入って暮らすしかなくなるといった趣旨の説明も受けることになり愕然とする。
そして、とにかく今起きている眩暈が消えるまで、何もしないで「ただひたすら休め」と、口酸っぱく告げられる。

「社会的に終わった」と、このとき、はっきり自覚した。
いや、既に終わっていた物事に対し、未練がましく縋っていただけなのかも知れない。

「このままじゃ終わらない、終わらせられない」といった気概や希望、反骨を胸に、出来得る事の総てをギリギリまでやって来た筈だった。それは行動であり、開拓であり、折衝であり、多大な散財だったりもした。

だが、必ずしも結果がそれに繋がってゆくとは決まっていない。
むしろ繋がらない事のほうが多いのは知っており、人が生きる上で、そんなに晴れ間が多くないのも知っている。
普段は雨で、時々垣間見える晴れ間に対し、人は嬉々し、そこに何らかの希望や平安を抱くものだという事も知っている。 

何事に於いても、いずれかになるのは十分承知してはいるものの、成し得る事と、成し得ない事が在るという揺るぎない現実を、そこで改めて知ることになる。
体力も、そして気力といったことも、やはり有限なのだと、改めて知ることになる。

あらゆるものは移ろいやすく不確かなのだと、何度も何度も反芻することになる。



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2017年12月16日

闇の雄叫び 17 (惰性止むとき)


年度も新たに、有給休暇と介護休暇は戻ったものの、おそらくそれらは父の介護を理由にあっという間に消えて無くなるであろうことは目に見えていた。
それでも有るのと無いのとでは意味合いも大きく異なり、多少なりともサラリーや職場での”立場”を温存するには助けられそうであることに安堵する。
そう。あくまで”多少なりとも”ではあるが。

介護に絡む遅刻、早退、欠勤が常態化し続けたことにより、当然ながら管理人の職場での立ち居地というものは、何事も無かった頃に比べて同じという訳ではなくなっていた。
いつしか”責任的立場”というものからは遠ざかり、出張や接待の免除も常とされ、むしろそのことは、こちら側から社用諸々の辞退を願い出るしかなくなった後先の顛末というものだった。

言うならばそれは、職場での居所を希薄化するしかなかったというのが、そうなってからの管理人の”勤め”といったものでもあり、でなければ業務の所在自体が曖昧となり、下手をすれば他者のほんの些細な身動きすら取りづらくなるのが組織の危うい一面だったりもするからだ。
なので、その先はもう、誰が居ようが居まいが、新たに構築せざるを得ない職場の動きに委ねるしかないのが当然の流れとなり、その流れの後先に、管理人は甘んじて職を繋げていたような具合である。

そんな最中(さなか)に戻った有給休暇や介護休暇は、今後また父の介護に纏わる何らかのトラブルに遭遇したにせよ、最悪これを使い切るまでは、若干の体裁だけは保てるであろうと思える貴重な残弾として映るものだった。
せめてその残弾尽きる前に、少しでも早く自身の立場を回復し、しっかりした形で業務や社会に立ち帰ってみたいものだと願わずにはいられない。

そして振り返ると、いや、振り返らずとも、そこでは色々蘇ってくることになる。
立ち消えてしまった本社への移動、頓挫した2度の昇進内示、昇給の見送り、そして最終的には最低ランクまで査定を下げられてしまったボーナス支給額など、父が脳溢血で倒れてから今日に至るまで、いったいどれほどのキャリアを棒に振り、掴んでいたかもしれない筈の収入や将来を逃してきたことになったのだろうかと、ただ虚しい喧騒が耳に胸にと残るだけの日々を見詰めることになる。

それは否応なしに悔しいだけの回顧でしかなく、たとえそれが親の介護という致し方ない事由であったにせよ、綺麗さっぱり笑って諦め「まぁ仕方ない、アハハハハ」などと容認するには余りに忍び難い歴史ともなっていた。

入社以来、長年随分と辛酸を舐め続けながらも様々なハンデを乗り越え、努力や工夫、そして駆け引きを重ね、出来得る限りの実績を、それまで幾つも打ち立てて来た筈だった。

一企業人として、ただひたすらガツガツと形振り構わず立ち回らざるをえなかった忙殺の日々を越え、ようやくにして、自身の裁量や思惑、そして戦略をもってして社会に挑む間口が開いた頃だった。

あともう少しで人生というものに対し、多少の自信や余裕を持たせられるかもしれないなぁと、社会人として、そして一人の大人としての次の段階を、寸前のところまで捉えていた筈だった。

その寸前のところで、アル中の父が昼間から酒を飲んでいる最中に脳溢血で倒れ、その後の展開へと至ってしまう。

出来るものなら何事もなかったあの頃に立ち帰り、またあの段階から仕切り直してみたいものだと、自分自身さえ呆れ蔑むほどの未練がましさを胸に抱き、畜生、畜生と懐古する。

もっとも、今更その全てを取り戻すことなど現実的には思いようもなかったが、それでも”こんなこと”で社会から落ちこぼれたくはないといった一心の元、せめて一社会人として最低限でも仕切り直しはしてみたいという意地があり、反骨らしき念も居座り続けていた。

父が全ての施設入所を絶たれた今、一旦帰宅すると昼夜問わずただただ介護に付き切りになるだけの日常ではあるものの、そんな最中においても、なお出勤するということは、管理人自身の自己の社会性を保ち、何らかの希望を育み続けることにも繋がっていた。

家に帰り、日々深夜の雄叫びに叩き起こされ、それを宥め制しているときは、今度こそ自分の人生はこれで終わってしまうんだ、いい加減ぶっ倒れて仕事にも行けなくなるんだ、といった恐れと諦めだけに支配されてしまうのだが、それでも朝になり、また社会へと漕ぎ出すと、そこに居ることに心底安堵し救われることへと繋がってゆく。

こうなってからというもの、高額な老人施設の入所費用、やはり高額な訪問医療や訪問看護費用、そして在宅介護に係わる諸々の費用全般を捻出するが為に虎の子の預金を取り崩し、さらには少しでも日常の出費を抑えたいが為、些細な付き合いにしろ、やはり些細な趣味嗜みや好みの飲食といったことにしろ、やがては”生涯大事にしたかった筈の人間関係”においてまで、それらすべてを遠のけ、封印しなければ、生活すること自体が困難な日々に追い込まれていた。

そこには何らの癒しや愉しみ、そして息抜きすらも微塵にさえ存在せず、ただ耐え、ただ我慢し、無情に垂れ流される膨大な出費を、ただ固唾を呑んで見送るだけの日々しかない。
毎月こんなにお金があったなら、今月このお金を他の事に使えたならと、いじましさこの上ない心情に潰されそうになる。

だがしかし、辛うじてでも社会に居続けさえすれば、そしてそこと繋がってさえいれば、必ずしも「ゼロ」と潰える事は無いだろうと、明日を見る。



(やっぱ、社会で生き続けたい・・・ ガソリンなんか被るものか!)



寝不足の頭と怪しげな体調を引きずりながらも、切にそう回帰を願い、日々の業務に打ち込んでみる。
久しく手にした有給休暇という残弾に対し、そこに一縷の望みというか、微かな安堵らしき思いも重ね、また新たな年度に漕ぎ出すことを決意する。

それにしても、これまでの社会人人生において、これほどまで有給休暇というものが尊く思えた瞬間が果たしてあっただろうかと、やはりそれまでの経緯をしみじみと振り返る。



(有給休暇、大事に使わせてもらうぞ・・・)



だが、そんな尊い有給休暇という残弾を、管理人は父の介護に関する理由ではなく、自身の都合であっという間に撃ち尽くすことになる。



ある日の業務中、突然管理人の頭上で職場の天井がグルグル回り出し、足元の床は雲でも踏んでいるかの如く、ぐにゃりと抜けた。
てっきり大きな地震でも起きたのかと驚き身構えるも、周りは皆、何事もなく業務を続けており、そこでようやく自分にだけ何らかの異変が起きているのだということに気が付いた。

次の瞬間には姿勢の維持さえ出来なくなり、そのまま机に突っ伏すも、今度は上体を委ねた筈の机がふわっと沈み、そのまま管理人は椅子から床へと転げ落ちる。
固く冷たい床の感触を顎や頬で覚えながらも、不思議なことに、その固い筈の床は波打ってもいる。



(何が・・・ 何が・・・ 起きて・・・ るんだ・・・・・・?!?・・・)



回転する管理人の視界に、駆け寄ってくる同僚の姿が見えた。



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2017年12月13日

闇の雄叫び 16 (引き算)


精神病院への入院を土壇場で断られ、家族も主治医もケアマネージャーも途方に暮れる事態となったが、父の身体機能の低下は著しく進み続け、その介護度は、それまでの「要介護3」から「要介護5」へと上げられ、諸々の介護サービスの利用範囲も目一杯まで引き上げられることになった。

だがそのことは、介護保険利用枠の適用範囲が現行法上での最大限まで認められたという一縷の安堵と同時に、一方では、その限度枠一杯まで利用するしかない状況でもあったので、それに支払うことになる費用も目一杯嵩む現実にもなった。

とはいえ、仮に実費負担することに比べれば、その経済的負担は雲泥の差にはなろうが、父の在宅介護に係わる医療費を加えた諸々の出費を合算すると、決して楽観できる費用ではないのが確かな現実として横たわる。

加えること、父の発する日々連夜の雄叫びや悲鳴といった騒音対処で、まともに眠れない、休めないといった家族側の身体や精神的負担を考えると、どう引き算しても、やはり父には何処かの施設に入って貰いたかったというのが切なる本音となっていた。

だが、いくら費用が賄えたとしても、要介護5という特養への最優先入所レベルに上げられたとしても、大騒ぎする者はやはり特養には入れてもらえず、反しては大騒ぎしても一向に構わないと説明された筈の精神病院からは、父の持病を理由に入院を断られる始末。

嵩む一方の在宅介護費用に、あとほんの少し加算すれば十分に特養に入れられた筈なのに・・・ 精神病院に入れられた筈なのに・・・ 出来ない負担ではなかったのに・・・ ようやく眠ることが出来るかと思ったのに・・・と、結局はどちらに転んでも叶えられなかった結果に虚しい憤りを覚え、その潰えた希望に日々恨み節を反芻する。
何度も何度も引き算して、引き算して、良かれと判断し、もうこれ以外には何も無いといった覚悟で準備してきた筈なのにと。



(こんな思い、どこまで続くのだろうか・・・)

(解放される日は、訪れるのだろうか・・・)



こうなると、ただただ父を憎むだけだった。
何故、お前という男は、あの手この手で巧みにすり抜け、ここでこうして馬鹿な喚き声を延々と上げ続けるのだと、ご立派な介護ベッドで横たわる父を睨み付けるものの、だからといって、それはどうしようもないことなのだと悟る日々を、ただひたすらに繰り返す。

そこに解決策は潰え、共にどちらかが崩壊、破綻、または家族が発狂破滅する日まで、それは繰り返されることになるのだろうと、明白に悟ることになる。

人間の一生とは、俺の生涯とは、日常とは、こんな感じで潰えてしまうものなのかと、なにやら一切合切がどうでも良くなっていく感覚にだけ呑まれて行く。

眠りたくても眠れず、ようやく眠った気がしたかと思えば出勤する時間になっている。
いつの間にか、深夜起こされる度に胸の痛みを覚えるようになり、仕事中も、何らかの動作を切欠に動悸や息切れを誘発する始末となり、ついこの前まで当たり前に出来ていたことが、なにやら覚束なくなっているのを知る。
間違いなくこれは睡眠不足の影響なのだと知りながら、かと言って、睡眠不足を理由に仕事を休み続けるわけにも行かないのが現実だ。その原因となっているのが自分の父という存在である。
だがその父に何らの罪は無い。

深夜の父の寝室で、そこに横たわる罪なき老人の計り知れない破壊力に愕然とし、その呆けた顔に憤りだけをただ覚える。どうして、こんなことになってしまったのだろうと。



「俺は、母さんのこととか、みんなのこととか、忘れてしまうんだろうか・・・」



不意に、そんな父の言葉が蘇った。



「俺はこのまま、色んなこと忘れてしまうんだろうか・・・」



それは以前、ショートスティでの粗暴さが問題になり、急遽父を車で連れ出し病院へ向かう途中の会話で発せられた言葉だった。まだ父が辛うじて、自分自身や家族のことを認識できていた頃の話である。

例によって、雄叫びを上げ出した父をようやく宥め終えた深夜のこと、何故だかその場面が不意に蘇ったのだ。
せっかく父を鎮まらせたというのに、今度は管理人が父の横で嗚咽することになった。
あの日、確かに父は自分自身の現状を憂い、そして嘆いていたのを思い出すと、どうにもこうにも涙と嗚咽が止まらなくなったのだ。



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2017年12月07日

闇の雄叫び 15 (潰えた選択肢)






訪問医療の主治医に精神病院宛の紹介状を書いて貰ったのは、父を施設から自宅に連れ帰ってから僅か1ヶ月ほどのことだった。
いわば、我が家は1ヶ月で父の介護に根を上げたことになる。
もっと詳しく述べれば、日々、そして夜毎発せられる父の雄叫びや悲鳴に耐えられなくなってのことだった。
例えるならそれは、テレビのサスペンスドラマ等でよく目にする殺人シーンの、崖やビルから突き落とされた被害者が発する断末魔の叫び声を想像して貰えれば分かり易いと思うが、その叫びが耳をつんざく程の大音量で断続的に繰り返されるのである。いったい何十回、何百回、崖から、ビルから落ちるのだと、呆れるどころか深刻な恐怖すら覚える始末となる。
当然のことながら、夜間は睡眠不足というより殆ど眠れない。
近所迷惑を考えると、雄叫びが始まったらどうにかしてでも宥めたり制するしかなく、だがそれをしたからといって、必ずしも直ぐに大人しくなる訳でもない。
よって、単に当事者家族だけが耳栓をして眠ってしまえばそれで済むという問題ではなくなるのだ。
それが夜毎繰り返される。
”根競べ”などという何処か将来性や解決性のある次元ではなく、ただそれをするしかない状況にひたすらに追い込まれての義務的作業を繰り返すだけなのである。そこでは殺意さえ覚えることになり、この口さえ塞げば、この口さえ塞げば、この口さえ塞げば楽になるのにと、出来よう筈もない妄想を抱き恐れおののくことになる。



(いつもいつも、どうしてお前という男はこうなんだ!)

(俺だって明日仕事があるんだ、いい加減、眠らせてくれ!!)

(どれだけお前のせいで振り回され、世間に頭を下げ、とことん散財してきたと思ってるんだ!)

(それともこれは、何かの試練なのか!!)

(何かの罰なのか!!)

(俺やお袋が、お前にいったいどんな仕打ちをしたと言うのだ!!)

(何かの仕返しなのか!?)

(何が気に入らなくて、毎日毎日こうも夜通し騒ぐんだ!!)

(頼む、いい加減、眠ってくれよ・・・)

(俺だって眠りたいんだ・・・)

(頼む・・・)

(マジ殺すぞ・・・)



認知症患者に何を思っても仕方がないのは判っていたが、抑えようのない感情が日夜噴出するだけだった。
そんな困窮しきった後先に辿り着いたのが、精神病院という最終的な選択肢だった。
もう、どうにもこうにも、それに縋るしかなかなく、ただぐっすり眠ってみたかったのである。

そんな最中での精神病院との入院面談は、我が家にとって、俄かに希望をもたらすものだったといえよう。
そこではどんなに暴れようが、どんなに大声で叫ぼうが、全く問題ありませんという病院側の受け入れ姿勢に、我が家はどれほど救われることになったか計り知れない。
さらには、費用の面でも認知症特化型の老人ホームに居た頃と比べると約1/3程度となり、諸々の経費を合わせても月額合計10万円前後とのことだった。



(これなら家計をギリギリ遣り繰りすれば、何とかやっていけるかもしれない・・・)

(会社辞めなくて、済むかもしれない・・・)



精神病院に入院する当事者の現実というものを、管理人は知りもしなければ、あまり知りたいとも思わなかった。ただ、精神病院側から言われることになった、「入院後の患者の扱いについては、すべてこちらに任せてもらう」との言葉からは、他の病院や老人施設とは一線を画した別次元の扱いが生じる場合もあるのだろうと察することも出来た。
具体的にそれはどういう扱いなのか計り知ることは出来なかったが、既に我が家自体がどうしようもない次元まで来ていたのが現実である。なので、あとの一切合切を、精神病院に丸投げするしかなかったのである。



(とうとう俺は、親を精神病院送りにするのだな・・・)



つい1ヶ月ほど前、老人施設で危篤状態になった父を哀れに思い、急遽自宅に連れ戻した筈だったのが、今またこうして、今度は精神病院に送ろうとしている自分とは、息子とは、いったい何なのかと自問し呆れ自嘲する。
自分の親の面倒くらい、どうして子として看られなかったのかと、その不甲斐無さや無能さ、そして脆弱さに嫌気を覚え、自身を呪いたい程の衝動に駆られ落ちる。

自分の親の面倒を看るということは、こうも悲劇的で壊滅的なことの繰り返しなのかと、その現実にのた打ち回り、これまで都度自身が決断してきたことを振り返り、そこに垂れ流してきた結果の遣り切れなさに一人闇に呑まれ苛まれる。
これが親を看るという現実であり、看られなくなった現実なのだと。

だが、どう思おうが、結局はどうすることも出来なくなったというのが本当の現実である。
自分を自嘲しようが呪おうが、手も足も出せなくなったのが真実なのだ。



(親の介護とは、不毛以外の何者でもないのか・・・)



そう、改めて悟ることになる。





主治医からの紹介状を携え精神病院を訪れた日、そこで意外な現実を知らされる。
それは、父が若い頃から持っていた循環器系の疾患に対する懸念だった。



「当院では、入院患者さんがどんなに暴れようが、大声を上げようが、それは一向に構わないのですが、この疾患がある以上、受け入れは無理です」



そこが、残された最後の受け入れ先でもあった。
ただ愕然とし、何処までも呆然とするしかなかった。
この病院こそ、どんな粗暴な者でも受け入れてくれるのだと信じ、藁にも縋る思いで辿り着いた筈だったのが、父が兼ねてから持ち合わせていた一つの持病により、それは唐突に潰える事となる。

親に対する様々な思案や罪悪感らしきを払拭しきれないまま、それでもどうにかこうにか決断した筈だった事案は、そこであっさりと差し戻され、父が自宅を離れ入院するということは完全に無くなった。
これが父という男なのだと、その日で何度思い知らされたことになっただろうか。



(親父よ・・・ 結局お前という男は、とことんまで、俺を、我が家を、潰す気なんだな・・・)



以前から、時折不意に思い浮かんでは掻き消していた映像が脳裏に浮かぶ。
それは、介護で手が回らなくなって会社を辞め、やがて生活自体に行き詰ってガソリンを浴び、家もろとも火を放つ自身の絵ヅラというものだった。
父はそんな息子の脳裏を知ってか知らずか、その日も、次の日も、また次の日も、大声で喚き散らし、雄叫び続けるだけである。


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posted by ココカラ at 01:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 介護

2017年12月01日

闇の雄叫び 14 (耳鳴り)





施設で危篤を告げられ、家族によって住み慣れた自宅に連れ帰され”看取られる”準備に入った父だったが、そこからは誰も予想出来なかったほどの復活を遂げた。
復活を遂げるや否や、父は凄まじい程の大音量と勢いとで昼夜問わず叫び声を上げ続けることになり、数日もしないうちに我が家はその”騒音”によって窮地に追い込まれた。
施設で父の危篤を示唆した訪問の医師は、あたかも「こんな筈では・・・」と言いたげな表情を浮かべながら我が家を訪れ新たな処方を指示するも、その処方の甲斐もなく父の雄叫びは止まらない。
最終的にはかなり強い作用があるとされる向精神薬や睡眠薬を出されるが、それらをもってしても、まるで捕獲された野生動物が檻の中で吼え狂うが如く、父の雄叫びは一向に止むことはなかった。そういえば、以前もこういうことがあったなと、父がショートスティにいた当時の、その頃の主治医が戸惑っていたのを思い出す。

朝昼晩と、日に3度オムツ交換に訪れる介護ヘルパーに対しても怒号や罵声を浴びせ、拳を上げたり掴み掛かる始末であり、中には「ぎゃっ!」「痛い痛い痛い痛い痛い!」と悲鳴を上げるヘルパーも珍しくはなく、とにかく父の介護作業は凄惨を極めることになった。

本来「力仕事」を禁じられていた母ではあったが、その作業中だけは都度父を押さえ付けながらヘルパーをヘルパーするという本末転倒振りとなり、改めて父という存在の粗暴さと厄介ぶりに、家族も出入りの介護職員達も皆手を焼かされた。

管理人が休みの日は、母に代わり父を押さえ付けることになるのだが、それでも父は、どこにそんな馬鹿力を隠しているのかという程の勢いで巧みに手を抜き振り上げ、ヘルパーの腕や顔といった露出した肌に爪を立て、握り捻ろうとするのを繰り出して止まない。

相手が痛がる箇所を見極めているのか、とくに父はヘルパーの二の腕の下側あたりを狙い、渾身の力でそこに爪を立て握り潰そうとする。それはまるで悪魔の所業の如くの憎たらしさである。

眼鏡を摑まれ飛ばされた者、マスクを引きちぎられた者、あざを付けられた者など、介護ヘルパーが訪れる度に、母も管理人も、「申し訳ございません!大丈夫ですか!申し訳ございません!大丈夫ですか!」の繰り返しとなる。
何度も言うが、本当に悪魔の如く所業である。

しかしながら、足の動きについてだけは大分弱ってしまったようで、以前のように起き上がることはなくなり、些か不適切な言い方にはなるが、それだけが介護作業を行う上での唯一の救いとなっていた。

それにしても日々この有様である。
昼夜問わず雄叫び続け、家族に”眠る”という休息を与えず、オムツ交換の度に他人を巻き込み修羅場と化す。
一旦叫び出すと、深夜でも誰かが起きて宥め制するしか他になく、ようやく静かになったと思って床に戻ろうとすれば、またしても大音響での雄叫びが繰り返される。まったくもって、どこにそんなスタミナがあるのだろう。
やがて母がキレた。



「なんであの日死ななかったんだこのヤロー!!!!!!」

「どこまで人に迷惑掛ければ気が済むんだーーー!!!!!!」



嗚咽しながら母は叫び放った。
またしても父は、母を追い込んだ。
認知症という、どうしようもない疾病に起因することなのだと判ってはいるが、やはり相変わらず、妻不幸な、家族不幸な男のようである。

妻である母にしろ、息子である管理人にしろ、かつては父という大黒柱のおかげで暮らしを立ててきたのは十分わかっている。そこには感謝しかなく、管理人は父の加護の元に不自由なく育てられ、学校教育を受けさせてもらい、社会へ出ることが出来たのだ。どんなことがあろうと、本来父に対しては恩義しかない筈なのだ。

筈なのだが、その父を起因に窮地へと追い込まれた家族というものは、「わかってはいるが」やはり今を生き今日を暮らす以上、どうしようもないくらいの憤りや遣り切れなさに苛まれ、決して望んではいない筈の憎しみへと狂化させられる。



「クソジジイ!!! 早く死ねーーーーーっ!!!!!!」



母の嗚咽を聞きながら、結局は父が生きている限りこうなるのかと、やはりそこでも悟るしかなかった。この先、何度、次はどんな局面で、またこうして悟ることになるのだろうかと。
「父さん、いい加減、俺たち家族を解放してくれ」と、素直に願ったこの日となった。



管理人が耳鳴りに悩まされるようになったのは、この頃からだった。
それは幻聴とも言うべきことなのか定かではないが、父の叫び声による状態的な睡眠不足に加えること、父が叫んでいない時でも、管理人の耳の奥では父の叫び声が単調に繰り返されるようになってゆく。

さらには、深夜突如として発せられる父の叫び声に、当初の頃は「吃驚したなぁ・・・またかよ・・・」という程度に留まっていた筈だったそれは、吃驚して起こされると同時に、激しい胸の痛みを都度覚えるようになり、やがてそれは狭心症と診断されるに至ることになる。
それは管理人崩壊の前兆サインでもあった。


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