2014年09月28日
新創開館5周年記念特別展名画を切り、名器を継ぐ@根津美術館 近代数寄者の世界
佐竹本三十六歌仙絵巻とは、歌仙絵の類品中、現存最古の絵巻です。鎌倉時代・13世紀に制作され、鎌倉時代の肖像画、歌仙絵を代表する絵巻物です。元は上下2巻の巻物で、各巻に18名ずつ、計36名の歌人の肖像が描かれていましたが、1919年(大正8年)に各歌人ごとに切り離され、掛軸装に改められました。もとは藤原公任の『三十六人撰』にもとづく三十六歌仙を一歌仙一図の絵姿に描き、それぞれの略伝と詠歌を添えた上下2巻の巻物でした。佐竹本三十六歌仙絵巻の絵の筆者は数人の手に分かれていて、信実筆の可能性が高い後鳥羽天皇像(水無瀬神宮蔵、国宝)よりは様式的に時代が下るものと思われます。もとは藤原公任の『三十六人撰』にもとづく三十六歌仙と和歌神住吉明神を一図ずつに描き、それぞれに略伝と詠歌を添えた上下2巻の巻物でしたが、佐竹家から出たのち、大正8年(1919)に切断分割されました。
紙本著色。元は巻子装で上下2巻からなっていましたが、上述のように1919年、上巻は18枚、下巻は19枚に分割され、計37幅の掛幅装に改装されています。
各画面は、まず歌仙の位署(氏名と官位)を記した後、略歴を数行にわたって記し、代表歌1首を2行書きにします。それに続いて紙面の左方に歌仙の肖像を描きます。面には歌人の姿のみを描き、背景や調度品等は一切描かないのが原則ですが、中でも身分の高い斎宮女御徽子のみは繧繝縁(うんげんべり)の上畳(あげだたみ)に座し、背後に屏風、手前に几帳を置いて、格の高さを表しています。絶世の美女とされた小野小町は顔貌が見えないように後向きに描かれ、容姿については鑑賞者の想像にゆだねる形となっています。
36名の歌人の男女別内訳は女性5名、男性31名です。上巻・下巻の構成はそれぞれ次のとおりです。
•上巻 - 人麿、躬恒、家持、業平、素性、猿丸、兼輔、敦忠、公忠、斎宮、宗于、敏行、清正、興風、是則、小大君、能宣、兼盛
•下巻 - (住吉明神)、貫之、伊勢、赤人、遍照、友則、小町、朝忠、高光、忠岑、頼基、重之、信明、順、元輔、元真、仲文、忠見、中務
第一次大戦の終戦による経済状況の悪化に伴い、当時の所有者であった山本氏は1919年にはこの絵巻を手放さざるをえなくなりましたが、時節柄、高価な絵巻を1人で買い取れる収集家はいませんでした。
この絵巻の買い取り先を探していた服部七兵衛、土橋嘉兵衛らの古美術商は、当時、茶人・美術品コレクターとして高名だった、実業家益田孝(号:鈍翁)のところへ相談に行き、彼の決断で、絵巻は歌仙一人ごとに分割して譲渡することとなったのです。
益田は実業家で茶人の高橋義雄(号:箒庵)、同じく実業家で茶人の野崎廣太(号:幻庵)を世話人とし、絵巻物の複製などで名高い美術研究家の田中親美を相談役として、三十六歌仙絵巻を37枚(下巻冒頭の住吉明神図を含む)に分割し、くじ引きで希望者に譲渡することとしました。
事前に、合計で購入価格に見合うよう36歌仙の断片に値段をつけ、最高価格は、斎宮女御の4万円(現在の4億円)、次いで小野小町が3万円、小大君2万5千円、柿本人麻呂・藤原敏行と伊勢1万5千円と続く。歌人紀貫之は破格の安さ3千円(現在の3千万円)!これは、狩野探幽の補筆が入っているからとのことです。探幽の筆(詞書に)が入ると、逆に安くなるというのは明治期以降の狩野派の美術界での位置づけを伺わせるものですね。
抽選会は1919年12月20日、東京の御殿山(現・品川区北品川)にあった益田の自邸で行われ、抽選会には益田自身も参加しました。
益田は、三十六歌仙の中でも最も人気が高く、最高値の4万円が付けられていた「斎宮女御」の入手をねらっていましたが、通説では、くじ引きの結果、益田にはもっとも人気のない「僧侶」の絵が当たってしまい、すっかり不機嫌になってしまいました。
それで、「斎宮女御」のくじを引き当てた人物が「自分の引き当てた絵と交換しましょう」と益田に提案し、益田は「斎宮女御」を入手して満足そうであったといいます。
もっとも、翌12月21日付け「東京朝日新聞」でこの絵巻売却の件が報道されたのを見ると、益田が最初に引き当てたのは僧侶像ではなく「源順像」だったことになっており、細かい点についての真相は不明です。
今回はこの「斎宮女御」が前期に展示されています。、
「近代数寄者の精神」というものが、最も発展を遂げたのは大正年間と言っていいでしょう。
数寄者たちは、没落した大名家や豪商たちに代わって、日本の文化を守らなければという使命感を持っていました。貴重な日本美術の流出を危惧した彼らは、仏像、什器、古美術、襖絵などを買い取ったり、寺院などから古い建造物を買い取り、移築までしたのです。もちろん利益のストックの手段としての意味もあったと思いますが、彼らのおかげで私たちが今日数々の名品を国内で見ることができるのも事実です。
「壺割り茶会」の裏話はとても面白く笑ってしましました。「壺割茶会」と呼ばれた所以は、小間の床に飾られた信楽の大壺を「打割って使ったほうがいい」との高橋箒庵の助言に従い、根津が人に託して壺を割らせ、壺割りを命じられた川部太郎と八田円斎は、主人の帰宅を待たず仕事に取りかかりますが、気が変わって帰ってきた根津はひどく機嫌を損じたそうです。ただ茶会では、る白玉椿と寒菊を生けて益田鈍翁に褒められて悦に入ったとのこと。今回この茶壷銘「破全」も展示されています。
これは、近代茶人が、情熱的に芸術を愛し、単なるコレクターでなく、新たな芸術の創造者を以て任じていたこを示す逸話ですね。また、益田鈍翁の茶会で、水指のフタを割ってしまった岩崎謙庵が、おわびのために開いた「長恨茶会」というのもあります。
今日私たちが目にしている古美術品は、長い年月を人から人へと受け継がれてきました。その間、経年変化や、所有した人あるいは時代の好みにより、切断されて新たに表装された絵巻や古筆、破損して補修された茶道具など、制作時と形を変えたものが少なくありません。この展覧会は、私たちが今日当たり前のように享受している鑑賞スタイルや作品のあり方、美しさの感じ方を見直す又は再認識するいい機会だと思います。
展示替えがありますので、後期も行くつもりです。またレポートします^^♪
紙本著色。元は巻子装で上下2巻からなっていましたが、上述のように1919年、上巻は18枚、下巻は19枚に分割され、計37幅の掛幅装に改装されています。
各画面は、まず歌仙の位署(氏名と官位)を記した後、略歴を数行にわたって記し、代表歌1首を2行書きにします。それに続いて紙面の左方に歌仙の肖像を描きます。面には歌人の姿のみを描き、背景や調度品等は一切描かないのが原則ですが、中でも身分の高い斎宮女御徽子のみは繧繝縁(うんげんべり)の上畳(あげだたみ)に座し、背後に屏風、手前に几帳を置いて、格の高さを表しています。絶世の美女とされた小野小町は顔貌が見えないように後向きに描かれ、容姿については鑑賞者の想像にゆだねる形となっています。
36名の歌人の男女別内訳は女性5名、男性31名です。上巻・下巻の構成はそれぞれ次のとおりです。
•上巻 - 人麿、躬恒、家持、業平、素性、猿丸、兼輔、敦忠、公忠、斎宮、宗于、敏行、清正、興風、是則、小大君、能宣、兼盛
•下巻 - (住吉明神)、貫之、伊勢、赤人、遍照、友則、小町、朝忠、高光、忠岑、頼基、重之、信明、順、元輔、元真、仲文、忠見、中務
第一次大戦の終戦による経済状況の悪化に伴い、当時の所有者であった山本氏は1919年にはこの絵巻を手放さざるをえなくなりましたが、時節柄、高価な絵巻を1人で買い取れる収集家はいませんでした。
この絵巻の買い取り先を探していた服部七兵衛、土橋嘉兵衛らの古美術商は、当時、茶人・美術品コレクターとして高名だった、実業家益田孝(号:鈍翁)のところへ相談に行き、彼の決断で、絵巻は歌仙一人ごとに分割して譲渡することとなったのです。
益田は実業家で茶人の高橋義雄(号:箒庵)、同じく実業家で茶人の野崎廣太(号:幻庵)を世話人とし、絵巻物の複製などで名高い美術研究家の田中親美を相談役として、三十六歌仙絵巻を37枚(下巻冒頭の住吉明神図を含む)に分割し、くじ引きで希望者に譲渡することとしました。
事前に、合計で購入価格に見合うよう36歌仙の断片に値段をつけ、最高価格は、斎宮女御の4万円(現在の4億円)、次いで小野小町が3万円、小大君2万5千円、柿本人麻呂・藤原敏行と伊勢1万5千円と続く。歌人紀貫之は破格の安さ3千円(現在の3千万円)!これは、狩野探幽の補筆が入っているからとのことです。探幽の筆(詞書に)が入ると、逆に安くなるというのは明治期以降の狩野派の美術界での位置づけを伺わせるものですね。
抽選会は1919年12月20日、東京の御殿山(現・品川区北品川)にあった益田の自邸で行われ、抽選会には益田自身も参加しました。
益田は、三十六歌仙の中でも最も人気が高く、最高値の4万円が付けられていた「斎宮女御」の入手をねらっていましたが、通説では、くじ引きの結果、益田にはもっとも人気のない「僧侶」の絵が当たってしまい、すっかり不機嫌になってしまいました。
それで、「斎宮女御」のくじを引き当てた人物が「自分の引き当てた絵と交換しましょう」と益田に提案し、益田は「斎宮女御」を入手して満足そうであったといいます。
もっとも、翌12月21日付け「東京朝日新聞」でこの絵巻売却の件が報道されたのを見ると、益田が最初に引き当てたのは僧侶像ではなく「源順像」だったことになっており、細かい点についての真相は不明です。
今回はこの「斎宮女御」が前期に展示されています。、
「近代数寄者の精神」というものが、最も発展を遂げたのは大正年間と言っていいでしょう。
数寄者たちは、没落した大名家や豪商たちに代わって、日本の文化を守らなければという使命感を持っていました。貴重な日本美術の流出を危惧した彼らは、仏像、什器、古美術、襖絵などを買い取ったり、寺院などから古い建造物を買い取り、移築までしたのです。もちろん利益のストックの手段としての意味もあったと思いますが、彼らのおかげで私たちが今日数々の名品を国内で見ることができるのも事実です。
「壺割り茶会」の裏話はとても面白く笑ってしましました。「壺割茶会」と呼ばれた所以は、小間の床に飾られた信楽の大壺を「打割って使ったほうがいい」との高橋箒庵の助言に従い、根津が人に託して壺を割らせ、壺割りを命じられた川部太郎と八田円斎は、主人の帰宅を待たず仕事に取りかかりますが、気が変わって帰ってきた根津はひどく機嫌を損じたそうです。ただ茶会では、る白玉椿と寒菊を生けて益田鈍翁に褒められて悦に入ったとのこと。今回この茶壷銘「破全」も展示されています。
これは、近代茶人が、情熱的に芸術を愛し、単なるコレクターでなく、新たな芸術の創造者を以て任じていたこを示す逸話ですね。また、益田鈍翁の茶会で、水指のフタを割ってしまった岩崎謙庵が、おわびのために開いた「長恨茶会」というのもあります。
今日私たちが目にしている古美術品は、長い年月を人から人へと受け継がれてきました。その間、経年変化や、所有した人あるいは時代の好みにより、切断されて新たに表装された絵巻や古筆、破損して補修された茶道具など、制作時と形を変えたものが少なくありません。この展覧会は、私たちが今日当たり前のように享受している鑑賞スタイルや作品のあり方、美しさの感じ方を見直す又は再認識するいい機会だと思います。
展示替えがありますので、後期も行くつもりです。またレポートします^^♪