午前中は自分がこれまで生きてきた時間は全て無駄, という無価値観が酷く動けなかった. 非常に苦しい. 堪え難い. この苦しさは何だろう.
いつも枕元に薬を置いているのだが, 体が縮こまって動かず頓服を取ることができない.
夕方になって少し回復する. 頓服を飲んで買い物に行った.
買ってきた惣菜の海苔巻きを食べる. なぜか味を感じない.
そのまま休む.
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Takeo さんのブログに対する決定を尊重します.
ブログは Takeo さんのものです. 文章や絵や詩などの構成が, あの自由で静かな雰囲気を作り出していたのだと思います.
私はそういうところに惹き付けられて, Takeo さんのブログの読者になりました.
以前に書いていたようなブログを書きたいとのこと, それをまた楽しみにしています. 私が Takeo さんのブログの「畸形性」に惹かれていたのは確かですが, 最初の入口は Takeo さんの硬質な文章でした. そこからブログに掲載された絵や詩へと導かれたのです.
Takeo さんのブログで私の知らなかった詩人や画家の作品に触れることができるのは, 私にとって大切な喜びです.
Takeo さんの文章, そこで使われる言葉はブログのスタイルが変わったとしても確かなものとして継続されていくような気がしています. 私が惹き付けられたような Takeo さんの文章の本質は残り続けると思います.
また, 新しいブログでお話をしましょう.
いつも私の体調を心配してくださりありがとうございます.
Takeo さんも穏やかな日々を過ごされますよう.
あまり調子が良くないようですが、そんな中で、プールに行かれたり、新宿でお友達と会ったり、毎度言っていますが、わたしにはとても真似のできることではありません。
ただただ、感心しています。
ところで、お気付きかもしれませんが、ブログを元に戻しました。
まず底彦さんたちに相談してからと、昨夜何度もなんども、今の気持ちを書きかけたのですが、頭がまとまりませんでした。
「あれはわたしのブログだからどうしようと勝手」とは思っていません。一般公開の時には、まだ、「わたしのブログ」という感じでしたが、
メンバー制のブログは、みんなのものです。わたしが独断でどうこうしていいというものではない。
◇
何故元に戻したか?
様々な気持ちが入り混じっています。
先ず、底彦さん、ふたつさんと、Junkoさんとでは、わたしのブログへの好意の持ち方が違うと思います。
「メンバー制に」
・・・という時に、3人が3人とも、わたしのブログへの気持ちを伝えてくれました。
けれども、わたしは以前のふたつさんの言葉に拘っています。「以前のブログの方が、文章として形は整っているかもしれないけど、
あのブログならぼくはここまで惹かれることはなかった」と。
また底彦さんも、わたしのもう一つの「アート・ブログ」の「邪悪なもの、畸形なもの」に惹かれる、と。
ひねくれているのではなく、事実として、底彦さんも、ふたつさんも、わたしのブログの「畸形性」に惹かれているのではないか?
仮にそうだとしたら、わたしのブログ、ひいてはわたしという存在は、一歩外界へ出ると、単なる「エレファント・マン」でしかないのではないでしょうか?
現在3人の読者が、100人、200人になったとしても、依然として味方は3人だけなのではないではないでしょうか?
しかしわたしは、100人中ひとりでも、声に出さずとも、心の中で共鳴・共感してくれる人がいるのではないかと思いたいのです。
また、メンバー制の間、わたしの「アート」「詩」の投稿には、ほとんどPVが付きませんでした。
底彦さんやふたつさんが、「主に」わたしの痛み、わたしの苦しみに惹かれているのだとすれば、それはわたしの文章の力でも、言葉の力でも、才能でも何でもない・・・
無論アートや詩に対してでも、そのような愛し方はあるし、それが作品に対する本来の評価ではないとは決して言えませんけれど。
昨日久しぶりにTumblerに投稿しました、いつものことですが、絵だけ、写真だけ。言葉はありません。
それでもわたしは「あそこでは」好かれていると実感することができるのです。現にあれだけ間を開けたのに、ほんの少しですが、フォロワーが増えていました。
実際に書けるかどうかはわかりませんが、わたしは以前に書いていたようなブログを書きたいのです。つまりふたつさんが「今ほど惹かれない」と言ったような。わたしが一番書きたいものを書くことで、ふたつさんに、これは「ぼくの好みじゃない」と思われるほど、残念なことはありません。それは底彦さんにも言えることです。
今ブログを一般公開することは、いじめられて、不登校になった子供が、状況は何も変わっていないのに、またノコノコ学校へ行くようなものでしょうか?
ただ、わたしはわたしの感じている、「わたしの現実」を、それが正しいからではなく、それがわたしだから、書かずにはいられないのです。
それが他ならぬ、冒頭に書いたような「現代文明への嫌悪」であるのなら、それを公にすることは、単に敵を作るだけの愚行でしょうか?
美しい風景画も、エロ・グロも好き、現代を嫌悪しつつ、詩も好き、音楽も好き。それらをひっくるめてわたしです。
わたしが他ならぬ自分であることは、またこういう自分であるということは、単に「敵を作る」ことを、「嫌われ、嗤われる」ことをしか、意味しないのでしょうか?
エレファント・マンが大通りを歩くのも、いじめられっこの畸形児が学校へいくのも、最終的には本人の自由です。
自由でも、それはやはりみなさんから見れば、愚行、とまではいわずとも、非常に危険なことでしょうか?
なによりも、勝手に元に戻したことへのお詫びをします。ふたつさんが主に底彦さんに向けて寄せてくださった、「認知行動療法」のコメントは、すべて、先の底彦さんのコメントの後につぎ足しました。
また、コメントのついている投稿は削除していませんが、「非公開」にしています。しかしそれはブログの管理者しか見ることができません。その点、ブロガーは非常に不便です。
これへの返信、またブログでのコメントへの返信はいつでも構いません。
それこそ、なによりもまずからだと心を休めてください。ほんとうに。
読んでくれてありがとうございます。
Takeo