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2017年05月09日
美人女優の自宅で簡単美容法特集!!
女性の永遠のテーマの『美』
憧れの美しい女優さんはどのような美容法を実践しているのでしょうか。
今回は、誰でも簡単!自宅で出来る美容法をご紹介したいと思います。
みなさんも是非試してみてください。
≪女優の美容法≫
【石原さとみ】
化粧水を手のひらでパッティングして、浸透したらまたパッティングし、これの方法を何度も繰り返し行う。
夜の美容時間を重視している。肌のダメージは夜に回復するので、特にクレンジングにはかなり時間をかけるし、スキンケアの最後には必ず高保湿のクリームを2種類使用する。
アイメイクは綿棒などを使ってとにかく丁寧にオフするそうです。
順番としてはまず、そっとマスカラなどを落とし、その後クレンジング。バスルームでは、洗顔後に専用のタオルでそっと目のまわりをふいて、メイクが残っていないか確認しているようです。
理想の身体に近づくために、ストレッチを続けていて、ジムで筋トレをしています。
コンプレックスの腕や太ももを鏡で真剣に見ることがなかったが、鏡をみるようになって大きく変わった。
和食中心。夕食にはおもずくやサラダ、スープなど。
青汁は毎日飲む。
以前、インタビューで、一日のなかで野菜を充分摂れているかは意識していて、野菜が好きだし、食後はスウィーツよりはフルーツが好きと答えています。
ところが、これだけ理想的な食生活を送っているにもかからわず、とにかく彼女曰く「食事制限はしていない」ということで、どうやら元々健康志向なのかもしれないです。
【綾瀬はるか】
健康管理のためにその日の疲れはその日のうちにとる。毎日お風呂に入ってリフレッシュ。
疲れがたまると腰や肩が凝るので、肩回しは毎日の日課になっているそうです。
気をつけていることは必ずメイクを落として寝ることと、化粧水はケチらずにバシャバシャつけること。
朝食はしっかり食べる。ビタミンC豊富な果物、特にグレープフルーツを欠かさない。
「1つのことばかりを気にして執着するのではなく、やる事はやって心身共に健康でいられるように、考え過ぎない事が大事」
【吉瀬美智子】
重ねるのが好きじゃないので、スキンケアはオールインワンのものを1つしか使わない。
乾燥肌で洗顔にはとても気を使っており、朝は水洗顔だけで洗顔料は使っていません。夜も乾燥を極力防ぐためW洗顔は避け、クレンジングのみで終わらせます。
食事にはこだわっていて、休みの時は普段摂りずらい野菜&フルーツを多く摂るように心掛けている。
健康的であることが第一だと思うので無理なダイエットはしない。体作りで気をつけてることは毎日のストレッチと入浴。
【篠原涼子】
スキンケアは今まで超シンプルケアだったが、30歳をすぎてから老化を感じてきたので、忙しい時はシートパックを毎日する。
老廃物を排出するために1日2Lのミネラルウォーターを飲む。水分を摂ると満腹中枢が刺激され、食欲も抑えられる。
彼女が普段の生活の中で、美容のために特に意識して摂っているのが酵素と食物繊維なのだそう。
篠原涼子さんはヨガ歴、8年になるそう。多い時は週に5日も通う事があるそうです。
寝る前に音楽を聴きながら30〜40分、ストレッチ。バランスボールを使うことも。
【北川景子】
スキンケアアイテムはシンプルに化粧水・乳液・クリームだけ。サラっとしたコスメが好きだし、与え過ぎると肌が衰える気がする。
このときに忘れがちな首もしっかり保湿する。
粉末コラーゲンを飲み物や食べ物なんでも入れている。
緊急で痩せたい時は走ってから寝る。ダイエットで効果があると思うのは走る事。
【井川遥】
起きたらまず入浴して体を温める。朝は髪や体は洗わず、体温を上げることが目的。お風呂に入って血行を良くすることはむくみもとれる。
美肌には発汗が大事だと思っているので、入浴や運動で、1日1回は玉のような汗をかくようにしている。
スリム体型よりも「丸みのある、しなやかな体」を目指している。
食べることが好きで、子育て真っ最中なので食事制限は無理。毎日欠かさず身体を動かすことで帳尻を合わせる。
以前は激しい運動が好きだった。ゆっくりした運動に変えてから、運動後も体温が下がらず、冷え性も治った。
【上戸彩】
オフの日はずっとお風呂で雑誌を読んだり、デッキを持ちこんでDVDを観たり。一度上がって休憩して、またお風呂に入る。
化粧水をたっぷりつける。3回は重ねづけして浸透させる。
自炊する時は、むくみ解消に良いと言われる冬瓜を、生姜やひき肉で煮て食べる。
仕事がある日は1日4・5食に分けて食べる。 休みの日は1食半くらいのことが多い。
お風呂あがりのストレッチと寝る前の腹筋は習慣となっている。腹筋は50回程やります。
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福岡がお笑いの本場!?九州出身の芸人がこんなに多かった!!
福岡で新生活を始めた人は気付くかもしれない。ある職業の人たちを地元メディアや街角でよく目にすることに。それはお笑い芸人。松本人志(ダウンタウン)、田村淳(ロンドンブーツ1号2号)など吉本興業所属のメジャーな芸人も地元民放で番組を持っており、今や福岡は大阪、東京に次ぐ「お笑いの本場」になった、という説もあるほどだ。その真偽を確かめるべく、活躍する芸人の大半が所属する福岡吉本を直撃した。
現在、福岡吉本には37組57人が所属している。ベテラン組で言うと寿一実(60)、コンバット満(47)、高田課長(48)、ケン坊田中(45)。ほかに名を連ねてみると、「どんぴしゃ」=森本ちゃん(45)、あかみねとんぼ(40)/「レモンティー」=ヤマドゥ(39)、阿部哲陽(43)/「メガモッツ」=中川どっぺる(36)、池内祐介(36)/「スリーナイン」=金田昇大(33)、藤敏孝(33)/「メタルラック」=ノッポノナカ(29)、美意識タカシ(29)…といった面々がテレビやラジオ、CM出演のほか、吉本新喜劇などの舞台、観光大使などと幅広く活動している。
では、福岡吉本はどんな歴史を刻んできたのか。
発足は1989年。翌年のオーディションで博多華丸・大吉、コンバット満、ター坊ケン坊(カンニング竹山とケン坊田中)らが1期生としてデビューした。「M−1グランプリ 2009」で優勝したパンクブーブー(佐藤哲夫と黒瀬純)や、「THE MANZAI 2014」で優勝した華丸・大吉は東京に拠点を移したが、福岡吉本とは今も交流があるという。
初期を知る吉本興業九州エリアマネージャー、中島真一さん(51)は「地元民放ではアイドル並みの大人気でしたね」と振り返る。当時、東京のキー局ではビッグスリー(タモリ、ビートたけし、明石家さんま)に続き、とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンが台頭。一方、地方民放ではキー局に依存しない番組制作を目指す風潮が強まる中、身近なお笑い芸人へのニーズが高まっていたという。「芸人たちはネタを作る暇もないほど仕事に追われた。恵まれ過ぎたかも」
しかし、情勢は変わった。90年代に入ると「タモリのボキャブラ天国」「進め!電波少年」「めちゃ×2イケてるッ」などお笑い芸人“量産”の時代へ突入し、2000年以降には「エンタの神様」「お笑いオンエアバトル」などのネタ見せ番組が大ブレーク。芸風が多様化する中、腕を磨く無名の芸人に感情移入して応援するファンも徐々に増えた。
こうした変化に呼応し、福岡吉本は99年、JR博多駅前の商業ビル内に常設の「吉本111劇場」(のちに『吉本ゴールデン劇場』に改称)を開設。若手芸人育成の場として運営し始めた。しかし、賃料高騰などの事情から常設劇場の維持が困難になり、04年に撤退。現在は天神ビブレ、イムズ、博多リバレインなどの貸しホールで若手芸人らの定期イベントやライブを催している。
中島さんによると、札幌や名古屋も含む吉本の地方拠点のうち、所属芸人が最も多いのは福岡。さらに賃貸とはいえ複数の劇場を活動拠点とする地方事務所は異例という。なぜ福岡に力を注ぐのか。
「吉本新喜劇がある大阪の劇場は昔から、福岡の団体客が多かった。博多どんたくや博多祇園山笠など祭りも盛んだし、祭り好きも多い。芸人を育てる土壌がある。それに、福岡市は女性の人口が多い。市場としてぴったりなんです」
では今後、福岡吉本はどんな歴史を刻んでいくのか。今春、天神のホールであった「福岡よしもと・若手発掘オーディション」でヒントを探った。九州内外の18〜25歳の素人芸人8組12人が、漫才や漫談、一発ギャグ、コント、果ては「絶対音感披露」…と次々にパフォーマンスを披露。滑りまくっても最後まで折れない心で挑戦した。
審査の結果、漫才コンビ3組が入賞。このうち吉本興業福岡支社の野中雅弘支社長から直接スカウトされる最優秀賞に選ばれたのは「晩白柚(ばんぺいゆ)」。現役の九州大法学部生、佐々木玄(はじめ)さん(20)と諸石恭志(たかし)さん(20)のコンビだ。2人の喜びの声は「まずはM−1で優勝し、漫才で食べていきたい」。
長崎から同級生とバスで駆け付け、一部始終を見守った女子高生(16)は「人を笑わせ、元気にするのは素晴らしい仕事。私も頑張って勉強し、将来は芸能マネージャーを目指したい」と語った。
最近のお笑いブームを支えたテレビのネタ見せ番組も放送が終わり、一部にはお笑い人気の陰りを指摘する声もある。しかし、中島さんはひるまない。その理由として、若手芸人や、芸人志願者たちの「芸人としての職業意識の高さ」を挙げる。
それについて、九州経済調査協会の清水隆哉研究員は、こう分析する。
「吉本興業が大手企業であるとはいえ、芸人は『個』の力量が問われる職業。ここ数年の就職戦線は学生が優位の売り手市場が続き、大手企業志向が強まる傾向にあるが、そうした中で芸人を志す人たちの職業観は、ベンチャーなど起業家に通じるものがあるのではないか」
よくライブに訪れるという西南学院大商学部の平木真朗准教授(52)も「お笑いの神髄は話芸を磨く点。3分間のネタでも1分1秒の無駄がなく、間も計算している。ビジネストークの視点で見ても面白い。彼らは高いプレゼン能力を持つ優秀な営業マンになれる」と話す。
とは言え、芸の世界で厳しい競争を勝ち抜くのは並大抵ではないだろう。「笑いは、人と人のコミュニケーションを支えるツール。どんなに時代が変わっても、必要性が薄れることはない」という中島さん。「売れるにはどうすればいいか」と尋ねると、即座にこんな答えが返ってきた。
「辞めずに続けること。これに尽きる」
今回福岡吉本のお話を聞きましたが、実は九州は誰もが知っている、お笑い芸人数多く輩出しています。
そちらをまとめてみました。
≪九州出身の芸人・福岡県≫
【タモリ】
タモリ(1945年8月22日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者、俳優、歌手、ラジオパーソナリティー、作詞家、作曲家、作家、実業家。本名:森田 一義(もりた かずよし)。
福岡県福岡市出身。田辺エージェンシー所属。妻は2歳年上の一般人で自身の個人事務所の社長を務める。だが、妻との間に子供はいない。
【カンニング竹山】
竹山 隆範(たけやま たかのり、1971年3月30日(戸籍上は1971年4月2日) - )は、日本のお笑い芸人。俳優。
カンニングのボケ担当。別名、カンニング竹山(カンニングたけやま)。
ハワイにてマツモトシェイブアイス全面バックアップのもとタケヤマシェイブアイスのオーナーとなる。
【博多華丸】
博多 華丸(はかた はなまる、1970年4月8日 - )は、日本のお笑い芸人であり、お笑いコンビ博多華丸・大吉のボケ担当、相方は博多大吉。本名、岡崎 光輝(おかざき みつてる)。
よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。
【パンクブーブー・黒瀬】
ツッコミ担当。身長163cm(一時期サバを読んでいたため、福岡吉本時代のプロフィールでは166cmとなっている)
会社で知り合った上荒磯勇と共に脱サラして福岡吉本に所属。福岡吉本8期生となり、年齢は佐藤より一歳年上だが、佐藤(6期生)の2期後輩となる。福岡吉本入社後、上荒磯とコンビ・「バレッタ」を結成。
2001年、佐藤と共にパンクブーブーを結成。当時の福岡事務所長の方針により、一時吉本を辞めたが、東京進出後に再び吉本に入り東京吉本の所属となる。
【バッドボーイズ】
コンビ揃って暴走族の「福岡連合」出身で、福岡第一高等学校の同級生でもある。暴走族を引退してどうしようもない毎日を送っていた佐田が、担任の教師に「将来何がしたいんだ?」と訊かれ、俳優か歌手になりたいと答えると、「お前は歌手ってガラじゃないし、俳優は台詞を覚えるのが難しいから、清人とお笑いやれ」と促され、1997年4月に結成した。2002年に福岡吉本から東京本社に移籍。
【バカリズム】
ナレーター、俳優、脚本家、作詞家としても活動。マセキ芸能社所属。バカリズム升野と自称及び他称される事も多い。
1995年から2005年までは升野と松下敏宏によるお笑いコンビであり、コンビ解消後に升野がコンビ名を単独の芸名として引き継ぐ。なお、俳優として活動する際は本名を使うことが多い。
【ロバート・秋山】
父親はヤクザ映画の斬られ役などで活動した元俳優である。先輩俳優の芸名「城春樹」を名乗り、エンドロールに名前が大きく出ていると偽って息子に見栄を張ったという。
お笑いトリオ・ロバートを組む馬場裕之は幼稚園から高校まで同級生で、仲が良かった。高校卒業後に上京。当初の目標は芸人ではなく、代官山で雑貨店を経営することだったが雑貨店の採用面接を次々と落とされ挫折。アルバイトをしているとき偶然に吉本総合芸能学院(NSC)東京校の広告を見て、馬場を北九州から呼び寄せて一緒に入学した。
【ロバート・馬場】
秋山竜次とは幼稚園から高校までの同級生である。門司北高校卒業。1998年にロバート結成。本人はお笑いに興味がなく、先に上京した秋山に強引に吉本総合芸能学院(NSC)に入れられた。
『はねトび』の演出・プロデューサー近藤真広による評価は、「不協和音を奏でる名バイプレーヤー。人間の顔色をうかがわせたら天下一品。人間関係とかを表現するのがすごく上手で、ロバートのネタの微妙な部分には欠かせないキャラクター」
【原口あきまさ】
高校時代から教師やクラスメイトのものまねをしており、体育祭の演目の間に進行を中断させ、校庭の中央でものまねを披露して笑わせていたというエピソードが残っている。こうした戯れが現在のものまねの土台になっている。また高校時代、当時「鶴屋華丸・亀屋大吉」の芸名で福岡のローカルタレントとして活躍していた博多華丸・大吉の追っかけをしていた。
高校卒業後、東京アナウンス学院に進学。土田晃之は専門学校時代の先輩、はなわは後輩に当たる。
【なかやまきんに君】
1998年、素人出演者として探偵!ナイトスクープに「世界一指を早く回せる男」として出演している。1999年に吉本総合芸能学院(NSC)を卒業し、吉本所属のピン芸人「なかやまきんに君」としてデビューした。芸名の名付け親はFUJIWARAの原西孝幸。
2001年、吉本新喜劇に入団。ヤクザの用心棒役などを担当し、筋肉質な体を使って筋肉アピールをしながら喋ったりするネタで知名度を上げた。2003年1月、第24回ABCお笑い新人グランプリで審査員特別賞を受賞。2006年6月、大阪府泉南郡岬町にある「みさき公園」の「ぷ〜るらんどRiO」イメージキャラクターに起用された。
【桑原和男】
1955年、常磐高等学校卒業後、教師を志望していたが夢路いとし・喜味こいしに師事。初舞台は1956年、「原あち郎・こち郎」の芸名で漫才の舞台に立つ。漫才脚本家秋田實が立ち上げた劇団、宝塚新芸座。漫才を経て、1961年、吉本新喜劇の前身「吉本ヴァラエティ」に入団。一時期、新喜劇の名座長として知られる平参平と「平参平・源五郎」や別の人物と「中之島大学・小学」小学の名で漫才コンビを組み地方興行に出演していたこともある。
≪九州出身の芸人・佐賀県≫
【江頭2:50】
芸能事務所大川興業の所属にして同社の筆頭株主であり、かつ同社の前総裁でもある(現総裁は大川豊)。本名、江頭 秀晴〈えがしら ひではる〉。愛称はエガちゃん、エガ。1983年佐賀県立神埼高等学校卒業後、九州産業大学経済学部経済学科に入学するも1週間で中退、その後、さまざまな職を転々としていたが、芸人を目指して上京。ビートたけしに弟子入りしようと出待ちするなどしていた。
【田代まさし】
母の故郷である佐賀県に生まれるが、出生後まもなくしてキャバレーのチェーン店を経営していた父親がほかの女性のもとへ走ったため両親は離婚、中学時代まで母親との母子家庭だった。
【はなわ】
1976年7月20日、佐賀県出身。生まれは埼玉県春日部市。引越しにより幼少時から小学校2年生まで千葉県我孫子市で育つ。その後また家族と共に引越し、佐賀県佐賀市で過ごす。
小さい頃から夢は「お笑い芸人」だったが、両親の反対を恐れ言い出せず「照明さんになる」と話し、高校卒業後すぐに上京し東京の専門学校に入学。
【ナイツ・塙 宣之】
芸人のはなわ(塙尚輝)は実兄。はなわの上にも兄がいるため宣之は三男(甥は「さんまのからくりTV」に出演していることもある)。
千葉にいた頃はいじめられっ子で、家で1人でテレビを見る等して過ごしていた。この時期に大相撲を熱心に観戦したことで現在も好角家となっている。また、野球観戦も好きで、大の巨人ファン。
≪九州出身の芸人・熊本県≫
【内村光良】
お笑いコンビ「ウッチャンナンチャン」のひとりで、ボケとツッコミはケースバイケース。愛称は「ウッチャン」、「テル」。出川哲朗からはジャッキー・チェンに顔が似ているということから、専門学校生時代から「チェン」と呼ばれている。相方は「ナンチャン」こと南原清隆。血液型はAB型。
お笑いタレントとして活動するかたわら、俳優としても活躍。
【くりぃむしちゅー】
2人は熊本県立済々黌高等学校の入学式当日に出会い、その後共通の趣味であるプロレスをきっかけに意気投合。そろってラグビー部に入部し親交を深める。2人は非常に仲がよく、ラグビー部ではコンビを組みよく部員を笑わせていたという。当時の上田はいわゆる学校の番長的存在で、有田はその上田に付いていくような感じであった。
【ヒロシ】
デビュー時は吉本興業福岡事務所に3年間所属。その後上京し、一時はワタナベエンターテインメントに所属していた。当時は「ベイビーズ」というコンビを組んでいた。コンビ時代はキレ芸だったという。コンビ解散後、東京都三鷹市で3年間ホストをしていた。ホストをしていたときの源氏名は「冴神 剣(さえがみ けん)」。当時の最高月収は8万円ほどだったという。
【レイザーラモンRG】
丸顔で武闘派の芸風から、人呼んで「吉本のボブ・サップ」。また、スベリをものともしない芸風から、ダイナマイト関西では「IRON HEART MAN」のキャッチフレーズが付けられている。
【コロッケ】
ものまねを始めたきっかけとして、本人は姉やピーターの影響を挙げている。コロッケがまだ学生だった頃、テレビのものまね番組などで、ピーターがちあきなおみなどのまねを披露していたことが後のコロッケに大きな影響を与えており、ピーターとは現在も親交が深い。他にコロッケ本人が元々、音楽好きだったこともきっかけの1つである
≪九州出身の芸人・大分県≫
【パンクブーブー・哲夫】
高校生のころ、同級生とお笑いコンビ「laughing-hi(ラフィング・ハイ)」を組み、大分県のローカル番組『スパーク オン ウェイヴ』(テレビ大分)で開催された「ハイスクールお笑い選手権」に出場し、優勝を果たす。
≪九州出身の芸人・宮崎県≫
【そのまんま東】
かつてお笑い芸人であり、ビートたけし率いる芸人集団・たけし軍団の一員でビートたけしの最初の弟子。俳優、作家としての活動歴がある。タレント時代は「そのまんま東」(そのまんま ひがし)や「東英夫」(ひがし ひでお)という芸名で活動していた。
【とろサーモン】
元々はコントを主流としていたが、現在は漫才が主流。久保田の若干やる気なさげのいいかげんなボケに対して、村田のキレ気味のツッコミが特徴的である。
村田が一人で話を進めて行く中、久保田がボケをはさむもツッコまれず話を流されたり、ひたすら無視し続ける「すかし漫才」(「シカト漫才」とも言われている)をM-1グランプリ2004年末から始め、笑わず嫌い王決定戦で披露し注目を集める。
≪九州出身の芸人・鹿児島県≫
【ホンジャマカ・恵】
父は大島紬の工場を経営していた職人であった。母は京都出身。鹿児島大学教育学部附属小学校、鹿児島市立甲南中学校、鹿児島県立甲南高等学校卒業。大学への進学を希望していたが、高校卒業後は3浪し、結局は進学を断念している。その後は東放学園専門学校に事務員として勤務し、社会人生活を送っていた。
元キャバ嬢の芸能人!公認非公認ウワサまとめ
芸能界は売れている人はビックマネーを手にすることが出来ますが、もちろん売れていない時期や駆け出しの頃はお給料がほぼ0なんていうのもザラにある世界です。
今では有名なあの芸能人も実は売れていない時期に水商売で生計をたてていたという噂が絶えないので、公認、非公認合わせてご紹介したいと思います。
≪【公認】元キャバ嬢芸能人≫
【立花胡桃(タレント)】
元伝説のキャバ嬢。一週間で200万の給料、一晩で1000万の売り上げを稼いだらしい。
【飯島愛(タレント・AV女優)】
六本木のキャバから銀座のクラブ移ったことを有名な自叙伝に記述済。
【早川沙世(元SDN48)(ファッションモデル・アイドル・歌手)】
小悪魔Agehaの読者モデルと活動し、2011年5月にSDN48に電撃加入した。
【小森純(タレント・ファッションモデル)】
地元横浜川崎のスナックやキャバクラで「みさき」の源氏名で働いていた。給料は少なかったが、客がいない時も仕事仲間と喋りながら酒を飲むのが楽しかったという。現在のハスキーボイスは、そのときの酒やけによるものである。なお、もしモデルをしていなかったらキャバクラ嬢として働いていただろうと述べている。
【中澤裕子(元モーニング娘。)(アイドル・タレント)】
元モーニング娘。の中澤裕子もデビュー前大阪でホステスをしていたことを公言している。
【百合華(ファッションモデル・歌手)】
祇園のキャバクラ勤務当時から雑誌「小悪魔ageha」へ出演しはじめる。その後、クラブへ移り現在、祇園「艶香」で働きながらモデル業等、多方面で活動中。
【熊切あさ美(タレント)】
チェキッ娘解散以降はなかなか仕事に恵まれない状態となり、さらに交際相手にふられたことも重なって引き籠もり状態となった。その後、仙台市に移住してキャバクラの寮に住み、生活費を稼ぐ為もあってキャバクラ嬢として働いたことをテレビで告白。
【細川ふみえ(グラビアモデル・タレント)】
以前ホステスをしていたとテレビで公言済。五反田のブラックジャックに勤務していたという噂。
【阪井あゆみ(ファッションモデル・歌手)】
21歳の時に大阪ミナミのキャバクラに勤め始め、23歳で結婚し、モデルに興味は無かったが夫の薦めでCanCam読者モデルに応募し、夫の後押しがきっかけでCanCam専属モデルとなったんだそう。
【小原正子(クワバタオハラ)】
デビュー前にキャバ嬢をしていたことを公言。記憶力が良く、100人以上の顔と名前をすぐに記憶出来る。キャバ嬢時代にお客を覚えなければいけない為身に付いたのだそう。
≪【非公認】元キャバ嬢芸能人≫
【沢尻エリカ(歌手・女優・グラビアアイドル)】
渋谷の人気風俗店「ICE CREAM」に15歳の頃年齢を誤魔化して働いていたという噂あり。「少し幼いと思いましたが可愛いしテクニックも十分だったし顔出しOKだったので即採用でその日から働いてもらいました」というお店の人の証言あり。
【浜崎あゆみ(歌手)】
デビュー前に歌舞伎町の連れ出しパブ、銀座「S」に在籍していたという噂あり。新宿の蘭○で店の女の子と大喧嘩してすぐ辞めて、渋谷のキャバクラに移って、MAX松浦が客として来店して、アユに一目ぼれして、見事歌手デビューしたらしい。B級アイドル時代には、銀座でホステスをしていたとの噂。
【篠田麻里子(元AKB48)(アイドル・歌手)】
デビュー前に福岡・中洲のキャバクラ「ガイア」に源氏名「涼」で働いていたことがフライデーに掲載された。
「篠田は、福岡のキャバクラでK社長と知りあって上京しました。AKB劇場に併設されたカフェで働いていたところ、ファンから『可愛いのでメンバーに入れて』という声があがり、AKB入りしました」(AKB関係者)
【井上和香(グラビアアイドル・タレント)】
元東京・六本木の人気キャバ嬢。源氏名は「アリサ」だったそう。SMクラブで女王様をしてたという噂もあり。「週刊文春」で父親が証言済。
【釈由美子(グラビアアイドル・女優・タレント)】
六本木「C」に在籍していたとの噂。源氏名は「ルイ」。
【柴咲コウ(歌手・女優)】
下積み時代に、湯島のラウンジでカウンターレディのアルバイトをしていたという噂。
【スザンヌ(タレント・歌手)】
デビュー前にキャバ嬢をしていたのを目撃したという噂あり。
【中島美嘉(歌手・女優)】
中学卒業後に親元を離れ福岡・中州のキャバクラで年齢を偽って働いていたという噂あり。
上京後、六本木「C」に在籍していたという噂もある。
【観月ありさ(女優・歌手)】
赤坂の「M」というお店でキャバ嬢をしていたという噂。その頃は芸能人も普通に夜のバイトをしていたらしい。
【安田美沙子(グラビアアイドル・タレント)】
デビュー前大阪ZOOに在籍していたらしい。
【小池栄子(グラビアアイドル・タレント)】
デビュー前に高級クラブ『E』で働いていたという噂。
【ギャル曽根(タレント)】
実家が貧乏で高校中退でアルバイト後キャバクラ嬢をしていたという噂。
【佐田真由美(モデル・歌手・タレント・女優)】
女性ファッション誌「V@V@」専属モデル時代に銀座の高級キャバクラ「P」に在籍していたという噂。
【さとう珠緒(グラビアアイドル・女優・タレント)】
デビュー前にホステスをしていた噂あり。
【MEGUMI(歌手・タレント・グラビアアイドル)】
2000年から六本木交差点に程近い六本木の高級クラブ「M」、そのあと銀座の高級クラブ『E』でキャバ嬢をしていたという噂あり。源氏名は今の芸名と同じ“メグミ”。常連客には若乃花、東山紀之、真田広之などがいたというが、現在お店は閉店してしまったらしい。旦那の降谷建志とはキャバ嬢ゴッコをして楽しんでるらしい。
【華原朋美(歌手・タレント)】
アイドル時代(遠峯ありさ、三浦彩香時代)六本木「K」や赤坂の「M」など都内各地のキャバクラでキャバ嬢をしていたという噂。
【安西ひろこ(グラビアアイドル・タレント)】
川崎でキャバ嬢をしていたという噂あり。
【森下千里(グラビアアイドル・女優・タレント)】
地元名古屋でキャバ嬢をしていた噂あり。
【ソニン(歌手)】
新人時代にキャバ嬢をしていたという噂あり。最近またキャバ嬢をしていることをFLASHに写真付きで掲載された。
【叶恭子(タレント)】
大阪の北新地で日給4万円でホステスしていたという噂。
【国分佐智子(女優)】
大阪でキャバ嬢をしていた時にスカウトされたという噂あり。
【青田典子(グラビアアイドル・タレント)】
デビュー前にホステスをしていた噂あり。
【高嶋礼子(女優)】
銀座でホステスしていた時にスカウトされたらしい。
【yuki(TRF)(歌手)】
大阪の北新地でクラブ勤めしていたのを元同僚のホステスがクラブの慰安旅行での写真を雑誌社に売ったらしい。
【中根かすみ(グラビアアイドル・タレント)】
中野区のVIP会員制高級キャバクラで働いていたところをスカウトされたという噂あり。
現在は結婚し、旦那はソフトバンク和田投手。
【桜庭あつこ(グラビアアイドル・プロレスラー)】
六本木のキャバクラ出身だそうです。
【久本雅美(お笑い・タレント)】
以前ホステスをしていたという噂あり。
【青木さやか(お笑い・タレント)】
デビュー前にホステスをしていたという噂あり。
【根本はるみ(グラビアアイドル・タレント)】
高級クラブ『E』で働いていた。デビュー後も働いていたそう。小岩井のDOMANIという噂もあり。
【愛内里菜(歌手)】
デビュー前にキャバ嬢をしていたという噂あり。
【mizuho(ZONE)(歌手)】
現在は子持ちながらも札幌ススキノの「花みずき」でキャバ嬢しているという噂。
ピース綾部のアメリカ挑戦は成功するのか?過去に海外挑戦した芸能人とは!?
お笑いコンビ・ピースの綾部祐二がついに渡米。4月10日放送の「しゃべくり007」(日本テレビ)が最後のテレビ出演となりました。
ピース・綾部祐二がアメリカ・ニューヨークに活動の拠点を移すと宣言したのが昨年10月。渡米予定の今年4月が近づいても一向に具体的な内容が見えず、就労ビザ取得すらしていない状況が報じられるにつれ、「ただの話題作り」「行く行く詐欺」なんて声が大きくなっていたのですが、4月10日放送の「しゃべくり007」を持って日本でのテレビ出演はいったん終了。いよいよ本当に渡米するようです。
是非綾部さんには日本人として成功してほしいところです。
実は過去に海外挑戦した芸能人の方々がいたのはご存じですか?
その先駆者達をまとめてみました。
≪海外挑戦した芸能人≫
【野沢直子】
1990年代、あのダウンタウン・ウッチャンナンチャンと共演した伝説の番組『夢で逢えたら』(フジテレビ)に出ていた野沢さん。
多くのレギュラー番組を抱えていた中、突然の活動休止宣言をしアメリカへ。
路上でサルのモノマネをする大道芸人として活動するも芽が出ず、現地で知り合ったギタリストと結婚。
毎年、サンフランシスコから日本に出稼ぎに来るのはもはや晩夏の風物詩に。
彼女のアメリカ挑戦は客観的にみれば失敗かもしれませんが、この破天荒キャラにとっては成功も失敗もあまり関係ないのかも。
1ヵ月ほどの期間、出稼ぎするという独自ポジションで、いまだ日本の芸能界でも需要があり、また第一線で活躍するダウンタウンやウッチャンナンチャンなどの大御所のパイプも太いため、今度も変わらず活躍されることでしょう。
【なかやまきんに君】
2006年に休業し、ロサンゼルスで”筋肉留学“宣言!
4年4ヶ月の筋肉留学の成果が「体重5kg減」と芸人としてはオイシイ結果に。
しかし留学中には米国人女性と交際したり、全編英語のライブを行ったり、サンタモニカカレッジを好成績で卒業するなど意外にも(?)積極的に活動されておりました。
【長井秀和】
2007年9月、”世界に通用するコメディアンを目指す” という志を抱き、ニューヨークに渡り活動を開始。
ニューヨークのクラブで定期的にライブを開催し地道に活動するも、自身の不倫が原因となり2008年11月に奥様と離婚。
フィリピン滞在中に美人局被害にあうなど、女性関係の問題で色々失敗した印象が強い長井さん。
今は語学力を生かし英語講師をしたり、警備員のバイトや社交ダンスの活動などを精力的にこなされているようです。
お笑いライブにもたまに参加しているとのこと。
【ぜんじろう】
平成の明石家さんまとも言われ、1990年前半に関西でレギュラー番組17本とブレークした吉本興業のお笑いタレント!
しかし東京では関西ほどの人気は出ず、ナイナイやロンブーなどの台頭もあって徐々にフェードアウト。
1998年にアメリカに移住し、2001年まで海外現地で活動されました。(スティーヴン・セガールの子・剣太郎セガールと映画『PP兄弟』で共演を果たす)
日本帰国後も、日本と海外の仕事をこなしながら芸人だけでなく音楽分野にも手を出したりと幅広い活動をされていたようで、最近はネット配信番組「zenjiro show」に力を注いでおります。
【松田聖子】
1990年6月、アルバム『Seiko』で全米デビューを飾ったアイドル歌手の松田聖子さん。
当時、アメリカの雑誌メディアやイギリスBBCテレビにも出演し、話題となりました。
1996年5月、日本と米国の合作となりますが映画『サロゲート・マザー』で主演を務めます。
聖子さんのアメリカ挑戦は失敗という見方もされているようですが、歌手だけでなく女優としても全米デビューを果たしているところはさすがの一言。
アメリカに暮らしていたこともあり、英語はペラペラです。
【ATSUSHI】
2018年までの”期間限定” という形で、活動拠点をアメリカに移し海外留学することが決まったエグザイルのATSUSHIさん。
海外留学の理由については様々な憶測が飛び交っております。
が、本人が語った理由としてはあくまでもR&Bやダンスミュージックの本場アメリカで自身のヴォーカリストとしてのスキルを磨くため。
二年間のアメリカ修業が終わった後のATSUSHIさんを楽しみにしていましょう!
【赤西仁】
元ジャニーズの赤西仁さん。
2010年にKAT-TUNを脱退後、個人活動を精力的にこなされております。
いまやアメリカだけでなくアジアでも活躍されており、最近では俳優・山田孝之さんとのユニット「JINTAKA」(ジンタカ)が話題になりました。
【宇多田ヒカル】
2004年、Utadaとして全米デビュー!(デビューアルバムは全曲英語詞の『エキソドス』(EXODUS))
シングル曲「Devil Inside」はiTunes Music Storeで見事1位に!アルバムは160位を記録。
しかしながら2016年の今、宇多田旋風が巻き起こっております。
ニューアルバム『Fantôme』がiTunesアルバム総合ランキングで全米3位(9月29日付)!
全世界のiTunesアルバム総合ランキングでも6位と驚くべき結果に。
世界でも通用する日本人アーティストといえるでしょう。
【YMO】
細野晴臣・高橋幸宏・坂本龍一の3人による伝説的な音楽ユニット。
海外移住をしたわけではないが、1979年に全米デビューアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ(米国盤)』を発売し海外挑戦!
アメリカでライブ活動を開始し、徐々に注目される存在に。
イギリスなどでワールド・ツアーを行った後、日本でYMOブームが起こりました。
YMOは当時、海外の評価も高かったため
「世界に通用するジャパニーズ・バンド」
と言われております。
【電撃ネットワーク】
こちらも海外移住してはいませんが、海外挑戦して大成功を収めたグループです。
1991年、デーブスペクターの紹介でアメリカの番組に出演したのがかけで、いまや欧米で大人気に!
ちなみに海外では “TOKYO SHOCK BOYS” という名で活動されております。
天才と言われる芸能人!その凄さと才能を考察!!
長年芸能界で成功している芸能人は各分野で天才と言われている人が大勢います。
なぜこの人が売れているんだろう?なぜ長くこの業界にいるのだろう?
そんな疑問を持ったことはありませんか?
そんな一部の天才をまとめてみました。
【秋元康】
中央大学出身。日本の作詞家、放送作家、プロデューサー、映画監督、漫画原作者。2005年に結成された女性アイドルグループ『AKB48』とその姉妹グループ、およびそれらメンバーが所属するユニットの総合プロデューサーとしても知られています。新しい手法でAKB48のブームを作った発想力が、評価に繋がっているようです。
テレビの構成作家出身であり、作詞家として手がけた作品はなんと4千曲以上あるそうだ。
チャート1位80曲以上という記録は、歴代の作詞家で1位を誇る。
売り上げ総数は4500万枚で、これは歴代3位だという。
これだけでも「おばけ」だが、さらに脚本も書き、映画も撮り、小説も漫画原作もある。
【タモリ】
早稲田大学出身。日本のお笑いタレント、司会者、俳優、歌手、ラジオパーソナリティー、作詞家、作曲家、作家、実業家など、多岐にわたる活動を行っています。安定感のある司会に、知性を感じているんでしょうか。
漫才師でも落語家でもコントでもない、おまけにコンビでもなく、確たる芸や笑いの功績もない、関東や関西独特の匂いもしない、なのに芸能界のトップにまで上り詰めた。
何が凄いのか分からないのがタモリの凄いところ。
とにかく知識の懐が深い。これは、やはり探究心というか、性格というか。人が、そこまで知ってるのか?という、まさにトリビア的なことまでを面白おかしくお話しされます。
【村上春樹】
早稲田大学出身。日本の小説家、アメリカ文学翻訳家です。ベストセラーを数多く生み出したその文学的才能と、難解な文章から見て頭の良さを感じます。
いわゆる現代小説の文体を作り出した凄い人 。
今我々が当たり前に読んでいる小説の文体は村上春樹が作り出したといっても過言ではないわけだが
あまりに普通になりすぎてみなその凄さを知らない。
TIME誌「世界で最も影響力のある100人」に選ばれる。
【宇治原史規】
京都大学出身。日本のお笑いタレントであり、お笑いコンビ「ロザン」のツッコミ担当です。クイズ番組タレントとしても有名で、幅広い知識でクイズの回答をしています。テレビ番組で感じる、学力と知識が評価されているようです。
知識量で言えば並みの東大生京大生を軽く凌駕していると思います。
平成教育学園では、最優秀賞を度々取る。クイズ番組では芸能界トップと言える。
【香川照之】
東京大学出身。日本の俳優、歌舞伎役者、及びボクシング解説者。時に主役以上に目立ってしまうほどの、抜群の演技力で知られています。
小中高と一貫して東京・暁星学園に通い、学年トップの成績を収めるほどの才知に恵まれた。東大の文学部に現役で合格。卒業後、役者になったのは、「満員電車に乗らなくて済む楽そうな職業として、役者になることを選んだ」からだという。
今でこそ、天才俳優との呼び声も高いが、駆け出しの頃は思うようにいかず苦しんだ。前出の鹿島監督は、「一分の才能、九分の努力」と香川を評する。
「僕は演技上、机に突っ伏していたので、直接、大和田の土下座は見られなかったのですが、時間の長さとともに香川くんのうめき声がだんだん過激になっていく、その息遣いだけは伝わってきました。オンエアでこのシーンを見ましたが、あれは大和田が『ぜったいに半沢には負けていない』という意志が伝わる土下座でした。大和田は、その後頭取に助けられて初めて負ける≠です。解雇ではなく降格を言い渡されたとき、初めて香川くんは死んだ目をした。そこを計算している。本当にすごい役者です」(森田順平氏)
【上田晋也】
早稲田大学出身。日本のお笑いタレント、司会者。くりぃむしちゅーのツッコミ担当。頭の回転が速く、的確な返しをする安定的な喋りに、頭の良さを感じます。
くりーむしちゅうのコンビで1番組250万。上田晋也さんだけで150万。週に10本以上のレギュラーい出演しているので、ざっと計算しても、なんと7億円以上の稼ぎがあるようです。
ゲストに対して吐く毒とそれに対するフォローがうまい。つまり飴と鞭がうまい。
Goingの司会もやっているが、得意ではないスポーツの分野でも的確な質問や返しをすることが出来る。
【北野武】
明治大学出身。日本のコメディアン、タレント、司会者、映画監督、俳優。コメディアンでありながら、世界に通用する映画監督としても活躍する姿に、頭の良さを感じます。
ビートたけしさんは、浅草でお酒を飲むと、店員だけでなく、店にいるほかの客や、外を歩く、通行人にもお金をバラまくそうです。
そこで一緒にいた弟子が、「師匠、さすがにこれはやりすぎじゃないですか」と言ったところ、「オレは、浅草に育ててもらったから人間だから、今こうして浅草に恩返ししてんだよ」と言ったそうです。
元ボクサーのトカちゃんがヤクザと揉めて事務所に拉致られたとき、トカちゃんを世話していたたけしは単身で事務所に乗り込み、組の親分に「面白いことをやったら返してやる」と言われ親分と組員に囲まれるなか、小噺を一つ打ち全員を爆笑させてトカちゃんを救いだした。
たけし軍団の誰かが引っ越しをするときに、「引っ越し祝いは何がいい?」とたけしに聞かれて「洗濯機が欲しいです!」と言ったら、後日引っ越し先にタライと洗濯板が届いた。
「これはたけしさんにやられたなw」と思いつつタライの裏を見たら百万円入った封筒が入っていて「コレでいい洗濯機買え!」と手紙が入っていた。
【林修】
東京大学出身。日本のタレント、予備校講師。「今でしょ!」のフレーズで知られ、テレビ番組の司会も行っています。マルチな才能に頭の良さを感じます。
東京大学を卒業後、日本長期信用銀行経営研究所へ就職するも、5か月で退職。
以降予備校講師になるまでの3年間で、起業やギャンブルに失敗し、借金は1800万円にまで膨らんだそうです。
その後、予備校講師に転身し、どのようにしたら塾生が授業を理解してくれるのか・・・。
悩みに悩んだ末発したのが、皆さんも同じみの「今でしょ!」のフレーズだそうです。
【池上彰】
慶應義塾大学出身。日本のジャーナリスト。時事ニュース解説として知られています。わかりやすく解説するその喋りに、頭の良さを感じます。
とにかく情報量がものすごい。
子供でも理解できるほど、ニュース等で不足している情報を判り易く説明する。そして非常に事実に忠実であり、自己の感想を述べず、ジャーナリストとして、事実を証拠を持って説明する事に徹している。
菊川玲の旦那には未婚の子供が二人もいた!?実は隠し子がいた芸能人まとめ
4月28日に自らが出演する「とくダネ!」(フジテレビ)で結婚を発表したキャスターの菊川怜。その相手男性は、2012年、2人の内縁女性との間に同時期に婚外子をもうけていたことが「週刊文春」の取材でわかった。
菊川の結婚相手は穐田誉輝氏(あきたよしてる・48)。番組で菊川は「一般男性」として相手男性の名前を明かさなかったが、穐田氏は上場企業の経営者であり、これまでインタビュー記事など、数多くのメディアに実名で登場してきた著名人だ。価格比較サイトを運営する「カカクコム」(東証一部上場)やレシピサイト最大手「クックパッド」(同)の社長を歴任し、現在は結婚式場選びの口コミサイト「みんなのウェディング」と、住宅情報サイト「オウチーノ」の運営会社(2社とも東証マザーズ上場)の取締役会長を務めている。
穐田氏に弁護士を通じて事実確認を求めたが、回答は無し。菊川にも所属事務所のオスカーを通じて問い合わせたが、こちらも期限までに回答は得られなかった。
内縁女性は妊娠中、もう一人の女性が婚外子を妊娠した事実を知り、一時は自殺を考えたというが、社会的に大きな影響力を持つ情報番組のキャスターとして、菊川は穐田氏の倫理観をどう捉えているのか。内縁女性への穐田氏の言動など、詳しくは5月10日(水)発売の「週刊文春」で報じる。
芸能人には過去に隠し子が公表された例が何度かあります。
みなさんはご存じでしたか?
≪隠し子のいる有名人≫
【山田孝之】
2006年、以前交際していた女性との間に男児がいることが発覚しました。当時はドラマや映画にひっぱりだこだったのですが、隠し子発覚後、人気が急降下しちゃいましたね。
現在結婚をしているのは別の女性です。
【GACKT】
お相手は元ワンギャルの福世恵梨奈
妊娠発覚時にGacktさんから ・子供の認知はしない ・国外に出ていく ・生活費は全額払う(Gacktが) という条件の元で別れることになったという。
【真剣佑】
30代女性と不倫→娘誕生
娘さんはすくすくと成長し現在5歳。今もアメリカに住んでいるようです。一方の女性は真剣佑さんとの子どもを出産後に離婚、ロサンゼルスで自分の娘として育てているようです。
【ビートたけし】
1991年、愛人とされる女性との間に1歳になる女児の存在が発覚した。
18歳年下の女性と交際していた際にその女性との間に子供ができています。
【志村けん】
志村けんさんにアラフォーの隠し子がいることが発覚。
当時、先行き見えなかったため、周囲に反対され子供を生んだ女性も、隠し子もどこで何をしているのか志村さん本人は知らないらしい。
【石井竜也】
2003年、バックダンサーの外国人女性との間に1歳女児がいることが発覚しました。この1年前、石井さんは前妻と離婚をしており、その後ダンサーの外国人女性と結婚。男のケジメをきちんとつけた形になり、おおむね好意的な意見が多かったようです。
【松方弘樹】
1987年、歌手・千葉マリアとの間に男児の存在が発覚千葉は84年に出産し、その後、松方が認知して養育費を支払っている。当時の妻は女優・仁科亜季子(1998年に離婚)
【石田純一】
1991年、学生結婚していた女性との間に16歳になる息子がいたことが発覚。その息子はいしだ壱成。当時の妻は女優・松原千明(1999年に離婚)
【デーモン小暮】
1993年、かつて交際していた女性に女児が誕生していたことが発覚!血液鑑定も行っている。しかし同年別の女性と結婚。
【市川染五郎】
1997年、認知済みの男児がいることが発覚しました。18歳の時に交際していた、6歳年上の女性との間にできた隠し子だそうです。
2003年に別の女性と結婚し、現在はその奥さんとの間に1男1女をもうけています。
【市川海老蔵】
2003年、元歌手との間に認知済みの1歳の女児がいることが発覚しました。
その後もさまざまな有名女優と浮名を流し、ヤリチン街道まっしぐら。そして2009年に小林真央さんと結婚。去年7月に女児が産まれました。
【加勢大周】
2000年、元OLの女性と結婚直後、学生時代の同級生との間に4歳になる女児の存在が発覚。自分の子であることは認めては以内がこれが原因で離婚している。
【浅香光代】
子どもの父親が「元首相」であると認めた
浅香が「婦人公論」(中央公論新社)で、20代の頃に政治家と不倫したことを告白。相手とは大蔵大臣だった泉山三六の紹介で知り合い、後に自民党の重鎮となったS氏(故人)とのことだった。
【河相我聞】
10代で人気者となった我聞は、劇団時代に知り合った女性と19歳で子どもをもうけた。しかし人気者だったことから世間には隠し続けたが、23歳の時に妻と息子の存在が報道され「隠し子騒動」が勃発した。
【田中角栄】
隠し子が発覚したのは、死後遺産相続の際。しかも、1人や2人ではなく、4人もいた。
知らなかった!こんなところで働いてたの!?有名人の前職!!
「18禁」
各ジャンルで成功を収めた、誰もが知っている有名人は、ずっとその道を進んでいたわけではなく、実は有名人になる前に意外な職業に就いていたんです。
知られざる経歴を持つ有名人をまとめてみたのでご覧ください。
≪有名人の前職≫
【タモリ】
保険外交員 → 喫茶店従業員 → ボウリング場支配人 → タレント
地元の福岡県で保険外交員、喫茶店従業員、ボウリング場支配人など様々な職業を経て、ジャズピアニストの山下洋輔(先見人)や赤塚不二夫らと出会ったことなどをきっかけに上京、30歳で芸能界入りを果たした。
保険外交員(朝日生命)時代は営業成績がトップクラスであり、表彰されたこともある。
【鳥羽一郎】
漁師 → 演歌歌手
父は漁師、母は海女という漁業一家に生まれた。5年間、遠洋漁船の船員としてパナマやインド洋までマグロやカツオの捕獲に従事。
【役所広司】
公務員 → 俳優
大村市の長崎県立大村工業高等学校卒業後、上京して千代田区役所土木工事課に勤務。友人に連れられて観劇した仲代達矢主演の舞台公演『どん底』に感銘を受け俳優への道を志す。
【黒沢明】
画家 → 映画監督
初め画家となることを志した黒澤は、旧制中学卒業後に美術学校(現・東京藝術大学美術学部)の受験に失敗し、川端画学校に学んだこともある。
【スガシカオ】
会社員(制作会社) → シンガーソングライター
子供の頃好きだった音楽は、特撮ヒーロー番組「トリプルファイター」の主題歌。サラリーマン時代はクリエイティブな職業だったため楽しくやっていたが、ミュージシャンを目指すため退社を決意した際、上司から「昇進させるから辞めないでくれ」と説得された。
【YUKI(元JUDY AND MARY)】
バスガイド → エステシャン → 歌手
函館ではバスガイド、上京直後はエステティシャンをしていた。
【設楽統(バナナマン)】
鉄道駅員 → フリーター → 付き人 → 芸人
西武池袋線小手指駅で駅員として働いていたが、僅か半年で退社。その後、カラオケ屋、酒屋の配達など半年間のフリーター期間を経て、お笑い芸人を目指し父親の友人で制作会社勤務の人の紹介で、渡辺正行の付き人として芸能界に入る。
【江角マキコ】
実業団バレーボール選手 → ファッションモデル → 女優
高校卒業後、1985年に日本たばこ産業女子バレーボールチーム(現Vリーグ・JTマーヴェラス)に入団し、バレーボール選手として活躍。当時、実業団選手は午前中は内勤であったため、江角は所属していた塩販売第2課(大阪市)で勤務した後、午後は茨木市に電車で移動して当時茨木工場に隣接して建てられていた体育館で練習を積むという生活を送っていた。しかし、ケガによりバレーボール選手を引退。その後芸能界を目指しファッションモデルに転身。
【尾崎将司(ジャンボ尾崎)】
プロ野球選手 → プロゴルファー
プロ野球選手の経歴を持ち、高校時代には徳島県立海南高等学校(現在の徳島県立海部高等学校)で投手として出場した1964年春のセンバツで決勝戦に進出し、小川邦和のいた広島県立尾道商業高等学校に勝利して初出場初優勝を成し遂げた。
1965年(ドラフト制度前)、池永正明らと共に、西鉄ライオンズに投手として入団した。
【ジャイアント馬場】
プロ野球選手 → プロレスラー
バッテリーを組んでいた捕手の誘いでトンボユニオンズのプロテストを受ける話が進んでいたが、同年10月に読売ジャイアンツのスカウト源川英治に誘われ、高校を中退し、翌1955年1月にジャイアンツに投手として入団する。
【村上春樹】
ジャズ喫茶経営 → 作家
在学中の1974年、国分寺にジャズ喫茶「ピーター・キャット」を開店(店名は以前飼っていた猫の名前から、夜間はジャズバー)。開店資金は500万円で、半分は夫婦でアルバイトをして貯め、残りは銀行からの融資であった。
【森村誠一】
ホテルマン → ビジネススクール講師 → ビジネス書作家 → 推理作家
ホテルマン時代の、「自分の個性を徹底的に消す」職場環境を、「鉄筋の畜舎」と感じ、耐え切れずに、ビジネススクールの講師へ転職。(「鉄筋の畜舎」時代への怒りは、初期エッセイで繰り返し、書かれている。)その後、ビジネス書の作家として出発し、67年小説『大都会』で小説家デビューするが売れず、1969年、『高層の死角』により第15回江戸川乱歩賞を受賞し、推理作家に転向。
【板垣恵介】
サラリーマン → 陸上自衛隊(第1空挺団) → 漫画家
高校卒業後、一旦地元企業に就職するも間もなく退職、20歳のときに陸上自衛隊に入隊し、第1空挺団に約5年間所属。その間、アマチュアボクシングで国民体育大会に出場したこともある。
各ジャンルで成功を収めた、誰もが知っている有名人は、ずっとその道を進んでいたわけではなく、実は有名人になる前に意外な職業に就いていたんです。
知られざる経歴を持つ有名人をまとめてみたのでご覧ください。
≪有名人の前職≫
【タモリ】
保険外交員 → 喫茶店従業員 → ボウリング場支配人 → タレント
地元の福岡県で保険外交員、喫茶店従業員、ボウリング場支配人など様々な職業を経て、ジャズピアニストの山下洋輔(先見人)や赤塚不二夫らと出会ったことなどをきっかけに上京、30歳で芸能界入りを果たした。
保険外交員(朝日生命)時代は営業成績がトップクラスであり、表彰されたこともある。
【鳥羽一郎】
漁師 → 演歌歌手
父は漁師、母は海女という漁業一家に生まれた。5年間、遠洋漁船の船員としてパナマやインド洋までマグロやカツオの捕獲に従事。
【役所広司】
公務員 → 俳優
大村市の長崎県立大村工業高等学校卒業後、上京して千代田区役所土木工事課に勤務。友人に連れられて観劇した仲代達矢主演の舞台公演『どん底』に感銘を受け俳優への道を志す。
【黒沢明】
画家 → 映画監督
初め画家となることを志した黒澤は、旧制中学卒業後に美術学校(現・東京藝術大学美術学部)の受験に失敗し、川端画学校に学んだこともある。
【スガシカオ】
会社員(制作会社) → シンガーソングライター
子供の頃好きだった音楽は、特撮ヒーロー番組「トリプルファイター」の主題歌。サラリーマン時代はクリエイティブな職業だったため楽しくやっていたが、ミュージシャンを目指すため退社を決意した際、上司から「昇進させるから辞めないでくれ」と説得された。
【YUKI(元JUDY AND MARY)】
バスガイド → エステシャン → 歌手
函館ではバスガイド、上京直後はエステティシャンをしていた。
【設楽統(バナナマン)】
鉄道駅員 → フリーター → 付き人 → 芸人
西武池袋線小手指駅で駅員として働いていたが、僅か半年で退社。その後、カラオケ屋、酒屋の配達など半年間のフリーター期間を経て、お笑い芸人を目指し父親の友人で制作会社勤務の人の紹介で、渡辺正行の付き人として芸能界に入る。
【江角マキコ】
実業団バレーボール選手 → ファッションモデル → 女優
高校卒業後、1985年に日本たばこ産業女子バレーボールチーム(現Vリーグ・JTマーヴェラス)に入団し、バレーボール選手として活躍。当時、実業団選手は午前中は内勤であったため、江角は所属していた塩販売第2課(大阪市)で勤務した後、午後は茨木市に電車で移動して当時茨木工場に隣接して建てられていた体育館で練習を積むという生活を送っていた。しかし、ケガによりバレーボール選手を引退。その後芸能界を目指しファッションモデルに転身。
【尾崎将司(ジャンボ尾崎)】
プロ野球選手 → プロゴルファー
プロ野球選手の経歴を持ち、高校時代には徳島県立海南高等学校(現在の徳島県立海部高等学校)で投手として出場した1964年春のセンバツで決勝戦に進出し、小川邦和のいた広島県立尾道商業高等学校に勝利して初出場初優勝を成し遂げた。
1965年(ドラフト制度前)、池永正明らと共に、西鉄ライオンズに投手として入団した。
【ジャイアント馬場】
プロ野球選手 → プロレスラー
バッテリーを組んでいた捕手の誘いでトンボユニオンズのプロテストを受ける話が進んでいたが、同年10月に読売ジャイアンツのスカウト源川英治に誘われ、高校を中退し、翌1955年1月にジャイアンツに投手として入団する。
【村上春樹】
ジャズ喫茶経営 → 作家
在学中の1974年、国分寺にジャズ喫茶「ピーター・キャット」を開店(店名は以前飼っていた猫の名前から、夜間はジャズバー)。開店資金は500万円で、半分は夫婦でアルバイトをして貯め、残りは銀行からの融資であった。
【森村誠一】
ホテルマン → ビジネススクール講師 → ビジネス書作家 → 推理作家
ホテルマン時代の、「自分の個性を徹底的に消す」職場環境を、「鉄筋の畜舎」と感じ、耐え切れずに、ビジネススクールの講師へ転職。(「鉄筋の畜舎」時代への怒りは、初期エッセイで繰り返し、書かれている。)その後、ビジネス書の作家として出発し、67年小説『大都会』で小説家デビューするが売れず、1969年、『高層の死角』により第15回江戸川乱歩賞を受賞し、推理作家に転向。
【板垣恵介】
サラリーマン → 陸上自衛隊(第1空挺団) → 漫画家
高校卒業後、一旦地元企業に就職するも間もなく退職、20歳のときに陸上自衛隊に入隊し、第1空挺団に約5年間所属。その間、アマチュアボクシングで国民体育大会に出場したこともある。
2017年05月08日
ガキ使いのジンクス!田中が再婚したら浜田が離婚する![成功者のジンクス一覧]
ダウンタウンの松本人志が7日放送のワイドナショー(フジテレビ)に出演。お笑いコンビ「ココリコ」田中直樹の離婚について「芸人の離婚は楽しく」あるべきと提言した。
田中は2日、タレント小日向しえと協議離婚したことを発表。長男(12)と次男(9)の親権は田中が持つ。
松本と田中はダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!(日本テレビ)で長きにわたって共演。田中からの報告は「もちろんありましたよ」と松本。「でも当然どういう理由かっていうのは、僕は聞きたくないから言わんでいいと。まあ夫婦いろいろあるやろうと。詳しいことはあえて聞いてもないんで、語ることないんですけど」と続け、離婚の原因などは問わなかったという。
また、松本は「ガキはレギュラー5人いるんですけど、たいてい誰か1人が1回独身になる。僕が独身の頃はみんな結婚してて、僕が結婚したころには遠藤が離婚して。田中が再婚するころには浜田は捨てられるんでは」と冗談めかして笑いを誘った。
さらに「辛気臭いなと思って」と田中の離婚への印象を語ると「芸人の離婚は笑とけ、笑とけっていうね。楽しくっていうか、あまりにもみんな暗い感じになるから」とその意を明かした。
そして「離婚はお互いしたくてしたわけやから。前よりは絶対よかった。(世間は)子どもが被害者みたいに言うけどそれは知ったことかと。被害者って決められることが被害」と両断。「芸人の離婚は暗くしないでほしい。まあボケみたいなもんやから。今はちょっと…田中がスベってんねん。田中が明るくせないかんねん」と独自の視点から、“芸人の離婚は明るい方がいい説”を唱えた。
この記事のように、芸能界にはたくさんのジンクスが存在しています。
過酷な芸能界を生き抜くために、それぞれゲン担ぎをしたり、何かにあやかったりと、みなさん見えないところでおこなっていることが様々あるようです。
芸能界以外でも成功者と呼ばれる有名人も含めたジンクスを紹介してみたいと思います。
【松本人志】
「ネクタイの結び目が細(こま)いと番組が盛り上がらない」
【勝俣州和】
「財布の中の一万円札を折って一億円札にする」
【西川きよし】
「劇場のお客様が空になるといけないので、おからを大入りと言う」
「1ヶ月の間の1日と15日は家の敷地内の表鬼門と裏鬼門にお榊とお水とお塩」
「台所では三宝さんの神様とお伊勢さんに盛り塩とお米」
「夜に爪を切らない」
【西川峰子】
「財布に入れるお金は全て新札に交換して入れる」
【的場浩司】
「お札の向きを全て揃えて財布に入れる。小銭は入れない」
【佐々木蔵之介】
「赤いパンツを履く」
【武田鉄矢】
「ラッキーカラーは黄色。ライター、Tシャツなど全部黄色にしている」
【山口百恵】
「小さいころから自分の運勢を決めるラッキーナンバーを17に決めていた」
【AKIRA (EXILE)】
「部屋に牛系の頭骨をインテリアとして飾る」
【松尾和子】
「家の玄関にニンジンが2本お皿に並べておいく」
【里田まい】
「頬から伸びる長い毛を大事にしている」
【森進一】
「大きな公演前に霊柩車に会うと必ず大成功」
【長嶋茂雄】
「試合前に記者にくばられる大入袋を必ずもらって『これがツキを呼ぶ宝物』とポケットに入れていた」
【星野仙一】
「勝った試合のアンダーシャツを次の試合にも着ていた」
【桑田真澄】
「グランドの白線は踏まない」
【佐々木主浩】
「生まれた日の22日をラッキーナンバーにしている」
【イチロー】
「朝起きたらその日の『メインイベント』を設定する」
「スパイクは必ず左から履く」
【高橋由伸】
「実家の近所の御守をもらい試合の際には必ず持つ」
【上原浩治】
「球場までの道順を変えない」
【田中将大】
「実家に帰かえらない」
【前田健太】
「前日の夕食は豚肉と野菜のあんかけ丼」
「寝る前は同じ曲を聴く」
「同じパジャマで就寝」
「試合開始の7時間前に起床」
「ブルペンでは決まって真ん中のマウンド」
「35球を投げ込む」
「塩で体を清める」
「左足からグラウンドに入り」
「右足からグラウンドを出る」
【武田修宏】
「試合前や前日はカレーを食べる」
【高橋尚子】
「試合の時はユニフォームにお守りを貼っておく」
【横峰さくら】
「勝負カラーをイエローと決めいる」
【マイケル・ジョーダン】
「ここぞという場面で舌を出して動かす」
【羽生善治】
「大局前にうどんなど軽い食事をとる」
【鈴木おさむ】
「嫁の森三中の大島が買った宇宙刑事ギャバンのTシャツを着る」
【日本マクドナルド創業者 藤田田】
「耳の裏を丹念に洗う」
【ネスレ社長 高岡浩三】
「机の上は必要最小限のものだけにする」
【エジソン】
「血管を一切圧迫しない服を着る」
【アインシュタイン】
「小さな成功をイメージしてから作業する」
【マッカーサー】
「心ときめく椅子にしか座らない」
大人気長者番組≪笑点≫の歴代司会者とは
『笑点』は、日本テレビ系列で1966年5月15日から毎週日曜日夕方に放送されている演芸バラエティ番組です。
日本国民であれば必ず観たことがある番組の1つでしょう。
最近では前司会者の桂歌丸さんの体調がすぐれず、入退院を繰り返しているというニュースを聞きます。
↓↓桂歌丸肺炎…5月の公演全て休演↓↓
肺炎のため4月16日から横浜市内の病院に入院中の落語家・桂歌丸(80)が、今月予定されていた寄席や落語会などを全て休演することが7日、分かった。退院の予定も立っておらず、まずは病院で体力の回復に専念。今回の肺炎の原因が通常のウイルス感染ではなく、酸素の過剰吸入が誘発する珍しいケースだったことも判明した。
歌丸は2009年に肺気腫を患い、今年1月2日にも風邪をこじらせて軽い肺炎で入院。そのため最近は日常生活でも酸素ボンベが手放せなくなっていた。その状態で4月14日に東京・国立演芸場の寄席で昼夜2回公演。これが呼吸器への大きな負担となり、相当な息苦しさを感じた。関係者は「担当医にはボンベから流出する酸素は“毎分2〜3リットル”と言われていた」と話す。しかし、歌丸は息苦しさを緩和して翌日以降の寄席に備えるため、担当医の指示以上の酸素を体に取り込もうとして、流出量を毎分5リットルにしたという。関係者は「それが裏目に出た」と話した。
実は人間の体は酸素が与えられすぎると、酸素が足りていると勘違いをして呼吸を休んでしまうという。呼吸をしないと二酸化炭素が排出されず、体内に充満する。救急医療の経験があるシロノクリニックの後藤瞳医師は「そういう状態を“C??ナルコーシス”といいます。ナルコーシスは意識障害を引き起こす。すると唾液などが食道に入らず気管に入る。これが誤嚥(ごえん)。それがもとで肺に炎症が起きるケースがあります」と説明する。
高座への強い責任感から気合十分に酸素を吸い込みすぎて、思わぬ災難を招いてしまった形だ。
現在、肺炎の症状は治まり、病院食も毎日完食するなど体調は日増しに良くなっている。ただ関係者は「今度ばかりは医者が体調の太鼓判を押すまでは退院させないつもり」と話している。
これだけ長く国民の愛され続いている番組ですから、やはり歴代司会者も大物ばかりでした。
昔から観ている方には、とても懐かしく感じるのではないでしょうか。
歴代司会者をまとめてみたので、ご覧ください。
≪笑点歴代司会者≫
初代司会【立川談志(1966-1969)】
落語をテレビでやるとCMが入れれないことから、大喜利をやればCMを入れれると考えた立川談志。その企画は成功し、当時日曜日夕方のスポンサー枠を持っていた龍角散から「視聴率が取れる番組が欲しい」と依頼があり、改めて番組名を『笑点』と改めて開始しました。司会は金曜夜席で司会を務めた、立川談志がそのまま司会に。金曜夜席の流れを引き継いで、初期はブラックジョークが多かったそうです。
番組の構成にも立川談志は深く関わっており、立川談志がいなければ笑点がこれほどまで、人気番組になることはなかったと思いますね。初代のオープニングテーマの作詞とメインボーカルを担当するなど、立川談志の幅広い才能が感じられますね。しかし、初代の司会を務めていた後半、特に大喜利メンバーが総入れ替え以降は、たびたび立川談志は出演をキャンセルすることが増えました。
初代の司会を務めた立川談志は、1969年12月の第32回衆議院議員総選挙への出馬を理由として番組を降板することになります。しかし、実際は番組の路線を巡って初代司会の立川談志とスタッフの関係が悪化していた状況があったといわれています。何より、出演者の総入れ替えもあって、笑点の視聴率は低下しており、立川談志はその責任を取らされた形になりました。
二代目司会【前田武彦(1969-1970)】
当時台本通りに進行するのが当たり前だった時代に、フリートークの概念を取り入れ『フリートークの天才』と言われた前田武彦が二代目笑点の司会を務めることになります。前田武彦は落語家ではなく、NHKの放送作家から、次第にタレント業をするようになった人物でした。前田武彦の起用は、立川談志の推薦によるもので、立川談志同様毒舌が人気な人物でもありました。
かつて立川談志が司会を務めた番組で、前田武彦が漫才を披露したときからの縁で、笑点の大喜利ゲスト大会に出演したこともありました。この頃の笑点は司会席を、舞台中央においていた時期もありました。また、現在ではおなじみのカラフルな着物は前田武彦のころから、始まったそうです。
前田武彦の司会も立川談志同様人気はあったようですが、前田武彦はこの頃『夜のヒットスタジオ』の司会を含め、非常に多くのレギュラー番組を抱えていました。このことから番組のやり方に関して、他の出演者やスタッフと、前田武彦の間で溝が出来てしまったと言われています。結局は、前田武彦が家族と過ごす時間を増やしたいという考えから、司会を降板することになります。笑点の司会に就任してから、1年弱の降板でした。
三代目司会【三波伸介(1970-1982)】
三波伸介は児童劇団から芸能活動を開始し、その後はコメディアン活動を初め人気になった人物でした。笑点の司会になったのは1970年12月20日からでした。前司会の前田武彦の代理司会を務めた際に、その手腕が高評価、また前田武彦自身からの推薦もあって、三代目笑点の司会者に選ばれました。元々落語の知識もあり、並み居る落語家の中でも尻込みせず司会役を務めました。
笑点で、いまではおなじみのOPの観覧席からの挨拶という流れは、三波伸介の時代から始まったものです。笑点を分かりやすい、ドタバタ路線として、コメディ色が強い番組にし、視聴率をあげることに成功しました。
番組が好調な中、1982年12月8日に三波伸介は、解離性大動脈瘤破裂で突然この世を去ってしまったのです。多忙・肥満体・ヘビースモーカー・コーヒー好きというあまり身体によくなさそうな生活習慣が原因だった可能性は高いそうです。なお、三波伸介はお酒は苦手で一滴も飲まなかったそうです。
四代目司会【三遊亭円楽(1983-2006)】
四代目笑点の司会を務めた五代目三遊亭円楽ですが、当初は2回限りのゲスト司会のつもりでいたそうです。しかし、多くの人間が司会を断る中、これ以上司会者が居ない状態はいけないと考えたのか、三遊亭円楽が司会に就任しました。
三遊亭円楽は歴代司会者の中で歴代最長の23年の司会を務めた。
三波伸介の司会と同じような方針で司会を行うか考えた三遊亭円楽でしたが、自分はあくまで司会者として番組を仕切る役に務めることを決めたそうです。そのため、笑点はいまのような、他のメンバーのキャラクターがクローズアップされたような内容がメインとなりました。
当初は、あの特徴的な笑い声が「司会者が笑いすぎる」と批判もあったそうですね。しかし、三遊亭円楽としては、三波伸介のときとは番組の雰囲気を変えるという、意図的な考えのもと行ったと言われています。あくまで、出題、指名、座布団の采配などの最小限の仕事に収縮し、他のメンバーが番組の顔になるように務めました。
間のコーナーでは、多くの芸能人が漫才を披露し人気になりました。また、特番ではTOKIOやジャニーズのメンバーがメンバーを務めるなど、人気芸能人を特番で起用していく番組内容人気でした。若い層に笑点に親しんでもらう機会を作ったといえるでしょう。
五代目司会【桂歌丸(2006-2016)】
1966年から大喜利メンバーであった桂歌丸が五代目笑点の司会に。メンバーの座布団を非常に多く没収するスタイルで、芸能人として番組を盛り上げる方法に長けていた印象ですね。特に、座布団を全員没収するというスタイルを多く多様し、長きに渡って回答者として出来た自身とメンバーの関係をうまく生かしていたイメージです。
実は、かつて初代の笑点の司会者である立川談志と桂歌丸で漫才を笑点の中で行ったこともあるんですよ。非常にマルチな才能の持ち主だったと思います。
六代目司会【春風亭昇太(2017-)】
落語家として芸能人として、致命的に滑舌が悪いとネタにされる春風亭昇太が司会についたのは、以外だったかもしれません。しかし、若手大喜利の司会の経験もあり、司会としての経験は豊富でした。春風亭昇太を司会にすることで、また笑点に新しい風をいれる意図があったようですね。
笑点に存在する暗黙のルールである、下ネタは避けるという風潮も春風亭昇太が司会になることで、変わってきたそうです。何より、春風亭昇太が司会を務めることで、若い層にも笑点に親しんでもらおうという意図があったようですね。
歴代の師匠に遠慮していたが、徐々に歴代司会者に負けない手腕を発揮。
番組では歴代の司会者同様、いじられる要素が多い春風亭昇太。特に、50歳を超えて独身であり、そのことを度々いじられています。笑点のプロデューサーから半ば消去法で選ばれたとネタにする場面もありますが、優しい人柄が好印象を与えており、概ね司会としては受け入れられている印象があります。当初は、メンバーの回答を指名する際に呼び方に戸惑う場面もあったが、現在は統一して『さん』呼び。また座布団運びの山田隆夫からも、歴代通り山田くんで良いと言われたそうですね。
【番外編:愛川欽也】
あまりにも急な三波伸介の逝去に、当時コーナー司会を臨時で担当した愛川欽也は、番組側から正式な司会への就任を要望されます。しかし、自分は落語家を評価できる立場ではないといった理由から、その要望を固辞しました。
実は、愛川欽也以外にも、三波伸介と交流のあった伊東四朗、中村メイコ、東八郎、山城新伍などが、司会のオファーがあったようですが、愛川欽也と同様の理由から、そのオファーを断ったそうです。
【番外編:笑点メンバー】
五代目笑点司会を務める桂歌丸の体調不良が続き、歴代のメンバーのメンバーが臨時で司会を務めました。主な臨時司会としては、林家木久扇や六代目三遊亭円楽らレギュラーメンバーが順番で司会を交代するシステムをとりました。
それぞれの特徴がある司会でした。その後、多くの芸能人が存在する中、誰が六代目の笑点の司会を務めるか、議論を呼びました。
[足立梨花・川隅美慎]熱愛報道!すでに同棲状態か!?
NHK朝ドラ「あまちゃん」に出演するなど活躍中の女優・足立梨花(24)が俳優・川隅美慎(24)との熱愛を報じられた。8日発売の写真週刊誌「FLASH」がツーショット写真とともに伝えた。
2人は高校の同級生で、同誌によれば、「同棲状態」。スーパーで買い物をする写真なども掲載されている。
足立の所属事務所はデイリースポーツの取材に、「仲のいい友人の1人と聞いています」と回答。関係者によると、2人は同棲はしていないという。
【足立梨花】
生年月日:1992年10月16日(24歳)
出身地:長崎県生まれ、三重県三重郡菰野町育ち
身長:163cm
血液型:A型
職業:女優、バラエティタレント
事務所:ホリプロ
〜略歴〜
現在は東京都在住、2007年、菰野町立菰野中学校3年生のときに第32回『ホリプロタレントスカウトキャラバン』に父の推薦で応募して、5万1923人の中からグランプリに選ばれる。
審査員の秋元康曰く、審査員の満場一致で決定した。
2008年4月、上京のため日出高等学校(目黒区)に入学。
2009年7月、NHKドラマ『ふたつのスピカ』(2009年6月 - 7月)の宇宙飛行士を目指す高校生・宇喜多万里香役の出演をきっかけに、『日本宇宙少年団宣伝キャプテン』に就任した。
2010年4月20日、『2010 Jリーグ特命PR部 女子マネージャー』に就任。
同年12月5日、シーズン中に全37クラブのホームスタジアムを訪問するという偉業を成し遂げる。2011年、2012年も引き続き特命女子マネジャーを務めた。
2012年2月26日、『ヒルナンデス!』の企画で東京マラソン2012に出場するが、制限時間切れでリタイアした。
2013年、スカパー!のJリーグマッチデーハイライトで初めてスポーツキャスターに挑戦する。同年1月31日、『Jリーグ 特命PR部 女子マネージャー』を卒業し、3年間の功績を称えた「『Jリーグ名誉女子マネージャー』の称号を付与する」旨記載された大東和美Jリーグチェアマン名義の卒業証書を授与された。
2013年4月、スポーツ応援アイドルユニット「モブキャストガール」のメンバーに選出される。他のメンバーは入来茉里、真凛、山根千佳、折原あやの。
〜人物〜
色々な仕事をこなせるタレントを目指しているが、元はモデル志望で『CanCam』(小学館)などの雑誌に出演してみたいという。好きなモデルは、SHEILA。スカウトキャラバンでSHEILAが司会を務めており、そこで初対面した。
清楚なルックスとスレンダーな肢体とはアンバランスな巨尻が特徴かつチャームポイントであるため、グラビアではお尻を強調したショットが多い。
憧れの人として、石原さとみを挙げている。
スカウトキャラバンで特別賞を受賞した入来茉里とは、同コンテストのグアム合宿で仲良くなった。
趣味は、アニメ鑑賞と音楽ゲームとご当地キティ集め。アニメに関しては月に30本見る程の大のアニメ好きである。好きな声優は鳥海浩輔。2017年3月より、アニメ及び付随するカルチャーを紹介する番組『アニカル部!』(アニマックス)のMCに抜擢された。
愛読漫画は『進撃の巨人』。好きな登場人物はリヴァイで、誕生日祝いもしている。
好きなアーティストは、乃木坂46とAKB48とB'z。
特技は、スカウトキャラバン決勝大会でフォームを披露した、ソフトテニス。
板野友美、桜庭ななみ、田中あさみ、西内まりや、元女優の篠原愛実、などと仲が良く、剛力彩芽とは親友である。
『龍神(りゅうじ)』という15歳年下の弟が1人いる。
『Jリーグ 特命PR部 女子マネージャー』として活動したことで、ドラマだけでなく、サッカー関連番組やバラエティ番組へ出演する機会が増えた。また仕事以外でも何度かJリーグ観戦に足を運んでおり、高校サッカー決勝を観戦したこともある。初年度で当時Jリーグに所属していた全37クラブのホームスタジアムを訪問するなど、3年間の活動を通じて「日本一Jリーグに詳しい女優」と自称する程知識を深めた。
2013年のNHK連続テレビ小説『あまちゃん』で、能年玲奈演じる主人公と敵対する役柄で出演した際には、足立のブログやインターネット上で、能年ファンから足立への批判が続出し、足立自身も性格が悪いと誤解されることもあった。これに対して足立は、本来の性格とは逆の意地悪な役柄の演技に成功し、ドラマでの演技が視聴者に伝わっていると、前向きに解釈している。これらの演技が評価され、同年のフジテレビの土ドラ『山田くんと7人の魔女』でも、主人公をいじめる役に抜擢されており、足立自身も敵役、いじめっ子、嫌われ役を今後も演じることを望んでいる。
家族構成は両親と弟との4人家族。JRA元騎手で元調教師の飯田明弘は母方の大叔父、その息子でJRA元騎手で調教師の飯田祐史は母方の叔父に当たる。
【川隅美慎】
生年月日:1992年12月31日(24歳)
出身地:兵庫県神戸市
身長:178cm
血液型:O型
職業:俳優
事務所:キャストコーポレーション
〜略歴〜
「仮面ライダーになりたい」と思い、俳優を志す。
大阪・京橋のダンススクール「キャレス」の出身。かつて清水翔太や松下優也らも在籍した同校生による男性パフォーマンスユニットSUGERに途中加入し、大阪を拠点にストリートライブなどの活動を行う。2006年9月にキャレスよりSUGERが株式会社キティとマネジメント契約を結んだことが発表され、自身も同社所属のタレントとなる。同年11月、グループ主演舞台『廃墟に咲く花』に出演。
2007年11月28日、SUGERがエピックレコードジャパンよりミニ・アルバム『FORGET ME NOT 〜廃墟に咲く花〜』でCDデビュー。川隅は当時の最年少メンバー(14歳)であった。
舞台『廃墟に咲く花』のテーマ曲であったアルバム表題曲「FORGET ME NOT 〜廃墟に咲く花〜」(作曲:島野聡)の作詞に川隅も参加している(SUGER内での作詞のコンペティションにより、川隅の詞が採用されたため)。
2008年10月にSUGERが解散。以後、俳優として本格的に活動を開始する。
2017年1月1日、ブログで長年所属した株式会社キティからキャストコーポレーションに移籍した事を発表した。