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2017年05月09日

福岡がお笑いの本場!?九州出身の芸人がこんなに多かった!!






福岡で新生活を始めた人は気付くかもしれない。ある職業の人たちを地元メディアや街角でよく目にすることに。それはお笑い芸人。松本人志(ダウンタウン)、田村淳(ロンドンブーツ1号2号)など吉本興業所属のメジャーな芸人も地元民放で番組を持っており、今や福岡は大阪、東京に次ぐ「お笑いの本場」になった、という説もあるほどだ。その真偽を確かめるべく、活躍する芸人の大半が所属する福岡吉本を直撃した。

現在、福岡吉本には37組57人が所属している。ベテラン組で言うと寿一実(60)、コンバット満(47)、高田課長(48)、ケン坊田中(45)。ほかに名を連ねてみると、「どんぴしゃ」=森本ちゃん(45)、あかみねとんぼ(40)/「レモンティー」=ヤマドゥ(39)、阿部哲陽(43)/「メガモッツ」=中川どっぺる(36)、池内祐介(36)/「スリーナイン」=金田昇大(33)、藤敏孝(33)/「メタルラック」=ノッポノナカ(29)、美意識タカシ(29)…といった面々がテレビやラジオ、CM出演のほか、吉本新喜劇などの舞台、観光大使などと幅広く活動している。

では、福岡吉本はどんな歴史を刻んできたのか。

 発足は1989年。翌年のオーディションで博多華丸・大吉、コンバット満、ター坊ケン坊(カンニング竹山とケン坊田中)らが1期生としてデビューした。「M−1グランプリ 2009」で優勝したパンクブーブー(佐藤哲夫と黒瀬純)や、「THE MANZAI 2014」で優勝した華丸・大吉は東京に拠点を移したが、福岡吉本とは今も交流があるという。

初期を知る吉本興業九州エリアマネージャー、中島真一さん(51)は「地元民放ではアイドル並みの大人気でしたね」と振り返る。当時、東京のキー局ではビッグスリー(タモリ、ビートたけし、明石家さんま)に続き、とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンが台頭。一方、地方民放ではキー局に依存しない番組制作を目指す風潮が強まる中、身近なお笑い芸人へのニーズが高まっていたという。「芸人たちはネタを作る暇もないほど仕事に追われた。恵まれ過ぎたかも」

 しかし、情勢は変わった。90年代に入ると「タモリのボキャブラ天国」「進め!電波少年」「めちゃ×2イケてるッ」などお笑い芸人“量産”の時代へ突入し、2000年以降には「エンタの神様」「お笑いオンエアバトル」などのネタ見せ番組が大ブレーク。芸風が多様化する中、腕を磨く無名の芸人に感情移入して応援するファンも徐々に増えた。

 こうした変化に呼応し、福岡吉本は99年、JR博多駅前の商業ビル内に常設の「吉本111劇場」(のちに『吉本ゴールデン劇場』に改称)を開設。若手芸人育成の場として運営し始めた。しかし、賃料高騰などの事情から常設劇場の維持が困難になり、04年に撤退。現在は天神ビブレ、イムズ、博多リバレインなどの貸しホールで若手芸人らの定期イベントやライブを催している。

 中島さんによると、札幌や名古屋も含む吉本の地方拠点のうち、所属芸人が最も多いのは福岡。さらに賃貸とはいえ複数の劇場を活動拠点とする地方事務所は異例という。なぜ福岡に力を注ぐのか。

 「吉本新喜劇がある大阪の劇場は昔から、福岡の団体客が多かった。博多どんたくや博多祇園山笠など祭りも盛んだし、祭り好きも多い。芸人を育てる土壌がある。それに、福岡市は女性の人口が多い。市場としてぴったりなんです」


では今後、福岡吉本はどんな歴史を刻んでいくのか。今春、天神のホールであった「福岡よしもと・若手発掘オーディション」でヒントを探った。九州内外の18〜25歳の素人芸人8組12人が、漫才や漫談、一発ギャグ、コント、果ては「絶対音感披露」…と次々にパフォーマンスを披露。滑りまくっても最後まで折れない心で挑戦した。

 審査の結果、漫才コンビ3組が入賞。このうち吉本興業福岡支社の野中雅弘支社長から直接スカウトされる最優秀賞に選ばれたのは「晩白柚(ばんぺいゆ)」。現役の九州大法学部生、佐々木玄(はじめ)さん(20)と諸石恭志(たかし)さん(20)のコンビだ。2人の喜びの声は「まずはM−1で優勝し、漫才で食べていきたい」。
 長崎から同級生とバスで駆け付け、一部始終を見守った女子高生(16)は「人を笑わせ、元気にするのは素晴らしい仕事。私も頑張って勉強し、将来は芸能マネージャーを目指したい」と語った。

 最近のお笑いブームを支えたテレビのネタ見せ番組も放送が終わり、一部にはお笑い人気の陰りを指摘する声もある。しかし、中島さんはひるまない。その理由として、若手芸人や、芸人志願者たちの「芸人としての職業意識の高さ」を挙げる。

 それについて、九州経済調査協会の清水隆哉研究員は、こう分析する。
 「吉本興業が大手企業であるとはいえ、芸人は『個』の力量が問われる職業。ここ数年の就職戦線は学生が優位の売り手市場が続き、大手企業志向が強まる傾向にあるが、そうした中で芸人を志す人たちの職業観は、ベンチャーなど起業家に通じるものがあるのではないか」
 
 よくライブに訪れるという西南学院大商学部の平木真朗准教授(52)も「お笑いの神髄は話芸を磨く点。3分間のネタでも1分1秒の無駄がなく、間も計算している。ビジネストークの視点で見ても面白い。彼らは高いプレゼン能力を持つ優秀な営業マンになれる」と話す。
 
 とは言え、芸の世界で厳しい競争を勝ち抜くのは並大抵ではないだろう。「笑いは、人と人のコミュニケーションを支えるツール。どんなに時代が変わっても、必要性が薄れることはない」という中島さん。「売れるにはどうすればいいか」と尋ねると、即座にこんな答えが返ってきた。

 「辞めずに続けること。これに尽きる」


今回福岡吉本のお話を聞きましたが、実は九州は誰もが知っている、お笑い芸人数多く輩出しています。
そちらをまとめてみました。


≪九州出身の芸人・福岡県≫


【タモリ】

タモリ(1945年8月22日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者、俳優、歌手、ラジオパーソナリティー、作詞家、作曲家、作家、実業家。本名:森田 一義(もりた かずよし)。
福岡県福岡市出身。田辺エージェンシー所属。妻は2歳年上の一般人で自身の個人事務所の社長を務める。だが、妻との間に子供はいない。

【カンニング竹山】

竹山 隆範(たけやま たかのり、1971年3月30日(戸籍上は1971年4月2日) - )は、日本のお笑い芸人。俳優。
カンニングのボケ担当。別名、カンニング竹山(カンニングたけやま)。
ハワイにてマツモトシェイブアイス全面バックアップのもとタケヤマシェイブアイスのオーナーとなる。

【博多華丸】

博多 華丸(はかた はなまる、1970年4月8日 - )は、日本のお笑い芸人であり、お笑いコンビ博多華丸・大吉のボケ担当、相方は博多大吉。本名、岡崎 光輝(おかざき みつてる)。
よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。

【パンクブーブー・黒瀬】

ツッコミ担当。身長163cm(一時期サバを読んでいたため、福岡吉本時代のプロフィールでは166cmとなっている)
会社で知り合った上荒磯勇と共に脱サラして福岡吉本に所属。福岡吉本8期生となり、年齢は佐藤より一歳年上だが、佐藤(6期生)の2期後輩となる。福岡吉本入社後、上荒磯とコンビ・「バレッタ」を結成。
2001年、佐藤と共にパンクブーブーを結成。当時の福岡事務所長の方針により、一時吉本を辞めたが、東京進出後に再び吉本に入り東京吉本の所属となる。

【バッドボーイズ】

コンビ揃って暴走族の「福岡連合」出身で、福岡第一高等学校の同級生でもある。暴走族を引退してどうしようもない毎日を送っていた佐田が、担任の教師に「将来何がしたいんだ?」と訊かれ、俳優か歌手になりたいと答えると、「お前は歌手ってガラじゃないし、俳優は台詞を覚えるのが難しいから、清人とお笑いやれ」と促され、1997年4月に結成した。2002年に福岡吉本から東京本社に移籍。

【バカリズム】

ナレーター、俳優、脚本家、作詞家としても活動。マセキ芸能社所属。バカリズム升野と自称及び他称される事も多い。
1995年から2005年までは升野と松下敏宏によるお笑いコンビであり、コンビ解消後に升野がコンビ名を単独の芸名として引き継ぐ。なお、俳優として活動する際は本名を使うことが多い。

【ロバート・秋山】

父親はヤクザ映画の斬られ役などで活動した元俳優である。先輩俳優の芸名「城春樹」を名乗り、エンドロールに名前が大きく出ていると偽って息子に見栄を張ったという。
お笑いトリオ・ロバートを組む馬場裕之は幼稚園から高校まで同級生で、仲が良かった。高校卒業後に上京。当初の目標は芸人ではなく、代官山で雑貨店を経営することだったが雑貨店の採用面接を次々と落とされ挫折。アルバイトをしているとき偶然に吉本総合芸能学院(NSC)東京校の広告を見て、馬場を北九州から呼び寄せて一緒に入学した。

【ロバート・馬場】

秋山竜次とは幼稚園から高校までの同級生である。門司北高校卒業。1998年にロバート結成。本人はお笑いに興味がなく、先に上京した秋山に強引に吉本総合芸能学院(NSC)に入れられた。
『はねトび』の演出・プロデューサー近藤真広による評価は、「不協和音を奏でる名バイプレーヤー。人間の顔色をうかがわせたら天下一品。人間関係とかを表現するのがすごく上手で、ロバートのネタの微妙な部分には欠かせないキャラクター」

【原口あきまさ】

高校時代から教師やクラスメイトのものまねをしており、体育祭の演目の間に進行を中断させ、校庭の中央でものまねを披露して笑わせていたというエピソードが残っている。こうした戯れが現在のものまねの土台になっている。また高校時代、当時「鶴屋華丸・亀屋大吉」の芸名で福岡のローカルタレントとして活躍していた博多華丸・大吉の追っかけをしていた。
高校卒業後、東京アナウンス学院に進学。土田晃之は専門学校時代の先輩、はなわは後輩に当たる。

【なかやまきんに君】

1998年、素人出演者として探偵!ナイトスクープに「世界一指を早く回せる男」として出演している。1999年に吉本総合芸能学院(NSC)を卒業し、吉本所属のピン芸人「なかやまきんに君」としてデビューした。芸名の名付け親はFUJIWARAの原西孝幸。
2001年、吉本新喜劇に入団。ヤクザの用心棒役などを担当し、筋肉質な体を使って筋肉アピールをしながら喋ったりするネタで知名度を上げた。2003年1月、第24回ABCお笑い新人グランプリで審査員特別賞を受賞。2006年6月、大阪府泉南郡岬町にある「みさき公園」の「ぷ〜るらんどRiO」イメージキャラクターに起用された。

【桑原和男】

1955年、常磐高等学校卒業後、教師を志望していたが夢路いとし・喜味こいしに師事。初舞台は1956年、「原あち郎・こち郎」の芸名で漫才の舞台に立つ。漫才脚本家秋田實が立ち上げた劇団、宝塚新芸座。漫才を経て、1961年、吉本新喜劇の前身「吉本ヴァラエティ」に入団。一時期、新喜劇の名座長として知られる平参平と「平参平・源五郎」や別の人物と「中之島大学・小学」小学の名で漫才コンビを組み地方興行に出演していたこともある。


≪九州出身の芸人・佐賀県≫


【江頭2:50】

芸能事務所大川興業の所属にして同社の筆頭株主であり、かつ同社の前総裁でもある(現総裁は大川豊)。本名、江頭 秀晴〈えがしら ひではる〉。愛称はエガちゃん、エガ。1983年佐賀県立神埼高等学校卒業後、九州産業大学経済学部経済学科に入学するも1週間で中退、その後、さまざまな職を転々としていたが、芸人を目指して上京。ビートたけしに弟子入りしようと出待ちするなどしていた。

【田代まさし】

母の故郷である佐賀県に生まれるが、出生後まもなくしてキャバレーのチェーン店を経営していた父親がほかの女性のもとへ走ったため両親は離婚、中学時代まで母親との母子家庭だった。

【はなわ】

1976年7月20日、佐賀県出身。生まれは埼玉県春日部市。引越しにより幼少時から小学校2年生まで千葉県我孫子市で育つ。その後また家族と共に引越し、佐賀県佐賀市で過ごす。
小さい頃から夢は「お笑い芸人」だったが、両親の反対を恐れ言い出せず「照明さんになる」と話し、高校卒業後すぐに上京し東京の専門学校に入学。

【ナイツ・塙 宣之】

芸人のはなわ(塙尚輝)は実兄。はなわの上にも兄がいるため宣之は三男(甥は「さんまのからくりTV」に出演していることもある)。
千葉にいた頃はいじめられっ子で、家で1人でテレビを見る等して過ごしていた。この時期に大相撲を熱心に観戦したことで現在も好角家となっている。また、野球観戦も好きで、大の巨人ファン。


≪九州出身の芸人・熊本県≫


【内村光良】

お笑いコンビ「ウッチャンナンチャン」のひとりで、ボケとツッコミはケースバイケース。愛称は「ウッチャン」、「テル」。出川哲朗からはジャッキー・チェンに顔が似ているということから、専門学校生時代から「チェン」と呼ばれている。相方は「ナンチャン」こと南原清隆。血液型はAB型。
お笑いタレントとして活動するかたわら、俳優としても活躍。

【くりぃむしちゅー】

2人は熊本県立済々黌高等学校の入学式当日に出会い、その後共通の趣味であるプロレスをきっかけに意気投合。そろってラグビー部に入部し親交を深める。2人は非常に仲がよく、ラグビー部ではコンビを組みよく部員を笑わせていたという。当時の上田はいわゆる学校の番長的存在で、有田はその上田に付いていくような感じであった。

【ヒロシ】

デビュー時は吉本興業福岡事務所に3年間所属。その後上京し、一時はワタナベエンターテインメントに所属していた。当時は「ベイビーズ」というコンビを組んでいた。コンビ時代はキレ芸だったという。コンビ解散後、東京都三鷹市で3年間ホストをしていた。ホストをしていたときの源氏名は「冴神 剣(さえがみ けん)」。当時の最高月収は8万円ほどだったという。

【レイザーラモンRG】

丸顔で武闘派の芸風から、人呼んで「吉本のボブ・サップ」。また、スベリをものともしない芸風から、ダイナマイト関西では「IRON HEART MAN」のキャッチフレーズが付けられている。

【コロッケ】

ものまねを始めたきっかけとして、本人は姉やピーターの影響を挙げている。コロッケがまだ学生だった頃、テレビのものまね番組などで、ピーターがちあきなおみなどのまねを披露していたことが後のコロッケに大きな影響を与えており、ピーターとは現在も親交が深い。他にコロッケ本人が元々、音楽好きだったこともきっかけの1つである


≪九州出身の芸人・大分県≫


【パンクブーブー・哲夫】

高校生のころ、同級生とお笑いコンビ「laughing-hi(ラフィング・ハイ)」を組み、大分県のローカル番組『スパーク オン ウェイヴ』(テレビ大分)で開催された「ハイスクールお笑い選手権」に出場し、優勝を果たす。


≪九州出身の芸人・宮崎県≫


【そのまんま東】

かつてお笑い芸人であり、ビートたけし率いる芸人集団・たけし軍団の一員でビートたけしの最初の弟子。俳優、作家としての活動歴がある。タレント時代は「そのまんま東」(そのまんま ひがし)や「東英夫」(ひがし ひでお)という芸名で活動していた。

【とろサーモン】

元々はコントを主流としていたが、現在は漫才が主流。久保田の若干やる気なさげのいいかげんなボケに対して、村田のキレ気味のツッコミが特徴的である。
村田が一人で話を進めて行く中、久保田がボケをはさむもツッコまれず話を流されたり、ひたすら無視し続ける「すかし漫才」(「シカト漫才」とも言われている)をM-1グランプリ2004年末から始め、笑わず嫌い王決定戦で披露し注目を集める。


≪九州出身の芸人・鹿児島県≫


【ホンジャマカ・恵】

父は大島紬の工場を経営していた職人であった。母は京都出身。鹿児島大学教育学部附属小学校、鹿児島市立甲南中学校、鹿児島県立甲南高等学校卒業。大学への進学を希望していたが、高校卒業後は3浪し、結局は進学を断念している。その後は東放学園専門学校に事務員として勤務し、社会人生活を送っていた。




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