2020年10月12日
シューティング
総合格闘技ランキング
※私なりの昭和プロレス回顧録です。お付き合いくださいm(_ _)m
'83年に新日本プロレスを辞めた佐山選手は、ほぼ同時期に新日本を辞めた山崎一夫選手をインストラクターに迎え、世田谷にタイガージムをオープンします。
ゴリラビルという愛称の建物にジムがありました。
というか、今もあるはずです。
その後は魔娑斗選手がシルバーウルフジムを入居させております。
当時は新日本の選手の大量離脱が続き、猪木さんの指示でUWFに移籍した前田日明選手や更に続いて脱退した藤原喜明選手達と佐山さんが合流し’84年にUWF無限大記念日の開催となりました。
その時はザ・タイガーと名乗りレガースを着けていたものの、格闘技路線とは言いにくいプロレス寄りな試合をしていました。
これを機に佐山選手と山崎選手はUWFに本格加入、いわゆるシューティング路線の始まりですな。
佐山選手はスーパータイガーを名乗り、徐々にマスクを撤廃して素顔で闘うようになります。
佐山選手の提案の主なものは以下の通り。
・レガースを着けない状態でキック禁止
・試合間隔は2か月に1回程度
・リーグ戦の戦績でAクラス、Bクラスに分ける
佐山選手が提案した内容に他の選手が不満を漏らし、結果的に佐山選手を追い出す形となったUWFは1年半程で経営破綻になり新日本にUターン。
ロープに飛ばない&キックと関節技重視のスタイルで、拒否反応を示す新日本の選手も多かったとか。
水と油、いうならば醤油とサラダ油を混ぜてドレッシングを作ったようなものだ。
しかし、そのおかげでアンドレvs前田、ニールセンvs前田、越中vs高田等の伝説の試合が生まれたわけだから
ヨシとすべきなのかも。ライガーvs鈴木みのるもこの流れですな。
しかし、これだけは言っておきたい。
ディック・マードックvs前田戦でロープから跳ね返ってきた前田選手を見た時は悲しさを覚えました。
ガチで仲の悪かった新日とUWFですが、熊本の旅館で設けられた親睦会と称する宴会にて、新日本とUWFの旅館を丸ごと破壊するに至った事件の真相は船木選手のYOUTUBEでご覧下さい。
前田選手を始めとするUWFについては後日書きます。
佐山選手に話を戻すと、UWFを辞めた佐山選手は本格的にアマチュア格闘技路線を確立します。
シューティングを立ち上げ、初代シューターと呼ばれる中井祐樹先生や川口健次選手、田中健一選手を輩出します。
YOUTUBEでも有名なシゴキ合宿もこの頃です。
「撮るんじゃねぇよゴルァ!!!!!」の動画が有名なやつです。
これはアドレナリンを出させるための佐山先生の方法で、100%以上の力を出させることを目的としているとか。
演技でも怖えーわ (˵ ̄͒ བ ̄͒˵)
この頃は寝技での打撃(いわゆるマウントでのパンチ等)を禁止しており、本格的に解除になったのは’94年のバーリトゥード・ジャパンオープンの辺りからです。(記憶違いならごめんなさい)
この大会にヒクソン・グレイシーを呼び、リングスの山本宜久選手はチョークで失神、中井祐樹選手はジェラルド・ゴルドーに片目を失明させられます。
日本がブラジリアン柔術に衝撃を受けた日ですな。
その後、朝日昇、エンセン井上、佐藤ルミナ、桜井速人が頭角を現し、修斗全盛期に突入します。
リングス、UWFインター、パンクラス等々のU系団体は、結局のところ佐山選手の提案した内容やルールをほぼ受け継いだところを見ると、佐山先生が気の毒でならない。
UFCジャパンオープンで桜庭選手が大活躍するのもこの頃です。
桜庭選手があんなに金網に適応するとは思いませんでした。
その後はPRIDE、PRIDE武士道、DREAM、HERO’Sあたりですかねえ。
おっと、コロシアム2000もありました。
五味選手、川尻選手もPRIDE武士道での大飛躍でした。
書いてて楽しくなってきました。
次回に続きます。
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