然も何と言っても、築城の名人で加藤清正、黒田官兵衛と共に「三大築城名人」の一人でもある。
高虎によって築かれた今治城は、船で城内への出入りが可能で、外堀から海へ出る事もできた海城として有名。
高松城、中津城と共に「日本三大水城」と言われている。
今も内堀には、瀬戸内海の海水が流れ込んでおり、鯛や鮃を始め海水魚が泳いでいる。
ここで高虎の人生を振り返って見ると、最初は浅井長政に仕え、信長によって浅井家が滅ぼされた後は秀吉の弟の秀長に仕える。
秀長の死後はその甥に当たる秀保に仕え、秀保も早世してしまうが、才能を認めた秀吉に重宝される。
伊予では先ず宇和島7万石の大名となり、秀吉の死後は徳川家康と親交を深め、関ケ原の戦いでは徳川側に付き、軍功が認められて12万石加増され、20万石の今治城主となる。
その後は、外様大名でありながら徳川家康に重用され江戸城の改築にも功績を挙げた事、又家康の厚い信頼から、伊賀一国と北伊勢の27万石に加増移封され、最後は32万石の城主となる。
然も驚いた事に、日本中世史を専門とする東京大史料編纂所の本郷和人教授によると、上野東照宮に徳川家康を補佐する神として、天海僧正と共に祭られているのが藤堂高虎である。
危篤の家康が自分の魂が末永く鎮まる所を造って欲しいと高虎と天海に遺言して創建されたと言うのが上野東照宮であり、この事からも家康から絶大な信頼を得ていた事が分かる。
更には高虎のお墓は何と上野動物園内にあるとの事で、意外な事実に又驚きである。
高虎はかなりの世渡り上手の人間とも言えるが、アイデアに満ちた築城を手掛け、又、物作りの精神の高さも愛すべき所である。
多田 修二・千葉工業大学建築学科教授・構造家
愛媛新聞 四季録から
戦国時代に出世するのは難しい様だ。
大名になれた人は素晴らしい。
城は昔は川から海へと繋がっていた様だ。
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