河野氏は、建武年間(1334〜38年)に伊佐爾波岡(現在の道後公園)に湯築城を築き、天正13(1585)年に豊臣秀吉の四国征伐で小早川隆景に降伏し滅亡するまで、ここを拠点とした。
「温泉館」を置いて温泉を監督したが、実際の経営は河野氏と関係の深かった石手寺が行った様である。
中世の道後の繫栄と文化の発展を支えたと言える。
時宗の開祖・一遍(1239〜89年)は河野氏の出身で、宝厳寺の一角で生まれたと伝えられる。
尚、古代の日本は、五畿七道の広域行政区画(伊予国は南海道に属した)に分けられ、夫々の国府を中心に、都(畿内)に近い方を「道前」、遠い方を「道後」と称した。
江戸時代に入ると、道後温泉は松山藩によって経営される。
初代藩主・松平定行は施設の整備に着手し、「一之湯」(武士・僧侶用)、「二之湯」(女性用)、「三之湯」(一般男性用)の三つが設けられ、更に「十五銭湯」(武士の妻女用)、「十銭湯・養生湯」(旅人・身分の低い者用)を置き、使用後の流れ湯を用いる「牛馬湯」(家畜用)も設けられた。
この配置は明治まで継続され、温泉施設の基本形はここで成立したと言える。
県美術館学芸課長・長井 健
愛媛新聞 道後温泉物語から
伊予国の場合、元々「道後」は現在の松山平野一帯を指す広域的呼称であった様らしい。
湯築城とその周辺が中心となり、都市的空間が形成された事から、次第に道後は温泉湧出地周辺を指す地名として用いられる様になったと考えられるらしい。
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