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2023年07月24日

ファースト??


 これは私がまだ小学生だった頃、父が私に持った過度な評価と、過ぎた期待です。

私がまだ30代だった頃だと思います。いつの間にか子供たちの憧れはサッカーのJリーグになりました。だけど私がまだ小学生の頃、男の子の憧れはプロ野球選手でした。
当時の花形は読売巨人軍の王、長嶋。私は某球団のファンでしたから、某キャッチャーのファンでしたが。

あの当時、某、名キャッチャーといえば2名、ないしは3名出てくると思います。一人は監督でキャッチャー、ホームラン王にもなりました。一人はホームラン王、もう一人は野球界のエリートっていうイメージがあります。
私は前者2名のファンでした。

 今はどうなのでしょう?私が小学生のとき、男の子はみなグローブを持っていた気がします。私も二つ持っていたんです。でも一つはクセの付け方が上手くいかず、実際はいつも同じものを使っていました。

ただ、
地元の少年野球チームとか入ってはいませんでした。
なぜか?それを書くと一話分になりそうなので、割愛します。

 では何をしていたのかというと、放課後に友人とキャッチボール。
または3人になると一人がバットを持ち、3人野球でした。当時私の家は細い通りから曲がった袋小路にあって、その袋小路で3人野球をしていたんです。

それが大人になって再び訪れてみると、狭い。
よくこんなところで3人野球をしていたものだと思うのですが、3人野球のときはプラバットと軟式テニスのボールを使っていたと思います。とにかく、キャッチボール程度がほとんどでした。

また当時は、野球全盛時代でした。毎晩、プロ野球がテレビ中継され、どこの家でも観ることができました。ただ、野球中継は午後9時で終わり。
そのあとはラジオで中継の続きを聞いていたんです。それくらい、夜の娯楽はプロ野球でした。

サッカーはJリーグなんて、まだありません。サッカーをしたのは、東京で雪が積もったときだけでした。
雪が降って積もると、東京の小学校は1・2時間目が自由時間になりました。
すると校庭で遊ぶんです。いつも校庭に置いてあるサッカーゴールが、そのときだけ生徒が使うものになったんですね。

私の小学校時代、少年野球チームを聞いたことはありましたが、少年サッカーチームというのは聞いたことがありませんでした。
とにかく憧れのプロ選手は野球という時代でした。

するとプロの使う硬球、、、硬式ボールが欲しくなります。羊の皮を巻いて、赤い糸で縫い上げたボールこそが、本物の野球ボールと思えてきたんです。
小学生でも買うことができました。1977年当時、1球1,000円くらいだったと思います。

 それをいつの間にか、私の父は見ていたんです。
ある日、父に言われました。
「来週の日曜日、試合に出てくれないか?」

へ?

聞くと、父は会社の野球チームの所属しており、日曜日に試合があるけど、自分のチームに欠員が出たとのこと。そのポジションがファーストだというんです。

そして父は仲間に聞かれたそうです。
「小学生で大丈夫か?」
と。

私の父、どうも私を買いかぶるところがありました。父が仲間に返したのは、
「何言ってんだ、息子は硬球やっているんだ!」

私は、
「待て〜い!」
と思いましたが、もうそこまで話が決まっているなら、逃げようのないことだと思ってしまいました。

 ファーストですよ。
ゴロを打ったら、ショートバウンドが飛んできますよ。それも大人の球速で。
いえ、手加減して緩いボールを投げてくれるかも知れません。でもわかりません。

 終わってみれば、私が試合に出ることはありませんでした。
だけど、私が持ってみたいと買った硬式ボールを見ただけで、

「何言ってんだ、息子は硬球やっているんだ!」

と、盛る父なんだと意識したのはそのときでした。









posted by CSおじさん at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想

2023年07月16日

代用員


 Youtubeを見ていたら、関連動画に
・【海外の反応】「由緒あるパレードに日本からは高校生だなんて…w」別格の演奏と共に突如現れたオレンジ色の日本人たち右矢印1︎5秒後、退屈そうなアメリカ人の態度が激変!

というのが出てきました。
何となく見ることにしたんです。

マーチングバンドです。
見ているうち、昔のことを思い出しました。

 私は中学校の3年間、吹奏楽部に入っていました。
小学校の卒業と同時に北海道へ引っ越してきて、周りには知人が誰もいない中、担任の先生から
「お前は吹奏楽部だから。」
と告げられました。

冗談じゃない。
私は小学校時代、音楽の成績は5段階の評価中“2”でしたから。

しかし担任は吹奏楽部の顧問。そして私が高校へ進学して間もなく他界しました。
さらに、大人になってわかったことは、顧問の先生は自ら死期が近づいていることに気付いていたのか、過去にコンクールで全国大会へ行った曲目を選曲していたんです。

「もう一度、、」
に賭けていたのでしょう。

 それにしても厳しい吹奏楽部でした。体育会系の吹奏楽部でした。(笑)
1年生のときは毎日、先輩からビンタを喰らっていました。よく続いたと思います。

あと、何か失敗すると、
「ハイ30度!」
って、仰向けに寝て腹筋の足上げをさせられました。吹奏楽だから、腹筋を鍛える必要があります。
たぶん、私はいまでも30度の足上げは5分以上、できると思います。

 それに休みがありませんでした。
あの頃はまだ週休二日制ではありません。土曜日は半ドンでした。土曜日は親に弁当を作ってもらい、午後から夕方6時まで練習。日曜日も朝9時に集まって夕方まで練習。夏・冬・春休みもそうでした。

そんな部活でしたから、練習だって基礎からみっちりやります。初めは楽器なんて触らせてももらえません。呼吸法の練習から始まりました。ティッシュペーパーを2cm幅くらいにちぎって、それを指でぶら下げ、だらんと下がらないように、息を吹き続ける練習。頭がクラクラしてきます。脳が酸素過多状態ですね。

次はバジングといって、楽器を使わず、上唇と下唇とを震わせて、「ブー」っと音を出す練習。その後にやっと、楽器に触ることができました。

当時住んでいたのは田舎町です。その町では何かイベントがあると我々、吹奏楽部が駆り出されていました。マーチングバンドです。

たとえばお祭りとか、中体連の壮行会とかあると、町中を関係者や生徒たちがパレードするんです。その先頭を我々吹奏楽部が先導したんです。

だいたい6月くらいから8月まで、ときどき行われていたと思います。

 ある日、命令が下りました。
吹奏楽部の行進に参加しなさいと。

(ちょ、ちょっと待て〜い!)

まだ6月だったと思います。
呼吸法という基礎の基礎から始めるんです。6月といえばまだ楽器で音出しだって満足にできない頃です。それに楽譜だって渡されてません。

「演奏している振りをすればいい。」
と。

吹奏楽部の行進は4列で組みます。しかし私のパートであるトランペットは、先輩が3人しかいなかったのです。
仕方なく参加するしかありませんでした。
でも、吹いていないのがバレるんじゃないかって、気が気ではなかったです。

当時の写真がありますが、とっても暗い顔をして写っています。







posted by CSおじさん at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想

2023年06月27日

都会っ子


 私、都会っ子だったんです。
ただし、そのギャップがひどい。

相変わらずコールセンターの仕事は暇との戦いです。
そしたらまたも、ただ黙ってじっとしているうち、いろいろなことを思い出します。

私が小学校5・6年生の頃、どこへでも行けたんですね。あの頃は東京の江戸川区に住んでいました。

思い出したのは、小学校6年生のとき、夏にスーパーカーフェアが東京晴海で開催されました。以前に住んでいた宇都宮市の友人もスーパーカーフェアを見たいといって、東京に呼んだんです。

そして二人で見に行きました。
江戸川区から晴海まで、どのようにして行ったのか、もう憶えていません。
きっと国電(現JR)とバスを使ったんだと思います。でも何ら苦労もなく行けたのを憶えています。

もう一つ、私は東京で江東区から江戸川区へ転居しました。
江東区にいたとき、同じクラスの女子にひたすら恋していました。

いま思うと何を考えたんだか。
バラの花を持って、告りに行ったんです。(笑)

あのときも江戸川区から江東区へバスに乗っていったんです。
都営バスは定額制です。あのとき大人70円、子供40円でした。

インターネットもスマホもない時代、どこの停留所から乗って、どこで降りれば良いのか。どのように調べたのか憶えていないんです。
だけど、簡単に行けたのは憶えています。

たぶん路線図があって、時刻表の時間は関係なしに、ただ行けただけなんだと思います。
でも今、ネットもスマホもなかったら、行けるのかな?って思います。

 小学校6年生の夏休み、北海道で親戚一同が会しました。
あのとき、叔母たちの会話で、
「私がひとりで東京から札幌まで来ることができるのか?」
って話になったんです。

叔母たちは
「無理無理!」
と言いました。

しかし私の母はそれをジェスチャー付きで否定して
「いや、来れるの!」
って言ったんです。

実際、来れました。
来れたと思う、、じゃなくて来れました。

私は小学生のときは「鉄ちゃん」で、時刻表を読むことは当たり前。
しかし時刻表には駅の到・発着時間しか書いてありません。

撮り鉄として走っている電車を撮影するには、止まっている時刻表では役に立たないことを知っていたから、ダイヤ表を持って撮影に行っていました。

だから小学生でも東京から北海道の親せき宅まで来ることは大したことではないと思っていました。

しかし、、

中学校へ入学すると同時に北海道の田舎町。それも人口が1万人ちょっとくらいの町に引っ越したんです。
その町には明らかなローカル線しかありませんでした。だから撮り鉄も終わり。

鉄道にせよ、なんにせよ、あるとないとでは大違いです。そういったインフラがなければ、極端な話、使う脳も限られてしまうと思います。

いま、札幌市の高層ビルで仕事しています。
今月で業務が終了するから、出勤するのはあと二日。

22階の窓から札幌テレビ塔が見えます。
それも視線とほぼ同じ高さで見えるんです。

東京から北海道の田舎へ引っ越してきた中学時代。
3年生の修学旅行で自由時間のとき、テレビ塔に昇りました。

あのとき、恥ずかしいかな、札幌市が都会に感じてなりませんでした。
でもね、その前に私、都会っ子だったんですよ。









posted by CSおじさん at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想

2023年06月23日

原始的


 私、原始的だな〜って思うものが二つあるんです。
ひとつは、ヘリコプター。

昔、母に聞いた話だと当時はまだヘリコプターはなく、オートジャイロだったといいます。
それであれば、ヘリコプターは比較的まだ新しい乗り物なんでしょうけど、それでも機械的にローターを回転させ風を切って揚力を発生させて浮上するのが古い!って感じてしまうんです。

空気がなければ浮上できません。
今の科学であれば、もっと別な方法で浮上できないかと思うんですけどまだ無理なんでしょうか。
それともアメリカの空軍あたりはエリア51で、すでに円盤状の浮遊体を開発しているのでしょうか。

 もう一つは自動車のワイパーです。
原理は単純で「ぬぐうだけ」だからです。
フロントウィンドウにコーティングして撥水するものもあるようですね。前に使ったことありますが、定期的に塗布しなければならないですね。

超音波などで水をはじくことはできそうですが、降雪には対応できないでしょう。昔SFアニメか何かで見たような「バリアー」なんてものはできないんでしょうか。

ワイパーは特に進化して欲しいです。それは過去に2度、ワイパーに絡むコワい体験をしたからです。

 一つは完全に私が悪いです。
車の屋根に雪が15cmほど積もったままの状態で走りだしました。
エンジンが温まり車内温も上がってきたところで信号待ち。ブレーキを踏むと、
「ザー!」
って、屋根から雪が落ちてきました。積雪も15cmくらいになると、落ちてきたものはワイパーでは取り切れません。雪質によってはワイパー自体、雪の重さで動かなくなります。

面倒くさくても、雪が積もったら車の屋根の雪は下ろさなくてはいけないですね。

 もう一つはワイパーの空回りです。
ワイパーの長さって結構長いですよね。40cmとか。
あれを車体側では直径1cmにも満たないくらいのシャフトで回転、駆動しています。

一度ありました。
ワイパーを駆動するシャフトが、空回りしてワイパーが動かなくなりました。
恐怖でした。突然だったので。

40cmも30cmもあるワイパーを駆動させるシャフトです。相当なトルクで回転させているでしょう。
そのため、シャフトもワイパーを受ける側にもギザギザの溝が切ってあり、空転しづらいようにできています。しかし車が古かったため、溝が欠けてシャフトが空転してしまいました。

運転席に座っている私からはどうしようもありません。前も見えません。
とりあえず車を止めて対処するしかありませんでした。
部品交換で直りましたが、もう二度と体験したくないです。






posted by CSおじさん at 17:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想

2023年06月16日

新しいことば


 出た!
出た〜〜〜!
新しいことば。
「ぶつかられそうになった。」

 これはWindows10で、タスクバーの右下に出てくる、現在の天気や注目記事などをクリックするとMicrosoft Edgeで開く、Microsoft Start(でいいのかな?)に掲載されていた記事。
『「歩道をまさか車が来るとは…」 ドラレコが捉えた“危険な運転”』中に書かれていたことばです。

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E6%AD%A9%E9%81%93%E3%82%92%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%8B%E8%BB%8A%E3%81%8C%E6%9D%A5%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%AF-%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%81%8C%E6%8D%89%E3%81%88%E3%81%9F-%E5%8D%B1%E9%99%BA%E3%81%AA%E9%81%8B%E8%BB%A2-%E3%81%82%E3%82%8F%E3%82%84%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E6%95%85-%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C/ar-AA1cwqPM?ocid=winp1taskbar&cvid=1267ef6b363d42d7921a348e3bab934c&ei=19#image=1

記事の概要は、軽自動車が右側の歩道から出てきてぶつかるところだった。
ということなんですが、ぶつかられそうになったとは、、、

相手車が自車に「ぶつかる」「ぶつからない」だから、自分からするとぶつかられそうになった。
ってことなんでしょうけど、日本語だとそうは言いません。
ぶつけられそうになった。
です。

なーんか、日本語の「てにをは」を無視したようなことば。
投稿主はひょっとして日本人ではなかったのでのでしょうか?

 それをいうと、もうひとつあるんです。
これはもちろんそうですが、初めて聞いた変な日本語。
それは

「〇〇して下さりました。」
です。
これ、
「〇〇して下さいました。」
が正解では?

通じるんですけど、なんか引っかかります。

ことばは時代とともに移り変わっていくものでしょうが、私が保守的な考えを持っているからでしょうか。なんだか寂しい気がしてしまいます。






posted by CSおじさん at 11:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想

2023年06月12日


 私がまだ関東に住んでいた頃、小学生だったこともあり、また時代もそうだったのでしょう。
BBQ(バーベキュー)という習慣は、まだありませんでした。

さらに中学校へ進学すると同時に、北海道へ引っ越してくると、またBBQという文化はなかったんです。
文化がないといえば、それは違いますね。呼び名が違いました。
北海道ではジンギスカンでした。

「BBQをしよう」
とは言わず、
「ジンギスカンをしよう。」
だったのです。

それだからか未だにBBQという呼び方に、私は違和感を感じます。
BBQと聞いてイメージするのはできあがった料理です。
焼きあがった肉。それも西洋のイメージがあります。

しかもバーベキューは英語だから西洋、、イコール牛肉という感覚がたっぷりです。

なんでそんなイメージができあがったのかというと、たぶんカルビーのポテトチップス、「バーベキュー味」があったからです。

あれが発売されたのは私がまだ小学生のときでした。
4・5年生でしたでしょうか。
友人と食べ歩きした思い出があります。

カルビーのポテトチップス、バーベキュー味に、屋外で肉を焼くというイメージは沸きません。
もう出来上がった食品のイメージしか感じられないのです。

 北海道ではバーベキューといえばジンギスカンが主流ですから、ジンギスカンをしようという。
BBQをしようとは言いません。

でもこれ、単にたまたま私が北海道へ流れ着いた田舎町での呼び方だったのでしょうか。
「ジンギスカンをやろう!」
という。

さらにジンギスカンは「肉」だから、特に親しいあいだうちでは
「肉やるべ!」
といえば即、通じていたんです。

なのに、いま札幌に住んでいると、
「肉やるべ!」
とは言いません。
「ジンギスカン!」
とも言いません。

BBQなんです。

 おい、いつの間にBBQになったんだい??
私の中では今だにジンギスカンなんです。もっと言えば、さらに慣れ親しんでいた「肉」なんです。

札幌に来る前、田舎町で塗装屋の先輩と親しくしていました。
その先輩が家を新築したんです。塗装屋であったため、建築関係ということから家の作りはとても凝っていました。1階はコンクリートの車庫兼、倉庫。

車庫には自家用車と仕事のトラックを止め、倉庫には足場や建築資材を置いていました。
さらに、焼き肉室も作っていたんです。畳6畳くらいのスペースに、焼き台を置く場所、焼き台の上には大きな換気ダクト。

唯一の残念といえばトイレがなかったことです。トイレは野外でした。

冬は雪が降り、ときには吹雪になることもある北海道で、いつでも
「肉やるべ!」
と先輩の家は盛り上がっていました。





posted by CSおじさん at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想

2023年06月05日

屋台への思い


 昨夜書いた広い道というのは一昨年、訪れてみると、それほど広い道ではありませんでした。
まだ小学生だった私にとって体が小さかったことから、もっと広い道に感じたのでしょう。

あの江東区にいた頃、まだ昔の、それこそ昭和の時代を感じることがいろいろありました。
まず高い建物が少ない。だから住んでいた団地の8階から隣の錦糸町駅が見えたんです。同じく8階から道路を工事しているのが夜間でも見えました。

当時は何の工事だかわかりませんでしたが、地下鉄都営新宿線を掘っていたんです。
そこは後の、西大島駅になっています。

また当時、昭和50年頃でした。1975年です。
新しくできたのがカルビーのポテトチップスでした。話題になったのがテレビCMで、藤谷美和子さんが出ていました。

当時は話し方にとても特徴のある人だったので、
「あの人は誰?」
なんて話題になりました。

CMのセリフも異質で、
「100円でポテトチップスは買えますがぁ、ポテトチップスで100円は買えません。」
というもの。

そのポテトチップスを食べながら、友人と駅まで歩いて行ったものです。
当時のお小遣いはいくらだったのか。

1975年で100円のおやつでした。そしてJRになる前、国鉄の国電で隣の錦糸町駅まで遊びに行きました。
あの当時、隣の駅まで電車で30円だったんです。子供は半額の10円。1円台は切り捨てです。
だから150円の小遣いでも遊ぶことができたんですね。

 もっと遡ると、森永チョコフレークは私が小学校へ入学する頃に登場したと思います。1972年です。
その発売当時、60円でした。私はずいぶん高価なお菓子だと思いました。
何しろ、東京都でありながら、高い建物が少なかった以上に、周囲が田んぼだらけでした。特に葛飾区は。

さて、昨夜書いた都電跡の広い道路。小学校の放課後から遊びに行き、帰ってくるまで両脇に屋台がびっしりと並んでしました。夜間に営業を始めるまで、そこに置いていたのでしょう。

あの頃、人が引いて歩く屋台はいくつかありました。
私がまだ鶏肉を食べられなかった頃、鶏皮の串は好物だったんです。

放課後に団地の前まで帰ると、そこには屋台で焼き鳥を売っていました。
ひと串10円。よく買って食べました。

広い道路の両側に置いてあった屋台は、さまざまな食品があったのでしょう。
ですが止めてある屋台はしっかりカバーがしてあったので、中を見ることはできませんでした。

あの屋台が並んでいた風景は、小さいながらにノスタルジーを感じていました。
いえ、ノスタルジーというのは間違っていますね。リアルタイムだったのですから。
言い換えると、哀愁を感じていたんです。

その後、江戸川区へ引っ越して屋台のプラモデルを買いました。
しかしプラモデルはせっかく作っても、いつか捨てるものです。

そして中学生になってから、たまたま売っているのを見つけて、懐かしいと買いました。
やがて社会人になり、再び懐かしいと買いました。

さらに札幌へ来てから、小樽へ遊びに行ったとき、これまた売っているのを見つけ、買いました。

そして今、いつ買ったのか憶えていませんが、ネットで見つけ、買ったものが未開封で置いてあります。
5回も買っちゃったんですね。

IMG_9936s.png
IMG_9937s.png



posted by CSおじさん at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想

屋台


 私は札幌市へ引っ越してくるまで23年間、保険の代理店をしていました。
コールセンターには以前に保険の代理店、または保険の営業をしていたという人が、ポチポチいるんです。それだけ保険にかかわったことのある人が多いということなんですね。

 いまコールセンターで仕事をするとき、デスクにはスクリプト(台本)と、お客様番号を書き込む用紙、それからもう1枚の紙を置いています。

そのもう1枚の紙とは、お客様からある要望があったとき、注意喚起というか、それには時間がかかりますよ。あらかじめ言っておきますよという、説明を書いたものなんです。
要望があれば、それを読みます。

その紙を見ていると、昔の保険申込書を思い出します。
いま保険に入るとき、多くはインターネットで加入することができるから、申込用紙が必要なくなりました。

私が代理店をやめる頃にはすでにコンピュータで出力する用紙に切り替わっていました。
しかしその昔は、手で書き込む申込用紙というのが普通だったんですね。

その申込用紙は3枚複写になっていて、いちばん上の1枚目が申込書で印鑑を押す場所がありました。2枚目が代理店控、3枚目がお客様控でした。

で、その3枚複写の申込書が5部閉じられて1冊になっていました。
仕事中、説明を書いたもう1枚の用紙を見ていると、どうもあの保険申込書の表紙を思い出すんです。

「確かこんなんだったなぁ、、」
A4横長で、こんな色で説明が書かれていた、、
そう思うのですが、今では確かめようがありません。

 普段から当たり前に見ているものは、わざわざ写真に撮っておこうとは思いません。
当たり前に見ていたものとは、手書きの保険申込書の表紙です。

ましてスマホなんでない時代。デジカメだってない時代だったから、もし写真にするならフィルムを買って、撮影して、24枚撮りなら2,000円くらい払って現像して3〜5日も出来上がりを待って、、、
そんなこと考えもしませんでした。

 だけどこの「当たり前」には後に、実に懐かしいこともあると思うんです。
昭和49年(1974年)のことでした。私は宇都宮市から東京の江東区へ転居しました。親の仕事都合です。

私の小さな頃の記憶では、「よく歩いたな。」
これに尽きます。

最寄り駅は総武線、亀戸駅でした。
なぜだか隣駅の錦糸町が好きでした。錦糸町の駅ビル、そこはデパートになっていて、好きだった鉄道模型を見に行くのが楽しみでした。

ひとりで行くこともあれば、友人と2〜3名で行くこともあり、最寄りの亀戸駅まで一直線の広い道を歩いて行ったんです。

その広い道は両側が車の走れる道になっていて、真ん中は何かの跡地でした。
その跡地が都電(路面電車)の線路跡というのだけはわかっていたんです。

いま調べるとわかることですが、都電砂町線の跡地だったようです。
1972年に廃線だったようですから、私が見たのは2年後だったんですね。きっとレールが撤去されて間もなくのことでしょう。

 憶えているのは、その広い道の両側に屋台がびっしりと並んでいたこと。
私たちが歩いたのは放課後の時間。だから屋台が営業を始める前の時間だったんです。
車でいうと、営業前の駐車状態です。

 不思議です。
あの当時、あのときの出来事でありながら、私は何か懐かしい気がして見ていました。

それはまだ私が小さいながらに、この風景はやがてなくなるものだというのを感じていたからなのかも知れません。

あの当時、広い道の両側には鉄工所が並んでいたと思います。
鉄を旋盤で切り出した鉄が、辺りに散らばっていました。

※いま思うと、あの削り出された鉄が今の“スチールだわし”なんです。
スチールだわしは、鉄工所の副産物だったんですね。

そんな道を往来していたのが、私が江東区に住んでいた頃の思い出です。

 一昨年の11月。ちょっとした用事があり、私は神奈川県まで行ってきました。
用事を済ませたあと、時間を取って昔住んでいた土地巡りをしました。
江東区、葛飾区、江戸川区。

ネットで予約したホテル。
亀戸駅近くだということしかわかりませんでした。

着いてみると夜だったので、そのときはわからなかったんです。
しかし翌日、改めて見てみるとそのホテルはあの、一直線の道沿いにあることがわかりました。

おお!!

IMG_8430s.jpg

両側は車道になっています。
でもかつて都電の走っていた跡地は公園になっていたんですね。

何も分からずネットで予約したホテル、それがいちばん思い入れのある場所だったとは!
日頃からの願いは叶うといいますが、そうだったのか、どうだったのか。





posted by CSおじさん at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想

2023年06月03日

玉子


 相変わらず北海道内では玉子が手に入らない状態が続いています。
スーパーに行っても、いつもなら玉子が山積みされているコーナーはガランと何も置いてありません。

その昔、私がまだ子供の頃、私が贅沢品だと感じたモノたちがいくつかあります。
それは
・ティッシュペーパー
・バナナ
・玉子
でした。

ティッシュペーパーなんて、今ではスーパーの売り出しで目玉商品になることも多々あります。
ですが私にとってティッシュペーパーは発売された当時の高いものだという印象がいまだに消えることがなく、まだ子育てをしていた当時、子供たちがティッシュペーパーを箱からシュッシュシュと何の躊躇もなく引っ張り出しているさまを見ると、
「もったいない!」
そう感じました。

昔の、特にティッシュペーパーが発売された頃の高級感というのは、今でもなかなかぬぐえないものなんですね。

バナナ。
「バナナはおやつになるんですか?」
この言葉に反応する世代って、今ではどれだけいるのでしょう?
これは、私がまだ小学生のとき、遠足で“おやつの金額制限”というのがあった世相です。

遠足に持っていけるのはお弁当とおやつ。
弁当に金額制限はありませんでしたが、おやつには300円までとか、金額の上限が定められていたんです。

私は幼いながらに、家庭間の貧富の差を緩和させるための施策なんだと感じていました。
バナナを持ってこれるのは、まだ裕福な家庭。おやつの時間にその中身で貧富の差が生じることで生徒たちに不公平感を感じさせないためだと思っていました。

玉子だって当時はまだ贅沢品だったことを何となくですが憶えています。
それが今ではスーパーだと10個入りで200円を切るくらいで売っています。ひとつ20円弱です。
それでたんぱく質も摂取できるし、様々な料理方法がある。良い食材です。

それが今、北海道では養鶏場のニワトリのうち、8割が鳥インフルエンザの疑いで殺処分されてしまったことで、玉子が手に入らない状態が続いています。もう2週間くらいになったでしょうか。

コンビニでは加工卵はまだ置いてあります。しかし料理には使えません。
なのに料理のレシピ動画では相変わらず玉子が当たり前に出てくるから、不公平感もあります。

理由こそ違いますが、私にとっては昔も今も、玉子が贅沢品というイメージがぬぐえません。





posted by CSおじさん at 01:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想

2023年06月01日

好きなもの


 好きなものはたくさんあるんです。
食べ物なら寿司(マグロ)、車ならムスタングマッハ1、酒ならジャックダニエル。
好きな言葉は「身体能力」「ポテンシャル」などですかね。
どちらも私には縁のない言葉です。(泣)

ちょっと変わったもので、好きな単位というのがあります。
私が好きな単位は「馬力」です。
どうしてかというと、盛りだくさんだから。

 単位というと、私がまず頭に浮かぶのは「メートル」です。
1メートルは、赤道からパリを通って北極までの距離を1,000万で割った長さと定義されているようです。または子午線の長さの4,000万分の1と書いているものもあります。

これは言うまでもなく、長さを表す単位ですね。
他にも重さを表す「グラム」とか、時間を表す「秒」などありますね。
でも、これら長さや重さや時間しか表しません。

たとえば、
「この紐の長さは?」
「1メートル!」
ちゃんちゃん!
て、それだけです。

1馬力の定義って、
「1秒間につき75キログラムの物を1メートル動かす仕事量」
とあります。
ほら、単位の中に時間も重さも長さもあるんです。

仮に、直径1メートル、深さ1メートルの穴を掘るだけなら、大人も子供もできるでしょう。
子供だって、丸一日かけたらその穴を掘ることはできるかも知れません。いや、できるんじゃないかな?
でも、明らかに体格の良い人が、それを10分で掘ってしまったら、
「あの人は馬力がある。」
って言い方をしますよね。

そして私が「馬力」で頭に浮かぶのは自動車のエンジンです。
エンジンの力強さを表す単位なら「トルク」があります。

イメージとして、腕相撲を思い出します。
でも腕相撲には、あまり動きのイメージがありません。
その力強さを高回転でも発生できるから、高出力、高馬力ですね。




posted by CSおじさん at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想
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コールセンターに勤務することになって13年目になりました。 日頃考えていることを綴ってまいります。
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