2023年06月05日
屋台
私は札幌市へ引っ越してくるまで23年間、保険の代理店をしていました。
コールセンターには以前に保険の代理店、または保険の営業をしていたという人が、ポチポチいるんです。それだけ保険にかかわったことのある人が多いということなんですね。
いまコールセンターで仕事をするとき、デスクにはスクリプト(台本)と、お客様番号を書き込む用紙、それからもう1枚の紙を置いています。
そのもう1枚の紙とは、お客様からある要望があったとき、注意喚起というか、それには時間がかかりますよ。あらかじめ言っておきますよという、説明を書いたものなんです。
要望があれば、それを読みます。
その紙を見ていると、昔の保険申込書を思い出します。
いま保険に入るとき、多くはインターネットで加入することができるから、申込用紙が必要なくなりました。
私が代理店をやめる頃にはすでにコンピュータで出力する用紙に切り替わっていました。
しかしその昔は、手で書き込む申込用紙というのが普通だったんですね。
その申込用紙は3枚複写になっていて、いちばん上の1枚目が申込書で印鑑を押す場所がありました。2枚目が代理店控、3枚目がお客様控でした。
で、その3枚複写の申込書が5部閉じられて1冊になっていました。
仕事中、説明を書いたもう1枚の用紙を見ていると、どうもあの保険申込書の表紙を思い出すんです。
「確かこんなんだったなぁ、、」
A4横長で、こんな色で説明が書かれていた、、
そう思うのですが、今では確かめようがありません。
普段から当たり前に見ているものは、わざわざ写真に撮っておこうとは思いません。
当たり前に見ていたものとは、手書きの保険申込書の表紙です。
ましてスマホなんでない時代。デジカメだってない時代だったから、もし写真にするならフィルムを買って、撮影して、24枚撮りなら2,000円くらい払って現像して3〜5日も出来上がりを待って、、、
そんなこと考えもしませんでした。
だけどこの「当たり前」には後に、実に懐かしいこともあると思うんです。
昭和49年(1974年)のことでした。私は宇都宮市から東京の江東区へ転居しました。親の仕事都合です。
私の小さな頃の記憶では、「よく歩いたな。」
これに尽きます。
最寄り駅は総武線、亀戸駅でした。
なぜだか隣駅の錦糸町が好きでした。錦糸町の駅ビル、そこはデパートになっていて、好きだった鉄道模型を見に行くのが楽しみでした。
ひとりで行くこともあれば、友人と2〜3名で行くこともあり、最寄りの亀戸駅まで一直線の広い道を歩いて行ったんです。
その広い道は両側が車の走れる道になっていて、真ん中は何かの跡地でした。
その跡地が都電(路面電車)の線路跡というのだけはわかっていたんです。
いま調べるとわかることですが、都電砂町線の跡地だったようです。
1972年に廃線だったようですから、私が見たのは2年後だったんですね。きっとレールが撤去されて間もなくのことでしょう。
憶えているのは、その広い道の両側に屋台がびっしりと並んでいたこと。
私たちが歩いたのは放課後の時間。だから屋台が営業を始める前の時間だったんです。
車でいうと、営業前の駐車状態です。
不思議です。
あの当時、あのときの出来事でありながら、私は何か懐かしい気がして見ていました。
それはまだ私が小さいながらに、この風景はやがてなくなるものだというのを感じていたからなのかも知れません。
あの当時、広い道の両側には鉄工所が並んでいたと思います。
鉄を旋盤で切り出した鉄が、辺りに散らばっていました。
※いま思うと、あの削り出された鉄が今の“スチールだわし”なんです。
スチールだわしは、鉄工所の副産物だったんですね。
そんな道を往来していたのが、私が江東区に住んでいた頃の思い出です。
一昨年の11月。ちょっとした用事があり、私は神奈川県まで行ってきました。
用事を済ませたあと、時間を取って昔住んでいた土地巡りをしました。
江東区、葛飾区、江戸川区。
ネットで予約したホテル。
亀戸駅近くだということしかわかりませんでした。
着いてみると夜だったので、そのときはわからなかったんです。
しかし翌日、改めて見てみるとそのホテルはあの、一直線の道沿いにあることがわかりました。
おお!!
両側は車道になっています。
でもかつて都電の走っていた跡地は公園になっていたんですね。
何も分からずネットで予約したホテル、それがいちばん思い入れのある場所だったとは!
日頃からの願いは叶うといいますが、そうだったのか、どうだったのか。
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