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2023年04月02日

日光


 改めて、すごい観光地ですね。
先日、Youtube動画でたまたま日光を見たんです。

日光、
もう何度行ったかわかりません。
私はいま札幌市に住んでいます。しかし、小学校は主に関東で過ごし、中でも小学校の2年生から3年生の秋まで住んだ、宇都宮市はちょっと特別な経験として憶えています。

何しろ訛りがひどかった。

最後に宇都宮市に行ったのは2010年です。
33年振りの宇都宮でした。あのとき、宇都宮の人たちに訛りをあまり感じませんでしたけど、私が住んだ1973〜1974年はひどいものでした。

「行くっぺ!」
「やっぺ!やっぺ!」
「だからあ!」

日光へは行きませんでしたが、大谷観音は見てきました。
宇都宮に大谷という地区があります。おおたにではありません。おおやです。そこでは大谷石が採石されていました。軽石の目を粗くしたような石で、家の塀などによく使われています。

親戚とか友人、知人が来たとき、ちょっと行くには大谷観音、じっくり行くには日光という区別がされていたんです。

また、小学校の遠足や林間学校でも行く機会がありました。
それも、小学校低学年のときは宇都宮から近い日光へ。高学年になり東京へ転居すると、今度は少し遠い日光へ行ったんです。どっちにしても日光でした。(笑)

しかしもう45年も行っていません。Youtube動画では日光の中禅寺湖を映し、中禅寺湖から流れ落ちる華厳の滝を映していました。

華厳の滝だって何度見たか。
あれ、展望台までエレベーターで100m下りるんですよね。古っる〜いエレベーターだったのを憶えています。さすがにもう新しくなっているのでしょう。

華厳の滝は以前、もっと細い滝だったんですよね。それが1986年、滝口の一部が崩落し、今の太さになりました。私としては見慣れた古い形状の方が好きです。

日光は他にも東照宮と陽明門、三猿、いろは坂など名所がたくさんありますね。いろは坂、バスで行くことがほとんどでした。バスの運転手にもうまい、ヘタがあり、ヘタな運転手だとヘアピンカーブで曲がり切れず、切り返していました。

ああ、見てみたい。また見てみたいですよ。
今ではすっかり遠い場所になってしまいました。



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2023年03月29日

年表


 自身の年表って書いたことがありますか?

私事、小学校は四校通っています。それは父の仕事都合でした。
小学校を四校も渡れば、幼馴染っていないんです。強いて挙げるなら、従姉弟がそれに近いか。

ただ、その分だけ思い出が区別されます。小学校別に思い出が区分されているから、いつ頃の出来事だったのか、憶えてい易いという良いところもあります。

 ちょっと前、書いたように今の仕事は勤務時間のほとんど、ただ座っているだけです。何もしません。息をしているくらい。
そうすると考え事をするし、考えることだってネタが切れてくると、ふっと昔の記憶が蘇ってきます。
「どっから出てきたの?」
ってくらい、不思議と突然蘇ってくるんです。

今日、思い出したのは「とつかくいちろう」。
母が教えてくれたのは間違いありません。ただ、それが何だったのか。思い出そうとしました。
だんだん思い出してきたのは、“北海道開発庁長官”でした。

母の実家は函館市の看板屋でした。タイヘイ堂、、太平堂だったのか、大平堂だったのか、今ではもうわかりません。

母の記憶で幼い頃の一人称は「タイヘイ堂のミヤちゃん」だったそうで。一度、迷子になって困り果て、泣きながら「タイヘイ堂のミヤちゃん」と独り言を繰り返していたそうです。

母の話というのは、看板屋の主人であった父 = 私の祖父が「北海道開発庁長官
とつかくいちろう」という看板をたくさん書いては広げて乾かしていたそうなんです。それを見た母は、否が応でも覚えてしまったというものでした。

 私の母は昭和ひと桁の生まれでした。なので、この思い出話だって相当古いものだろうと思っていたんです。

今日の昼休み。ヒマだったので、スマホで調べてみました。
出てくるかな?って、半信半疑で。
そしたら出てきたんです。
「北海道開発庁長官 戸塚九一郎」
って。

それもそんなに古い話じゃない。1953年2月10日からとなっています。

 ということは?

母は1929年生まれでしたから、もう24歳だったんですね。
私はてっきり、母がまだ小さい頃の記憶だと思い込んでいました。戦前とか。

母は高学歴です。私と違って。
だから、成人したあとにも函館にいたという認識がありませんでした。きっと学業を終えたあと、函館に戻っていた時期があったんですね。今ではもう確かめようもありませんが。

でもこれで私が聞いていなかった母の軌跡というか、生い立ちが少しだけ紐溶けたように思います。
それも母の人生を年表にしたように。

 さて、これも仕事がヒマなので、書いておこうと思ったことです。実際にPCのメモ帳に書いてみました。
小学校をいくつも通い、あれはいつのことだったのか。忘れたくないものです。

たとえば私は小学校2年生に進級するとき、宇都宮市に転居しました。また、小学校5年生の2学期からまた別の小学校へ転校しています。
このように、はっきり区切りがあると覚えてい易いのです。が、宇都宮の小学校から転校したのがいつだったのか、はっきり憶えていません。

憶えているのはこうです。たぶん間違いありません。

 1970年(昭和45年)4〜5歳 延命幼稚園(年中)
 1971年(昭和46年)5〜6歳 葛飾区立飯塚幼稚園(年長)
 1972年(昭和47年)6〜7歳 葛飾区立飯塚小学校(1年)
 1973年(昭和48年)7〜8歳 宇都宮市立宇都宮東小学校(2年)
 1974年(昭和49年)8〜9歳 宇都宮東小学校 → 江東区立大島中央小学校(3年)
 1975年(昭和50年)9〜10歳 大島中央小学校(4年)
 1976年(昭和51年)10〜11歳 大島中央小学校 → 江戸川区立第三松江小学校(5年)
 1977年(昭和52年)11〜12歳 第三松江小学校(6年)

さらに、これに住んでいた場所とか、大人になってから付き合っていた異性なんかも記録しておくと、記憶を整理できるし、また思いもよらない記憶が蘇ってくるかも知れません。




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2023年03月22日

もの


 これは我が家の神棚です。

IMG_7085s.jpg

1976年だから、今から47年前に父が買ったものです。
見づらいかも知れませんが、神棚本体はヒノキでできているので、購入した当時はもっと白い色をしていました。神棚の前にある、ミキ口のような色でした。

ミキ口 ↓(出典:Amazon)
mikiguchi.jpg

 私の家は神道です。
この神棚は47年前に父が家を新築したとき購入しました。その後いろいろあり、1999年の2月に我が家へやってきました。

毎朝、米、塩、水を新しくしなければなりません。
本来それは家長である私がするべきことでした。でも代わりに妻がしてくれていたんです。

それじゃイカンと、私がするようになってから5年が経ちました。
2018年の4月から私がしています。初めは私も毎朝していました。
でも毎朝というのは、さすがに厳しいです。

妻も私に代わる頃には休日のみ、やっていたようです。
私も、今は二日に一度、するようにしました。

 私は来月でようやく5年。でも妻は19年もしてくれていたんです。
さすがにそれでは私にも負い目があります。

では、私が妻と並ぶ19年になるには、あと14年。
そのとき私は71歳になっています。

71歳なら、もう死んでもおかしくない歳です。
新聞のおくやみ欄を見ても、71歳の人は当たり前にいます。

では、私が死んだあと、神棚は残っているのでしょうか。
現に父が購入した神棚は父の死後も、ここにあります。

持ち主がなくなった後も、「もの」は残り続けます。“遺品”です。




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2023年03月18日

いちばん


 Sと初めて逢ったのは昭和53年、1978年だから、もう45年の付き合いになります。
Sは私と同学年ですが、同じクラスになったことは一度もありません。ただ中学校の3年間、同じ部活で苦楽を共にしました。

私は中学への入学と同時に東京から北海道へ。Sは高校を卒業すると同時に東京へ。ちょうど入れ替わった感じです。

 SからLINEで連絡が来たのは2月8日でした。10年振りの里帰りで北海道へ来るというのです。Sの実家はここ札幌ではありません。でも3月17日に札幌に一泊してから翌日、実家へ行くと言います。

で、17日の昨夜、一緒に飲み会をしてきました。
Sと二人きりではなく、SとSの奥様、そして同じ部活だったもう一人の男、合わせて4人でです。
19:30分から居酒屋を予約していました。

私、本当はSと二人きりで良かった。でもSの奥様だって良い人なんだ。
居酒屋は2時間の飲み食い放題コース。21:30過ぎに店を出ると、同じ部活だった男は、明日仕事だから帰ると言います。

私は帰るにはまだ早い。
Sに聞くと、Sも奥様も、もう一軒行くと言います。
もしかしたらSも奥様も私と同様に、最後は少人数でじっくり飲みたいと思ってくれていたのかも知れません。結局、0時過ぎまで。私は珍しく酔っぱらいました。

                 ☆

 人は誰かと親密になるとき、「認める」というプロセスを踏むんじゃないでしょうか。その人の才能や長所とか、同じ価値観であったりとか。

私が最初にSを認めたのは、彼の着想でした。中学2年に進級したとき、クラスで班分けをし、班ごとに壁新聞を作ろうということになりました。

他の皆は平面で2次元の壁新聞を作っていたとき、私は立体的な壁新聞にしたいと考えました。ハッキリ言って私のスタンドプレーでした。強引に立体的な壁新聞を作り始めたんです。

立体的というのは壁新聞へ、半球状に真っ二つにした地球儀を装着。しかもモーターで回転させるというもの。ただその回転させるのが上手くいかなかったんです。

私の構想は、モーターにプーリーを付け、ベルト駆動させるというものでした。でも半球の地球儀が大きすぎて上手く回らなかったんです。

そこでクラスが違うSに相談しました。そしたらSはいとも簡単に、
「下にゴムタイヤを付け、駆動させたら?」
と言ったんです。

これが大成功。以来、私はSの才能に一目置いています。さらに大人になって、とても穏やかな性格のS。

 一昨年、私は東京へ遊びに行きました。そのとき、もちろんSと飲みに行きました。遅くまでしっかり付き合ってくれました。

                 ☆

 六十近いこの歳になって、少し変わってきたことがあります。
友人って何人もいて、いろんな友人がいると思います。仕事上の同僚、中には親しい親友も。特に親友は皆、それぞれ甲乙つけがたいと思ってきたんです。

変わったのは、甲乙つけられるようになったことです。私はSにいちばん、信頼を寄せていると実感します。他にも、一番愛した女性は〇〇だったと自分にとっての唯一無二を感じるようになったんです。

なぜこうなったのか。
私はこの歳になって、将来を断ち切ったんだと思います。
もうこれ以上、自分にとって信頼できる人間、異性ならばあれ以上、愛せる人間と巡り合うことはないだろうと判断を下したんだと思います。無意識に。

だから唯一無二の人、大切にしたいと思います。





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2020年11月12日

借入


 この歳になると、私はいつまで新たな借金ができるのかと考えてしまいます。

恥ずかしいんですが、まだ毎月借金を返しています。
原因は単純で、もし仮に私が大企業や昔の終身雇用制度にうまく乗っていれば、収入は年々増額して家族の生活費、子供の学費など順当に準備できたのだと思います。ですが私の場合、途中で少しばかり道が外れてしまいました。

でも現代で良かったと思います。
子供が進学したいといえば、学費を融資してくれる制度があるからです。
もしそんな制度がなくて家計のために子供を進学させてあげられないのだとしたら、親として断腸の思いです。

でも現実、母子家庭とか返済を考えると融資も受けられない家庭は、考えただけで胸が詰まる思いです。
私はちょうど中間にいるのかも知れません。進学はさせられたが、貯えがあったわけではない。

 6年前にエクセルのワークシートに借入の返済スケジュールを作りました。
学費は国民政策金融公庫から借りました。低利息で返済できるからです。

入学金、授業料ほか。子供は二人います。
修学旅行だって今は海外へ行くんですね。参加費用が20万円とか。

それ以外に生活資金のローンとか、毎月返済しているものもあります。
ワークシートを作って良かったと思うのは、先を見越せることです。

もしそれがなかったら、数ある借金の返済は毎月の返済額だけが漠然と思い浮かぶだけです。
ワークシートがあれば、何年後にはどうなっているかという、将来が見えてきます。

 私は5年前に一度、人生を踏み外してみたい願望に襲われました。
よく憶えてはいませんが、日々のうっ憤をさらにストレスで埋めようとしたのかも知れません。

変なことを言いますが、恐怖心を埋められるのはそれ以上の恐怖です。
私の場合、かわいいのですが、「本当にあった!呪いのビデオ」14巻を見て、本当に怖いと思い、何をしたのかといえば、もっと怖い作品を見て14巻の恐ろしさを上書きしようとしたのでした。

もうひとつ方法があります。
それは自分が体験した恐怖を他の人と共有することです。

たとえば2003年、イラクで日本人青年殺害事件がありました。
香田証生(こうだ しょうせい)さんがテロ組織、アルカイダに首を切られるという事件です。

あの頃、ちょうどP2Pソフトが流行っており、P2Pソフトを使ってその犯行現場を撮影した動画を入手して見ることができたのです。私は見ないようにしていましたがある日、知人から電話がきました。
「見てしまった。〇〇(私)にも見て欲しい。」
という訴えでした。

私も14巻のビデオを知人に見るように勧めました。
人間ってたぶん、自分の危機感を誰かに理解して欲しい習性があるんですね。
まるで子供が負った自分の傷口を、親に見せたがるように。

日頃のうっ憤をストレスで埋めようとしたのは、うっ憤よりももっと強い刺激でマヒさせようとしたんだと思います。

 人生を踏み外すといっても、もちろん人殺しとかではありません。金銭的に落ち込んでみたいと思ったんです。その願望は間もなく実現しました。

私には前に何度も一緒にコールセンターで勤務してきた相棒がいます。
私は自分を大人しいとは思いませんが、相棒はストレートに荒くれています。
一緒に働いていた受信のコールセンターでしたが、あるとき発信に転属され、運用が日に日に厳しくなりました。そんなセンターをあきらめ二人とも過去、世話になった共通のマネージャーを頼り、別のセンターへ移る支度を着々と進めていました。

うまく別のセンターへ行くことができたのですが、そこには強烈なお局さんがいたのでした。
もちろん私も相棒も、そのお局さんに合わせることができません。

仕事がつまらなくなり、二人で早退し、飲みに行くことがだんだん増えていきました。
時給という収入を放棄して飲みに行くのです。ですが妻には言えません。
給料日にはその差額をキャッシングで埋めていました。

そんな生活を1年ほど続けました。
マズいと思ったのは、キャッシングの返済をキャッシングで返すようになったときです。
いわゆる雪だるま式です。

今は解決して月々返しています。

返済している今は辛いですが、ワークシートを作ったおかげで未来を見るようにしています。
〇〇〇〇年になったら楽になると。

昔、組織活動をしていたとき、その役職によってはスケジュールが過密化することがありました。
先輩に面白い表現をする人がおり、たとえば学校の校庭でイベントをするとき
「雨が降って地面がドブドブだ」
とか、
「予定がネリネリ詰まって忙しい」
とか。

私も役職に就いて忙しい時期がありました。
そのときも先をみて、忙しさが終わった将来を考えるようにすると気持ちが楽になりました。

あと4年。
4年経てば、ほぼ楽になります。
8年で完済します。それまで新たな借金は作らないように。

その前にあと8年もしたら、もし急な入用があった場合に、60歳を過ぎている私にお金を貸してくれるところなどあるのでしょうか。






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2020年11月11日

スノトレとカッペ靴


 今朝起きると、窓から見える物置の屋根に3cmくらい積雪がありました。

あー、またこの季節です。もう少しすると、雪かきが必要になるかも知れません。
帰る頃には車道の雪はなくなっていましたけど、近年ずっと11月20日過ぎに初めての雪かきをしています。

集合住宅なので、一軒家のように玄関や家の周辺を雪かきする必要はありません。
でも青空駐車なので、雪がどんと降れば車と周囲の雪かきをします。
車庫があれば車庫前だけで良いのですけど。

いま住んでいるここの雪かきは、1回当たり1km以上歩くんです。
車の周囲にある雪をスコップですくい雪を捨てるところまで、だいたい十数メートルくらいです。
数えていると、雪が多いときは十数メートルを50〜60往復するので、仮に12メートルだとすれば50往復だと、12 × 2 × 50 = 1,200メートル。60往復だと 12 × 2 × 60 = 1,440メートルも歩くんです。

それをワンシーズンに3〜4回します。考えると鬱になります。
ロードヒーティングの駐車場なら、車の上から雪を落とすだけで良いんですけどね。

朝に積雪があったのでバスが遅延するかと思い、いつもの時間でバスに乗りました。
ところがスムーズに走って定刻で着いてしまいました。いつもの時間だと早く着きすぎてしまいます。

配属されてからであれば、早く着いても自分の席に座れば良いんです。しかしまだ研修中。
自分の席がないので、休憩室で座ったまま待ちます。落ち着きません。北海道、東北弁でいう
「あずましくない」です。

私は中学校へ入学すると同時に北海道へきました。
同じ冬でも寒さは次元が違います。手袋も皮の手袋でした。

今では地球温暖化のせいか、なくなりましたが、昔は朝の通学時に気温がマイナス20℃という日が、ひと冬に2〜3回ありました。マイナス20℃を経験したことのある人ならお分かりだと思います。呼吸で鼻がピッと凍るんです。

そして流行っていた靴がスノートレーニングシューズ、スノトレです。
今から40年くらい前に1万4千円くらいしていたと思います。

中学生が通学用の普段靴に1万4千円?
そもそも靴にそんなお金をかける感覚がありませんでした。

東京の小学校では上履きが学校指定のもので本体がビニール製。
足の甲部分にゴムがあしらわれており、そこに名前を書きました。
本体は白色でした。水色をした本体もあり、それを外で履いていれば、
「カッペ靴」(カッペは、いなかっぺ = 田舎っぺ)とバカにされたのです。

どうも北海道はお金をかけるところが違うぞ!というように、異世界にいる気がしました。
その町は昔、炭鉱で栄えた町です。その名残りがあったのでしょう。

他にもあの町の特徴として、賭けマージャンのレートが高いというのを高校時代に寮生活した街で聞きました。北海道へ移り住んで、何かとカルチャーショックを受けたものです。




◇◇◇ 昨日まで一週間のアクセスランキング ◇◇◇
1. 横浜市
2. 札幌市
3. 新宿区





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2020年11月10日

新日本紀行


 今日はブログの引っ越しをしていたといいながら、YouTubeも見ていました。

おすすめ動画にあったのは『新日本紀行「葛飾 〜東京〜」1968年放送』。
私が青森から葛飾区に引っ越したのは確か1969年。昭和44年です。
ほぼ近いので、懐かしい風景が見られるかと思いました。

残念ながら、住んでいた地区は映っていませんでした。
けど、とても懐かしい気持ちになりました。

ほとんどの人は引っ越した経験があって、生まれてからずっと一か所で人生を終える人は少ないと思います。

私は生まれてから何度、住処を変えたのでしょうか。
子供の頃は親と一緒に暮らすしかありません。
親が引っ越すのと同じく引っ越します。

私も世帯を持つようになってから何度か引っ越しました。
初めは公団住宅で子供を設け、古い古い一軒家に引っ越し、札幌へ。

一軒家に住んでいたとき、単身赴任したこともありました。
また札幌へ来て初めに住んだマンションも、単身赴任のようなものでした。

早い人は2年ごとに引っ越し、あるいはもっと頻繁に引っ越しする人もおられるでしょう。
その点、私は比較的、一つのところに長く住む傾向にあるのかも知れません。
札幌へ来てすでに13年ですが、まだやっと3軒目の家です。

 昔を思い出すとき、どこに住んでいたか、
というのが大きいと思います。

引っ越しをたくさんした方が、思い出の引き出しは多くて良いのかも知れません。
私は小学校を4校、通いました。6年間で3回、転校しました。

小学校時代の思い出も数々あります。
それらが、あそこに住んでいたとき、、というようにリンクしているのです。

大人になって結婚して、子供ができると今度は子供だって思い出を作るでしょう。
どんな思い出があったでしょうか。もちろん、辛い思い出もあるでしょう。

昔、「人に歴史あり」というテレビ番組がありました。
誰もが生きてきてどんなことがあった。どこに住んでいた。それも歴史だと思います。

私が住んだときの葛飾区は、居間の窓から田んぼが見えていました。
江東区に住んだときは、都営団地の8階から写した写真に隣の錦糸町駅が写っています。
それだけ、まだ高い建物がなかった時代です。そしてまだ都営新宿線を掘っていた時代だったのです。

IMG_1042.JPG
写真中央の照明は都営新宿線の工事現場

高度経済成長
都会は特に、その容貌を変えていった時代。
高度経済成長時代の世の中を作るように、家族を養いながら生きていた両親。

新日本紀行、初めは自分視線で見ていた動画でした。
しかし本当の主役は、両親だったんじゃないかと思います。






posted by CSおじさん at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想

2020年11月09日

タバコ事情


 今日は仕事がらみで札幌駅方面へ出かける用事がありました。

健康増進法のため市街地の喫煙所は少なくなっています。
あらかじめ少し早いバスに乗っていき、目的のビルへ着く前に一服しようと思っていました。
目的のビル名がわかると、ビル名でネットから検索すれば、不動産関係のサイトでそのビルに喫煙所があるか、だいたいわかるようになっています。

目的のビルに喫煙所はないようです。
他に『喫煙所マップ|札幌駅〜大通•すすきの一服スポット13選!屋内&カフェも!』というのがあったので、見てみると知らない箇所も載っています。

知っていて損はないので、目的のビルに近い赤レンガテラスに行ってみることにしました。
ところが貼り紙がしてあり、コロナウイルス感染防止のため、使用禁止と書いてあります。

赤レンガテラスの向かいのビルは、ときどき喫煙所を使ったことのあるビルです。
地下歩道を通じてそちらに行ってみると、そこもコロナウイルスで使用禁止です。

国道沿いに以前利用していた派遣会社の入ったビルがあります。
ビルの地下に喫煙所があったのを知っています。しかし国道とは反対側へ来てしまいました。
集合時間が決まっていて、国道沿いのビルまで急げば間に合うかも知れません。でもしばらく使っていなかったから、もしかするとそこも使用禁止かも知れません。

家を出る前に一服してきました。
最後に一服してから1時間以上は過ぎています。
目安として1時間以上空けると、もう吸っても良いと考えます。

派遣会社ビルの地下まで行ってみようか。
吸えれば良いですが、吸えなければ無駄足。遅刻するかもわかりません。
あきらめても1時間後には用事が終わって、また吸えます。だから我慢することにしました。

ヘビースモーカーだった昔なら吸えないとイライラすることもありましたけど、吸いづらい環境に慣れてきたのか、最近は吸えないことも良いかと考えるようになっています。
また時間をおいてから吸った方がタバコは美味しく感じます。

昔、自営業をしていた頃、仙台からJRで来た仕事の関係者がいました。
JRの車内はかなり昔から禁煙になっています。

仙台からタバコを吸えずに札幌まで来ることに、よく我慢できたと快感すら感じるようになったと言っていたのを思い出します。その点、私は昔、JRで八戸まで行くとき、乗換えの函館駅で4分しかない接続時間にホームの端まで走って喫煙所で一服したのが恥ずかしく思います。今なら私はどうするのでしょう。

 結局、タバコを吸うことはできませんでしたが用事が始まると、そんなことも忘れてしまいます。
終ってから、派遣会社があるビルの地下へ行ってきました。

久しぶりに行ってみると、並んでいるんです。
喫煙所はドアを開けて入るようになっていて、ドアの外に10人くらい並んでいます。
最後尾に私が並び見ていると、ひとり出てきては並んでいたひとりが入っていきます。

一度に3人出てくると、3人が入っていきます。
10分くらいして自分の番がやってきました。

入ると貼り紙があり、喫煙所内で密にならないため人数制限があると書いてあります。
そして立ち位置を指示する紙が床に貼ってあります。
なるほど。喫煙所を閉鎖しないため、苦肉の策だったのでしょう。

 今回、派遣されることになったビルは、同じ階に喫煙所があります。
しかし今月いっぱいで廃止されるとのことです。その後は、1階にあるビル共用の喫煙室を使うことになるそうです。きっと混むことでしょう。

東京にいる中学時代の友人は、会社が禁煙になったからタバコをやめたといっていました。
もう何十年も前のことです。やがてタバコを吸えないビルになったら私もやめられるのか。
きっと、家で吸っていそうです。






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2020年11月08日

パチ組


 パチ組(ぱちぐみ)っていうんですね。接着剤を使わずに組み立てられるプラモデルのことを。

(今日2記事目です)
見たのは戦艦のプラモデルを組む動画でした。
私は小学校に入学したころからプラモデルを作り始めました。
あの頃はプラモデルに一つずつ、亜鉛のチューブに入った小さな小さな接着剤が付属していました。

タミヤのプラモデルに付いてくる接着剤は、タミヤのマークが帯で巻いてありました。
作るのがまだ未熟なうちは接着剤を付けすぎて、キット付属の小さな接着剤は足りなくなりなり、接着剤だけを買ってくるか、制作を放棄するしかありませんでした。

それが今では「パチ組」という、接着剤を使わなくとも部品の接合部に凹凸があって、パチパチはめ込むだけで作れてしまうものも存在するんですね。

確かに十何年か前、子供がガンプラ(ガンダムのプラモデル)を作っているとき、そんな組み方をしていたと思います。

そしてプラモデルを組むというのは初心者以外、全体もしくは部品に色を塗りながら作るものというイメージがずっとあるのですが、そこもランナー(部品が付いてくる枝)ごと、すでに別色のプラスチックで成型されていて、着色せずにもそれなりに実物に近く見えるようになっています。

昔のプラモデルは手間がかかり、その手間を楽しむものだった気がします。今はあまり手間をかけずとも組み立てやすいようにキットそのものに工夫がされてきて、組み立ての過程よりも出来上がりを楽しむ傾向が強くなったように思います。なんだかコンピュータの高級言語と低級言語を思い出しました。

コンピュータのプログラムを書くのに、いろいろな言語があります。英語とドイツ語があるように。
人間が話す言葉に近い記述で書けるのが高級言語。単純な単語で書いていくのが低級言語です。
極端にいえば、ゲームと書いたらゲームが動き出すのが高級言語で、ミサイルの発射台から動きまでいちいち書いていかなければならないのが低級言語です。

比べると高級言語は手間をかけずにプログラム開発できるのに対して、低級言語は時間もかかるし専門知識だって必須です。
反面、ゲームと書けばゲームが動き出す環境だと、開発者の思いに反して、いったいどんなゲームが出てくるのかわからないのが高級言語で、手間はかかるけど細部まで開発者の思い通りにできるのが低級言語です。
もっともAIでもない限りはゲームと書いて動き出す高級言語はまだ存在しないでしょうけども。

プラモデルだって手間をかけて作った方が、作る人個々の個性を出せたでしょう。
それに対しパチ組は誰が作っても画一的なものになるのでしょうね。

動画を見ていると、プラモデルも鉄道模型のレイアウトを作るのも、今では様々な素材、塗料があるんですね。ウェザリングといって、日常使用することで付着した泥やサビなどの汚れを表現するには、ウェザリングマスターといって、アイシャドウのような粉剤があるようです。昔は手持ちの塗料に他の色を混ぜて作りました。

またプライマーといって、接着剤の効果を強める、あるいは上塗りする塗料の密着性を高めるもの。他にもさまざまな小道具があるんですね。

 子供の頃は毎晩、プラモデルを作っていた気がします。
パクトラタミヤとかレベルとか塗料を買い揃え、溶剤にシンナーを使います。
小学生の頃はよく鼻血が出ました。中学生では腹を下したような腹痛に悩まされていました。

よく鼻血を出す私を母は心配し、プラモデル作りで接着剤やシンナーを吸引するのが原因ではないかと、耳鼻科へ連れて行かれました。しかし原因は不明。ある晩など、したたり落ちる鼻血の音で起きたことがありました。

今にすれば、そんなものだったのでしょう。男子っていうのは。私は特に症状が重かったのか知れません。
余談ですが知人の塗装屋社長は普段から口調がラリっています。







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2020年11月06日

北条時宗


 NHK大河ドラマに興味を持つ年代がある気がします。

昭和62年、1987年に放送された独眼竜政宗は、社会現象にまでなりました。
時代考証というのか言語指導というか、セリフが昔のことばにこだわって作られたからです。
「御意(ぎょい)」とか「笑止千万(しょうしせんばん)」とか、

「ご尊顔(そんがん)に拝(はい)し奉(たてまつ)り恐悦(きょうえつ)至極(しごく)に存じ上げます。」「本日は武門(ぶもん)のしきたりに倣(なら)い、元服(げんぷく)の儀(ぎ)、仰(おお)せつけられましたる段、ありがたき幸せに存じ奉(たてまつ)ります。」「これ、匹夫(ひっぷ)の勇(ゆう)にあらずして何ぞや!?」
など。

これが面白かったのでしょう。
きっと日本中でマネされていたんだと思います。

ちょうどその頃、私は11歳上の先輩に可愛がられており、先輩が独眼竜政宗にハマっていたのでした。
NHKの独眼竜政宗は、脚本がジェームス三木さん、原作が山岡荘八さん。歴史ものが好きだった先輩は、持っていた山岡荘八の原作をマンガにした単行本を貸してくれました。
当時、先輩は30代半ば。

大河ドラマは毎年、内容が変わるので、すべてが面白いとは限りません。もちろん見る人の好みもあります。
また毎週見るのは大変です。

しかし巡り巡って、2001年。北条時宗に私がハマってしまいました。
思うと、私が当時の先輩と同じ30代半ばでした。


 さて、今日で研修が四日目でした。
三日続けて勤務しただけですが、久しぶりの仕事で疲れました。







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