2023年03月29日
年表
自身の年表って書いたことがありますか?
私事、小学校は四校通っています。それは父の仕事都合でした。
小学校を四校も渡れば、幼馴染っていないんです。強いて挙げるなら、従姉弟がそれに近いか。
ただ、その分だけ思い出が区別されます。小学校別に思い出が区分されているから、いつ頃の出来事だったのか、憶えてい易いという良いところもあります。
ちょっと前、書いたように今の仕事は勤務時間のほとんど、ただ座っているだけです。何もしません。息をしているくらい。
そうすると考え事をするし、考えることだってネタが切れてくると、ふっと昔の記憶が蘇ってきます。
「どっから出てきたの?」
ってくらい、不思議と突然蘇ってくるんです。
今日、思い出したのは「とつかくいちろう」。
母が教えてくれたのは間違いありません。ただ、それが何だったのか。思い出そうとしました。
だんだん思い出してきたのは、“北海道開発庁長官”でした。
母の実家は函館市の看板屋でした。タイヘイ堂、、太平堂だったのか、大平堂だったのか、今ではもうわかりません。
母の記憶で幼い頃の一人称は「タイヘイ堂のミヤちゃん」だったそうで。一度、迷子になって困り果て、泣きながら「タイヘイ堂のミヤちゃん」と独り言を繰り返していたそうです。
母の話というのは、看板屋の主人であった父 = 私の祖父が「北海道開発庁長官
とつかくいちろう」という看板をたくさん書いては広げて乾かしていたそうなんです。それを見た母は、否が応でも覚えてしまったというものでした。
私の母は昭和ひと桁の生まれでした。なので、この思い出話だって相当古いものだろうと思っていたんです。
今日の昼休み。ヒマだったので、スマホで調べてみました。
出てくるかな?って、半信半疑で。
そしたら出てきたんです。
「北海道開発庁長官 戸塚九一郎」
って。
それもそんなに古い話じゃない。1953年2月10日からとなっています。
ということは?
母は1929年生まれでしたから、もう24歳だったんですね。
私はてっきり、母がまだ小さい頃の記憶だと思い込んでいました。戦前とか。
母は高学歴です。私と違って。
だから、成人したあとにも函館にいたという認識がありませんでした。きっと学業を終えたあと、函館に戻っていた時期があったんですね。今ではもう確かめようもありませんが。
でもこれで私が聞いていなかった母の軌跡というか、生い立ちが少しだけ紐溶けたように思います。
それも母の人生を年表にしたように。
さて、これも仕事がヒマなので、書いておこうと思ったことです。実際にPCのメモ帳に書いてみました。
小学校をいくつも通い、あれはいつのことだったのか。忘れたくないものです。
たとえば私は小学校2年生に進級するとき、宇都宮市に転居しました。また、小学校5年生の2学期からまた別の小学校へ転校しています。
このように、はっきり区切りがあると覚えてい易いのです。が、宇都宮の小学校から転校したのがいつだったのか、はっきり憶えていません。
憶えているのはこうです。たぶん間違いありません。
1970年(昭和45年)4〜5歳 延命幼稚園(年中)
1971年(昭和46年)5〜6歳 葛飾区立飯塚幼稚園(年長)
1972年(昭和47年)6〜7歳 葛飾区立飯塚小学校(1年)
1973年(昭和48年)7〜8歳 宇都宮市立宇都宮東小学校(2年)
1974年(昭和49年)8〜9歳 宇都宮東小学校 → 江東区立大島中央小学校(3年)
1975年(昭和50年)9〜10歳 大島中央小学校(4年)
1976年(昭和51年)10〜11歳 大島中央小学校 → 江戸川区立第三松江小学校(5年)
1977年(昭和52年)11〜12歳 第三松江小学校(6年)
さらに、これに住んでいた場所とか、大人になってから付き合っていた異性なんかも記録しておくと、記憶を整理できるし、また思いもよらない記憶が蘇ってくるかも知れません。
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