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2019年09月05日

【現代史】ドイツ人が「ナチと心中」を選んだ不都合な真実




  【現代史】ドイツ人が「ナチと心中」を選んだ不都合な真実


         〜プレジデントオンライン 9/5(木) 9:15配信〜


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  1945年5月9日 ソ連軍が2日にベルリンを占領。独ソの交戦で破壊されたライヒ議会(ドイツ・ベルリン) - 写真=SPUTNIK 時事通信フォト


 〜第二次世界大戦末期、ドイツは敗色濃厚にも関わらず、国民が一丸と為って抗戦を続けた。それは何故か。現代史家の大木毅氏は「ドイツ国民は併合・占領した国々を虐げ、財産を奪って居た。詰まりナチ政権の『共犯者』だったので、戦争を辞める訳にはいか無かった」と解説する〜  
 

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       ※本稿は、大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)の一部を再編集したものです。


 




 「世界観戦争」貫徹と云う揺るぎ無い意思

 東部戦線は崩壊に瀕して居た。1944年8月20日に発動されたルーマニア方面へのソ連軍攻勢は、大きな成功を収め、9月末にはブルガリアに進出する。ブルガリアは枢軸国の一員だったが、陣営を転じてソ連側に立って参戦したのである。
 次いで、ソ連軍はハンガリーに進撃し12月末迄に首都ブダペストを包囲、ドイツ軍とハンガリー軍の守備隊を孤立させた。ドイツ軍はブダペストを救出する為、装甲部隊を派遣して、1944年12月末から翌1945年1月に掛けて反撃を行い、一先ずソ連軍の前進を止めた。

 しかし、ソ連軍は攻撃を再開し、2月12日、激しい市街戦の後ブダペストを占領した。北方、バルト海沿岸からポーランドに掛けての地域に於いてもソ連軍は「バグラチオン」以来の連続攻勢に依り、北方軍集団の後方を遮断しつつドイツ国境に迫って居た。軍事的に観れば、既に戦争の結着は着いて居たのである。
 この窮境を観たリッベントロップ外相は、駐独日本大使大島浩を招きソ連との仲介を依頼した。日本側は、望み薄とは思いつつも工作に着手し、その旨をリッベントロップに伝えた。処が、結局、ヒトラーは最後迄軍事的成果に頼ると決定したと云うのがリッベントロップの回答であった。

 この一挿話に象徴されて居る様に、ヒトラーは敗北直前に在っても尚、対ソ戦を交渉に依って解決可能な通常戦争に(それが可能で有ったか否かは措(お)いて)引き戻す努力をする積り等無かった。「世界観戦争」を妥協無く貫徹すると云うその企図は、全く動揺して居なかったのである。

 何故抵抗運動は起き無かったのか

 しかし、ヒトラーはそうで在ったとしても、ドイツ国民は何故、絶望的な情勢に為って居るにも関わらず抗戦を続けたのだろう。第一次世界大戦では、総力戦の負担に耐え兼ねた国民は、キールの水兵反乱に始まるドイツ革命を引き起こし戦争継続を不可能としたではないか。
 為らば、第二次世界大戦に於いても、ゼネストや蜂起に依って戦争を拒否する事も可能では無かったのか。どうして、1944年7月20日のヒトラー暗殺とクーデターの試みのゴトキ、国民大衆を代表して居るとは言え無い抵抗運動しか発生し無かったのであろうか。

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               カイロ宣言(中・米・英)

 これ等の疑問への古典的な回答として、シバシバ挙げられるのは、連合国の無条件降伏要求である。
 周知の如く、1943年1月のカサブランカに於けるローズヴェルト米大統領とチャーチル英首相の会談で打ち出された方針で、枢軸国に対しては、和平交渉を通じての条件付降伏を認め無いとするものだ。ナチス・ドイツは、無条件降伏等は全面的な屈服と奴隷化を意味する事だと喧伝し、それを免れたければ只管戦い抜くしか無いと、国民に対するプロパガンダに努めた。
 又、体制の統制・動員能力が、秘密警察等に依り、第一次世界大戦の時よりも飛躍的に高まって居た為、組織的な罷業や反抗等不可能だったとする説明もある。


 




 ナチ政権の「共犯者」と為ったドイツ国民

 けれども近年の研究は、より醜悪な像を描き出して居る。ナチ体制は人種主義等を前面に打ち出し、現実に在った社会的対立を糊塗(こと)して、ドイツ人であるだけで他民族に優越して居るとのフィクションにより、国民の統合を図った。 
 しかもこの仮構は、軍備拡張と並行して実行された、高い生活水準の保証と社会的勢威の上昇の可能性で裏打ちされて居た。こうした政策が採られた背景には、第一次世界大戦で国民に耐乏生活を強いた結果、革命と敗戦を導いた「1918年のトラウマ」がヒトラー以下のナチ指導部に有ったからだとする研究者も居る。

 とは言え、ドイツ一国の限られたリソースでは、利に依って国民の支持を保つ政策が行き詰まる事は云うまでも無い。しかし、1930年代後半から第二次世界大戦前半の拡張政策の結果、併合・占領された国々からの収奪が、ドイツ国民であるが故の特権維持を可能とした。換言すれば、ドイツ国民はナチ政権の「共犯者」だったのである。
 それを意識して居たか否かは必ずしも明白では無いが、国民に取って、抗戦を放棄する事は単なる軍事的敗北のみ為らず、特権の停止、更には収奪への報復を意味して居た。故に、敗北必至の情勢と為ろうと、国民は、戦争以外の選択肢を採る事無く、ナチス・ドイツの崩壊迄戦い続けたと云うのが、今日の一般的な解釈であろう。

 詰まり、ヒトラーに加担し、収奪戦争や絶滅戦争に依る利益を享受したドイツ国民は、イヨイヨ戦争の惨禍に直撃される事態と為っても、抗戦を放棄する訳には行か無く為って居たのである。


 




 スターリンの目的は勢力圏の拡大に変わった

 他方、スターリンとソ連に取っての独ソ戦は既に、生存の懸かった闘争から巨大な勢力圏を確保する為の戦争へと変質して居た。ドイツの侵攻前に獲得して居た地域に加え、更に領土を拡大する事が戦争目的とされたのだ。
 例えば、戦後に成立するであろうポーランドにも、1939年に奪った地域は返還せず、ドイツの領土を割譲させて、同国を西に動かす事とされた。又、それ以上に、中・東欧を制圧して衛星国を立て、西側との緩衝地帯とする事が重要であった。その為には、出来る限りソ連軍を進撃させ、中・東欧の支配を既成事実にし無ければ為ら無い。

 こうしたスターリンの政策が如実に示されたのは、1945年2月にクリミア半島のヤルタで行われた米英ソ首脳会談であった。スターリンは、敗戦ドイツの分割統治の他、ポーランド・バルト三国・チェコスロヴァキア・バルカン半島諸国を勢力圏とする事を求めた。

 ドイツ本土進攻作戦は、事実上、こうしたスターリンの戦略目標を達成する為の計画であった。バルカン方面の攻勢に依り、ドイツ軍の予備を南に誘引した後に、正面攻撃と南からの突進に依り、東プロイセンに在る敵を包囲殲滅(せんめつ)、ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)を占領する。
 この東プロイセン作戦と同時に、ヴィスワ川からポーランド西部を横断し、ベルリンを指向する主攻が始まる。


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 ソ連軍はドイツ軍を追撃し、ウィーンへ

 1945年1月12日、ソ連軍のドイツ進攻作戦が開始された。第一ウクライナ正面軍は攻勢発動から1週間でドイツ本土に進入、同月21日から22日に掛けての夜に、ベルリンを守る最後の自然の障壁であるオーデル川を渡河して居た。第一白ロシア正面軍も、1月31日にキュストリン北方でオーデル川を渡る。
 最早、ソ連軍のベルリン進撃を押し留めるものは無いかと思われたが、スターリンは安全策を採り、敵首都に前進する前に、両側面、ポンメルンとシュレージェン(シレジア)のドイツ軍残存部隊を掃討せよと命じた。この間、首都を守るべきドイツ軍装甲部隊の主力はそこに居なかった。

 1945年1月の反撃が当初成功した事を過大評価したヒトラーは、最後に残った強力な装甲軍(第六SS)をハンガリーに派遣、反攻を実施させて居たのである(3月に作戦中止)。3月16日、ソ連軍が攻勢を発動すると共に、ベルリン前面のドイツ軍の戦線は寸断された。南では、潰走(かいそう)するドイツ軍を追撃したソ連軍が、4月13日にウィーンに入った。

 ドイツ軍装甲部隊の「白鳥の歌」

 当初は慎重な作戦指導を堅持して居たスターリンであったが、4月に入ると、ベルリン攻略を急ぐ必要が出て来た。西側連合軍がライン川を渡り急速に東進を始めて居たからだ。敵首都占領の栄誉を譲っては為ら無いと、スターリンは、ベルリンへの進撃を速める様に命じた。
 1945年4月16日、ジューコフ指揮の第一白ロシア正面軍は、ベルリン東方のゼーロフ高地の攻撃に掛かった。ここを突破すれば、ベルリンへの道には何の障害も無く為る。処が、圧倒的な数で攻めた筈のソ連軍は、ドイツ軍装甲部隊の巧妙な反撃を受け大損害を被った。シバシバ、ドイツ軍装甲部隊の「白鳥の歌」と称される戦術的な勝利であった。

 だが、今日では、ゼーロフの戦いは、言わば、ドイツ軍の勝利と云うよりも、ジューコフの敗北だった事が判って居る。ジューコフが狭隘(きょうあい)な正面に兵力を過剰集中した為、ソ連軍は、作戦・戦術的に有効な動きを取る事が出来ず、ドイツ軍の防御砲火の好餌と為ったのである。


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 「闘争を継続せよ」と書いてヒトラーは自殺

 その晩に、ゼーロフ高地奪取の失敗を報告したジューコフに対し、スターリンは、イヴァン・S・コーニェフ元帥率いる第一ウクライナ正面軍の進撃は順調であるから、そちらにベルリン包囲の命令を出すと告げた。
 典型的な分割統治である。スターリンは、将軍達を分断し、競争させる事こそが、己の利益に適う事を心得て居たのだ。ジューコフとしても、ライバルが大功を挙げるのを拱手傍観(きょうしゅぼうかん)して居る訳にはいか無い。翌17日、第一白ロシア正面軍はゼーロフ高地を迂回し他の正面で突破に成功する。戦闘の焦点は、愈々(いよいよ)ベルリンに移った。

 4月20日、ソ連軍先鋒部隊はベルリンに最初の砲撃を浴びせた。第一白ロシア正面軍が北東、第一ウクライナ正面軍が南東からベルリン包囲に掛かる。しかし、ヒトラーは、首都を離れようとし無かった。総統がベルリンにある以上、ドイツ国民は抗戦し続ける筈だし、又、外部からの救援軍が包囲を解くものと信じたのだ。だが、そうした部隊は、実際には既に消耗し切って居りベルリン解囲等不可能であった。
 4月26日、ジューコフの第一白ロシア正面軍はベルリン市内に突入した。市街戦が開始され、取り分け国会議事堂(ライヒスターク)周辺では激戦と為った。ソ連軍は次第に市の中心部を制圧、ベルリンのドイツ軍守備隊は5月2日に降伏する。
 それに先だつ4月30日、ヒトラーは、総統地下壕で自殺して居た。その遺書には、尚(なお)闘争を継続せよとの訴えが記されて居たのである。


 




 1.000名以上の市民が集団自決したと推定

 大戦最終段階のドイツは、黙示録的様相を呈して居た。ドイツ本土に進攻したソ連軍は、略奪・暴行・殺戮(さつりく)を繰り返して居たのだ。掛かる蛮行を恐れて死を選んだ例も少なく無い。中には、集団自決もあった。 
 フォアポンメルンの小都市デミーンでは、ソ連軍の占領直後、1945年4月30日から5月4日に掛けて、市民多数が自殺した。正確な死者数は今日尚確定されて居ないが、700乃至1000名以上が自ら命を絶ったと推定されて居る。世界観戦争の敗北、その帰結であったが、ナチのプロパガンダは、デミーンこそ模範であるとして称賛した。

 加えて、ドイツが占領した土地へ入植した者、ロシア・ポーランド・チェコスロヴァキア・バルカン諸国のドイツ系住民が、ソ連占領軍や戦後に成立した中・東欧諸国の新政権に依って追放された事に依っても膨大な数の犠牲者が出て居た。
 彼等「被追放民(フェアトリーベネ)」は、財産を没収され飢餓や伝染病に悩まされながら、多くは徒歩でドイツに向かったのだ。その総数は、1200万乃至1600万と推定されて居る。内死者は100万とも200万とも言われる。

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 掛かる混乱の余波も冷めやらぬ中、7月17日より、ベルリン近郊のポツダム市連合国首脳会談が開かれた。スターリンと米英のトップが、戦後秩序の在り方を論じたのだ。
 この会談の結果、ドイツ東部領土のソ連とポーランドへの割譲、ドイツ分割占領の方針等が決められた。後者は、後にドイツの東西分裂に繋がって行く。そうして出来たドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)が、再び統一される迄には半世紀近い時間を要した。

 東方植民地帝国の建設を目指して開始された「世界観」戦争は、ヒトラーが一千年続くと呼号した国家の崩壊、更には他民族に依る占領と民族の分裂と云う形でピリオドを打たれたのである。



 大木 毅(おおき・たけし) 現代史家
 1961年生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学(専門はドイツ現代史、国際政治史)千葉大学ほかの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師等を経て、著述業。
 著書に、『「砂漠の狐」ロンメル』(角川新書、2019)『ドイツ軍事史』(作品社、2016)他。訳書にエヴァンズ『第三帝国の歴史』(監修。白水社、2018─)ネーリング『ドイツ装甲部隊史 1916-1945』(作品社、2018)フリーザー『「電撃戦」という幻』(共訳。中央公論新社、2003)他がある。


     現代史家 大木 毅    以上


 



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参院選で躍進の野党小政党 自民党が衆院選で圧勝する要因に




 参院選で躍進の野党小政党 自民党が衆院選で圧勝する要因に


            〜NEWSポスト7 2019・8・7〜


 「当分衆院の選挙は無いと安倍さんは言ってますから」7月24日、都内で開かれた五輪関連の会合でそう述べた森喜朗・元首相。だが、そう云う言葉が報じられた時こそ水面下では、虎視眈々と解散の準備が進められて居るものだ。特に「参院選で躍進した」と報じられた「れいわ新撰組」や「NHKから国民を守る党」等の野党小政党の動きは今、皮肉にも自民党が衆院選で圧勝する要因と為り得る。この好機を安倍首相が逃す筈は無い。

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 11月解散、総選挙は五輪前の最後の解散チャンスだ。選挙戦と為れば間違い無くこの2人の集客合戦に為る。熱烈な支持者と警護に二重三重にガードされて街頭演説に立つ安倍首相と、神出鬼没で「太郎は太郎でも、麻生太郎じゃアリマセン」と商店街を練り歩く「れいわ新選組」の山本太郎代表だ。
 だが〈台風の目〉に為ると予想される山本氏が脚光を浴びる程、他の野党の存在は霞み、戦況は「自民党有利」に為って行く。先ず〈野党の票の奪い合い〉が始まる。

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 山本氏は次期衆院選に「独自候補100人擁立を目指す」と宣言した。12月総選挙に為れば自ら大票田の東京などで小選挙区と比例代表に重複立候補するのは確実だろう。それに戦々恐々として居るのが自民党より立憲民主党だ。「れいわ」と支持層が重為るだけに、100人も候補を擁立されると票を食われて共倒れに為り兼ね無い。
 枝野幸男・立憲民主党代表は「衆院選に向けてれいわ新選組と連携出来れば有難い」と選挙協力を呼びかけているが、山本氏は「マスト(選挙協力の絶対条件)は消費税5%への減税。ここが担保され無いと一緒に遣れ無い」と厳しい条件を突き着けた。立憲民主党議員が心配する。


 




 「枝野さんは菅内閣の官房長官、野田内閣の経産大臣として民主党政権時代に消費増税を推進した中心メンバーの1人だから、自己否定に繋がる税率引き下げを飲む積りは無い。党内には野田内閣で増税責任者の財務大臣だった安住淳さんや行革相だった蓮舫さん等が居るから、消費税減税で党内をまとめるのは難しい。
 増してや国民民主や野田佳彦・元首相が率いる『社会保障を立て直す国民会議』が「れいわ」と組むとは考えられ無い。参院選では全ての1人区で野党統一候補を立てて善戦したが、総選挙は立憲と国民とれいわが独自候補を立てて潰し合うと云う最悪の状況も覚悟する必要がある」


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 野党共闘から〈いち抜けた〉の国民民主党の先も暗い。参院選直後に安倍首相から秋波を送られ、国民民主の玉木雄一郎代表は「私は生まれ変わった」とし、憲法改正論議を進めて行くと言明した。国民民主は参院でも改憲勢力の日本維新の会に統一会派を組む事を申し入れる等改憲反対の立憲民主等他の野党とハッキリ一線を画す姿勢を見せて居る。
 国民民主は参院選の比例代表の得票が348万票(3議席)に留まり、前身の希望の党が前回総選挙の比例代表で得た968万票から3分の1に減らした。大労組の組織内候補5人の内2人が落選し、党の基盤だった民間労組の票も離れた事がハッキリした。


 ※週刊ポスト2019年8月16・23日号  以上


 




 【関連報道】

       
 国民・玉木代表 原発ゼロと距離置く姿勢強調 電力総連大会

             〜産経新聞 9/4(水) 20:41配信〜


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 国民民主党の玉木雄一郎代表は4日、静岡県伊東市で開かれた支持団体の電力総連(岸本薫会長)の定時大会に出席し、立憲民主党との統一会派結成に付いて説明した。玉木氏は「夫々が別の党である事を踏まえ、夫々の立場に配慮すると決めた。重い合意だ」と強調。立民が掲げる原発ゼロ政策とは一定の距離を置く姿勢を示した。

 電力総連は原発再稼働の推進を求めて居る。大会で岸本会長は統一会派に付いて「何を大義に統一会派を志向するかが鮮明であり、有権者の共感を得るもので無ければいけ無い」と指摘。原発政策も念頭に「(国民民主の)基本理念と基本政策が担保され、存在感が維持出来るもので無ければ為ら無い」と玉木氏に釘を刺した。

 玉木氏は大会出席後、立民等が国会に提出済みの原発ゼロ法案等への対応に付いて記者団に「8月20日の(党首会談の)合意で方向性は出し切った」と強調。「今迄は別の党として作った法案だったが、会派を共にして遣って行く内閣提出法案への対応等は出来るだけ一致させる事が必要だ」とも述べ、両党が過去に個別に手掛けた議員立法への対応や評価は、必ずしも同じである必要は無いとの考えを示した。

 国民と立民の統一会派結成は8月20日の党首会談で合意に至った。この際、玉木氏は立民の枝野幸男代表に対し、原発ゼロ法案等への対応に付いて「主張を理解し、相互に協力する」と表明して居る。(千葉倫之)

                 以上


 



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