2016年05月18日

第189回 両国橋駅






文●ツルシカズヒコ




 辻の家を出た野枝は、とりあえず神田区三崎町の玉名館に身を落ちつけた。

 玉名館は荒木滋子、郁子姉妹とその母が経営する旅館兼下宿屋である。


 ……私の処へ突然にお出でになつて……T氏との家庭のもた/\をお話しになつたことがありました。

 其節O氏とのいきさつもお話し下すつて一旦自分一人国へ戻らうかとも思ふが、出来ることなら帰国せずに、何処か一人静かに潜んで読書したい、と云ふことでしたので……「もし私の位置が、あなたの向上の為めに役立つなら、御利用下すつてよござんす」と、申したことでした。

 と、それから四五日程すると、「たうとう御厄介になりに来ましたよ、T氏とは、すつかり了解を得ましたし、当分少し落着かせて下さいね」とのことでした。

 と、後から、たうとうO氏も一緒に住まはれることになつてしまつて、(私としては……少し不意だつたので、ちつと面喰ひました)。

 O氏が家へ来られた三日目頃に、憲兵屯所からと云ふて、私のことを大変委しく調べに来た……生憎(あいにく)私が留守の時で、母が応対しました為めに、母に非常な心配を懸けてしまつたのです。


(荒木滋子「あの時の野枝さん」/『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号)

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 辻の家を出た翌日、四月二十五日の朝、野枝は野上弥生子の家を訪ねた。


 彼女には一昨日の晩のしほれた、哀れげな様子はもう微塵も残つてゐませんでした。

 血色のいゝ元気そうな顔をして、

「何んだかせい/\したやうな気がしますのよ。」

 と云つて笑つてゐました。

 三年前のあのジプシー・ガールじみた野生美の魅力ーーそれは久しくその顔から薄れたやうに見えたものーーが俄かに顔ぢゆうに溢れて来たかの如くでありました。

 伸子はその著しい変化に驚かされました。

 而して目の前の彼女の自由な、気軽そうな様子とは反対に、自分の気持ちはだん/\重く沈み込んで行くのを感じました。


(「彼女」/『中央公論』一九一七年二月号/岩波書店『野上弥生子全集 第三巻』一九八〇年)





 翌日、四月二十六日、野上弥生子は野枝の使者から手紙を受け取った。

 弥生子は野枝から求められた少しの金と手紙を使者に渡した。

 弥生子が野枝に宛てた手紙には「婦人が或る主張、必要に迫られて家を見捨てた時、門の外一歩には何が一番に待つてゐるかを考ふる事は、その際何より大切な事でなければならない」と書かれていた。

「ノラはあれから何をして生きただろう。悪くすると売春婦になったかもしれない」

 と書いたある米国の婦人評論家の言葉を、弥生子は痛切に考えていたのだった。





 野枝が千葉の御宿に旅立つことになった四月二十九日、野枝の部屋でささやかな送別会が開かれた。

 郁子も朝から野枝の部屋に入りっきりで、五十里(いそり)幸太郎などを交えて与太話をした。

 それから、野枝の旅立ちの荷作りをすることになった。


 ……O氏が、それは、それ、これは、これ、と目見当をつけてゐる間を野枝さんは、赤ちやん……に、おつぱいを飲ませながら、横になつて肘枕の上で、呑気さうな顔ににこ/\して居ました。

 と、Oさんが、

「君、縄は、もう用意してあるんでせうな」

「まだ」

「なに?まだ?何故買はせて置かなかつたの、そんなこつちや、君との間も長いこつちやないね、せい/″\一年位続くかな」

 O氏は、少し吃り、吃り、そんな冗談を云つて、笑つてでした(ママ)。

 野枝さんは、済まして、赤ちやんの方へにこ/\してゐました。


(荒木滋子「あの時の野枝さん」)





 夕刻、『万朝報』の記者が来た。


 野枝に「あなたの態度は若い婦人たちにとっても打撃でしょう」と問うのに、「え、打撃? 私のほうはそうは思いません」と言うや、すぐ大杉が引き取った。

「打撃だってぇ、馬鹿にしてらぁ。打撃どころか眠っている婦人界の目を覚ましてやるんだ。礼を言われてよいはずだよ。ああ、東京はうるさい、うるさい。こんな所にいられないから逃げていくのさ。まあ新婚旅行だよ。」


(大杉豊『日録・大杉栄伝』)





 大杉や五十里(いそり)は野枝を両国橋駅まで見送った。

 当時、総武線は隅田川の西岸と接続しておらず、総武線の西の始発・終着駅は両国橋駅だった。

 両国橋駅が両国駅に改称されるのは一九三一(昭和六)年、路線が隅田川を渡り御茶ノ水駅まで延線開業するのは一九三二(昭和七)年である。

 両国橋駅から総武線に乗った野枝は千葉駅から房総線(現・外房線)に乗り換えた。

 房総線の車両には野枝を含めてふたりの乗客しかいなかった。

 四時間汽車に揺られて深夜、御宿駅に着くと、雨が振り出した。

 風も強く淋しい夜だった。

 野枝が歩いて向かったのは、千葉県夷隅郡御宿の上野屋旅館だった。

 かつて、らいてうが奥村と長逗留した旅館である。

 らいてうから話を聞いた野枝は、一度、行ってみたかったのだろう。

 御宿の停車場のすぐ近くだと聞いていたが、少し離れていた。

 海の近くだった。

 かなり広い旅館で、野枝は一番奥の中二階のような四畳半の部屋に通された。


上野屋旅館


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:03| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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