2016年05月15日
第176回 公娼廃止
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年一月三日、『大阪毎日新聞』で野枝の「雑音ーー『青鞜』の周囲の人々『新しい女』の内部生活」の連載が始まったが(〜四月十七日)、肝心の『青鞜』一九一六(大正五)年一月号の表紙は文字だけになった。
野枝は読者に向けて、こう書いている。
私は自分で編輯するこの雑誌を、出来る丈(だ)け、立派なものにしたひと思ひます。
けれども如何に、私が自惚(うぬぼ)れて見ましても本当に貧弱な内容しか持つことが出来ません。
私一個の微力では勿論どうしても読者諸君を満足させるやうな大家の執筆を乞うことは出来ません。
目次にならんだ人達はまだ世間の表に立つていゐない人の方が多数を占めて居ます。
私自らはこの雑誌自身に単なる苗床としてより以上の何の価値も求めやうとはしません。
此処に芽を出した苗がどんな処にうつされ、どの苗がどう育つてゆくかーー未成品ーーと云ふことに興味をもつて下さる方に初めてこの雑誌は雑誌自らの存在の意義を明らかにするのです。
私はかう云ふ負け惜しみな理屈を楯に何と非難されても相変らず貧弱な雑誌を倦きずにこしらへてゐるのです。
ーー編輯者ーー
(「読者諸氏に」/『青鞜』1916年1月号・第6巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p301)
『青鞜』同号に青山菊栄「日本婦人の社会事業に就いて伊藤野枝氏に与ふ」が載った。
『青鞜』前号の野枝の「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就いて」への反論である。
菊栄は野枝の矯風会批判は認めながら、公娼制はなくならないとする野枝を批判、不自然な淫売制度の全廃を主張した。
『青鞜』同号に野枝は菊栄への反論を書いた。
野枝の言わんとするポイントを拾ってみる。
●私があれを書いた時に主として土台にしたのは矯風会の人たちの云ひ分でした。
●私はそれ以外に深く考へることをしなかつたのは私の落ち度ですが彼(あ)の人たちからはさう云ふ深い事は聞きませんでした。
●根本の公娼廃止と云ふ問題はあなたの仰つしやるやうな正当な理由から肯定の出来る事ですが、私は矯風会の人達の云ひ分に対しては矢張り軽蔑します。
●先づ、何より先にあなたに申あげなければならない事は、私が公娼廃止に反対だと云ふ風にあなたが誤解してお出になるらしい事に就いて、私は左様(そう)ではありませんという云ふことです。
●……あなたはそれを男子の身勝手と云ふ簡単の言葉で片づけてお出になりますが、私は男子の本然の要求が多く伴つてゐると云ふ主張は退ける事が出来ません。
●……あなたは人間の本当の生活と云ふものがそんなに論理的に正しく行はれるものだと思つてゐらつしやいますかと私は反問したい。
●あなたはあんまり理想主義者でゐらつしやいます。
●「男子の本然の要求だからと云つて同性の蒙(こうむ)る侮辱を冷然看過した」とあなたはお責めになるけれども、看過(みすご)せない、と云つてどうします。
●私は本当にその女たちを気の毒にも可愛さうにも思ひます。
●けれども強制的にさうした処に堕ち込んだ憐れむべき女でさへも食べる為、生きる為と云ふ動かすことの出来ない重大な自分のために恬然(てんぜん)としてゐます。
●彼女等をその侮辱から救はうとするのは他に彼女等を喰べさせるやうな途を見付けてからでなくては無智な、何も知らぬ女たちにとつてはその御親切は却つて迷惑なものではないでせうか?
●「人間の造つた社会は人間が支配する。」と云ふお言葉は尤もに聞こえますがその人間を支配するものがありますね、その人間を支配する者が矢張り社会も支配しはしないでせうか。
●社会は人間が造つたのでせうけれど人間は誰が造つたのでせう?
●果して人間は何から何まで自分で自分の仕末の出来る賢い動物でせうか?
●まあ一寸(ちょっと)考へて見ても人間は時と云ふものに駆使されてゐます。
●権力者の造つた制度が不可抗力だなどゝ云つた覚えは更に私にはありません。
●権力者たちの造つた制度のなか/\こはれないのはせい/″\時の問題位なものです。
●それ丈けの制度の根を固める為めには権力者たちも相当な犠牲を払ひ骨折をしてゐるのですからいくら不自然だつて何の償いもなしにその株に手をかける事は許されない道理でせう?
(「青山菊栄様へ」/『青鞜』1916年1月号・第6巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p302~307)
山川菊栄は後に、この野枝との論争についてこう回想している。
その冬、私は野枝さんが『青鞜』に書いた婦人矯風会の廃娼運動に対する批判が、いかにも無責任な放任論に思われたので、『青鞜』に投書して批評しました。
私は救世軍や矯風会の救済事業が万全の売春対策だというのでなく、売笑の根本的な解決は別として、封建時代そのままの遊郭制度、公然の人身売買、業者の搾取を放任すべきでないと考えたのです。
私の家は麹町で四谷あたりへよく買物にいきましたが、そのころはまだ新宿の表通りが遊郭で、遊女屋の定紋つきののれんと格子窓の様子は浮世絵そのまま、入口にはうち水、もり塩、昼間は夜中のように静かでうす気味が悪かったものです。
品川の遊郭も同様でしたし、深川に住む友達の案内で二、三の友達と洲崎の遊郭をこっそり見学したのもそのころ。
まだ張見世のあった時代で、電灯の光をあびて、らんまに墨くろぐろ「初見世」と大字の張紙のある下に赤いきもので坐っていたおしろいの娘の顔は、生きながらの獄門、さらし首のようでした。
それは私の子供のことから新聞でよくみた娼妓の逃亡、自由廃業、業者と警察や有力者とのなれあい、自廃をたすける人々への暴力ざたなどを思わせずにはおかず、これを国家公認の制度として維持することは絶対に許すべきでないと思われました。
ところが野枝さんの批評は、そういう問題の核心にはふれず、ただ矯風会の廃娼運動は無意義だ、不徹底だという一言でかたづけていたので、私は黙っている気にならなかったのでした。
(山川菊栄『おんな二代の記』_p215~216)
『青鞜』一九一六年一月号「編輯室より」から野枝の言葉を拾ってみる。
●もう私が雑誌を譲り受けまして丁度一年になります。どうかしたい/\と思ひながら微力で思つた十分の一も実現することがなく無為に一年を過しました。
●今月号も新年号の事とてどうにかしたいと思つてゐましたが何しろ、私が帰京しましたのが十二月五日か六日だつたのにそれから一週間ばかりの間は咽喉をはらして食事をすることも話をすることも困難になつて何も出来ませんでした為めに、……今度もまたおはづかしいものをお目に懸けます。
●けれども私も身軽になつてかへつて来ましたからこれからは少し懸命に働きたいと思つてゐます。
●平塚さんは九日にお嬢さんをお産みになりました。哥津ちやんも一日ちがひに男のお子さんをお産みになつたさうです。まだ会ひません。
●平塚さんのお産をなすつた翌日位に何でも新聞記者が訪ねて行つたのを附添の人が知らずに上げました処、「御感想は?」と聞いたさうです。
●私はあんまりの事に本当に怒りました。何と云ふ無作法な記者だらうとまだお見舞いの人も遠慮して得ゆかないお産室に、一面識もない者が新聞の材料をとりにゆくつて、何と云ふ人を侮辱した仕方でせう。
●私は頭が熱くなる程、腹が立ちました。
●平塚さんは洗面台の上にのせた花の鉢を指さして、「この花と私の感想を交換するつもりで来たのですよ、私は苦しいと云ふより他何の感想もありませんつて云つてやりました」と話されました。
●私はさうした侮辱も黙つて許してお聞きになる平塚さんの気持を考へてゐると涙がにじんで来ます。
●私は「雑音」と云ふ題で……長篇を書きはじめました。青鞜に載せるのが私の望みでしたけれども……大阪毎日に連載することにしました。
●それは私の見た青鞜社の人々について私の知るかぎり事実をかくのです。私はそれによって幾分誤解された社の人々の本当の生活ぶりが本当に分るやうになるだらうと思ひます。
●それでいろ/\なものを見、考へてゐますと、私の入社当時から今日までにも本当に、おどろくべき変化が何彼につけて来てゐます。
●あんなにさはぎまはつてゐた紅吉(こうきち)さんは今は御良人と静かな大和に、子供を抱いてしとやかな日を送るやうになつたのですもの、あの文祥堂の二階で皆してふざけたり歌つたり、平塚さんのマントの中に入れて貰つて甘へたりした私が二人の母親に、他の皆も母になつたりした事を考へますと僅かの間にと、本当におどろいて仕舞ます。
●驚くと云ふよりは不思議な気がします。
●岡田八千代様、長谷川時雨(しぐれ)様のやうな立派な方が何と云つてもまだ未成品の私共と一緒に筆をとつて下さることを本当にうれしく感謝いたします。
(「編輯室より」/『青鞜』1916年1月号・第6巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p309~311)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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