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2019年10月23日

新選組の名を轟かせた「池田屋事件」 潜伏浪士捜査の背景




 新選組の名を轟かせた「池田屋事件」 潜伏浪士捜査の背景






 

           〜AERA dot.〈dot.〉 10/23(水) 17:00配信〜


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 古高俊太郎(ふるたか・しゅんたろう)近江出身 帰農した武士である郷士だった父の転職に従って上洛した後、桝屋の養子に入って商人を装った反幕府勢力工作員と為る。幕府の弱腰外交を批判する儒学者・梅田雲浜の弟子で、雲浜が安政の大獄により獄中死した為反幕府へと・・・
 
 〜週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』では、幕末を大特集。剣と誠を貫き、滅び行く幕府に殉じた新選組。時には「壬生浪(みぶろう)」と蔑まれながらも、恐れられたその実力とは如何なるものだったのか。前回紹介した「新鮮組の剣と必勝戦術」が天下にその名を轟かせた、池田屋事件を解き明かす!〜


 池田屋事件前、新選組の解散をも憂慮して居た近藤/span>
 
 文久三年(1863)八月十八日、長州藩は突如、それ迄任じられて居た御所の警備の任務を解かれた。更に支柱として居た親長州系の公家等の参内も停止された。反幕府系の彼等と対立して居た会津、薩摩等の公武合体勢力が起こした政変である。
 程無く長州系の公家等は京都を追われ、不穏と目される長州系の活動家達も京都を離れて行った。だが、その後設立した、公武合体派の諸侯が重要施策の指針を合議する参与会議が、成果を得ぬママ解散してしまった。将軍徳川家茂は元治元年(1864)一月に2年続けて上洛したが、国を挙げた攘夷への道筋すら見出せて居ない。
 
 その頃、京都を追われて居た反幕府勢力が、回帰、潜伏し始めて居る事が公然と不安視される様に為って居た。四月二十四日、町奉行所は町触(まちぶれ)を発し、夜間の木戸門の戸締まりと、不審者への注意の徹底を呼び掛けた。町触には、もし不審者が乱暴し手に余る様なら殺害も認可すると迄示されて居る。

 治安勢力は確かに策動し始めて居た。四月下旬の事とある。河原町付近で起きた火災の折り、新選組は不穏な動きをした長州藩邸の門番を自称する男を捕縛・尋問の結果、250名の長州勢が京都に潜入して居るとの情報を得たと『島田魁日記』は伝えて居る。
 人数情報は相当に過大と思われるが、新選組はこの証言に反応、直ちに、島田、山崎丞、川島勝司等の隊士が確実な情報を求めて市中に潜って行ったと云う。

 だがこの頃、局長近藤勇は憂慮を抱えて居た。家茂の再東帰から4日後の五月二十日、近藤は、将軍帰還後も混沌とした政局が続く為らば、新選組の解散をも許可して欲しいとの上書を幕閣に提出して居た。新選組そのものが、成果も無く歴史の波間に沈んでしまう危機をも内包して居た時期に当たった。  
 更に六月一日頃、新選組は鴨川東岸で中間風の不審者2名を捕縛、彼等の口から不審者の情報等を得たとする同時代の風聞情報が『時勢叢談』(じせいそうだん)に伝えられて居る。島田や山崎等の探索に加え、こうした予期せぬ入手情報も、新選組には役立った事だろう。

 程無く一人の人物に辿り着く。四条寺町で薪炭商を営む桝屋喜右衛門と云う男だった。その実体は近江出身の反幕府活動家の古(ふる)高俊太郎で、商人を装い、潜伏中の反幕府勢力に様々なサポートを行なって居た人物だった。  
 桝屋の一軒隣には具足店が在った。この店を営んで居たのは播磨林田出身の活動家大高又次郎で、古高共々、潜伏者達の便宜を図って居た人物である。

 六月五日早朝、新選組から、組頭の武田観柳斎が率いる数名の隊士が桝屋に出張。喜右衛門こと古高俊太郎の身柄を拘束し壬生屯所へ連行した。併せて桝屋店内の捜索も行なわれた。
 古高連行の報に長州系の活動家達は騒然と為った。在京中だった肥後の宮部鼎蔵や長州の吉田稔麿等リーダー格の者達は、危機回避を優先させる。宮部と吉田は「壬生屯所へ討入り古高脱還を」と叫ぶ者達を長州藩邸に集めて説得し、一先ず動揺を鎮めた。
 古高がこの時点で何処まで自白したのかは判然としない。只、桝屋内の捜索で、火薬等が発見され、更に前年末に認めた活動家等の血盟状等も押収された。2日後の七日は、祇園祭本祭で山鉾巡幸が実施される。こうした時期に、漠然とした危機が提示されたのである。

 市中が混雑する中で、一人でも多くの不審者を捕らえ、不穏な出来事を阻止すべく、新選組は京都守護職に、治安勢力による至急の出動開始を要請した。ここ迄新選組解散を視野に入れて居た近藤勇にトッテモ緊急の状況と為った。当時、新選組の全隊士は約40名だった。
 山崎丞ら少数を、古高脱還に備えて屯所警衛に残したと観られ、総勢34名で出動待機場所の祇園町会所に集結した。オイオイ、治安勢力も出動体制を整える中、新選組は少ない隊士を機動的に動かす為、近藤勇と土方歳三の指揮する二分隊を編成した。

 四条通りを起点に近藤隊は鴨川西岸、土方隊は同東岸を北上しながら、潜伏浪士の捜索を行ない、二条通りから南下する会津兵と、三条通りで合流すると云う順路も決められた。その頃、吉田稔麿は常宿の四条小橋の池田屋を訪れ、急遽書面を認(したた)め、同志等を呼んで居る。未だ池田屋では何も始まって居ない。皮肉にも新選組の捜索開始後、会合は整えられて行ったのだった。


  文 伊東成郎 ※週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』より   以上






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