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2018年06月27日

仲代達矢と桂歌丸が語った戦争体験

 
 仲代達矢と桂歌丸が語った戦争体験が話題!

「戦争を知らない政治家が戦争に触れるな」


 2017.08.12 より引用

     仲代.jpg

 左「無名塾 Official Website」より 右「落語芸術協会」協会員プロフィールより


 今年で終戦から72年。実際に戦争を体験した世代が次々と鬼籍に入り、戦争の恐ろしさを語り継ぐ人がいなく為るのと入れ違う様に、安倍首相を初めとした極右政治家による憲法改正論議がかまびすしく為って来て居ると云う悲嘆すべき状況がある。
 そんな中、今月5日『報道特集』(TBS)で放送された仲代達矢と桂歌丸のインタビューが話題を呼んで居る。この日の『報道特集』では「戦争と憲法」と題し、実際に戦争を体験した人の証言を踏まえた上で、日本国憲法が人々にどの様に受け止められて来たのかを振り返って居た。

 番組の前半、当時を知る人々へインタビューして行くパートで登場したのが仲代達矢桂歌丸。その中で語られる戦争体験は凄まじい。
 1932年に生まれ東京に住んで居た仲代達矢は、戦争末期の東京においては死体を街中で見かける事すら最早日常の一コマであったと語る。

 「マア凄まじいもんで、新宿辺りへ空襲の後に行きますと、黒焦げに為った死体が何百と死んでる訳ですから、それを通り越して中学へ行ったもんです」

 そして、仲代自身も叉空襲に遭い九死に一生を得る壮絶な体験をした。それは、1945年5月25日の夜、友達に会う為に青山通りを歩いて居る時の事だった。

 徒歩で行く途中に空襲警報が鳴りまして、焼夷弾がバラバラ落ちて来て、これはいかんと思って逃げ回って居る時に、未だ小学生でも無い様な女の子が一人逃げて居るんですね。全然知ら無い子ですけど、その子の手を握って逃げ回っていたら急に手が軽く為ったんですね。
 で、見たら、焼夷弾が彼女に直撃して私はその腕だけ持って居たと。自分も遣られたかなと思ったんですけど、辛うじて私に当たら無いでその女の子に当たってその手だけ握ってたんですね。恐怖の余りにその手を捨てて逃げてしまったんですけど、その手を捨ててしまった事を私は未だ後悔しております」
 

 これは「山の手大空襲」と呼ばれる東京大空襲後の大規模空襲で、渋谷、表参道、赤坂等を標的に6000トン以上の焼夷弾が投下され2万2000人の死傷者を出している。彼はこの空襲を生き延びた。

 仲代達矢 「最期に「戦争反対」って云うのを唱えて死んで行きたい」

 仲代達矢と言えば『人間の條件』や『激動の昭和史・沖縄決戦』を初め反戦色の強い戦争映画に出演した。特に主演を務めた『人間の條件』は彼に取っての出世作と為った作品だが、役者として仕事をする上での基盤を作ったのも叉戦争体験であったと過去に語った事がある。「キネマ旬報」13年3月1日号ではこの様に話して居た。

 「僕は子供だったから、批判する力も何も持って居なかった。校庭へ入れば右に天皇陛下のご真影があってそれに敬礼すると言う様な学校生活を六年間過ごした訳ですから。天皇陛下の為に死ぬ事は当然の事だと思っていました。
 東京の渋谷に居たものですから、昭和二十年の四月から五月に掛けての東京大空襲を体験しました。爆弾が投下されて学校のクラスの半分位が死んでしまい僕は生き残った。そして八月十五日の敗戦を境にして大人達の態度が変わってしまった。“鬼畜米英”が一夜にして“ギブ・ミー・チョコレート”に為った。
 最も多感な年頃でしたから『何でだ!』と大人に対するニヒリズムを持ちました。それが役者に為ってから随分役立ったと思って居ます。人間の脆(もろ)さ負の部分の捉え方に。人間肯定と人間否定の間に板挟みに為りながらね」

 
 権力も叉、その権力に追随する大人も所詮は朝令暮改で意見を変えるし信用するに足ら無い。だから「お国の為」等と言われても命を差し出す必要など無い。彼と同じく、戦争中と終戦後で人が変わったかの様に意見を変える大人を見て人間への不信感を抱いたと語る人は多いが、仲代は『報道特集』の中で、今を生きる若者達にこう語り掛けた。

 「僕等の世代で生き延びて居る奴はもう少ないですけど、皆こう云う経験して居る訳で、何が戦争だと思いますね。国を守る為にって言われると、そうかなぁと思って皆権力者の後について行ってしまうのかも知れませんけれども。戦争を体験した事も無い人達に最期に「戦争反対」って云うのを唱えて死んで行きたいですね」

 そして、番組の中でもう一人戦争体験を語ったのが桂歌丸だ。彼はインタビュー冒頭から強い調子でこの様に語る。

 「戦争何てのは本当に愚の骨頂ですよ。遣るもんじゃ無いですよね。未だに戦争の爪痕って云うのは残ってるじゃないですか」

 歌丸は1936年に横浜で生まれ育つが戦争中は千葉に疎開して居た為、仲代の様に九死に一生を得る様な場面に遭遇してはいない。しかし、横浜大空襲の時には千葉から東京湾越しに見える横浜の黒煙を眺め、その煙の下に居る祖母の安否を案じて居たと云う記憶を語って居る。

 桂歌丸「戦争を知ら無い政治家が戦争に触れるな」

 そして歌丸は「人間、泣かせる事と怒らせる事は簡単なんですよ。笑わせる事位難しい事は無いですよ」と語りつつ、戦時中の「禁演落語」に付いて語る。
 禁演落語とは、遊郭(ゆうかく)に関した噺(はなし)・妾(めかけ・おんな)を扱った噺、色恋にまつわる噺等国の為の質素倹約を奨励された時局に合わ無いとされ、高座に上げられる事を禁じられた53の噺の事。その中には吉原を舞台にした「明鳥(あけがらす)」等、今でも盛んに高座に上げられる人気の噺も含まれている。叉、当時の落語界は観客に人気の古典落語を捨て去ったのみ為らず表向きは自ら進んで戦争に協力した。
 時局柄政府に取って「都合の好い」グロテスクな国策落語を多く生み出してしまったと云う過去も持って居る。歌丸は落語界が持つ暗い歴史をこの様に語る。

 「あの落語を遣っちゃいけ無い、この落語を遣っちゃいけ無い、全部お上から止められた訳ですよ。だから『長屋の花見』を改作して『長屋の防空演習』として遣って居る師匠も居ましたよ。面白く無いよそんなものは」

 そして彼はインタビューの最後『笑点』では見る事の無い怒りに満ちた表情でこの様に語り掛けた。ここで彼の脳裏に誰が浮かんで居たかは言わずとも誰もが想像着くだろう。

 戦争を知ら無い政治家が戦争に触れるなと言いたく為るんです。戦争を知ら無かったら戦争をもっと研究しろって言うんです。戦争って云うのは良い物なのか悪い物なのかこの判断をキッチリとしろって言いたく為るんです。
 それを只上辺(うわべ)だけで話して居るから可笑しく為っちゃうんです。良い物だと思っている政治家だったら我々は選ば無いです、絶対に」


 この番組での二人の証言は大きな話題を呼んだが、その一方、ネトウヨからは「桂歌丸は終戦当時10歳だから戦争を知ら無い癖に」との声も溢れた。確かに仲代達矢にせよ桂歌丸にせよ終戦当時は10歳前後だ。戦地に赴いた訳では無い。
 しかし、焼夷弾が雨の様に降り注ぐ中逃げ惑った経験、千葉から見える故郷・横浜の黒煙を為す術も無く眺め家族の安否を思った経験、これが「戦争を知ら無い」と云う事に為るのだろうか。十二分に戦争の恐ろしさを伝える経験である。当時を知る世代が次々と鬼籍に入って居る中、絶対に耳を傾けるべき貴重な体験談である事はワザワザ指摘するまでも無い。

 因みに番組の最後、仲代達矢はこの様に語って居た。

 「日本国憲法9条の問題にしてもですね、あれが70年間を平和にして来た訳ですから、憲法が改正される、それから9条に対して自衛隊がどうのこうのって云う問題はね実に恐ろしい事だと思いますね。
 だから、憲法改正は具体的に言って反対です。ヤッパリそれを改正しないで平和憲法を保って行くのは日本人の叡智だと思いますね」


 先人達が反省を元に作り上げ70年間この国に平和をもたらして呉れた「叡智(えいち)」、これが壊される事の無い様、日本が過つて経験した戦争の悲劇を改めて見つめ直す事には大きい意味がある。

 (編集部)



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