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2018年06月06日

モンゴル帝国の統治 地図で見る・・・その1


 モンゴル帝国 地図で見る・・・その1


 当時の中央アジアの情勢とは・・・


 中央アジアのトルコ化

 9世紀半ば、キルギスの侵入によりウイグル遊牧帝国が崩壊。帝国を構成して居たトルコ系民族は、モンゴル高原から中央アジアのオアシス地帯へと大移動を開始した。 甘州を中心に「甘州ウイグル」天山山脈東部に「天山ウイグル」西方に移動した集団は天山北麓のトルコ系部族カルルクに吸収され、このカルルク部族連合を基盤として、カラハン朝が建国された。
 
      内陸アジア世界の変遷

 カラハン朝は西隣のサーマーン朝の影響を受けてイスラームへ改宗し、又サーマーン朝でも軍事・政治の実権は次第にトルコ系軍人の手に移って行った。10世紀半ば、カラハン朝の伝説的な英主サトゥク・ボグラ・ハンがイスラームに改宗し、イスラームを国教とする史上最初のトルコ=イスラーム国家を樹立したとされる。
 10世紀半ば過ぎ、サーマーン朝のマムルーク出身の武将アルプテギーンがアフガニスタンに自立してガズナ朝の基を築いたのはこうした状況下の事である。やがてガズナ朝とカラハン朝が滅亡すると、中央アジア一帯のトルコ系の波は更に加速した。
 東西に伸びる中央アジアのオアシス地帯がペルシア語で「トルコ人の地」を意味するトルキスタンと呼ばれる様に為るのはこうした事情による。トルキスタンは、一般にパミール高原を境に西方の西トルキスタンと東方の東トルキスタンに大別される。
    
 こうした中央アジアのトルコ化・イスラーム化と云う趨勢(すうせい)は、11世紀以降更に周辺へと拡大し、西方ではトルコ系セルジューク朝の西進(バグダード入城〜小アジア進出)や、同じくホラズム朝による中央アジア〜イラン支配、アフガニスタン以南ではガズナ朝の北インド侵入から、ゴール朝、デリー・スルターン朝(最後のロディー朝のみアフガン系)へと継承されるトルコ系王朝の北インド征服、支配と云う歴史が展開して行ったのである。
    
 オアシス都市カシュガルは、カラハン朝の時代に首都と為り、トルコ化・イスラーム化が進展した都市として著名である。
 1075年頃バグダードで作成され、カリフのムクタディーに献上されたと伝えられるこの辞典は、トルコ系の諸語をアラビア語で解説した単なる辞典では無く、当時のイスラーム文化を多方面的に紹介した著作としてもきわめて重要である。

 モンゴル帝国の成立
     
内陸アジア世界の変遷

 モンゴル高原を約1世紀に渉って支配して来たトルコ系のウイグルは、9世紀中頃、内乱とキルギスの侵入によって瓦解し、ウイグル人は西方又は南方へ移住して行った。その後、モンゴル高原の東部にはタタール、モンゴルを初めとするモンゴル系諸部族が拠り、西部にはマイナン等のトルコ系諸部族が割拠したが統一勢力は現れ無かった。
 10世紀初め、モンゴル高原の東部に契丹(きったん)が遼(りょう)(遼朝)を建国すると、これ等の諸部族の多くは一旦は遼に服従した。12世紀初め遼は滅亡し、代わって女真の金(王朝)が中国東北地方から中国北部を支配する様に為った。
 中原進出を図る金王朝は、背後のモンゴル高原におけるモンゴルの台頭を恐れ、タタールを利用してモンゴルの分裂を図った。金王朝は、辺境地帯の遊牧民を招集して、糺軍(ちゅうぐん)と云う傭兵部隊を組織した。中でも強力なタタール糺軍を利用し、モンゴル部族の首長を捕らえて殺害し分裂を促した。    

 しかし、モンゴル高原東北部のオノン川付近で遊牧をして居たモンゴルは、有力な指導者テムジンの元に統一され、タタール、ケイレト、ナイマン等の諸部族を次々と破りモンゴル高原を制覇した。この時、ナイマンの王子のクチュルクは西遼(カラ・キタイ)に逃れ、その国を奪って西遼王と為りモンゴルと対抗した。1218年、モンゴル軍の攻撃を受けてクチュルクは殺され西遼も滅んだ。
 1206年、オノン川上流で一族・功臣を集めて開かれたクリルタイで、テムジンはチンギス=ハン(成吉思汗)の称号を受けモンゴル帝国が誕生した。

 *クリルタイ  モンゴル語で集会と云う意味で、有力者が参集して、ハンの選出、遠征の決定、法令の発布等の国家的重要事項を議題とした。後の皇位継承に伴う相続争いは、クリルタイに纏わる弊害と考える事も出来る。

 帝国では旧来の部族制に変わって全遊牧民を1000戸単位の集団に区分して編制し、戦時には約1000人の兵士を動員する千戸制と云う軍事・行政組織が敷かれ、その長にはチンギス=ハンの一族・功臣が任命された。又功臣の子弟を集めて親衛軍(ケシク)を編制し、千戸制と共に強力な軍事力の基礎とした。

 千戸制とケシク

 チンギス=ハンは、千戸制によって支配下のモンゴル系・トルコ系の遊牧民を95(一説に129)の千戸単位の集団に分割し、一族・功臣をその千戸長に任命した。千戸制は、平時の行政単位であると共に、戦時には1000人の兵士を動員する戦術単位でもあり、その内部も十進法によって百戸・十戸単位に組織され、夫々百戸長・十戸長が任命された。

 この様に遊牧民を十進法体系で組織する習慣は、匈奴以来の遊牧民に屡々見られたが、チンギス=ハンは、タタール、ケイレト、ナイマン等の敵対部族を征服すると、その部族民を各千戸集団に振り分け、人工的な部族組織を編制した。
 95戸の集団の内24戸は一族に与えられたが、残りはチンギス=ハンの元で指揮官が任命されてモンゴル高原に展開した。

 中央にはケシクと呼ばれるチンギス=ハン自ら指揮する親衛軍が置かれた。ケシクは兵力1万の軍隊で、兵士は功臣や千戸長・百戸長・十戸長の子弟から集められた言わばエリート集団であった。平時は護衛や宮廷の職務に従い、戦時にはチンギス=ハンの下で戦闘に参加した。
 要職にはケシクの構成員が派遣され、その子弟が新たにケシクに加わった。ケシクは、チンギス=ハンを中心に強力な連帯意識を持った親衛軍であると共に、モンゴル帝国の支配階級の養成機関でもあった。

 チンギス=ハン

 チンギス=ハンは、長城以南の農耕社会を攻略する為の財政的基礎を築き、モンゴル帝国の東西を押さえる 、その率いるモンゴル軍を内陸の東西貿易路に進めた。
 1209年、黄河上流の西夏を屈服させ、1218年にはナイマンに奪われて居た中央アジアの西遼を滅ぼしてイスラーム世界と国境を接する事に為った。
 更にチンギス=ハンは、モンゴルの通商使節が殺害された事を口実に、西トルキスタン・イランを支配するイスラームの新興国家ホラズム・シャー朝(1077〜1221)に対して遠征を行なった。モンゴル軍は、ブラハ、サマルカンド等のオアシス都市を次々と攻略し、1221年、ホラズム・シャー朝を滅ぼし(正式には1231年滅亡)、インダス川上流の西北インドまで侵入した。

チンギス=ハンの西征
     
 その間、1211年頃から前後3回に渉って金(王朝)に侵入して、黄河以北の地を攻略し、1215年には金の中都(現在の北京)を陥れた。
 1227年、チンギス=ハンは、先年の中央アジア遠征に参加を拒んだ西夏を滅ぼし、更に金の攻略に向かおうとしたが六盤山で没した。
          
 オゴタイ=ハン

 クリルタイ(モンゴルの最高意志決定機関)で推されて即位した第3子のオゴタイ=ハン(オゴタイ)(1229〜1241)は、チンギス=ハンの 始めた征服事業を継承して三方から金(王朝)を攻略し、1234年、首都汴京(べんけい)(開封)を占領した後、南宋と共同して金を滅ぼした。
 1235年、オゴタイは、モンゴル高原のオルコン川右岸のカラコルム(和林)に都城を定め、中国風の宮殿を築いた。内政面では、チンギス=ハンに仕えた耶律楚材(やりつそざい)を重用し、征服地の戸口調査を実施して新しい税制を設定する等、帝国の行政、徴税機構の整備を始めた。

 *耶律楚材 金朝に仕えて居た、過つての遼の王族の家に生まれた。中都が陥落した時にチンギス=ハンに見出され、オゴタイにも仕え文人官僚として活躍した。

バトゥのキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)建国

 1236年、チンギス=ハンの遺命により、長子ジョチの子バトゥはヨーロッパ遠征に出発した。ヴォルガ河畔からロシアに侵入したバトゥの遠征軍は、キエフ公国を壊滅させロシアの主要都市を次々と攻略した他、その一隊はポーランド、ハンガリーに侵入し、1241年、リーブニッツに近いワールシュタットでシュレジエン候ハインリヒ2世の率いるドイツ・ポーランドの諸侯連合軍を破った。
 更にハンガリーの首都ペストも攻略してヨーロッパ世界に脅威を与えたが、オゴタイが没するとバトゥの遠征軍はヴォルガ河畔まで後退し、下流のサライを都としてキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)を建てた。

 モンケ・フレグのイルハン国建国

 オゴタイの長子グユク(モンゴル帝国皇帝)(1246〜1248)が没し、代わって即位したモンケ(1209〜1259)は、弟のフレグに西アジア遠征を命じた。フレグは、イランのイスマーイール派(シーア派)を破り、1258年にはバグダードを攻略してアッバース朝を滅ぼし、イランを中心にイルハン国を建てた。
            
 支配体制の変革

 1259年には約30年にわたって抵抗して来た高麗も屈服し、モンゴル帝国は、東は中国北部から西は西アジア・ロシアに渉る大帝国と為った。モンゴル帝国は、宗教、文化の異なる多数の民族を統合する必要から、征服地の拡大と共に支配体制の変革に迫られた。
 チンギス=ハンは、モンゴル的分封制度に基づき、北方の遊牧地帯には一族を分封し、帝国内に半独立の小王国を作らせた。又、豊かな南方の農耕地帯は帝国の直轄領とし、ダルガチと呼ばれる監督官を派遣して治安維持や徴税に当たらせた。
 やがて皇位継承を巡って帝室内でオゴタイ家とトゥルイ家の対立が深刻化すると、各王家の所領は中央から分離する傾向が強まった。

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 ウルス

 当時のモンゴル系遊牧民の部族国家はウルスと呼ばれる。ウルスは元々人々の集まりを指す言葉である。そこから部族の民、国の民、更に国の意味と為った。但し土地や領域を基本とする定着農耕民の国や近代以降の国家とは異なり、飽く迄ウルスは人々に重点を置いた概念であった。
 その為、ウルスの人々が移動すればウルス自体も移動する性質を持って居た。ここに遊牧民の国家観が示されている。諸子や分封されたウルスを、チンギス=ハンのウルスが包括する形で帝国が構成されて居た。この諸子のウルスが征服により拡大し各ハン国として発展した。

 フビライ

 ハイドゥの乱

 モンケが急死すると、次弟のフビライ(ハン)(位1260〜1294)が末弟のアリクブケを破って大ハン位に即位した(モンゴル帝国帝位継承戦争)。
 この内紛を契機にオゴタイの孫のハイドゥもハンを自称してチャガタイ、キプチャク両王家と結んで中央アジアで挙兵し、約40年に及びモンゴル皇帝(大ハーン)フビライ率いる大元朝と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定付けた。
 このハイドゥの一連の行動は一般に「ハイドゥの乱」と呼ばれる。反乱はハイドゥの戦傷死まで断続的に続いた。

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 遠征軍の食料

 モンゴル軍の遠征には、「歩く食料」として羊が連れて行かれた事は有名である。言わば家畜を連れての遠征であるから、そのルートは草原と水場とを結んだものであり、ルート上の草原では自前の放牧や草の刈り取りは厳禁された。
 又、遠征にはボルツと呼ばれる保存食も携行された。これは冬の初めに解体された牛の赤身の肉をマイナス30℃の天然の冷凍庫で乾燥させ、2年掛けて完全に水分を抜いた処を槌で叩いて繊維状にし、更に臼で突き固めて圧縮したものである。
 遠征の際には牛の膀胱で作った袋に詰めて携行し、必要に応じて中身を湯に入れ数倍に膨らませて食べた。この牛の膀胱で作った袋には約1頭分の牛の赤身の肉が入り、1袋で10人の兵士の3週間分の食料に為ったと云う。

 その2につづく

 今回はサイクリングウエアーを特集!!


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