2021年10月25日
「インド独立と日本軍」の深い関係
インパール作戦の激戦地で見えて来た
「インド独立と日本軍」の深い関係
10/24(日) 11:52配信 10-25-1
インパール作戦の戦地を訪れてみると、日本軍とインド独立の深い関係が見えて来た (写真 佐藤幸徳中将がコヒマ攻略戦で居を構えた民家) 10-25-2
16万人もの死者を出し「無謀な作戦」の代名詞として現代に語り継がれて居るインパール作戦・・・その戦地を訪れてみると、日本軍と共に、インド独立の為にイギリス軍と戦ったチャンドラ・ボースの知られざる足跡が見えて来た。
※本稿は、岡部伸著『第二次大戦、諜報戦秘史』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。10-25-3
日本軍への協力を訴えたボース
インパール作戦は、太平洋戦線で劣勢に立たされた日本陸軍が、緒戦で占領したビルマを防衛し、中国・蒋介石政権に対する連合軍の補給路(援蒋ルート)を遮断する目的で行なわれた。第15軍の指揮下に在った3個師団がインパールとその補給拠点コヒマ攻略を目指したが、多くの死者を出し作戦は失敗に終わった。
しかし、激戦地と為ったインパールとコヒマ等では、地元の若い世代を中心に、約10年前から「民族の歴史を後世に正しく伝えよう」(マニプール観光協会のハオバム・ジョイレンバ事務局長)と歴史の見直しが進んで居る。
身元不明の遺骨や遺品の発掘、戦争経験者の証言収集等が進み、インパール南西約20キロメートルの「レッドヒル」と呼ばれる小高い丘の麓に、日本財団が支援して平和資料館が完成。日英の駐インド大使等が出席して2019年6月22日開館式が行なわれた。これに合わせて約一週間、筆者はインパールとコヒマの周辺を訪問する機会に恵まれたので在る。
今回の訪問で改めて判った事が在る。祖国インドを英国支配から解放する為、日本軍と共にINAを率いて戦ったボースが、コヒマ近くの最前線迄潜入し自由を獲得する為「同じアジア人の日本軍に協力して助けよう」と住民に直接語り掛けて居た事で在る。
ボースが滞在した村では「インド独立が生まれた聖地」として世界文化遺産登録の動きが進んで居た。インパール作戦は無残な失敗に終わったが、日本が支援したボースの積極的な武力闘争が、植民地支配からの解放に導いた事が裏付けられた気がした。
日本人とナガ民族は兄弟だ
インド東端・ミャンマーに接するマニプール州の州都で在るインパールは、イギリス統治時代から軍事上の要衝だが、米作地帯の中心でも在りインパール川の畔に広がる水田の美しさに目を奪われた。標高786メートルの高地に在る大きな盆地の中に街が在る。
日本軍は、海抜100メートル程のミャンマー側から1,500メートル近い山岳地を越え、インパールの盆地に入ったのだ。
30を超える多様な民族が共存し、キリスト教徒を中心にイスラム教徒も居て、街には多様性が溢れて居た。 4WDの車でインパールからコヒマに向けて約5時間走った。イギリス軍が補給の為に造成した道路は現在も舗装されて居らず、何度も頭を車の天井にブツケル片側通行の悪路だった。沿道には、自動小銃を持ち迷彩服を着たインド軍兵士がパトロールし、兵士常駐の検問所も在った。
ミャンマーや中国・バングラデシュと国境を接するインド北東部は、インド全体から見ると民族も歴史も異なる。ナガランド州等計8州には、400を超す少数民族を中心に約5,000万人が住んで居る。15の部族から為るナガ民族は独自の文化や風習を守って来た。
しかし、イギリスがインドを植民地とした1877年以降インドに統合される事に為り、1880年からイギリスに長く支配された。
第二次世界大戦後の1947年、インド独立直前に一時的に自治権を回復したが、その2年後、再びインドに併合された。1956年迄インド政府と独立を巡って内戦を展開し、現在も自治権を巡り激しい反体制運動が繰り広げられて居る。
インドの歴代政府も、治安維持を理由に外部との接触を禁じ、近年迄日本人を含む外国人の入境が厳しく規制されて居た。
筆者が訪れたコヒマは、標高約1,500メートル・人口11万5,000人の高山都市だ。雲の上の山の斜面に住宅が建ち並ぶ様な光景に驚く。我々一行を出迎えて呉れたナガ民族は「日本人とナガ民族は兄弟だ」と親近感を持って居た。
確かに顔立ちや身体付きが我々日本人と何処か似て居る。これはナガ民族が、一般的なインド人に多い肌黒いアーリア系では無く、アジア系のモンゴロイドだからで在ろう。(宗教はキリスト教で在る)
ボースと会った古老の話
コヒマから車で更に約20分。急峻な山の崖の上に集落が在った、キグマと云う村で在る。1944年4月、日本軍がコヒマ攻略に際して野営し前線基地を設けた場所だ。
補給を軽視した無謀な作戦の命令に依り多くの将兵を失い、同年5月末、部下の命を救うべく撤退の独断を下した第31師団長佐藤幸徳(こうとく)中将が過ごした小屋が今尚村には残されて居た。その小屋を案内して呉れた古老から、筆者は驚くべき証言を聞いた。
「村の大通りでネタージ(指導者の意でボースの敬称)と会った。1944年5月だった。滞在して居た佐藤中将と面談した帰りだった。2回見た。新聞等でネタージの顔を知って居たから間違い無い」
キグマ村の長老格で、キリスト教教会の牧師長を務めるキソ・ビクツ氏(当時97歳)はこの様に語った。ボースはビクツ氏に近寄って来て「ヒンズー語は知って居るか?」と聞くと、周りに集まって来た村の住民を広場に集めてヒンズー語で講話を始めたと云う。
「日本軍はナガの村民達を殺害したり暴行したりする為に進攻したのでは無い。インドが自由に為る為に我々インド人と来たので警戒し無いで欲しい。長く圧政を敷いたイギリス人は、肌が白くて顔は綺麗だが腹の中はドス黒い。
それに比べて、我々と同じ有色人種の日本人は清潔で仲間だ。日本軍はイギリス軍を追い出して呉れる。だから日本軍に協力して助けて欲しい」
精力的なボースの訴えに住民達は日本軍への警戒を解いた。米や牛・豚・鶏等の食料や傷病兵の為の薬草を密林から採って来て、軍票と引き換えに日本兵に届けたと云う。 ボースは、このキグマ村から約10キロメートル離れたチャガマ村に滞在して居ると話したと云う。
佐藤中将と密談する為、ソコから約2時間掛けて徒歩でキグマ村を訪れて居た。その佐藤中将がコヒマに進攻する直前から無念の退却をする迄寝起きして居た小屋は、30平方メートル程の木造家屋で在った。当時、ビクツ氏の親戚が所有して居たそうだが、佐藤中将に無償で提供したと云う。
小屋は崖の上に在り眺望(ちょうぼう)が好い。此処からで在れば、コヒマ市内の戦闘の様子も好く見えたで在ろう。約1,000人の日本兵達は、近くのジャングルでテントを張って野営して居たと云う。
「コヒマ攻略の間、ボースがINAの部下達とベースキャンプとして滞在したバンガローが、コヒマから約50キロメートル離れたチェサズ村に在る」
ビクツ氏は、当時、ボースがチャガマ村とは別に、本格的に居を構えて居た拠点を教えて呉れた。キグマ村からミャンマー国境方向に東方約40キロメートル、ナガランド州ペク地方のチェサズ村で在る。竹で造られたバンガローに、ボースは滞在して居たと云う。
ボースとの調整を担当した日本軍の特務機関「光機関」の一員として、ボースの身の回りの世話をしたと云う古老達約20人が(ホボ全員が90歳を超えて居た)次々に証言し、ボースがコヒマ攻略の4月から5月迄、同地域に滞在して居た事が確認された。
現地のチェサズ村では「INAの反英運動が最も激化した当地でインド独立が産声を上げた」と云う歴史的な意義から、ボースが滞在したバンガローが在った場所を記念公園として、世界文化遺産への登録申請やボース記念軍事学校を設立する計画が検討されて居る。
進むボースの再評価
インパールから南に約20キロメートルのマニプール州モーランには、進攻したINAが1944年4月14日、インド独立の象徴で在る三色国旗を最初に掲揚した事を記念して、INA戦争博物館(通称ボース博物館)が開設され、中庭には三色国旗が掲揚されて居る。
又ボースの銅像とINA創設の記念碑のレプリカも飾られて居る。この記念碑には、シンガポールに1943年10月に設置されながら、イギリス軍に依って撤去されたと云う経緯が在った。
博物館内にはINAの写真や武器、勲章等が展示され、云わばINAの聖地と為って居る。注目すべきは、INA創設に関わったF機関長の藤原岩市の写真と説明が展示されて居る事だ。
2018年10月、自由インド仮政府とINA創設の75五周年記念に、マニプール州知事のナズマ・ヘプトゥラ氏から「日本軍と共に英印軍を相手に勇敢に戦い、祖国の自由と独立の礎を築いたネタージが率いたINAに感謝する」と云う祝意のメッセージが寄せられた。
モーランでは、ボースとINAは救国の英雄と位置付けられて居る。 戦後の長い間、同地ではボースに対する評価は反対に低かった。寧ろ、ボースはイギリス支配への「反逆者」「テロリスト」で在り「残忍で野蛮な日本侵略の傀儡」と否定的に捉える「連合国史観」が支配的だったと云うのだ。
しかし、戦争経験者が高齢と為り、その経験を次代に語り継ぐ最後の時期を迎え「戦勝国の一方的な見方だけでは、事実を公平に理解出来無い」(INA戦争博物館のジョイレンバ事務局長)と云う声が上がる様に為った。
地元の古老達に当時の「真実」を尋ねる運動が起こり、ボースが潜入した足跡も判明した。こうしてボースは、祖国を独立に導いた国民的英雄として再評価される様に為ったと云う。更に「勇敢に戦い、規律正しい日本兵に目を覚まされ、インドは独立出来た」と云う評価も出て来る様に為った。
この背景には、モディ政権が2018年12月30日、アンダマン諸島の1つの島を「ネタージ・スバス・チャンドラ・ボース島」と改名する等、ボースとINAの功績を復権させ様として居る事が在ろう。
中国と並ぶ新興国として対峙する上で、インドに相応しいのは非暴力のガンジーでは無く、大英帝国と戦ったボースで在るとの見方がソコには在る様に思える。
岡部伸(産経新聞論説委員 前ロンドン支局長)10-25-4
産経新聞論説委員 1981年立教大学社会学部卒業後産経新聞社に入社 社会部記者として警視庁・国税庁等担当後 米デューク大学・コロンビア大学東アジア研究所に留学 外信部を経てモスクワ支局長 東京本社編集局編集委員 2015年12月から19年4月迄ロンドン支局長を務める
著書に『消えたヤルタ密約緊急電』(新潮選書/第22回山本七平賞)、『「諜報の神様」と呼ばれた男』(PHP研究所)『イギリス解体、EU崩落、ロシア台頭』『イギリスの失敗』(PHP新書)『新・日英同盟』(白秋社)等
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