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2021年10月07日

異色の軍人・山本五十六  畑野 勇



 異色の軍人・山本五十六

 避戦・早期講和を阻んだ組織の壁



  10-7-8.png 8/18(水) 12:29配信 10-7-8


 10-7-9.jpg

 山本五十六像の在る新潟県長岡市の山本記念公園 山本の生家跡に造られた (AFLO)8-18-11


 1940年の夏は、日本がドイツとイタリアとの三国軍事同盟の締結に踏み切り、イギリス・アメリカとの対立が決定的と為った重大時期で在ったが、その当時、東京に在る駐日イギリス大使館では、駐日大使ロバート・クレーギー(1883-1959)と、館員ジョージ・サンソム(1883-1965)との間で対日政策を巡る根本的な意見の対立が在った。


               10-7-3.jpg            

              駐日大使ロバート・クレーギー 10-7-3


 クレーギーは少年期を日本で屡々(しばしば)過ごし、1920年代から30年代に掛けて開催された数々の軍縮会議に於いて日本側全権団と親しく交流した経験を持つ、所謂「知日派」外交官と目されて居た。
 そして駐日大使として37年に着任して以降、英米との友好関係維持を望み国際協調的な対外路線を追求する、日本国内の「穏健派」に着目した。クレーギーは、彼等「穏健派」を支援し、且つ、イギリスが日本に対して或る程度譲歩する事に依る、日英間での和解の可能性が開かれる事を期待した。  

 太平洋戦争開戦に依り本国に帰国してから彼が外相に宛1943年に提出した報告書は「米英両政府が柔軟な対日政策を実施すれば、太平洋戦争の回避は可能で在った」と云う趣旨のもので、一読したチャーチル首相の憤激(ふんげき)を買ったと言われて居る。  
 他方、サンソムは初来日の1904年から40年迄の殆どを駐日英国大使館で勤務した外交官で在ったが、この時代の日本の動向分析に留まらず、前近代の時代を含む日本の政治・経済・文化の研究に於いても第一人者的存在と高く評価されて居た。

 『日本文化小史』(1931年)『西欧世界と日本』(1950年)を初めとする彼が著(あらわ)した一連の著作は、西欧の日本史研究を代表する名著として、西欧の日本研究者のバイブル的存在と為ったと言われる。  
そのサンソムは、1940年前後の日本政府に対して厳しい批判的態度を貫いた。彼は「穏健派」が戦争を阻止する力を持って居るとは全く考えず、クレーギーが追求した対日宥和路線に対して辛辣な批判を行い両者は決定的に対立した。その結果、サンソムは40年8月に離日し本国に帰国して居る。

 駐日英国大使館員の見た 日本の失敗の本質
 
 此処で、本稿の主題で在る真珠湾攻撃時に、帝国海軍連合艦隊を率いた山本五十六(1884〜1943)に付いて、一般に抱かれて居るイメージはどの様なもので在ろうか。恐らく「対英米避戦を強く願いながらも連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を主導する役回りと為り、やがて悲劇的な戦死を遂げた」と云ったもので在ろう。


         10-7-2.jpg

                  山本五十六 10-7-2

 
 これは、山本を当時の日本に於ける「穏健派」の一人と見做す点に於いて、クレーギーの対日観察の視点に重なる面が大きい。現実にクレーギーに取っても、大使として接した日本軍人の中で、山本に対する評価は高かった様に思われる。
 これに対してサンソムは、当時の日本に於ける「穏健派」への着目と期待、と云う対日宥和派(当時の駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーも同様の立場で在った)の視点そのものに価値を認め無かった。この観察は〔前近代から明治維新以降の日本国家を一貫する体質〕に付いての、日本史研究家としての洞察に由来して居ると見る事が出来る。

 サンソムが日本政治を分析する上で重視した視点は、戦後の53年に彼が雑誌『インターナショナル・アフェアーズ』に寄稿した「日本の致命的失策」と云う論文(サンソム著・大窪愿二訳『世界史における日本』岩波新書 1951年に所収)の中に見出される。
 彼はそこに於いて、当該期の日本政治を評して「戦争か平和かの死活的な決定は、或る時期に於ける単純な二者択一では無くして、それに先立つ行為が累積した結果に左右される」と述べて居る。

 筆者なりにこの点を整理すると、日本が戦争に突入するか否かと云う重大な岐路に立った時に重視されたのは

 (1)「それ迄の政策の実施や結果の積み重ね」で在って、
 (2)「その時点での情勢分析に基づく最良の路線追求」では無いと云う事に為る。


 昭和期の日本海軍首脳部が政治的な重大局面で如何に対応したかを辿って行くに当たり、このサンソムの言は、当時の首脳部の脳裡にどの様な考えが広まって居たかを示す極めて優れた分析と云え様。  
 例えば戦後、極東国際軍事裁判に於いて旧海軍軍人被告として起訴された一人である嶋田繁太郎(太平洋戦争開戦時の海軍大臣)が、裁判所に提出した宣誓口供書の中で、1941年11月下旬に米国政府から所謂「ハル・ノート」を受け取り、政府の対米英開戦決定に最終的に同意した理由に付いて、次の様に説明して居る。
 
 「余は、米国の要求を容れ、尚且、世界に於ける日本の地歩を保持し得るや否やの問題に当面した。我国の最大利益に反する措置を採るのを支持する事は、反逆行為と為ったであらう」これは明らかに、前出の(1)の考え方の反映である。

 海軍の戦備充実と人事工作 山本の行動の真実

 そこで日独伊三国同盟の締結(1940年9月)から太平洋戦争突入迄の山本五十六の言動を辿ってみると、彼は明らかに(そして当時の海軍部内で恐らく唯一人)(2)の考えに基づき行動した人物と云える。


         10-7-4.jpg       

                伏見宮博恭王 10-7-4

 
 例えば、三国同盟の締結を海軍が正式に認めたのは1940年9月15日の海軍首脳部会議に於いてで在るが、此処で議論の方向を確定したのは、当時の軍令部総長で在った伏見宮博恭王による「此処迄来たら仕方が無いね」と云う、国内外の情勢を追認する発言で在った。
 しかしこの席上で山本は唯一人、同盟締結に依る米国との関係悪化や、海軍の戦力整備の不安に付いて、如何云う対策を講じる積りで在るのか、当時の及川古志郎海軍大臣等に正面から詰問し、同盟締結に最後迄批判的な見解を明示した。

 そして、これ迄余り知られて居ない事で在るが、現実には山本は同盟への賛成決定を追認したのでは無く、伏見宮に対して海軍戦力整備の為の資材獲得の重要性を進言して居た。
 伏見宮はそれに同意し、三国同盟締結を正式に国策として決定した1940年9月19日の御前会議では、山本の進言内容を殆ど全て取り入れた内容の発言を行って居る。そして開戦迄の間、海軍の戦備充実は最も優先された施策の一つと為った。  

 来たるべき太平洋戦争への準備にノミ専心したと解釈され勝ちなこの山本の行動は、同時に戦争の長期化を回避する目的での人事上の構想も伴って居た。この構想も伏見宮(当時の高級人事は全て、宮の同意を得るのが海軍部内の慣行で在った)に認めさせて居る。  
 これ等は一見、論理的に両立し無い様に見えるが、これ迄の行き掛りに捕らわれず、政治的展開として考えられる幾つものケースを念頭に置き水面下で構想の実現を図った点で、山本のユニークさが露わに為る部分で在る。


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                  米内光正 10-7-5


 山本は、渦つて海軍次官当時に仕えた大臣で在った米内光政(よないみつまさ)(その後首相に就任する時に予備役に編入されて居た)を現役に復帰させ、伏見宮の後任の軍令部総長とする事を意図して、人事の権限を持つ及川古志郎(おいかわふるしろう)海軍大臣に再三の働き掛けを行った。  
 山本は米内の軍令部総長への復帰の前段階として、先ず米内が現役に復帰して連合艦隊司令長官に就任する事を意図した。そして、この人事構想と同時に、対米開戦時には劈頭(へきとう)に真珠湾攻撃が必要で在ると云う事を及川に再三書簡で伝えて居る。

 「米内復帰」に依る 避戦・早期の戦争終結に賭ける


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                   及川古四郎 10-7-6


 真珠湾を空襲すると云う構想は当時、米軍の強力な反撃に依って攻撃部隊の潰滅(かいめつ)を招く可能性が高く、投機性の極めて強い危険性に満ちた作戦で在る・・・と云う評価が海軍部内で支配的で在ったが、山本はそれを承知で敢えてこの構想の具体化に突き進んだ。 その理由として、41年1月に及川に宛てた書簡「戦備に関する意見」で山本はこう記している。

 「日米戦争で、日本が第一にし無ければ為ら無いのは、開戦劈頭、敵主力艦隊を猛撃撃破(もうげきげきは)して、米海軍と米国民にスッカリ士気阻喪」させる事であり、その為の真珠湾空襲作戦で在る。そしてこの為に必要な事は「米内光政連合艦隊司令長官・山本五十六第一航空艦隊(真珠湾空襲部隊)司令長官」と云う人事発令が必要で在ると云うもので在った。
 
 山本に取って米内の現役復帰は、対米避戦(たいべいひせん)を考慮した(米内で在れば、統帥面での最高責任者として戦争突入不可を明言し、陸軍や海軍部内の強硬派を抑えられると云う期待が在った模様で在る)だけで無く、愈々戦争が避けられ無く為った場合の、早期の戦争終結に向けた事態収拾の布石でも在った。
 山本は50代半ばに為ってもスイスの教育者・ペスタロッチの岩波文庫版著作を愛読する等、海軍部内でのスタイルに捕らわれ無い教育や人材育成の在り方に関心が深かった。そして、思考様式が画一的で在り大勢順応的で在ると評された海軍軍人の中では、ユニークな情勢分析力や構想力・実行力を備えて居た。  

 この米内現役復帰構想が実現して居たら、太平洋戦争の経過は史実と全く異なった展開を辿ったと思われる(或いは、対英米開戦も回避されたかも知れ無い)が、伏見宮や及川、そして部内の事務当局に取って、山本の構想は常識外に思われた模様で在り、結局に於いて米内の現役復帰・自身の更迭と云う構想は戦争突入迄に実現しなかった。

 結局は「人事慣行」に収まり  山本は〔自棄的・玉砕的〕作戦に挺身した


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                 永野修身 10-7-8


 例えばこの当時、健康上の理由で軍令部総長退任を考えて居た伏見宮は、米内を自分の後任とする山本の案に一旦は賛同したが、最終的に伏見宮は自身の軍令部総長退任に際して、後任として米内では無く永野修身(ながのおさみ)を指名した。
 これは、戦争突入が迫って居る情勢下での主体的な判断に依るものでは無く、現役の最長老で在り米内より先輩でも在った永野を差し置いて、米内を任命する事には躊躇が在ったと云う、人事慣行上の思考に依るものの様である。  

 山本が伏見宮への度々の進言を通じて追求した二つの目標は不可分一体として実現されるべきもので在ったが、それが何れも空しく為って以降、彼は「自棄的・玉砕的とも見える連続進攻戦略」(秦郁彦『昭和史の軍人たち』文藝春秋、1982年)に終始せざるを得無く為った。
 1943年4月、山本は自ら最前線への視察に赴くが、その情報を掴んだ米軍により、ブーゲンビル島上空飛行中に乗機が撃墜され戦死する。そしてこれ以降の日本軍は最後迄退勢を挽回出来無かった。  

 日本の戦争突入の可否は、独伊と同盟を結んだ日本が、英米に対する戦争への勝利の可能性をどれだけ持ち得るか、詰まり前述の(2)の観点から検討されるべきで在ったが、当時の海軍部内でも日本政府内でも、決定的な力を持ったのは(1)の観点で在った。  
 何故この様な事態が生じたかを考える上で、前出のサンソムが日本の政治文化の伝統や特質に付いて、少数者の発言権の欠如・同意に依る政治の不在、政治的寛容の伝統が育た無かった問題性等を指摘して居る点は、現代でも十分に検討に値するものと言えよう。




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           畑野 勇  根津育英会・武蔵学園勤務 10-7-1

 畑野勇氏 根津育英会武蔵学園勤務  専門は日本政治・外交史 日本海軍史で 著書に「近代日本の軍産学複合体」(創文社)「昭和史講義」(ちくま新書)など



 〜管理人のひとこと〜

 我が国が何故、勝てもしないのに米英に戦争を仕掛けたのか・・・この永遠の謎に誰もが何度も解明に挑戦した。その回答は幾通りも在るのだが、管理人は一貫して「維持維新の流れ」の必然だと確信して居る。
 何故近代に為って、それ迄政治上の歴史の隅に隠れて居た〔天皇・天皇制度〕を復古させ利用したか・・・それは単純に権威を持たぬ維新の政体が「形振り構わず」古の権威を利用せずには成り立た無かったからだ。幕末以来維新勢力は、武士の統領の〔徳川幕府〕を否定し、代わりに〔古の権威・天皇〕を担ぎ出し利用する事に腐心した。既に無く為った古の権威・・・現状を否定するこれ以外の権威が見当たら無かったからだ。詰まり完全な歴史的反動勢力が作ったのが明治だった。
 中世・封建時代から、新たな大衆・民衆を主人公とする近代・近世へと向かう筈なのに、何故か我が国は古代へと逆戻りしてしまった。詰まり、新たな時代の主人公である〔大衆・民衆〕を育てず、新たな〔支配階級・特権階級・権威〕を作り出す政治へと逆戻りする。政治的コストを最小にとのケチ臭い歴史への反動だった・・・・その流れが国を失う様な悲惨な結果をもたらしてしまった・・・我が国の歴史の必然だった訳だ。
 言い換えれば、歴史に背いた我が国の政治に対する国際社会(当時の文明先進諸国)からの否定だった・・・と。そんな中で山本五十六は、歴史に従順な近代的頭脳を持ち合わせた人物だった。詰まり、周囲に惑わされず我が国の敗戦を予測し得る知識と思想を持った人だったのだろう。














 





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