2021年10月06日
樺太シリーズ 宝の島と呼ばれた〔樺太〕
樺太シリーズ
宝の島と呼ばれた〔樺太〕
HTBアナウンサー 森さやかの思うコト
HTBアナウンサー 森さやかコラム# 北海道 #
〜好く晴れた日に稚内の宗谷岬に立つと、真っ青な水平線にクッキリと見える島影・・・サハリン(旧樺太)です。宗谷岬から約40キロ。肉眼でも見える程の距離に在る〔樺太の歴史〕を貴方は知って居ますか?〜
【樺太連盟の解散】
今年3月末に、樺太からの戦後引き揚げ者等で作る全国樺太連盟が解散すると云う話を聞いて、私は札幌に在る樺太連盟北海道支部を訪ねました。
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全国樺太連盟は、1948年の結成以降、引き揚げ者の援護や親睦の他、樺太の暮らしや戦争等歴史を伝承する為、近年は移動展を全国各地で開く等活動を続けて来ましたが、会員の高齢化で継続が困難に為ったと云います。会員数はピークだった94年の6,300人から激減し、今年3月時点で968人(道内は都道府県別で最多の387人)平均年齢は84歳を超えました。
解散に伴い閉鎖する事に為った北海道事務所では、片付けや書類の整理に追われて居ました。これ迄活動の中心と為り尽力して来られた北海道事務所長の森川利一さん(91)も、樺太を故郷に持つ一人です。
昭和7年に樺太中部の上敷香(かみしすか)に生まれ、昭和23年に北海道に引き上げる迄の16年間を樺太で過ごした森川さん。当時の様子を伺うと、此方が驚く程鮮明に記憶された樺太の風景を次々と語って呉れました。
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【樺太は宝の島だった・・・】
樺太は、面積全体の8割が大自然林、地下には石炭・石灰石等の鉱物が眠り、近海は世界3大漁場に数えられる程の水揚げを誇る等、正に陸・海共に資源の宝庫だったと云います。明治38年(1905年)日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南の南樺太が日本領と為ると、資源豊かな樺太に新天地を求め北海道からも多くの人が移り住みました。
昭和16年12月の国勢調査では、40万6,557人が暮らして居たと記録されて居ます。
林業や漁業等で栄えた樺太。特に隆盛を極めたのが製紙業で、アチラコチラニ工場が立ち並び、業界大手の王子製紙は、樺太内に9か所もの工場を持ち社宅もズラリと並んだそうです。
鉄道も整備されて行きました。大正12年(1923年)に、稚内から大泊(おおみなと・現コルサコフ)間に連絡船が就航すると、樺太への玄関口として、春はニシン漁の関係者、秋は林業関係者で賑わい、次第に旅行で樺太を訪れる人も増えたと云います。
詩人の宮沢賢治や北原白秋、民族学者の柳田国男、歌人の斉藤茂吉等、多くの文学者も樺太を訪れました。〔樺太ガイドブック〕為るものも発行されて居たと知り、驚きました。当時、樺太は避暑地としても親しまれる程、身近な場所だったのです。
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【豊かな自然と街並み】
森川さんが生まれ育った町・上敷香(かみしすか)国境から80qに在るオホーツク海側の町です。引き揚げ者等の記憶を元に作ったと云う当時の街路図を見せて貰いました。
「ワァ・・・マルで、今の札幌を見て居る様ですね」私は思わず声を挙げてしまいました。
町は、東西南北に整然と区画され、碁盤の目状に為って居て、幾つもの南北の道と東西の道が垂直に交差して居ます。そして住所は、東西を条、南北を丁目で表し〔東1条北6丁目〕等の地名が記されて居ました。
川の側には神社が在り、ソコから真っ直ぐ伸びる道は「本通り」「山の手通り」「宮通り」と名付けられ、交差するメインストリートは現在の札幌と同様に「大通り」と呼ばれました。
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各通りには様々な商店が犇(ひし)めき合って居ます。おやき・精肉店・鮮魚店・薬局・タバコ販売店・パン店・文具店・パチンコ等の娯楽遊戯施設も在りました。ビリヤードに、カフェの文字も。町の地図に記された小さな文字を一つひとつ追って行くと、活気溢れたハイカラと呼ぶに相応しいオシャレで美しい街並みが目に浮かぶ様でした。
警察署・消防署・町役場・病院等の公共施設や、小学校・中学校・女学校・商業高校も在り、当時の人々の営みを感じ取る事が事が出来ます。
「春に為るとワラビ・ゼンマイ・行者ニンニク・フキ等山菜が物凄く豊富で沢山採れて、塩漬けにして漬物の様にして食べたり、煮物にしたりしてね。秋に為ると、フレップと云う実を摘みに行きました。冬はスキーをしたり犬ぞりに乗ったり、スケートもしましたね・・・」
と懐かしそうに話す森川さん。80年程前の記憶とは思え無い程ハッキリと言葉を紡ぎます。
「戦前の樺太は活気に溢れ居てね。自然も豊かで人情も在って。本当に好い処だった・・・」
【戦争の先に・・・交流で芽生えた友情】
樺太で生まれ樺太で育った森川利一さん(91)昭和23年に北海道に引き上げる迄の16年間を樺太で過ごしました。何不自由無く伸び伸びと育ったと云う樺太での生活。その日常が突然奪われました・・・突き着けられた銃・・・・戦争・終戦を経て、統治される国が変わった事で逆転して行く事に。混沌とした日々の先に見えた光とは?
昭和20年の8月9日にソ連が国境線を突破し南下。樺太での地上戦が始まります。15日に告げられた終戦後も攻撃は続き、樺太では22日迄地上戦が繰り広げられたと記録が残されて居ます。終戦後も、混沌とした日々が暫く続いたと云います。
「住んで居た町は全部焼かれてしまい、少し離れた農家に身を寄せて居ました。終戦から一カ月程経った或る日、ロシアの若い18・9歳位の青年兵が自動小銃(マンドリン)を持って略奪に来たのです。金目の物は何も無いのに、銃口を突き着けられて着けられて。父が見かねて土間に手を着いて泣きながら懇願して一命を取り留めた」
と、九死に一生を得た記憶を語って呉れました。
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「戦争と云うのは、勝っても負けても正気を失うと云云う事でしょうね。虐殺もそうですよ。正気を失って居る。動乱の中で、明日が分から無い時代ですから。戦争はそう云うものだと思いますね」
静かに、淡々と語る森川さんの目が印象的でした。しかし、この後の話に私は更なる衝撃を受けました。戦後本土に引き上げる迄の3年間。森川さんは、樺太の多蘭泊(たらんどまり)と云う場所で、ロシア人と一緒に造材関係の仕事に尽力します。
日本人労働者が42名・ロシア人が15名・・・共に暮らしながら伐採業務を任されたそうです。その中で、ロシア人との付き合いも日常茶飯事に為って行ったと云います。
「ロシア人は個人的な付き合いの中では、親切でとても仲良く為れるんですね。ロシア人に対する憎悪は、殆ど持た無く為って行きました。コチラの意見も聞いて呉れて、日本人の勤勉さ真面目さ等を評価して呉れた。人間関係は2年少しだが、お互いに信頼感を様に為った。同じ屋根の下で一緒に暮らすと、人間と云うのは自然とそう為るのではないですかね?」
私はジッと、森川さんの言葉に耳を傾けました。戦争で町を焼かれ辛い経験をしたにも関わらず、少し前迄敵対して居た国の人と一つ屋根の下で一緒に暮らし、交流を重ねる事でお互いを理解し合う事が出来る様に為ったと云うこの経験コソが、その後の森川さんの活動の原点なのかも知れません。
森川さんは、北海道に引き上げた後もロシアとの民間交流事業に尽力し、北海道日露協会の副会長を務める等、91歳の今に至る迄日本とロシアを繋げる活動を続けて来ました。
「平和を作ると云うのは、人間同士の交流でしょうね。実際に肌に接して、初めて心を打ち解けて話すと云う交流しか無いと思いますね。それに尽きると思います」
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【取材後記 森さやかの思うコト】
北海道には、シベリアでの抑留や樺太や満州からの過酷な引き上げを経験した方が沢山いらっしゃいます。しかし戦後76年が経過し、こうした戦争体験の伝承は年々難しく為って居ます。けれど、ソコから学び続ける事を止めてはいけ無いと思います。
「平和」と云うと壮大なテーマと身構えてしまい勝ちですが、本当は私達個人と個人でコソ出来る事が或るのだと、私は森川さんから教えて頂きました。今、世界でコロナウイルスとの闘いが続き「何時も通りの生活が出出来る事の尊さ」を皆さん感じて居ると思います。そんな今だからコソ、改めて一緒に考えて行きたい。戦後76年、子供達に「平和」を伝えて行く為に私達が出来る出来ることを。
この記事を書いたのは 森さやか HTBアナウンサー 夕方情報番組「イチオシ」に出演 ラーメンの食べ歩き歴25年 ワークライフバランス・コンサルタントとしても活動中 2児の母 絵本セラピスト ワークライフバランス・コンサルタントの資格を活用し道内企業にワークライフバランスの普及や提案をする活動も行って居る 育児や介護・病気等の事情を抱えて居ても、自分らしく生きられる社会を目指し、地域の活動等を取材・紹介して居る
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