2021年10月05日
サハリン(樺太)の日本遺産 姿消す統治の名残
サハリンの日本遺産 姿消す統治の名残
迷宮ロシアを彷徨(さまよ)う 2019.11.12
サハリン州地誌博物館は 過つての樺太庁博物館(撮影 服部倫卓)10-3-20
消滅する日本由来の狭軌鉄道
ユーラシア大陸の東、北海道の北に浮かぶ樺太島(ロシアでの呼び名はサハリン島)は、日露戦争後の1905年のポーツマス条約に依り、北緯50度線を境に南北に分割され、北は帝政ロシア(後にソ連)領に南は日本領に為りました。
しかし、第二次大戦末期の1945年8月のソ連対日参戦に依って、ソ連軍が南樺太を占領。以降、樺太島全土をソ連(後にロシア連邦)が実効支配し現在に至ります。
今日のロシアの行政区画では、樺太島は極東連邦管区の中のサハリン州に属して居ます(樺太島だけで無く、千島列島=クリル諸島もサハリン州に所属)
サハリン南部には、今でも日本統治時代の遺産が僅かに残って居ます。その一つに、過つて日本が敷設した軌間1,067mmの狭軌鉄道も在りました。処が、ロシアは2003年からサハリンの鉄道の軌間をロシア本土と同じ1,520mmの広軌に入れ替えるプロジェクトに着手、曲折を経てこの程9月1日より広軌に依る鉄道運行が開始されました。
こうして、サハリン島に於ける日本統治の名残が又一つ姿を消しました。このニュースに接して、サハリンに於ける貴重な日本遺産の風景を取り上げてみたく為りましたので(飽く迄も私の限られた体験の範囲内ですが、今回はこのテーマでお送りします。
因みに、プーチン政権は間宮海峡(その最狭部のネベリスコイ海峡)に橋を架けてロシア本土とサハリン島を結び、此処に鉄道を通すと云う壮大なプロジェクトを計画して居ます。サハリンの鉄道をロシア本土と同じ1,520mmに作り替えたのは、将来的に大陸とサハリン島を鉄道で行き来出来る様にする為の布石でも在ります。
下の写真は、未だ線路が狭軌だった2013年に、州都ユジノサハリンスク(過つての日本名は豊原)の駅で筆者が撮影したもの。その後、線路、車両共に広軌のそれに一新されてしまった筈なので、今と為っては貴重なショットと言えるかも知れません。
2013年 ユジノサハリンスク駅にて(撮影 服部倫卓)10-3-21
尚「D2-007」と書かれた手前に或る列車は、1986年に富士重工宇都宮車両工場で生産されたものだそうです。当時のソ連運輸通信省が、日本の鉄道車両技術を参考にする狙いも在り、10編成40車両を当時の日商岩井を介して輸入したのだとか。寂しい事に、サハリンに於ける狭軌の廃止に伴い、この列車も引退する方向の様です。
博物館が代表的な建築遺産
今日のサハリンの街中を歩いてみても、日本統治時代の建築物などは、余り残って居ません。そんな中、過つて日本が建てた樺太庁博物館の建物が、現在はサハリン州地誌博物館として使用されて居り、日本風の建築が往時を偲ばせて居ます(冒頭の写真参照)
樺太庁博物館は1937年に開館し、日本の城郭屋根を乗せた当時流行の帝冠様式の建築でしたが、1945年8月24日にソ連軍に依って接収されました。サハリン州地誌博物館では、ソ連体制下では、1905〜1945年の日本時代に付いての資料は展示されて居なかったそうです。
ソ連崩壊後は、日本時代の資料に付いても公開される様に為りました。北緯50度線の国境標石等を見る事が出来ます(下の写真参照)
左側が日本の国境標石 右側がロシアの国境標石(撮影 服部倫卓)10-3-22
個人的に、2013年に初めてサハリン州地誌博物館を見学して、衝撃を受けた写真が在ります。日本は1945年に敗戦し南樺太をソ連に明け渡した訳ですが、日本人住民は直ぐに本土に戻れた訳では無く、多くは2年程、ソ連統治下のサハリンで苦難の生活を余儀無くされた様です。
下の写真は、ソ連統治下で初めて迎えた1946年のメーデーの様子「国営オットセイ工場」と云う名前や、オットセイのハリボテが惚(とぼ)けた雰囲気を醸して居ますが、笑顔のロシア人に対し、笑って居る日本人は一人も居らず、彼等を襲った過酷な運命に思いを致さざるを得ません。
尚、2018年に私が再度この博物館を見学した時には、このオットセイ工場の写真は見当たら無かったと思います。ヒョットしたら、もう展示はされて居ないのかも知れません。
オットセイは恐らく肉や油を利用したのだと思われるが詳細は不明(撮影 服部倫卓)10-3-23
遠征軍上陸記念碑
アレは、サハリン島の南岸、コルサコフ(日本時代の呼び名は大泊)に程近いプリゴロドノエに或る「サハリン2」の液化天然ガス(LNG)プラントを視察しに行った時の事でした。その近くの丘に登って観た処、そこに日本語の石碑が在りました(下の写真参照)
横倒しに為った碑文には「遠征軍上陸記念碑」と在ります。私は確認出来ませんでしたが、後日、日本総領事館で伺った処、1905年と云う年号も書いて在るとの事でした。詰まり、日本が日露戦争に勝利して南樺太を領有した際に、軍が当地に遠征し、それを記念したものの様です。
ちなみに、今日この地は海水浴場として地元民に人気が在る様で、丘の周りは駐車された車で溢れて居ました。打ち棄てられた日本語の石碑、屈託の無い笑顔で溢れるビーチ、そしてその向こうに見える世界最大級のLNGプラントと、ナカナカシュールな風景でした。
コルサコフ(過つての大泊)近郊に或る遠征軍上陸記念碑(撮影 服部倫卓)10-3-24
旧北海道拓殖銀行大泊支店
そのコルサコフの中心部には、日本統治時代の建築遺産がヒッソリと残って居ます。旧北海道拓殖銀行の大泊支店の店舗がそれです。私自身は訪問した事が無いので、下に見る様に、過つての同僚が撮った写真をお借りしました。
同行が樺太で営業を開始したのは日露戦争が終わって間も無い1905年で、日本銀行の委託を受けた拓銀が社員を派遣。1907年には正式に支店と為り、一部預金為替業務も開始したと云う事です。
大泊支店はソ連の南樺太占領に依って閉鎖されたものの、建物は残り近年は日本の極真空手の道場として使われたりして居たそうです。内部は大理石の柱が立つモダンな造りながら、写真に見る様に、近年は建物の傷みが大分激しく為って居ました。
最新の情報では、シートが被せられて、修繕工事が行われて居た様です。従って、この日本遺産に付いては、如何にか消滅を免れ、これからも日本統治時代の名残を留めて呉れそうです。
旧北海道拓殖銀行大泊支店 2006年3月撮影(撮影 芳地隆之)10-3-25
サハリンに残された「戦後」
多様性の島に生きる残留日本人の思い
World Now 2018.05.30
樺太庁博物館として建てられたユジノサハリンスク市のサハリン州郷土博物館は、扉に菊の紋章があしらわれて居る Photo Asakura Takuya 10-3-26
モスクワから極東サハリンに向かう空路で、既に周囲の人々の顔ブレは多様に為って居た。過つて一部が日本の領土で、多民族国家ロシアの中でも一際多様性に富んだサハリン州。戦前からこの地に生きる日本人達も、この多彩な人模様を織り為して来た。
ユジノサハリンスク市中心部に或るサハリン州郷土博物館は、日本統治時代の1937年、樺太庁博物館として建てられた。
「帝冠様式(ていかんようしき)」と呼ばれる和洋折衷の外観で、重厚な玄関扉には菊の紋章があしらわれて居る。展示を見ても、ロシア極東と北日本に住む人々が如何に深く繋がって居たかが好く分かる。
サハリン島南部は1905年に日本領の南樺太と為り、日本本土や日本領だった朝鮮半島から渡って来た人々だけで無く、アイヌ・ニブヒ・ウイルタ等様々な先住民族が暮らして居た。先住民達は日本に依る同化政策で、日本名や日本語を強いられ、日本人として暮らした。今回訪れた或る学校でも、日本姓のニブヒの生徒が居ると聞いた。
第2次大戦後、南樺太をソ連が占領すると、広大なソ連の各地から新たな住人が入植して来た。日本人の大半は本土に引き揚げたが、それ迄「日本臣民」だった朝鮮人の多くは日本への引き揚げを拒まれこの地に残った。更に、様々な事情で留め置かれた日本人も居る。
サハリン日本人会(北海道人会)会長の白畑正義(78)もその一人だ。内砂(ないしゃ)と呼ばれた島の南端に近い村で生まれ、日本の学校に入って間も無く終戦を迎えた。山形県から移住した父親は電話線修理の技師。ソ連に必要とされ、引き揚げさせて貰え無かったと云う。
サハリン日本人会(北海道人会)の白畑正義会長 Photo: Asakura Takuya 10-3-27
日本の学校は廃止され、ソ連の学校に通いロシア語で勉強した。「ロシア人とは直ぐ仲良く為りました。子供だから」16歳でソ連国籍のパスポートを執り18歳でソ連軍に入隊。「軍隊は面白かったですよ。学校でも軍隊でも、苛めは無かった」と言う。
「演習で『日本から敵が攻めて来た』と云うと、部隊のロシア人が『此処に日本人が居るぞ!』と冗談を言って」と楽しそうに振り返る。
除隊後は、父親が勤めて居た営林の事務所に就職し定年迄働いた。「(自分は何人かと)聞かれれば、ヤポンスキー(日本人)だけど、余り区別は無いです」今は3人の孫にも恵まれて居る。
白畑が会長を務める日本人会は1990年の発足。冷戦下で日本に渡航出来無かった残留邦人に執って悲願だった一時帰国が実現した年だ。東京の「樺太同胞一時帰国促進の会」(現・NPO法人「日本サハリン協会」)と協力し、一時帰国や永住帰国を希望する人達を支援して来た。
只、日本の家族に会い、日本で暮らそうと思っても白畑の様に日本語を不自由無く話せる人は稀だ。在ユジノサハリンスク日本総領事の協力で開かれて居る日本語教室では、会員達が懸命に勉強する姿も見られた。
授業中、先生に何度も質問をして居たボリス・サイトウ(68)は、幼い時に北海道に引き揚げた家族等とモッと話したくて、妻と一緒に勉強を続けて居ると云う。「この年齢に為ると覚えるのが難しい」と苦笑いした。
40年間続いた日本統治時代に発展したユジノサハリンスク市でも、当時の建物はサハリン州郷土博物館等僅かしか残って居らず、街を歩いても日本の面影は殆ど見当たら無い。
日本統治時代の1937年、樺太庁博物館として建てられた、ユジノサハリンスク市のサハリン州郷土博物館 Photo: Asakura Takuya 10-3-28
残留邦人は元々、朝鮮系の夫と結婚した日本人女性が多く、家庭では韓国料理が主流の様だ。市の人口約50万の内、朝鮮系は1割近くを占めるとされ、ビジネスでも活躍して居る。90年代半ばには約450人居たと云う日本人会の会員は、約110人に迄減り、内「1世」とされるのは約70人しか居ない。
浅倉拓也 朝日新聞記者 10-5-20
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