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2021年10月05日

アノ人気漫画の舞台「樺太」の戦前・戦中、そして戦後




 アノ人気漫画の舞台「樺太」

 の戦前・戦中、そして戦後




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                   樺太の位置関係 10-5-1


 毎日新聞 10/3(日) 9:59配信 10-3-10


 
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 魚の皮等で作った伝統工芸品を手にするニブフの女性達 サハリン州立郷土博物館で2015年9月 真野森作撮影 10-3-11


 明治時代後期の北海道等を舞台に、アイヌ民族の少女と元日本軍兵士のコンビが埋蔵金争奪戦で奮闘する野田サトルの冒険漫画「ゴールデンカムイ」(集英社の「週刊ヤングジャンプ」で連載)が高い人気を集めて居る。コミックスはシリーズ累計発行部数が1700万部を超え連載は最終章に入った。
 物語では、北海道の北に位置する旧樺太(サハリン)とソコに生きる先住民族、更には隣り合う帝政ロシアも重要な鍵を握る。

  
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              漫画 ゴールデンカムイ 10-5-13


 日露戦争後から第二次世界大戦終結迄、20世紀前半の40年間に渉って北緯50度以南のサハリンは南樺太と呼ばれ日本領だった。現地には今でも日本の面影が残り、先住民族や日系人・コリアンも暮らす。
第二次世界大戦での日ソ戦が終結したのは76年前、1945年9月5日の事だ。日本領時代に中心都市だった旧豊原(現在はサハリン州都ユジノサハリンスク)を訪ね「樺太」の戦前・戦中・戦後を辿った。登場する各氏の年齢やデータは2015年8〜9月の取材当時。  

 ◇先住民族ニブフの伝統


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                10-5-2


 カンカン・コン・カンカン・コン・・・丸太を吊り下げた素朴な打楽器の奏(かな)でるシンプルなリズムが青空へと吸い込まれて行く。演奏するのは、サハリンに約2,000人強が暮らす先住民族ニブフ(旧称ギリヤーク)の人々だ。
 州立郷土博物館で彼等が自ら手掛けた初の文化紹介イベントでの一幕。観光客が興味深そうに演奏に耳を傾けて居る。


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             先住民族ニブフの肖像(旧称ギリヤーク)10-5-8


 「私達ニブフは過つて狩猟と漁労・採集に依って暮らして居ました。主な食べ物は魚やアザラシの肉。例えば、魚と木の実を混ぜ合わせ、芋とアザラシの脂肪分を加えた伝統料理が在ります。獣や魚の皮を縫い合わせて衣服や靴を作って居たのです」

 唐草の様な紋様で縁取った真っ赤な伝統衣装姿で、民族活動家の女性アントニーナ・ナチョートキナさん(67)が説明して呉れた。続けて「ニブフは今も健在と示したい」と力を込めた。


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                樺太博物館 10-5-10

 
 この博物館は樺太庁博物館として日本領時代に建てられた。その外観は、瓦屋根等一部が日本の城の様な形をした和洋折衷の「帝冠様式(ていかんようしき)」サハリンを代表する歴史的建造物だ。敷地内の庭園には島の歴史を象徴する興味深い屋外展示物が並ぶ。
 
 帝政ロシアの流刑者収容施設を再現した丸太小屋、戦前の南樺太で天皇の「御真影」を収めたコンクリート造りの「奉安殿(ほうあんでん)」 北千島の占守(しゅむしゅ)島 から運ばれた日本軍の95式軽戦車・・・そうした中で、ガッシリとした高床式の丸太小屋が目を引く。ニブフの夏用の伝統家屋を再現したものだ。
 半地下構造の冬用の住居や、サケ・マスを保存食に加工する為の干し場も在る。信仰と結び付いたクマの飼育小屋等、アイヌ民族と共通する文化も見て取れた。

 ◇日露に翻弄された先住民族  

 アジア大陸のアムール川下流域とサハリンに居住するニブフは、自然と共に生きて来た人々だ。だが、近現代は日本とロシアと云う大国の狭間で翻弄(ほんろう)された。日露戦争後の1905年、ポーツマス条約に依ってサハリンは北緯50度線で区切られ、南半分は日本へ割譲された。  

 「ゴールデンカムイ」でも、主人公達が国境線を越えてロシア側へ潜入する場面が在る。ニブフやウィルタ等の少数民族は南の日本領と北のロシア領(1917年のロシア革命を経てソ連領)とに分断されてしまった。
そしてソ連の対日参戦に依って第二次世界大戦末期には敵味方に分かれる事に為り、ニブフの人々は日ソ双方の「スパイ」にもされた。

 ナチョートキナさんは「私の親戚の叔父さんは日本軍の案内人をしたと聞いて居る。終戦後『お前は裏切り者だ』と言われた人も居たそうです」と明かした。  
 日ソ両国はドチラもその統治下で少数民族に同化政策を押し着け文化を奪った。日本は戦前、南樺太の敷香(しすか・現在のポロナイスク)近くに先住民集落「オタスの杜」を造成し「土人教育所」で日本式の教育を実施した。

 ナチョートキナさんに依ると、ソ連側も戦前、先住民族の子供達を寄宿舎に集め、ロシア語だけで話す様教育したと云う。「ニブフ語は家庭内でも使われ無く為り、多くの伝統が失われた」と残念がる。  
 戦後、要約1980年代から一部の学校でニブフ語が教えられる様に為り、ニブフ語新聞も発行される様に為った。だが、復興は道半ばだ。

 ニブフの血を引く女性マリーナ・クラギナさん(50)は魚の皮を使った伝統工芸の技術を数年前に書物で学んだ。殆ど廃れて居た技を身に着け様と決めたのは「先祖の『呼び声』が在ったから」と云う。クマやフクロウの紋様を縫い付けた皮の小物を手に載せ、誇らし気に見詰めた。  
 春、川の氷が解けて最初の漁に向かう時、ニブフの人々は海の神に供え物を捧げた。神の許しを貰って初めて船を出したのだと云う。伝統信仰に基づけば、森にも山にも夫々神が居る。

 就職や就学の為ユジノサハリンスクへ遣って来る少数民族の若い世代が増えて来た。それでも、サハリン北部に多くの人々が暮らす。クラギナさんは「自然は非常に厳しいけれど、美しい所ですよ」と教えて呉れた。  

 ◇漁業に残る日本領時代の足跡  

 日本領時代の足跡は、基幹産業で在る漁業にも残って居る。  

 「私達のサケ・マスふ化場が建てられたのは、日本が統治して居た1923年の事です。当時の作業場は木造でした」

 内陸のユジノサハリンスクから南西へ下る事約45キロ。広々としたアニワ湾に面したタラナイ村の奥に在る国立タラナイふ化場を訪ねた。ベテランの女性職員が南樺太だった当時からの歴史を手際好く解説して呉れる。 
 タラナイは終戦迄多蘭内(たらんない)と呼ばれた。何れも「魚の川」を意味するアイヌ語が地名の由来と云う。その名に違わず、タラナイ川沿いに整備された施設では90年以上に渉ってサケ・マスのふ化事業が続けられて来た。  

 所有者は日本からソ連・ロシアへと変遷したが、その目的は変わら無い。成魚からイクラを採取して人工授精し、誕生した稚魚を或る程度育ててから放流する。漁業資源の枯渇を防ぐ為の人間の営みだ。地元の水産会社幹部の紹介で内部を見せて貰った。
 ふ化場への道は鍵の掛かった頑丈な門で閉ざされて居り、厳格に管理されて居る。横を流れる川の潺(せせらぎ)を聞きながらコンクリート造りの水路を覗くと、繁殖期を迎えたカラフトマスが勢い好く跳び跳ねた。  

 日本領時代の南樺太には19のふ化場が在り、その多くは行政機関の樺太庁が経営して居た。多蘭内もその一つだった。女性職員は「1945年迄はツジさんが場長で、その後1947年迄イトウさんが場長を務めて居た」と語る。
 終戦に伴ってソ連がサハリン南部を占領した後も、暫くの間は日本人がふ化場を仕切って居たのだ。イトウ場長はソ連の専門家に人工ふ化の技術を伝え、1948年に要約日本へ引き揚げたと云う。

 管理棟には今も当時の日本語文献が保管されて居る。ふ化場は1950年代以降、何度も改修されて居り、日本領時代の雰囲気は殆ど残って居なかった。だが、その職人魂は脈々と受け継がれて居る様だ。
現在のサハリンにふ化場は41カ所あり、毎年約8億,6,000万匹もの稚魚が放流されて居ると云う。

 ◇退役軍人が語る北千島の激戦

 
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       退役ソ連軍人・ウラジーミル・モロゾフさん(90)10-5-7


 「(対ドイツ)戦争が終わりに向かって居た頃、我々は極東に転戦した。空挺部隊の飛行機でカムチャツカ半島へ送られ、そこからは船だった」

 迷彩色の上着に十数個の勲章を下げた退役ソ連軍人・ウラジーミル・モロゾフさん(90)はドッカリと椅子に座り、第二次世界大戦最後の激戦地と為った北千島・占守島に於ける対日戦の記憶を朗々と語り始めた。  
ユジノサハリンスクの一角、ソ連時代に建てられた古い共同住宅の自宅で暮らす。壁には政府機関から贈られた退役軍人への感謝のメッセージが何枚も飾って在る。部屋の隅には12キロの鉄アレイが二つ転がって居た。

 「今でも毎日、筋力トレーニングを欠かさ無い」と二の腕を摩(さす)った。90代とは思え無い程胸板が厚くガッチリした体格だ。 ロゾフさんはロシア革命から8年後の1925年、軍人一家に生まれた。父親は旧ロシア帝国軍将校から革命勢力側に転じた経歴を持つ。
 自身も赤軍の空挺部隊学校へ進み職業軍人の道を歩んだ。1939年にドイツがポーランドへ侵攻し第二次世界大戦が始まって居た。1943年に卒業して直ぐ、18歳でポーランド付近の対独戦線に身を投じた。そして1945年5月のドイツ降伏後に送り込まれたのが、遥か遠い極東の北千島だった。  

 1945年8月18日午前2時過ぎ、千島列島最北端の日本軍の要衝・占守島で始まったソ連軍の上陸作戦。その年2月にクリミア半島で開かれた米英ソのヤルタ会談での密約に基づき、全千島を占拠しようと云うソ連指導者スターリンの意向が背景に在った。日本政府が8月14日に連合国へ無条件降伏を通告した4日後に始まった戦闘だった。  

 「艦船が島に近付いた時、一帯は濃霧だった。日本人は猛烈な射撃で我々を出迎えた。彼等は岸辺に沿って頑丈なトーチカを設けて居たのだ。上陸を始めると犠牲者も出た。我が方は艦上から砲撃を加えた」

 モロゾフさんは昨日の出来事の様に話に熱中し、身振り手振りの度に胸の勲章が小刻みに揺れる。戦場は耳を劈(つんざ)く砲撃音に包まれて居た。「一番手前の防御ラインを奪取すると、耳が聞こえ無く為った日本兵達を見付けた」
 一つのトーチカには2人の狙撃手が居て、投降出来無い様にその場に鎖で繋がれて居た、とモロゾフさんは回想する。ソ連側の上陸は続き、白旗を掲げて降伏する日本軍部隊も現れ始めた。停戦迄の3日間で日ソ双方とも1,000人以上が死傷したとされる。大戦で最後の激戦だった。
 ソ連軍はその後、千島全島と南樺太の占領を進め、9月5日に歯舞群島で日本軍を武装解除させ作戦を完了した。  

 ◇「日本軍人は勇士だった」  

 モロゾフさんは戦闘が終わってから占守島(しゅむしゅとう)と南隣の幌筵(ぱらむしる)島を見て回り、日本軍の整った設備に驚いたと云う。占守島の地下施設には会議室や医務室・ディーゼル発電所迄揃って居た。又、幌筵(ほろむしろ)では冬でも使える様に滑走路には融雪装置が施されて居たと云う。

 「日本軍人は勇士だった。勝者と為るべく準備して居た」と褒め言葉迄口にした。モロゾフさんは「終戦」を2回経験して居る。対独戦の5月と対日戦の9月だ。「戦争中は『責めて翌朝迄生きて太陽を拝みたい』と皆願って居た。終戦はどれだけ嬉しかった事か」

 徐(おもむろ)に胸を張り「これはベラルーシ奪還の勲章、こちらはクリル諸島(北方領土と千島列島)に付いてのものだ」と指し示した。体には2、3カ所の銃創が残って居る。対独戦の際には、余りの喉の渇きに死体が浮かんだ池の水を飲んだ事も在った。
 赤軍に居ながら密かに〔ロシア正教〕の信仰を守り、突撃前には仲間と共に十字を切って神に祈ったと云う。戦後はサハリンに移り住んで1962年迄軍務を続け少佐で退役した。北方領土問題に付いて尋ねると、誇らし気な笑顔は一変し表情は硬く為った。

 「この土地の為に人々が血を流したのに、引き渡そう何て事が在ろうか。もし日本に島を返せば、ドイツだってカリーニングラード(第二次世界大戦後にソ連が併合した旧ドイツ領ケーニヒスベルク)を要求するだろう。日本は米国の圧力下に在る。島の一部でも返せば米軍基地が出来、我等がロシア太平洋艦隊は出口を奪われる」

 目には怒りの色が浮かんで居た。日本側から見れば強硬な意見だが、ロシアに於いては決して突出した考えでは無い。「先人が血を流して得た領土」とのフレーズは多くのロシア人の心を揺さぶる。  

 ◇取り残されたコリアン  

 ユジノサハリンスクで何気無く乗ったタクシーで、運転する初老のアジア系男性が「少しだけ日本語を知って居る」とロシア語で話し掛けて来た。ハンドルを握りながら、記憶を辿る様にユックリと単語を声に出す。

 「おいちゃん……おばちゃん……あんちゃん、ねえちゃん……」

 昭和を思わせる日本語の響き。サハリン南部が日本領・南樺太だった歴史を改めて感じる。この男性、アレクサンドル・テンさん(66)は戦後生まれのコリアン2世だった。

 「父は1943年に朝鮮からサハリンに渡り炭鉱で働いた。私は1948年にユジノサハリンスクで生まれた。父は仲間とは日本語で話して居たよ」  

 人口50万人のサハリン州には現在、約2万5,000人の朝鮮系ロシア人が暮らす。8割強を占めるロシア人に次いでコリアンは2番目に多い民族と云う事に為る。その多くは朝鮮半島が日本領だった時代、詰まり終戦迄に南樺太へ遣って来た朝鮮人とその子孫だ。
 日本では1937年に始まった日中戦争、41年からの太平洋戦争に依って成人男子の徴兵が進み、労働力不足が深刻化して居た。その穴を埋める為に利用されたのが朝鮮人労働者だった。


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                 パルプ産業が進出 10-5-11


 日本本土のみ為らず、炭鉱業が盛んだった南樺太にも数万人が送り込まれた。テンさんの父親もその一人だ。戦争が終わり、南樺太はソ連軍に占領された。約40万人の日本人が引き揚げて行く中で、終戦迄同じ日本国籍を有して居た朝鮮人は取り残された。
 殆どは1948年に韓国と為った朝鮮半島南部の出身者だった。日本もソ連も韓国も彼等を帰還させようとはし無かった。  

 米国とソ連の対立を背景に朝鮮半島は南北に引き裂かれ、サハリンのコリアンは厳しい立場に追い込まれた。故郷で在る半島南部はソ連と北朝鮮が敵視する国に為ってしまったからだ。冷戦が新たな悲劇を生み出した。 
 だが、韓国で1988年にソウル夏季五輪が開催されると、サハリンでは半島南部出身のコリアンに対する厳しい見方が一変したと云う。ソ連も五輪に参加し、韓国の発展振りと豊かさがテレビを通してサハリンでも広く知られた為だ。


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                 樺太を疾走した機関車 5-10-5


 ソ連では1980年代後半「ペレストロイカ」(建て直し)を合言葉に社会改革を主導したゴルバチョフ書記長に依る「新思考」外交が進められて居た。ソ連と韓国の国交が1990年に樹立されるのを前に、1989年には日韓両政府の支援に依ってコリアン1世達の韓国への帰国事業が始まった。
 高齢の身を押して、これ迄に約4,000人が故国の老人ホームへと移った。戦後75年以上を経て、サハリンのコリアン社会も転換期を迎えて居る。ロシア本土への移住や少子化で人口が減り続けるのと同時に、ロシア語で教育を受けた2世・3世がコミュニティーの中心と為った為だ。民族の伝統文化を如何に守るかが新たな課題として浮上して居る。  

 ◇「ソ連時代、カレーが御馳走だった」  

 夕闇に包まれたユジノサハリンスクの住宅街で、ポッと温かな灯りが一軒家の窓から外へと零れて居た。地元ジャーナリストに探して貰った小さな日系人コミュニティーの拠点は、仏教系新宗教の集会所だった。過つて南樺太の「支配民族」だった日系人は現在、全島で200人程がヒッソリと暮らす。  
 1945年8月11日午前9時半過ぎ、北緯50度線に引かれた日ソ国境を越えて、ソ連軍の南樺太への侵攻が始まった。日本軍の抵抗を打ち破って南下し、同25日には豊原を占拠する。翌26日に日本軍は樺太の全ての部隊に降伏を命じ、サハリンでの戦闘は終わった。

 当時、南樺太に居た日本人は約40万人に上った。引き揚げは、ソ連軍の占領開始から1年3カ月後の1946年12月に始まり、数年掛けて北海道や本土へと去って行った。だが、ソ連が必要とした技術者・コリアンやロシア人と結婚した女性等残留を余儀無くされた日本人住民も数百人居た。
 1991年のソ連崩壊を受けて、こうした残留日本人1世の永住帰国が進んだ。今もサハリンで暮らして居るのはソ連統治下で育った2世・3世が殆どだ。集会所で出会ったのもこうした人々だった。  

 「昔は日本の年中行事も祝って居ましたが、親達が亡く為った後はこうした伝統も忘れてしまいました。『オシルコ』は大好きでしたよ」

 戦後生まれの朴愛子さん(66旧姓・長野)はこう振り返った。北海道出身の両親は1938年に南樺太へ入った。戦後はソフホーズ(国営農場)で働いた父マサイチさんは1958年に亡く為り、その後は母ミサさんが8人の子供を育てた。愛子さんは日本語も或る程度は話せるが母語はロシア語だ。
 「母は日本語を教えたがりましたが、私は此処で生活するのに何故必要なのだろうと思って居ました。後に為って後悔して、自分で勉強しました」と語る。  
 日本に取って敵国だったソ連での暮らしは如何だったのだろうか。愛子さんは「皆友好的でしたよ」と語り「質素だったソ連時代、家ではカレーライスが御馳走だった」と笑顔を見せた。

 日系人で在るとの理由で辛い思いをした記憶は無いと云う。1996年に83歳で亡く為った母ミサさんは「桃太郎」等日本の昔話は繰り返し話して呉れた。だが、戦争当時の思い出を語る事は一度も無かったと云う。愛子さんは会計士として働きコリアンの男性と結婚。2人の子供と孫に恵まれた。

 「戦争はもう過去のこと。うちには日本と朝鮮、二つの文化が在ります」  

 実は、今回訪問した集会所に集う仲間には日系人のみ為らずコリアンも多かった。月に4回の集会の後には、持ち寄った手料理で仲良く食卓を囲む。愛子さんの様に両民族から為る家族も少無く無い様だ。  
 イーゴリ・パクさん(55)もそうした一人だ。父親はコリアンと日本人の間に生まれ、終戦前に召集で南樺太へ送り込まれた。歯科医だった為ソ連占領後も残留を求められ、直ぐにソ連国籍を与えられたのだと云う。そして日本人の妻を娶った。ロシア人中心のサハリンで、日系人とコリアンは寄り添って暮らして居る様に感じられた。


  毎日新聞【真野森作】



 〜管理人のひとこと〜

 何を隠そう管理人も樺太からの引揚者の家族である。父母共に学校の教師として樺太に渡り、現地で見合い結婚して家庭を築き・・・そして戦後に函館に引き揚げたらしい。管理人は末っ子で無論当時の事など記憶は無いが、父母や兄姉は時折、懐かしそうに樺太時代や引き揚げからの苦労話をしたものだ。
 苦労と云うよりは懐かしそうに、親しかった数人のソ連兵の名前や近在の知人の名前を次々と挙げ、その後を心配する様だった。父母共に亡く為り偶に帰郷すると、当時の話を兄姉にリクエストするのだが、姉兄等の記憶も区々(まちまち)で忘れ去られてる。
 遂最近(5・6年前 )の帰郷の時、私の運転で兄姉揃って道南をドライブした。函館から引き揚げて放浪したで在ろう記憶に残る地への訪問だった。道南の日本海沿いを北上する・・・各地を10人家族で彷徨ったらしいのだが、農家で働いてアルバイトしたり子守をしたり・・・移動はテント生活したらしいが、全てが楽しい思い出に変わって居る。
 札幌に住む母の兄(国税局・国家公務員?)の世話で、旭川郊外(大雪山麓の開拓地)の中学校の分校の教師として赴任する事に。そして分校が閉校すると高校の教師として定年迄働いた。その後、父を慕う沢山の教え子の世話で働いたり各地を旅行したり、最後は長兄の住むブラジルへ渡り現地で没した。
 戦後は国から何の援助も補償も無かったが、多くの国民は等しく苦労して生き延びて来た・・・特に引揚者は全ての財産を現地に投げ捨てて帰国したから無一文の丸裸だった。引揚者給付金と云う制度で多少の金銭的補償も在った様だが・・・引揚前後には苦労も多く沢山の犠牲者も生まれたのだが、楽しい思い出しか残ら無い。これが人間の性(さが)なのだ。
 北方領土返還の問題が存在する。しかし、戦後からの時間が永過ぎ、今や時代がソックリ変化してしまった・・・詰まり今の樺太は既にソ連・ロシア領として人々の歴史が既成の事実として存在する。万が一日本の領土と為っても、日本各地に過疎化が拡がる国に新たな領土が増えても何の手も打て無いのだ。尖閣もそうだが、矢鱈に領事の拡張を訴えても何の意味を為そう、単に争いが増すだけである。














 

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