アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2022年02月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28          
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
ヨリちゃんさんの画像
ヨリちゃん
プロフィール

広告

posted by fanblog

2021年10月03日

「大抜擢をされた男」聖徳太子は何故出世したのか?



 「大抜擢をされた男」聖徳太子は何故出世したのか?


 東洋経済オンライン 10/1(金) 17:01配信


   
 聖徳太子の「抜擢」に付いてご紹介します・・・

 現代を生きる私達の多くは、何等かの組織に属し組織人として生きて居る。そして、組織の中で生きる以上〔人事〕は無視出来無いだろう。勿論〔人事〕が重要なのは現代に限ら無い。 歴史学の第一人者達である遠山美都男・関幸彦・山本博文の3氏が「抜擢」「派閥」「左遷」「昇進」等から歴史を読み解いたユニークな日本通史『人事の日本史』 本書から、聖徳太子の「抜擢」に付いて紹介する。



 
        10-3-7.jpg

            遠山 美都男  学習院大学非常勤講師 10-3-7


 私達の祖先が難局に直面した時、それを打開する為に、一体どの様にして人材の発掘や登用を行ったのだろうか。又、政府等の組織をより強力且つ円滑に運営・維持する為に、勤務評定や昇進のシステムにどの様な創意や工夫を加えて来たのだろうか。更に〔人事〕を巡って形成される派閥には、時代や集団に依ってどの様な違いや特徴が在ったのだろうか。
 これ等の問題を時代毎に、出来るだけ具体的に解き明かして行こうと云うのが本書の狙いで在る。このテーマを掲げて、最初に取り上げねば為ら無いのは、矢張り何と云っても聖徳太子だろう。彼コソは我が国に於ける「異例の抜擢」の確実な最初の例だからだ。

 ■「摂政」では無かった  

 後に聖徳太子と呼ばれる事に為る厩戸(うまやど)皇子が歴史に登場する件に関して『日本書紀』は次の様に述べて居る(原漢文)

 厩戸豊聡耳皇子を立てて、皇太子とす。仍(よ)りて録摂政らしむ。万機を以て悉く委ぬ。  

 コレは、西暦592年12月、我が国最初の女帝で在る推古天皇(額田部皇女・ぬかだぶおうじょ)が即位した翌年4月の出来事とされて居る。この記述から、厩戸は実の叔母に当たる推古女帝の「皇太子」とされ、同時に政治を総裁する「摂政」に就任したのだと云われて来た。  
 しかし「皇太子」(唯一の皇位継承予定者)と云う地位が正式に成立したのは、実はこれよりも約100年後の事で在る。厩戸の時代には、大王(天皇は当時未だこの様に呼ばれて居た)の候補者は大抵複数名居たのであり、厩戸も有力な大王候補の1人に過ぎ無かった。

 又「録摂政らしむ」と云う記述から、当時既に「摂政」と云う公的なポストが存在したかの様に受け取られて来た。だが、この個所は単に「政を録摂させた」と述べて居るので在る。「録摂」には「まとめる」「統括する」の意味が在った。後に藤原氏が独占した、天皇権力を代行する摂政と云う地位とは凡そ無関係だ。

 ■厩戸は推古女帝の即位と共に抜擢されて居たのか?   

 厩戸が抜擢された地位が何で在ったかと云う問題以外にも『日本書紀』の記述には疑問が在る。それは、推古女帝の即位と共に厩戸が抜擢されたかの様に記して居る点だ。もしそれが事実で在る為らば、574年生まれの厩戸皇子は当時数え年で20歳で在る。この若さで、本当に国政に関与する事が出来たのだろうか。
 
 確かに厩戸の血筋は抜群だった。彼は、6世紀前半に即位して32年も在位した偉大な大王・欽明天皇の孫で在り、欽明の息子・用明天皇の皇子で在った。それだけでは無い。厩戸の両親は共に母親が蘇我稲目(そがいねめ)の娘で在り、彼は蘇我氏の一員と云っても好い存在だった。
 蘇我氏は6世紀前半に稲目に依って興された新しい氏族だったが、その族長は大臣(今日の総理大臣に相当する)として、当時の宮廷で最大の実力を誇って居た。
 
 しかし、当時は例え血統が好かったとしても、又能力・資質に申し分が無かったとしても、それだけでは大王は疎か大王候補にも為れ無い時代だった。政治上の経験の有無だけで無く、人格的な成熟度や年齢等が厳しく問題とされたのだ。
 或る天皇の直系の血筋を引く者為らば、幼少で在っても、又人格や資質に多少問題が在ったとしても、即位する事が出来た後の時代とは大きな違いが在った。

 年齢と云う点で云えば、この前後の時代は大体30歳位に為ら無いと、政治的にも人格的にも成熟して居るとは見做され無かった様である。コノ前後の大王や天皇の内年齢の判る例に付いて、即位した年の平均値を調べてみると、大体30歳前後に為ると云う。
 従って、弱冠20歳の厩戸がドンなに血筋が好かろうと、能力・資質に恵まれて居様と、彼が593年段階で大抜擢を受け国政に加わったとは考え難いのだ。

 では、彼が実際に国政に参画したのは、一体何時の事だったのか。そのヒントも『日本書紀』に隠されて居る。『日本書紀』を見ると、厩戸は601年2月から斑鳩宮(いかるがみや)の造営を始め、605年10月にはこの宮殿に移って居る。この時、彼は既に32歳である。
 斑鳩宮と云うのは厩戸の住まいで在り、同時に彼が所有する膨大な財産を管理・運営する機関(所謂家政機関)の所在地でも在った。それは、現在の奈良県生駒郡斑鳩町に在る法隆寺の東院(夢殿を中心とした一画)の周辺に在った事が発掘の結果判って居る。

 王族で在れば誰でも、この様な宮殿を営む事が出来たかと云えば、決してそうでは無かった。王族の中で政治的にも王位継承の上でも有力な存在と目されて居た、同じ母から生まれた兄弟の内最年長の男子(大兄皇子)だけが、基本的には斑鳩宮の様な宮殿を営む事が認められて居たのである。
 この様に、600年を過ぎ厩戸が30歳位に為った頃、彼の地位や身分に大きな変動が在った事は明らかだ。厩戸が国政に抜擢されたのは正にこの頃と見るのが妥当だろう。彼は云わば壮年に達し有力な王位継承候補と云う事で、推古と大臣の蘇我馬子(そがのうまこ・稲目の息子)を中核とする国政に正式に加わる事に為ったと見られる。

 ■推古女帝の実力人事  

 処で、この様に、有力な大王候補の王族が国政の中枢に入ると云う事が、これ以前から在ったかと云えば、如何やらそうでは無かった。厩戸抜擢の背景には、我が国最初の女帝・推古の登場と云う出来事が在った様だ。
 詰まり、推古女帝の登場無くして厩戸の抜擢も在り得無かったと云え様。推古は、夫である敏達天皇のキサキ(当時は漢字で大后と表記された・後の皇后に当たる)の地位に在った。キサキと云えば、大王の単なる正妻と思われ勝ちだが当時はそうでは無かった。

 それは、大王の政治をサポートする公的ポストだった。推古は外為らぬそのキサキとして政治的な経験と実績を積み上げ、それが大いに評価されて、敏達没後に即位する事に為った訳で在る。
 今でも女帝は「中継ぎ」に過ぎ無いと云われる事が多いがそれは誤りだろう。その登場自体が、実は能力重視の抜擢の結果だったからだ。  

 サテ、そう為ると、今度は女帝を補佐する、過つてのキサキの役割を果たす人物が必要と為る。政治的な実力を買われて大王に為った推古が、自らのサポート役として抜擢したのが彼女の甥・厩戸皇子だった。
 女帝の政治を輔佐するには、血筋よりも何よりも飽く迄実力が重視されたのだから、この時厩戸が起用されたのは、彼がそれだけの評価に値する人物だったからに他為ら無い。彼の知られざる20代は、この様な評価を準備する充実した研鑽の日々だったのだろう。

 ■中国・朝鮮情勢の緊張  

 処で、厩戸は一体どの様な役割を期待され「入閣」する事に為ったのか。これに関しては、彼が国政に参画する様に為ったのを機に、斑鳩の地に宮殿の造営を開始して居る事が手掛かりに為る。  
 推古女帝や大臣の馬子が本居を構えて居た飛鳥(現・奈良県高市郡明日香村)やその周辺と異なり、斑鳩は当時の国際玄関口で在る難波の地と大和川や竜田道で繋がって居た。斑鳩は難波を介し中国や朝鮮半島と直結して居たと云え様。

 厩戸が入閣と共に、官邸とも言うべき宮殿を飛鳥周辺では無く斑鳩の地に造営したと云う事は、彼に期待された役割がズバリ外交だった事を物語って居る。冠位十二階や憲法十七条は、昔から厩戸が制定したと云われて来たがその証拠は無い。
 寧ろ彼は推古・馬子を中軸とする政権に外務大臣として「入閣」したと見られる。斑鳩宮は云わば外相官邸だったのだ。厩戸が外相に就任したのは、中国を中心とした東アジア情勢が大きく動き始める時期に当たった。
 
 6世紀末期、凡そ300年近く分裂状態に在った中国に要約統一政権が誕生した。これが楊氏が興した〔隋帝国〕だ。隋の皇帝を初め、中国歴代の皇帝達は天の命令(所謂天命)を受けて全世界を支配する絶対的存在と自任して居た。
 だから、隋の出現に依って周辺諸国特に朝鮮半島の3国(高句麗・百済・新羅)はそれへの対応を迫られ緊張が一挙に漲(みなぎ)った。  

 わが外相厩戸は、朝鮮3国の為政者達と同様、隋を中心とした東アジア世界の中で自国をどの様に位置付け、自国の権益をどの様に拡大・強化するかと云う課題に取り組んだ。それは具体的には、朝鮮半島南部の新羅と百済(しらぎくだら)に東西から挟まれて存在した伽耶(かや)(現・韓国の慶尚南道)問題だった。
 伽耶は小国の寄せ集まりで、6世紀の半ば過ぎ遂に新羅に併合されてしまう。倭国(日本の国号は未成立)はこの伽耶の一国、任那国(みまなこく)(金官国とも云う)に自国の権益が在ると予てより主張して居た。

 だから倭国(わこく)は、伽耶を併合した新羅に対し、伽耶に在る自国の権益を引き続き保障せよとの外交的要求を突き付けた。こうして新羅が、倭国に不承不承差し出したのが「任那の調(みまなちょう)」だ。それは、過つて任那国から大王に献上された品々(特産物)だった。

 ■倭国へ献上を怠る新羅に対して厩戸が執った戦略

 処が、その後、新羅は次第に「任那の調」の献上を怠る様に為る。倭国はそれに対し、時に軍事的な威嚇や実際の出兵等の手段に訴えたが、ナカナカ功を奏さ無い。厩戸外相も当初は軍事力に訴える旧来の方式を採用したが、流石大抜擢を受けた逸材だけ在って、ヤガテ発想を大転換するに至る。 
 それは、新羅を初めとした朝鮮3国が既に従属し、朝貢して居た超大国の隋に働き掛け、倭国が新羅の上位に在る事を認めさせると云うものだった。これが遣隋使だ。隋帝国の圧倒的な国力に依存して、自国にも他国にも損害や犠牲を出す事無く、その外交的要求を達成し様としたのだ。この外交戦略は一定の成功を収めた。  

 608年、隋の使者・裴世清(はいせいせい)が推古女帝の宮殿・小墾田宮(しょうこんでんみや)を訪れた。そして、610年には新羅はワザワザ任那の使いを伴って朝貢して来た。外相厩戸の得意の時だった。しかし、それから8年後に隋は滅び、倭国は再び自力で新羅に対して「任那の調」の献上を強制し無ければ為ら無く為る。  
そして、外相・厩戸皇子は、隋に代わった唐との国交樹立を模索する最中、621年に斑鳩の官邸で不帰の客と為った。


         10-3-6.jpg       

             遠山 美都男  学習院大学非常勤講師 10-3-6




 〜管理人のひとこと〜

 一時、聖徳太子の存在そのものを否定する、又は彼の業績とされた諸所の歴史的出来事を後世の作り物として否定する事が続きました。今回の解説で、その辺りの詳細な関係を理解出来そうです。それに〔女帝〕・・・が決して緊急避難・ピンチヒッター的なものでは無く、当時の時代が欲した適切で切実な要望が在る状況での女帝として迎えられた人なのだとも理解出来ました。
 そしてこの女帝で在る故の聖徳太子の存在だった・・・と、このコンビがその時代を指導したのでした。特に外交的な問題は彼の重要な仕事だったのです。何かの目的(歴史書は全てが当時の政権の存在理由の肯定が目的)で聖徳太子像が作り上げられ後世へと引き継がれたのですが、その上塗りを取り除いた真の裸の姿を何時かは知る事に為るでしょう。
















 
この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/11009130
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。