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2018年06月01日

史上最大の帝国「モンゴル帝国」の歴史その2


 「モンゴル帝国の歴史」その2

 モンゴル帝国の発展

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 チンギス=ハーンの死後大ハーンの位を継いだのが、オゴタイ=ハーン(位1229〜41)です。彼の時代に金を征服し(1234)、モンゴル帝国は一層の発展をして居ます。
 国家建設が進むに従って統治機構を整える必要が出て来ます。金国を征服することによって大規模な農耕地域を支配することに為る。前回も出て来ました契丹族の耶律楚材などを登用して中国人を支配する機構を整えて行った。契丹族も非農耕民でありながら中国を支配した経験がある、言わばモンゴル人の先輩格ですからね。
 又、オゴタイの時代にモンゴル高原北部に要約首都を建設しました。これがカラコルム。しかし、首都を造ってはみたものの、オゴタイは壁に囲まれた宮殿に住むのが窮屈で仕方が無い。宮殿の横っちょの草原で相変わらずテント暮らしをして居たそうです。外交上の式典として必要な時だけ宮殿に出向いたと云う。

 チンギス=ハーンの子供達について触れて置きます。オゴタイが第二代大ハーンに為った経緯についてです。チンギス=ハーンには四人の男児がいた。上から順番にジュチチャガタイオゴタイトゥルイです。必ず長男が相続する中国の様なキッチリした相続制度はモンゴル人には無かった。ただ、末子相続が一般的だったらしい。
 何故かと云うと、農耕民族のように土地を相続するという事は無いので、子供は大きく為ったらある程度の馬や羊を親から分けて貰って一人立ちをして行きます。上の子からドンドン独立して行くので最後に末っ子が残る。で、親が死んだ時残った家畜の群を末っ子がそのまま相続するのです。
 このパターンをハーン位継承に当て嵌めればトゥルイが大ハーンに為るのですが、それに関してはハッキリした決まりが無かった。そこで、遊牧民のリーダーとして相応しい者を有力族長会議であるクリルタイで決定する事に為ります。

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 長男のジュチは、暗黙の内に初めから跡継ぎとしては除外されて居ました。何故かと云うと、彼の出生には因縁があった。未だ弱小勢力だった頃、チンギス=ハーンは対立部族に襲われて新婚早々の妻を略奪されたことがある。一年後に、彼は復讐を果たし奪われた妻を取り返すのですが、その時妻は妊娠して居るの。そして生まれたのがジュチ。
 チンギス=ハーン自身、そのことでジュチを差別したりはしないんですよ。他の息子と同じように扱っています。でも、この話は公然の秘密だった。誰も口には出さ無いけれど皆が知っていたのです。だから、ジュチの相続は有り得なかった。因みにジュチと云うのは「客人」と云う意味だそうです。出生を考えると意味深長な名前ですね。
 次男のチャガタイは、大勢の前でジュチの出生の事を口に出すような軽々しい処があって人望が無い。残る三男と四男のオゴタイとトゥルイが本命だったのですが、チャガタイがオゴタイと組んでオゴタイ即位となりました。

 生前、チンギス=ハーンはジュチに西方へ遠征させる積りで「西の方何処までもモンゴルの馬蹄で蹂躙出来る全ての土地をお前に遣ろう」と約束していた。処が遠征実行前にチンギス=ハーンもジュチも死んでしまった。そこで、オゴタイはジュチの息子バトゥに対して遠征を命じた。
 これが「バトゥの西征」1236年から大遠征軍がロシア平原に出発した。バトゥを総大将にするモンゴル軍は向かう処敵無し。ロシア平原を制圧してそのままポーランドに侵入した。行き成り東方から遣って来た騎馬軍団に慌てたのがヨーロッパの諸侯たちです。
 ドイツ、ポーランドの諸侯連合軍一万がバトゥ軍別動隊三万から四万を迎え撃った。結果はモンゴル軍の圧勝。これをリーグニッツの戦い、又は、ワールシュタットの戦いと言います。ワールシュタットと云うのは、この戦いの後で付いた地名で「死体の森」と云う意味だそうです。
      
 モンゴルが圧勝した理由は、前回話した機動力と、もう一つは集団戦法にヨーロッパ諸侯軍が対応出来なかった為です。
 モンゴル騎馬軍団は整然とした隊列を組んで集団で攻めて来る。これに対して、ヨーロッパの軍隊は名誉と武勲を重んじる騎士の集まりだから集団戦をしません。平家物語の頃の武士と同じで、戦う前に「ヤアヤア、我こそは何処そこの領主、何とか伯である。いざ、じんじょうに勝負せよ!」とか言って、一騎打ちして勝敗を決める。これが基本です。その積りで騎士達が構えていると、碌に鎧甲も付けずネズミみたいに小さい馬に跨った連中が集団で突っ込んで来る。これでは一溜りもありませんね。

 この後もモンゴル軍が進撃を続けていれば、ヨーロッパもモンゴル帝国の一部に為ったかも知れないのですがここで事件が起こる。オゴタイ=ハーンの急死です。次の大ハーンを決める為のクリルタイに参加せよ、と云う連絡がモンゴル高原より来るんですね。
 バトゥは兵を返します。只、彼はモンゴル高原まで帰らずロシア平原に留まってここを自分の本拠地にします。これがキプチャク=ハーン国と呼ばれモンゴル帝国の一部と為ります。

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 オゴタイ=ハーンの跡を継いだのは、その子のグユクですが、彼の即位には反対が多く正式に大ハーンに為るまでに何年も掛かっています。又、即位して間も無く死んでしまった。オゴタイの死からグユクの死まではモンゴル帝国の混乱期です。グユクは受験的には覚える必要無しです。
 グユクの死後、又もや大ハーン位を巡って一族の間で争いが起きる。第四代大ハーンに為ったのはモンケ(位1251〜59)。彼は、チンギス=ハーンの末子トゥルイの子です。オゴタイ家からトゥルイ家に大ハーン位が移ったのには一族の長老バトゥの後押しがあった。チャガタイ家、オゴタイ家のチームに対して、ジュチ家、トゥルイ家は仲が良かった訳だ。

 第四代モンケ=ハーンの時代に為って、モンゴル帝国は再び征服戦争を開始しました。モンケは二人の弟、フビライとフラグに夫々東と西の遠征を行わせた。フラグの西アジア遠征はイスラムのアッバース朝を滅ぼしました。
 アッバース朝は500年も続いたイスラム教の中心的王朝でした。だから、これは西アジアのイスラム世界にとっては物凄い大事件だったのです。フラグの遠征軍の一部はエジプトまで侵入しますが、ここで又、モンケ=ハーンが死んでフラグには帰還命令が出ます。フラグもバトゥと同じ様にモンゴル高原まで帰らずイランに留まる。ここに出来るのがイル=ハン国です。西アジア全体を勢力範囲に置きました。

 一方、もう一人の弟フビライはチベット、雲南にあった吐蕃、大理と云う国を征服し、西南方面から中国の南宋を攻略します。この対南宋戦にモンゴルは大軍を投入して、各方面から作戦を展開していた。モンケ=ハーン自身も出陣して南宋戦を指揮して居て病死したのでした。
 モンケの出陣中、カラコルムに留守番として残っていたのが、フビライ、フラグ達の更に下の弟、アリクブケと云う人なのですが、彼がモンケの死後大ハーンに為る最有力者だった。即位の為のクリルタイを召集します。フラグもこれに呼ばれる。フラグの場合は余りにもカラコルムから遠く離れているので、モンゴル高原に帰って政争に巻き込まれるより西アジアに自分の国を作ると云う選択をしたのです。

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 しかしフビライは、対南宋戦で指揮下にある大軍を背景にして強引に大ハーンに就こうとした。彼は、アリクブケのクリルタイに参加せず、自分の支持者だけでクリルタイを開き大ハーンに為ってしまった(1260)。アリクブケは、フビライに対抗してカラコルムで別にクリルタイを開き大ハーンに為ります。しかし、彼は政治的にも軍事的にもフビライの敵では無く、4年後にはフビライに降伏しました。こんな風にしてフビライが正式な第五代目の大ハーン(位1260〜94)に為ったのです。

 ここまでの流れを見て来ると、モンゴル帝国はモンゴル人の支配地域が拡がると云う意味では、ドンドン発展しています。しかし、一方で内部ではチンギス=ハーンの一族の結束は段々緩く為り、或いは対立する様にも為って来ていると云う事が言えます。整理してみましょう。
 ・チンギス=ハーンの長男ジュチ家はバトゥが南ロシア平原にキプチャク=ハン国を建設。
 ・次男チャガタイ家は中央アジア(トルキスタン)を中心にチャガタイ=ハン国と呼ばれる支配地域を形成しています。
 ・三男オゴタイ家は西北モンゴリアにオゴタイ=ハン国を形成。
 ・四男トゥルイ家は、フラグが西アジアにイル=ハン国を建設。そして、フビライが大ハーンとして四つのハン国を束ねると同時にモンゴル高原から中国北部、チベット方面を直接支配している。モンゴル帝国はこの段階でチンギス=ハーンの孫達が夫々持っている所領の緩やかな結合体です。
 フビライの即位に反対して、オゴタイの孫に当たるハイドゥが反乱(1266〜1301)を起こしていますが、これはモンゴル帝国分裂の象徴的出来事として受験的には覚えて置くこと。只、実際には大きな戦闘は一度しか無かったと云います。
     
 フビライは実はチンギス=ハーンの一族の中では変わり者とされていた。彼の何処が変わっているかというと、中国ビイキなのです。代々、モンゴルの王侯達は中国文化には関心が薄く、イラン文化に代表される西方の文化に興味を持つのが普通だった。処が、フビライは長い間南宋攻略をしていたので、自然と中国人と接触する機会も多かった。それで、中国ビイキに為った様です。
 そこで、大ハーンに為るとモンゴル帝国の首都をモンゴル高原のカラコルムから中国北部の大都に移した。大都は今の北京です。更に、国号を元とします。中国風でしょ。1279年には南宋を滅ぼして東アジア全域を支配下に入れました。
 日本、ビルマ、ヴェトナム、ジャワなど更に遠方に遠征軍を送り出す、これらは皆失敗に終わって居ます。何故、こんな遠征を行ったかと云うと、モンゴルがそれ迄に作り上げた陸のネットワークに海のネットワークを結び着けようとする試みだったと云う説もあります。フビライ以後、元は中国の王朝と為りました。
       
 その3につづく

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