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2018年06月01日

史上最大の帝国「モンゴル帝国」 その1

 史上最大の帝国 その1

 「モンゴル帝国」

 私は、ここに紹介する「モンゴル帝国」に今まで生きて来た上で一番の興味と興奮を抑えられません。私たち島国の人間からすると、あのユーラシア大陸の気の遠く為るような壮大な陸続きの大陸と、人類の終わりの無い歴史と同様に物凄い感激を得るのです。更にユーラシア大陸は、地中海を挟んだアフリカ大陸とも繋がった世界なのです。
 ユーラシア大陸とは、日本から見ると隣国である朝鮮に中国・ロシア・・・そして西へと行くとポーランドにスペイン、そして地中海を経て続くアフリカにギリシャ・トルコ・アラブ世界・・・南へ行くとインドにタイ・・・海洋国家のインドネシアなどの世界が広がるのです。ロシア・ポーロンドとインドの手前までの広い世界を一時は支配したのが「モンゴル帝国」です。

 mo8-24-20.png モンゴル帝国最大領域 

 その一時の平和を「モンゴルの平和」「タタールの平和」と呼ばれるのは、西域から東域までの殆どの国々が一つの支配者の下に置かれることで争いが無く平和が保たれる。そのことで商売・流通が画期的に活発になるのです。安心して遠くまで出かけ大切な商品を失うことなく目的地へと運び、そこで大きな商売をして莫大な利益を上げるのです。
 こんな歴史を学びたいとは思いませんか?先ずは、「モンゴル帝国」の歴史を学ぶことにしましょう。高校講座「モンゴル帝国」よりご紹介します。

         

   
 世界史講義録「モンゴル帝国の歴史」

 モンゴル帝国の成立

 契丹族の遼(りょう)帝国が金の攻撃によって滅んだ12世紀以降、モンゴル高原には遊牧民の部族が分立し抗争を繰り返していました。その沢山ある部族の一つにモンゴル族があった。モンゴル人とかモンゴル高原とか、現在使っている言葉ですが、この時にはそんな意味では使われていないですから注意して下さい。モンゴル族が遊牧ゥ部族を統一して有名に為ってから後で着けられた民族名であり地名です。
 当時のモンゴル部族そのものは沢山ある部族の一つに過ぎませんし又、特に有力な部族でも無い。当時のモンゴル人の様子を南宋の人が書き残して居るので見てみましょう。

 「金は三年毎に兵を遣わして北に向かって討伐をする。これを《減丁》と云う。今でも中原(黄河下流地方)の人はこの事を好く覚えて居る。20年前には山東や河北の家では皆モンゴル人を買って奴碑としたものだった。彼等は皆金軍が捕えて来たものである」趙珙「蒙韃備録」1221年

 詰り、金の奴隷狩りの対象に為って居たのですね。この弱小モンゴル部族を統一するのがテムジンです。やがて彼は他のゥ部族も統一して分裂していたモンゴル高原の諸勢力をまとめ上げた。1206年、クリルタイで大ハーンの地位に就きチンギス=ハーンと名乗る事に為った。
 クリルタイと云うのは遊牧ゥ部族の族長会議です。ハーンと云うのは王の称号。チンギスと云う言葉の意味は判っていません。

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 モンゴル平原は雄大な風景で、草原が何処までも拡がっている。こんな所にゴロンとヒックリ返ってみたいですが、実際行った人によると、この草原の草は非常に硬くてチクチクするのでヒックリ返れる様なもんでは無いそうです。
 まあ、そんなことはどうでも好いんですが、馬が群れているこの横に白いテントがあります。これがゲルと云うモンゴル人の住居。チンギス=ハーンの時代も同じ様な光景だったと思います。遊牧生活と云うのは「遊」と云う字が入っているので、牧草を求めてアチコチをさ迷って居る様なイメージがありますね。でも、実際は遊牧する場所は、夏営地・冬営地と、集団毎に決まって居て、季節毎にテントを持って同じ場所を行ったり来たりするのが基本です。

 モンゴル高原と言っても、何処までも緑の草原が続いている場所ばかりでは無い。岩がゴロゴロしている場所もあれば、砂漠に近い場所もある。だから、誰もが少しでも条件の良い場所で遊牧がしたいと思う。しかし、幾つもの集団が条件の良い場所に殺到したら牧草は直ぐに食べ尽くされてしまいますから、どうしても良い場所は取り合いになる。
 遊牧社会全体を統率する強大な権力者が居る時代は争いに為ら無い様に集団毎に牧草地を割り振って行きますが、そうで無い時代には諸集団は常に争い合っています。テムジンの少年時代は将にそう云う時代でした。戦国時代と言って好いです。

 テムジンの父親イェスゲイはモンゴル族の有力貴族の一人でした。モンゴル族そのものが当時はまとまって居ない中で、イェスゲイは配下の集団を増やしてモンゴルの族長の地位を目指していました。強く為ればそれだけ良い牧草地を他の集団から奪う事が出来ますからね。又強いリーダーの基には多くの遊牧集団が集まって来ます。強い奴に付いて居れば自分の安全も生活もそれなりに保証されると云う訳です。
 処が、テムジンの父親は敵対するタタール族の者に毒殺されてしまった。テムジンが僅か9歳の時のことです。9歳の子供に集団を束ねること等出来る筈はありませんから、イェスゲイの元に集まっていた遊牧民たちはテムジン一家を見捨てて次々に去って行く。
 それでも、テムジンは七人兄弟の長男だったので、9歳にして小さい弟達と母親を率いる家長として行動する事に為るのですが、瞬く間にテムジン一家は牧草地から追い遣られ、遊牧民でありながら遊牧で生活出来無い様に為ります。




 彼等は狩猟採集生活をしながら何とか生きて行く。河に入って魚を捕まえたりもしたらしい。「それが、何だ!」と思わ無いでくださいね。遊牧民と云うのは誇り高いの。馬に跨り草原を疾駆するのが彼等の本来の生活。地べたに這いつくばって、河で魚を捕るなんて云うのは最低の人間以下の暮らし、そう云う感覚なのです。
 又、或る時は猟をして鹿を仕留めるんですが、獲物の分け合いで兄弟喧嘩に為る。何とテムジンは弟二人をその時に殺しています。食べ物の奪い合いで兄弟を殺す様な生活って想像出来ますか。しかし、そう云うギリギリの生活を生き抜く中で、テムジンは実行力・決断力・冷静さ・悪く言ったら残酷ささえ身に着けて行く。
 
 成長した後は、父親の昔の同盟者などを味方に付けながら徐々に力を蓄えモンゴル族を統一し、次には他のモンゴル高原の遊牧諸部族を配下に従えてチンギス=ハーンと為ったのです。この時の年齢が40台か50代。どうもハッキリしないのですが、もう既に若いと言える年齢では無く当時の感覚では老人に近いでしょう。
 これ以後、彼の支配下に入った遊牧諸部族は全てモンゴルと呼ばれる様に為ります。遼の滅亡後、百年振りにモンゴル高原を統一したチンギス=ハーンは、この後は物凄い勢いで征服活動を進めて支配地域を拡大します。遊牧民のエネルギーと云うのは一つにまとまると強烈です。



 
 当時のモンゴル人にとって、最も欲しかった地域は東西交易路です。貿易路を押さえれば遠隔商人達から莫大な税金を執る事が出来るからね。
 チンギス=ハーンが最初に征服したのが西遼(せいりょう)です。遼が滅びる時に、王族の一人耶律大石が中央アジアに逃れて建国した国でしたね。1218年、先ずはこの西遼を滅ぼした。(正確には1211年に西遼を乗っ取ったナイマン部を滅ぼした)
 1220年にはイランから中央アジアに掛けて領土を持って居たホラズム王国を滅ぼした。これはイスラム教の国です。この間に東の金に対しても攻撃を加えています。更に1227年、モンゴルからの援軍要請を断った西夏(せいか)を滅ぼしますが、この時にチンギス=ハーンは亡く為りました。
 
 彼の死体はモンゴル高原のケルレン川の流域に埋葬されたらしいですが、副葬品の盗掘を恐れて何も記念物を作ら無かったのです。それ処か埋葬した跡騎馬軍団がその上を何度も往復して墓の痕跡を完全に消してしまった。だから、今もチンギス=ハーンの墓所は不明です。もし、発見されたら大ニュースですね。
 彼が滅ぼして領土に加えた国は全て東西交易路上にある国です。チンギス=ハーンの業績を一言で言えば、交易路を完全に支配下に置き大遊牧国家の建設に成功した、と云う事ですね。この段階でモンゴル帝国と呼んで差し支えないと思います。

     モンゴル2.jpg

 モンゴルの強さ 

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 チンギス=ハーンの死後もモンゴルの発展は続くのですが、何故モンゴル軍が戦争に強かったのか見ておこう。チンギス=ハーンは「千戸制」と云う軍団組織を作り上げた。資料を見てみよう。

 「人類始まって以来現在に至る迄モンゴル軍の様なものは過つて存在し無かった。彼等は困苦に耐え、快楽を喜び、命令に忠実である。それは賃金や封土や収入や昇進目当てでは無い。・・・出征に際してはその目的の為に必要な全てのものを点検する。・・・点呼の時には装備の検閲を受け、少しでも欠けたものがあると責任者は処罰される。
 ・・・軍隊の召集や点呼の制度が完備して居るので徴兵薄や徴兵担当官を置く必要が無い。全ての兵士は10人の組に分けられ、その1人が長と為って他の9人を指揮する。10人の十戸長から1人の百戸長を選び、100人がその指揮下に入る。1000人で千戸、10000人で万戸を作り、万戸の長をテュメンと云う」

 ジュワイ二ー「世界征服者の歴史1」より

 この様に組織化された軍団がチンギス=ハーンの意のままに動いたのです。この千戸制は軍制だけで無く、日常の行政組織でもありました。
 千戸制のシステムによって集められた兵士達は全て軽騎兵です。機動力が抜群だった。機動力、判りますね。簡単に言ったらスピードが速いと云う事。モンゴル兵は一人で五・六頭の馬を連れて従軍する。騎馬軍団が遠征に出掛けるでしょ。ずうっと同じ馬に乗り続ければ馬だって疲れて潰れてしまう。そうすると、兵士はその馬を乗り捨てて予備の馬に乗り換える。こんな風にして次々と馬を乗り換えて行軍しますから、敵の不意を突く速さで戦場に到着して攻撃をする事が出来た。

       モンゴル10.jpg


 ホラズム王国を攻めた時などは、モンゴル軍から包囲攻撃された都市が別の都市にモンゴルが侵略して来たぞ、防備を固めろ!と危険を知らせます。知らせを受けた都市が防備を固めようと準備をして居ると、もう地平線の向こうからモンゴル軍が迫って来るのね。軍備を調える余裕さえ与え無い。

 乗り捨てられた馬達はどう為るかと云うと、馬には鳩や犬と同じ様に帰巣本能と云うのがある。放って置けば勝手に故郷に帰るのです。遠征を終わって兵士が家族の元に戻ってみると馬の方が先に帰っていると云う寸法です。
 機動力を高める為には余分な装備は持たず荷物を出来るだけ軽くした方が好い。又、遠征途中で馬に食べさせる牧草が無くては大変です。だから、チンギス=ハーンに限らずモンゴルの皇帝達は遠征計画が決定すると、遠征実施一年以上前から遠征予定進路上での遊牧を禁止します。モンゴル帝国のどの家族もその土地で遊牧は出来ない。そうやって遠征軍の為に牧草を一杯生やして置くのです。

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 兵士の装備は次の様なものです。革製鎧・兜、太刀・短刀・矢、馬(5〜6頭)、手斧、やすり・キリ、釣り針・糸、引き綱、鉄鍋、革袋(水入り)、防寒毛皮マント、テント・敷物、干し肉・チーズ

 兵士達が日用品を自分で補修しながら遠征して居る感じが伝わって来ますね。モンゴル兵の強さの理由を続けましょう。千戸制、機動力の他に挙げるとすれば、モンゴル人の純朴さ素直さと云うのがあると思う。
 今でも、モンゴル共和国で遊牧生活をしている人達と云うのは日本人がトックニ忘れてしまった人の良さみたいなものを持って居るんだって。感動する位素朴な人達らしい。チンギス=ハーン時代は猶更でしょう。素朴で素直と言う事は兵士としては多分一番の適性ですよ。「前進」と命令されれば何があっても何処までも前進する。「殺せ」と命令されればトコトン殺し捲る。
 しかも、こう云う兵士達がチンギス=ハーンに忠誠心を持つのですから、これに太刀打ち出来る軍隊はそうそう無い。上の資料で「困苦に耐え、快楽を喜び、命令に忠実である」と云う事です。

 未だ、チンギス=ハーンが大勢力を築く前、モンゴル高原の統一を目指していた頃ですが、或る戦いでチンギス=ハーンの首に敵の矢が刺さってバッタリ倒れた。
 戦いが終わっても彼は昏倒したまま目が覚め無い。やがて、吹雪に為って雪が降って来ます。矢が急所に刺さっているだけに動かすに動かせ無い。そこに一人の武将が、自分の服を脱いでチンギス=ハーンの身体に差し掛けて一昼夜動か無い。一日経って、チンギス=ハーンは無事に目覚めるのですが、自分の周りにだけ雪が積もっていない。未だその武将は身動ぎもせずに立って居たと云う。こんな風に忠義を尽くす武将が山程いるのがモンゴル軍です。

 更に初期のモンゴル軍は抵抗した都市を徹底的に破壊してその住民を殺しまくった。恐怖の軍隊です。又、その残虐さを強調する事で宣伝効果を狙った様です。
 ホラズム攻略ではある都市を降伏させるとその住民全てを奴隷にして、次に攻略する都市まで引き連れて行く。そして、その奴隷達を攻撃の第一陣として使う。又は、攻撃の為の土木工事に死ぬまで働かせた。抵抗すれば後ろからモンゴル軍に殺されるので、前進して仲間に対して攻撃を仕掛け無ければ為ら無い。退くも地獄、進むも地獄です。




 残虐さと云うのは、敵の抵抗を引き起こすものの様ですが、モンゴル軍の様に徹底的にアッケラカンと残虐だと、抵抗する気も無く為るものなのかも知れません。
 チンギス=ハーンが晩年に将軍達を集めて宴会をやった。チンギス=ハーンは将軍達に尋ねました。「人生最大の幸せは何か」将軍達は「草原で家族に囲まれてノンビリ遊牧をすることです」と答える。「それは違う」チンギス=ハーンは言った。「人生最大の幸福は、敵を思う存分撃破し駿馬を奪い、美しい妻や娘を我がものにしその悲しむ顔を見ることだ」
 最後が凄いね。悲しむ顔を見る事、だって。成功したから英雄だけれど飛んでも無い人ですよ。身近に居たら絶対に知り合いに為りたく無いね。

 モンゴル族が対立する部族、ナイマンを滅ぼした時にナイマン王の金印を見付けたチンギス=ハーンは、それが何だか判ら無い。この金印を文書に押すだけで王の命令が全国に行き渡るのだと教えられて非常に感心したと云う話がある。
 又、金国の北部を占領した時、中国の農民を皆殺しにして農地を全て牧草地にすれば沢山の馬が飼えると喜んだ。それを聞いて耶律楚材と云う遼の王族出身でモンゴルに仕えていた男が、農民と云うのは生かして置けば一年に一度タップリと税金が取れるのですよ、とチンギス=ハーンに進言します。フーンと思ったチンギス=ハーン、一年様子を見て居たら確かに収穫時にドット税が入って納得したと云う。
 ヒョットするとモンゴル人を馬鹿にする為に中国人が作った話かも知れませんが、それでも当時のモンゴル人の雰囲気を伝えていると思う。

 要するに、初期のモンゴル人の政治的経験は遊牧社会にしか通用し無いものだった。領土を拡大するに伴って色々な統治技術が必要に為って来る。だから、民族人種に関係無く有能な人材をドンドン政府の中枢部に組み込んで行きます。耶律楚材もその一人です。
 又、チンギス=ハーン時代のモンゴルの人口は十万戸、七十万人程度だそうです。征服地が増えるに従って、モンゴルの千戸制に組み込まれる人々も増えます。近代的な民族意識は未だ無い時代ですから、新たに組織された人々、政府中央で活躍する人々、それらを全て含み込んでモンゴルと呼ばれる巨大な集団が形成されて行ったのです。

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 その2に つづく

















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