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2021年04月23日

【戦国こぼれ話】前田利家 関ヶ原合戦後に吹き荒れた改易の嵐 など




 【戦国こぼれ話】 エピソード1

 前田利家が加賀百万石の大大名に為ったのは 妻「まつ」のお陰だった



    4-23-1.jpg 渡邊大門 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役  4/23(金) 6:00


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 金沢城は加賀百万石の象徴 その陰には前田敏江の妻「まつ」の貢献があった(写真アフロ)4-23-2

 大河ドラマ『青天を衝け』で、橋本愛、吉沢亮との夫婦シーンが話題に為って居る。戦国時代においても大名の夫婦関係は重要で、前田利家の妻「まつ」は優れた女性として知られている。その生涯を辿ってみよう。

 「まつ」のこと

 天文16年(1547)「まつ」は尾張国・織田家の弓頭である篠原主計の娘として尾張国海東郡沖ノ島(愛知県あま市)に誕生した。「まつ」の誕生から4年後に父の主計が没した為、実母は再婚した。その為「まつ」は前田利家の父・利昌に預けられたと云う。これが、利家「まつ」との馴れ初めであった。
 永禄元年(1558)「まつ」は前田家で利家に見初められ2人は結婚する事と為った。「まつ」は未だ12歳、利家は8つ年上の20歳だった。その後「まつ」は利家との間に、金沢藩主と為る利長を筆頭として2男9女もの子宝に恵まれた。
 
 利家は織田家中に在った為、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)とも親交を深めた。秀吉の妻・高台院と「まつ」は幼馴染であり大変仲が好かったと云う。後に、利家の3女・加賀殿は、秀吉の側室と為った。
 そして、4女・豪姫は秀吉の養女と為り宇喜多秀家の基に嫁いで行った。この様な縁は、織田家での仕官がもたらしたものであり、終生変わら無いものであった。

 苦境に追い込まれた利家
 
 利家と秀吉は、共に織田信長から重用される様に為った。天正9年(1581)利家は能登七尾城主と為り大きな飛躍が期待された。しかし、翌年6月に勃発した本能寺の変で信長が横死すると、利家と「まつ」の運命は大きく変わったのである。
 本能寺の変の直後、一早く明智光秀を討ったのは秀吉である。しかし、秀吉と信長の重臣・柴田勝家との対立は決定的に為り2人の戦いは避けられ無く為った。

 この状況下で、当初、利家は柴田方に与して居た。しかし、秀吉と勝家が両者が激突した賤ヶ岳の戦いにおいて、利家は突如として勝家を裏切り秀吉方に寝返った。利家の土壇場の裏切りにより秀吉は勝利を掴んだのである。
 戦後利家は、何故勝家に与したのかを秀吉から問われ苦しい立場に追い込まれた。その危機を救ったのが「まつ」である。

 「まつ」は秀吉と面会し釈明を行った為、この危機を何とか逃れる事が出来た。秀吉と利家は旧知であったが、この危機を乗り越えるには「まつ」の存在が必要だったのである。翌年、利家は金沢城(石川県金沢市)に移ると、越中国の佐々成政が不穏な動きを見せた。やがて成政が末森城(石川県宝達志水町)を攻撃すると「まつ」は備蓄した金・銀を軍費に充てる様進言したと云うエピソードが残って居る。まさしく「内助の功」である。
 実の処、利家はケチで有名であった。利家は軍費を惜しみ人を召し抱える事を控える等したので「まつ」は利家が蓄財に励むのを皮肉ったのである。その甲斐あって利家は成政に勝利した。

 利家死後の「まつ」

 慶長4年(1599)閏3月に利家が没すると、大徳寺(京都市北区)内に芳春院を建立し自身も出家して芳春院と名乗った。当時、夫が亡く為ると妻が出家するのが慣習だった。しかし、利家の跡を継いだ利長と徳川家康との関係が悪化した事から、翌年に「まつ」は周囲の猛反対を押し切って進んで人質として江戸へ向かった。以後「まつ」は江戸へ赴いた人質の第1号として、14年間を江戸で過ごす事に為る。これ以降、江戸城に藩主の妻子が送られる契機と為った。

 要約「まつ」が金沢に戻ったのは、金沢藩主・利長が亡く為った慶長19年(1614)の事であった。そして、その3年後の元和3年(1617)「まつ」は金沢城内で亡く為ったのである。享年71。その墓は金沢市野田山に在り、夫・利家の眠る大徳寺芳春院にも分骨されたと云う。



 【戦国こぼれ話】エピソード2

 関ヶ原合戦後に吹き荒れた改易の嵐 徳川家康のリストラ構想が意味するものとは



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 伊賀上野城は、元々筒井定次の居城だったが、藤堂高虎の印象が強い。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)4-23-3

 コロナ禍で仕事を失った人が多いが、政府には再就職の道筋を着けて欲しいものだ。関ヶ原合戦後、徳川家康は多くの大名を改易とした。家康にはどの様な構想が在ったのだろうか。

 大名配置の変化
 
 慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦後、徳川家康の政権構想が進展する中で大名配置も少しずつ姿を変えた。大名配置の変化は豊臣家への脅威に為った。関ヶ原合戦後、豊臣系の諸大名は西国方面に多く配置され、徳川家の家門・譜代は逆に東国方面に配置された。
 処が、こうした方針は豊臣系の諸大名を改易し、代わりに家門・譜代を配置する事によって大きく変化を遂げたのである。

 筒井定次の改易
 
 慶長13年(1608)7月、伊賀上野城主の筒井定次が改易された。(『当代記』など)理由は、家臣の中坊秀祐が定次の不行状を告発する事により表面化した家中不和によるものである。
 定次は従兄の順慶の養子と為りその死後に家督を継承した。秀吉から伊賀上野への転封を命じられたのは、天正13年(1585)の事である。

 定次は上野台地に城郭を築くと、近辺の城下町化を推進し河川を利用した流通網を整備した。そして、京都、大坂などの主要都市と結び伊賀の経済発展を進めたと云われて居る。
 定次の代わりに伊賀上野を与えられたのは、それ迄伊予国半国を治めて居た藤堂高虎だった。元々高虎自身は豊臣恩顧の大名であったが、家康に急接近する事により側近大名と云える立場を築いた。高虎が妻子を江戸に預け、江戸城普請を積極的に推進した 好く知られている。

 伊賀上野は東国と西国を結ぶ地点にあり、京都・大坂にも近い所に位置し、重要な拠点として認識されて居た。家康がその地を高虎に与えた事は、対豊臣家を意識したものであると考えて好い。高虎が築城の手腕に優れて居た事は好く知られて居るが、以後、諸大名の改易に伴う御手伝普請に積極的に関わった。同時に、高虎は家康の期待に応えるかの如く上野城の改修と城下町移転を行った。

 慶長16年(1611)の事である。この改修は今後に予想される合戦に備えたものであった。詰り、筒井定次の改易と藤堂高虎の入封は、来るべき豊臣方との戦いを念頭に置いたものと見做すべきであろう。家康はその為に腹心である高虎を敢えて配置したのである。

 前田茂勝の改易
 
 慶長13年(1608)5月、丹波八上城主の前田茂勝が改易処分を受けた。(『当代記』など)茂勝は、京都所司代を務めた前田玄以の子であった。キリシタンとしても知られて居る。
 玄以は関ヶ原合戦で西軍に属して居たが、戦闘に加わら無かったので処分されず遺領は茂勝に継承された。茂勝が改易の処分を受けた理由は、重臣である池尾氏を殺害するなど当主として相応(ふさわ)しく無い行為があったからであると云う。茂勝の日常的な行為にも不可解な処があった。
 尚、筒井定次もキリシタンだったと云われて居るので、キリシタン禁令も影響して居ると考えられて居るが、口実として作用して居た事は否め無い。

 茂勝の代わりに八上城城主と為ったのは、常陸国笠間の松平康重である。康重は家康の実子であると云われた人物である。又、慶長7年(1602)における佐竹氏の秋田転封に際しては、水戸城を守り佐竹氏旧臣の反乱を鎮圧した事で知られる。
 実は、それ以前から康重の軍功は目覚しく西国方面を抑えるには最適な人物だった。こうした大名配置は、高虎の伊賀入封と同じく西国方面・・・詰り大坂の秀頼を意識したものである。その点で、康重は打って付けの人物であったと云える。

 最初、康重は八上城に入ったが、立地条件が悪いと判断すると篠山へ移転する事を決定した。この判断は、京都・大坂方面を強く意識したものだろう。八上城は山城であり、様々な面で不便であると感じられて居たからである。
 篠山城の築城は御手伝普請として行われ、総奉行には池田輝政が、御縄張奉行には藤堂高虎が任命された。そして、普請役は西国13が国20名の大名に賦課された。同時に篠山城下町の整備も進められたので経済圏の確立も意図されて居た様だ。

 この様に家康は、改易と云う手段を用いることによって、主要な地域に腹心の大名を配置する事に成功した。改易の行われた前年、家康は駿府城を改修し、所謂(いわゆる)大御所政治を展開して居る。既述した一連の改易は、全国支配へ向けた本格的な動きであるが、未だホンの序章に過ぎ無かったのである。



 【戦国こぼれ話】エピソード3

 余りにヤヤこし過ぎる!戦国大名は、何故頻繁に名前を変えたのだろうか



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    上杉謙信も度々改名したことで知られる大名の1人(提供 アフロ)4-23-4

 タレントの小倉優香さんが「小倉ゆうか」に改名したことが話題と為って居る。しかし、戦国大名の場合は、1回処か複数回に渉って改名する例もあった。何故戦国大名は、頻繁に名前を変えたのだろうか。

 度々改名した立花宗茂
 
 立花宗茂の父は、大友氏の家臣・吉弘鎮理だった。鎮理は高橋氏の名跡を継ぎ高橋鎮種(後の紹運)と名乗り、宗茂の名字も高橋に変わった。天正9年(1581)宗茂は大友氏の家臣・戸次鑑種(後の立花道雪)の娘・ァ千代と結婚して婿入りし戸次を名字とした。翌年、宗茂は大友氏の家臣・立花氏の名跡を継ぐ
 宗茂は統虎を振り出しにして何度も名前を変えた。統虎鎮虎宗虎正成親成尚政政高俊正経正信正宗茂立斎の順番だ。文禄の3年間には3度も改名したがその理由は不明である。中には改名の時期が判らないものもある。
 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、西軍に属して敗北した宗茂は以降も度々改名する。最終的に宗茂と云う名に落ち着いたのは慶長15年(1610)の時で、寛永15年(1638)に出家して立斎と号した。

 宗教の影響を受けた大友義鎮の名前
 
 キリシタン大名として知られる大友義鎮の「義」の字は、父の義鑑と同じく大友氏代々の通字である。永禄6年(1562)門司城(福岡県北九州市門司区)の戦いで義鎮は毛利氏に敗北した。その責任を取る意味で義鎮は出家して「休庵宗麟」と号した。元々義鎮は臨済宗を信仰して居たのだ。

 天文20年(1551)イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが布教の為に豊後を訪ねると、宗麟はキリスト教に強い関心を示した。宗麟が洗礼を受けたのは27年後の天正6年(1578)のことで、宣教師のフランシスコ・カブラルから「ドン・フランシスコ」と云う洗礼名を与えられた。
 以後、宗麟は書状等で「府蘭」と云う書名を用いた。「三非斎」「宗滴」等は別号だ。この様に宗麟は宗教上の理由から和洋両方の名前を用いて居た。

 政治的な立場で改名した上杉謙信
 
 長尾為景の次男として誕生した上杉謙信は、天文12年(1543)に元服して「景虎」と名乗った。「景」の字は長尾氏の通字である。
 永禄4年(1561)閏3月、謙信は上杉憲政の要請もあり、山内上杉家の家督と関東管領職を継承し「上杉政虎」と名を改めた。「政」の字は、憲政から与えられたものだ。処が、同年12月、室町幕府の将軍・足利義輝から「輝」の字を与えられ、程無く「輝虎」と改名した。

 永禄13年(1570)4月、実子の無かった謙信は、北条氏康の子を養子に迎え「景虎」と名乗らせた。そして、自身も同年12月に「不識庵謙信」と号した。この様に謙信は、時の政治権力との関わりから改名した好例である。

 勢力争いで名前を変えた有馬晴信
 
 有馬晴信は、同じ肥前の武将・龍造寺隆信の攻勢に晒(さら)され、止む無く豊後の大友義鎮(宗麟)を頼った。その様な事情から、天正7年(1579)頃に元服した際、義鎮の「鎮」の字を与えられて「鎮純」と名乗り、更に翌年には「鎮貴」と改名した。
 天正8年(1580)晴信はキリスト教に入信し、イエズス会の巡察使・ヴァリニャーノから「ドン・プロタジオ」と云う洗礼名を授けられた。改名した理由は、龍造寺氏に対抗すべく、イエズス会から武器・食糧・弾薬の提供を受けて居たと考えられるので、実利的な理由によってキリスト教に入信した可能性がある。

 天正12年(1584)晴信は島津義久と協力して龍造寺氏を滅ぼすと、翌年には義久から偏諱を与えられ、再び「久賢」と改名した。大友氏の名前を捨てたので、島津氏に従う事を意味している。この様に有馬晴信には、弱小大名の悲哀を観る事が出来、それが名前にも反映されたことが判る。

 下剋上と連動して名を変えた斎藤道三
 
 斎藤道三は松波基宗(まつなみもとむね)の子として誕生し、幼名は峰丸と云う。11歳の時に出家し法蓮坊と号したが後に還俗して庄五郎と名乗った。その後、道三は油屋の娘を妻に迎え山崎屋を屋号とした。処が、行商の途中で美濃土岐氏の家臣・長井氏の知遇を得て仕える事に為った。

 道三は長井長弘の家臣・西村氏の名跡を継いで西村正利と名乗った。ヤガテ、美濃国守護の土岐頼芸の寵を受けた道三は、土岐家の家督争いで政頼を追放し、頼芸を当主の座に就ける事に貢献した。その後、道三は主君の長弘の排除を画策し享禄3年(1530)に殺害した。道三はその名跡を継いで長井規秀と名乗ったのだ。
 天文7年(1538)に守護代・斎藤利良が亡くなると、道三はその家督を継いで斎藤利政と名乗った。出家して道三と号したのは、天文17年(1548)のことだ。道三の改名は下剋上の経過と連動して居たのである。

 この様に、戦国大名が改名した背景には一言では云え無い様々な事情があったのである。



  4-23-1.jpg 渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

 1967年神奈川県生まれ 関西学院大学文学部史学科卒業 佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了 博士(文学) 現在・株式会社歴史と文化の研究所代表取締役 十六世紀史研究学会代表 千葉県市川市在住 日本中近世史の研究を行いながら執筆や講演活動に従事する
 主要著書に『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社)『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(光文社・知恵の森文庫)『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』 (朝日新書)『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く 光秀・謀反の真相』(晶文社)など多数 

 • info_history1 official site 株式会社歴史と文化の研究所











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