2020年03月30日
東京に在る「孤立集落」の余りに厳しい現実
東京に在る「孤立集落」の余りに厳しい現実
〜東洋経済オンライン 3/29(日) 5:40配信〜
台風19号で大きな被害を受けた日原地区は今どう為って居るのでしょうか。以下、写真は全て3月中旬撮影(筆者撮影)
人口約1400万人・・・世界でも有数のメガシティ東京の西北部に「孤立」との闘いを強いられて居る小さな集落がある。東京都西多摩郡奥多摩町日原(にっぱら)地区だ。東京の水源地で有る奥多摩は豊かな森林と山々に囲まれ、清冽な水が流れる川や沢が点在する東京の秘境と称される魅力溢れる地域だ。東京都心からは電車を利用して1時間半余りで着く。
奥多摩町の中心に在る奥多摩駅から約10km、山を分け入った所に在るのが日原地区の中心地である。日原鍾乳洞や奥多摩登山・渓流釣りの拠点でシーズンには観光客やハイカー釣り人等で賑わう。
そんな山間(やまあいの小さな集落には40世帯66人が暮らして居る。人口の3分の2が65歳以上という超高齢社会の縮図といっていい地域である。スーパーや雑貨店は1軒も無い。買い物は約10km離れた奥多摩町の中心部に向かうしか無い、そんな集落だ。
台風19号で大きな被害を受けた
全国に猛威を振るった昨年10月12日の台風19号で、日原地区も大きな被害を受けた。被災直後の奥多摩町役場の職員による状況確認では、断水・停電・携帯電話不通が確認された。これ等の被害は復旧作業により1週間以内に解消されたが、町と日原地区を結ぶ唯一の生活道路である一般都道204号(日原街道)が、大沢バス停が在る平石橋付近で大量の土砂に依って崩落した。町から約3km・集落迄は7.4kmの地点である。
日原街道は全面通行止めと為り、車が通行出来無い状況に陥った。一般車だけで無く、救急車や消防車と云った緊急車両も通行不可能。こうして集落の孤立が始まった。
生活道路の通行止めで先ず困るのは生活物資等の運搬である。台風直後の10月17日〜19日には自衛隊のヘリコプターが燃料・食料を計5回に渉って輸送した。9日後の21日に為って、崩落現場に人ひとりが通れる仮設の歩道が出来た。これで生活物資の運搬が徐々に可能と為り、町は日原自治会の協力を得て送迎サービスを開始した。
奥多摩駅から崩落現場迄を町が、仮設歩道を各自で渡り、崩落現場から日原地区迄を自治会が車で送迎すると云うもので、平日は1日5便、休日は1日2便で実施された。
急峻(きゅぅしゅん)な崖と川に挟まれた崩落現場には大型の重機が入れず、復旧作業はナカナカ捗ら無い。そうこうして居る内に日原に冬が訪れた。標高600mを超える日原の冬は寒さが厳しい。12〜2月の最低気温は氷点下に為る。そんな冬を人々はどう乗り切ったのか。関係者に話を聞いた。
消防職員が1カ月間は日原に寝泊まりして待機
「今年は例年に比べ雪は少なかったですね。一度20cm程積もった位でした。冬場に欠かせ無い灯油は町の業者の方が隔週で運んで呉れました。日常の食料品や生活用品は、中継点(崩落現場)迄10人乗りのワゴン車等で行き、仮設の歩道を渡って役場が手配して呉れた送迎の車等で町に行って買って来ると云う生活です。有り難い事に2人の方が車を貸して下さり、その車も利用させて頂きました」(日原保勝会の担当者)
何とも不自由な生活を余儀無くされた訳だが、台風から5カ月経った3月中旬現在でも孤立状況は解消されて居ない。この間、体調を崩したりした人は居なかったのだろうか。
「台風から1カ月間は消防の職員の方が日原に寝泊まりして呉れました。その後も崩落現場に救急車が待機して呉れて居ます。今迄に救急搬送は3回ありましたが、幸い大事には至って居ません」(同)
子供達の通学はどう為って居たのか。
「小学生の子が2人居る世帯がありましたが、今は町に在る小学校の近くに家を借りて居ます。別の世帯の保育園に通って居る園児は、お母さんが町の保育園に送迎して居ます。この子は4月から小学生です」(同)
孤立状態に置かれた日原の住人達は、地域の人々・町役場・有志等、色んな人々の助け合い・協力で寒い冬を乗り切って来たのだ。
3月中旬の或る日、修復工事を進めて居る東京都建設局西多摩建設事務所の許可を得て、日原街道の崩落現場を取材した。3月14日に都道204号(日原街道)の奥多摩町側の一部区間(2.6km)が通行止め解除と為り、路線バスも崩落現場近くの大沢バス停まで運行を再開して居た。1日9便だ。
取材日は快晴で穏やかな春日和。朝10時10分に奥多摩駅を出発する路線バスに乗り込む。乗客は筆者のみだった。大沢バス停迄の約10分間、乗り降りは1度も無かった。運行再開後、地元の人以外では、大沢の渓流釣り場を訪れる人が数人乗車したのみだと云う。
切り立った崖に沿う様に仮設歩道
大沢バス停に着くと、20分後に折り返すこのバスを数人の人達が待って居た。町への買い物だろうか。バス停近くの駐車場には、イザと云う時に備えて救急車両が待機して居る。
ゲートが設けられた平石橋には通行止めの看板が立て掛けられ、ガードマンが通行をチェック。取材の旨を伝えて橋を渡り道を進む。
100m程行くと、工事関係者の車が数台止まって居る。その奥で小型の油圧ショベルが作業して居る光景が目に入って来た。復旧工事が行われて居る道路の右端に安全柵が設けられ、切り立った崖に沿う様に仮設の歩道が延びている。
「1名ずつ通行してください」「手荷物重量40kg(ポリ缶2個)程度」「自転車・バイク通行禁止!!」の表示が有る。通行人が誰も居ない事を確認して仮設歩道を進む。アスファルトの道を10m程進むと今度は鉄板の道に為る。安全柵の左側は崩落現場だ。
道路が削り取られた斜面の土砂の部分はコンクリートで固められて居る。清流は何事も無かったかの様な美しい流れを見せて居る。鉄板の仮歩道の長さは100m程だろうか。終点近くの河原には山から転がり落ちて来たのだろう、巨岩が上部に土砂を付けた状態で転がって居る。
仮歩道を渡り切った先の道路上にはミニパトカーが待機。改めて崩落現場をチェックする。落下して来た岩や石が河原にゴロゴロと散乱し、道路が大きく抉り取られた跡が何とも痛ましい。
急峻な崖と川に挟まれた崩落現場での工事は、素人目で見ても大変である事が分かる。工事関係者らの全力の復旧作業で、ゴールデンウィーク頃には仮復旧し、日原街道の通行止めが解除される見通しだ。最も、路線バスの様な大型車は運行不可で、完全復旧には未だ1年半以上掛かる見込みだと云う。それでもマイカーの通行が可能に為れば、日原の人達の不便解消に繋がる事は間違い無い。
多くの観光客が訪れる日原鍾乳洞の再開は?
冒頭でも触れたが、日原地区には関東随一と云われる日原鍾乳洞が在る。日原を代表する観光スポットで、年間10万人の観光客が訪れる。此処も台風以来、閉鎖されたママだ。日原保勝会の方が内部をチェックした処、鍾乳洞内には被害は無かった。
だが、道路に立って居た電柱が傾いてしまい、鍾乳洞内部は停電が続いて居ると云う。その補修工事も、日原街道の通行止めが解除され無いと出来ない。昨年10月迄に7万7000人の観光客が訪れた鍾乳洞。12月迄で2万人以上の観光客を失った事に為る。
崩落現場の対岸の道路の脇に1体のお地蔵さんが鎮座して居た。地酒が供えられたお地蔵さんは新しい真っ赤な帽子とマフラーを身に纏い、崩落現場の復旧作業を見守って居る様だった。
現場の取材を終え、奥多摩への道をユックリと歩きながら下って行くと、春の穏やかな日差しを浴びて紅白の梅の花が咲き誇って居た。真っ青な空を見上げると、オオタカだろうか大きな猛禽類の鳥が羽を広げて優雅に舞って居る。
「こうした生活が長引いて、不安やストレスが溜まって居る人も居ます。でも、日原の住民は我慢強いから何1つ文句も言いません。今は、1日も早く復旧して欲しい。それだけですね」(日原保勝会の担当者)
一極集中が加速し、東京オリンピック・パラリンピックに向けた再開発ラッシュが続いて来た東京。その片隅に、未だに台風被害による孤立状況が続く集落があった。
山田 稔 ジャーナリスト 以上
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