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2020年02月23日

戦争秘話 敵機撃墜第1号と為った戦闘機乗り「波瀾万丈過ぎる人生」




 


 

 戦争秘話 敵機撃墜第1号と為った戦闘機乗り「波瀾万丈過ぎる人生」

              〜現代ビジネス 2/22(土) 11:01配信〜


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                  写真 現代ビジネス

 今から88年前の昭和7(1932)年1月、上海で、居留民保護の名目で進駐して居た日本軍と中華民国軍との間に軍事衝突が起きた。「第一次上海事変」と呼ばれる。
 日本海軍は直ちに空母2隻を派遣、2月22日、空母「加賀」戦闘機隊の生田乃木次(のぎじ)大尉が、蘇州上空でアメリカ人義勇飛行士ロバート・ショートが操縦する戦闘機と空戦を交え撃墜した。これが陸海軍を通じ、日本で初となる敵機撃墜である。
 生田大尉は一躍「時の人」と為り、国民的ヒーローに祭り上げられたが、その年の暮れ突然海軍を辞めてしまう。

 彼は何故海軍を去らねば為らなかったのか・・・本人の肉声からは、現代に通じるメディアの問題と、戦前ならではの社会的事情が浮かび上がって来た。

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    自ら園長を務める保育園で 子供達に囲まれる生田乃木次氏(1996年 撮影 神立尚紀)

 92歳 保育園を経営する元戦闘機乗り

 「歴史には必ず段階が有る。零戦も、行き成り誕生した訳じゃ無くて、そこへ至るには多くの先輩の努力や苦労があった。零戦を知りたければ、それ以前を知る人とも会って置きなさい」
 
 と、零戦搭乗員会の代表世話人だった志賀淑雄(元少佐)は言った。筆者が、戦争体験者の取材を始めて程ない平成8(1996)年3月の事である。

 「生田乃木次さん・・・貴方知ってる? 昭和7(1932)年の第一次上海事変で、日本陸海軍を通じて初めて、敵戦闘機を撃墜した。処が、その後直ぐに海軍を辞め・・・士官は下士官兵と違って満期が無いから、簡単に辞める事は出来ないんだが・・・戦後、我々が戦闘機の大先輩としてお話をとお願いしても、決して出て来られない。しかし、貴方の様な若い人が訪ねて行けば、或は話して下さるかも知れない」

 生田乃木次大尉の名は筆者も知って居る。日本初の敵機撃墜。しかし、その事が語られる事は少なく、昭和52(1977)年、読売新聞社の協力で、撃墜した相手パイロットの弟と会った事が取り上げられた位で、本人の肉声を伝えるものは見た事が無い。ソモソモ空戦から60数年、当の生田大尉が存命であるとは思ってもみなかったのだ。
 志賀は、その場で生田に電話を掛けた。生田は現在、千葉県で保育園を3ヵ所も経営して居ると云う。聞けば可成り多忙な様子で、卒園式や入園式が終わってひと息つく1ヵ月後に、又電話する様にとの返事だった。

 そして4月。生田は「今更戦闘機の話と言っても・・・」と気乗りしない様子だったが、兎も角会って呉れる事に為り、千葉県船橋市の自宅を訪ねた。生田は92歳。電話で感じた気難しさは無く、溶ける様な笑顔の魅力的な人だった。通された部屋の仏壇には婦人の遺影が飾られて居る。

 「家内です。去年の3月に亡くしました」
 
 長押の上には、蘇州上空の空戦でアメリカ製敵戦闘機・ボーイング218を撃墜し帰還した時、愛機・三式艦上戦闘機をバックに二番機・三番機の搭乗員と共に撮られた写真が額に入れて掛けられて居た。3人とも満面の笑顔。この写真に写っている戦闘機パイロットが、目の前の人だと思うと不思議な気がした。

 「ボーイングを発見した時は、何も動揺はありません。しかし、空戦が終わった後にね、非常な恐怖感が湧いて来ました。敵の弾丸が当たって居て、エンジンが途中で停止するんじゃ無かろうか、他にも我々を狙ってる敵機が居るんじゃ無かろうかと。空戦中は、周囲の状況を見る余裕は全く無かったですから・・・」

 第一次上海事変が勃発し 中国本土へ進出

 生田は、明治38(1905)年2月3日、福井県の農家に、6人兄弟の長男として生まれた。名前の「乃木次」は、当時、日露戦争の旅順攻略で令名を唄われた乃木希典(のぎ まれすけ)陸軍大将に続け、との願いを込めて父が着けた。

 家は貧しかったが向学心は旺盛で、官費で学べる海軍兵学校(五十二期)に進んだ。後に戦闘機の指揮官として名を馳せる源田實、柴田武雄、そして昭和天皇の弟宮である高松宮宣仁親王とはクラスメートに当たる。海兵を卒業後、昭和3(1928)12月、飛行学生として霞ケ浦海軍航空隊に転じ、翌昭和4(1929)年11月、同教程を修了した。

 「当時は、飛行機は飽く迄補助兵力の扱いでした。海軍士官の花形配置と云えば砲術、水雷、続いて航海で、飛行学生を志すものは少無かったんです。しかし私は、飛行機は何時か戦争に重要な位置を占める様に為ると思い、航空を熱望して居ました」

 源田實とは、飛行学生でも一緒だった。只、生田と源田は反りが合わ無かった様で、その事は「源田は、操縦は上手かったがスタンドプレイが好きでしたね・・・」と言った、生田の言葉の端々からも窺(うかが)えた。
 飛行学生を卒業後、横須賀海軍航空隊(横空)に転勤。此処では、イギリスに留学し、日本海軍の戦闘機搭乗員として初めて空中戦の「型」を学び、帰国したばかりの亀井凱夫大尉(昭和19年8月グアム島で戦死)の指導の下、空中戦闘の方法をミッチリ学んだ。

 生田は連日の猛訓練でメキメキと腕を上げ、昭和5(1930)年、大村海軍航空隊に転勤後、空中戦技訓練の吹流し射撃(飛行機がロープで曳航する吹流しを的に射撃をする)では、ホボ全弾命中、海軍最高点の成績を収めた。しかし、丁度この頃、空中機動により身体に掛かる大きなG(重力)の影響で腰を痛め苦しむ様にも為る。
 そして昭和6(1931)年、生田は空母「加賀」乗組を命じられた。この年9月、満州事変が勃発。中国民衆による排日運動が瞬く間に中国全土に広がって行く。

 昭和7(1932)年1月18日、日本、イギリス、アメリカ、イタリア等の国際共同租界とフランス租界が置かれて居た上海で、布教活動中の日蓮宗僧侶ら日本人5名が中国群衆に包囲暴行を受け、うち1名が死亡、2名が重傷を負う事件が発生。これが契機と為って、1月28日、日中両軍の全面軍事衝突に発展した・・・上海事変である。
 後、昭和12年、第二次上海事変が勃発すると、この昭和7年の軍事衝突は「第一次上海事変」と呼ばれる事に為る。

 日本海軍は直ちに空母「加賀」「鳳翔」から為る第一航空戦隊を上海沖に派遣、搭載する飛行機隊を以て陸上戦闘の支援に当たる事ととした。
 2月5日、上海沖に到着した「鳳翔」を発艦した平林長元大尉率いる一三式艦上攻撃機(艦攻・3人乗り)2機と、所茂八郎(ところ・もはちろう)大尉率いる三式艦上戦闘機(艦戦・1人乗り)3機が、中国空軍のヴォートX-65Cコルセア戦闘機等4機と交戦、初めての空戦で、1機に機銃弾を浴びせたものの撃墜に至らず、同じ日に出撃した「加賀」の一三式艦攻1機が地上砲火で撃墜された。

 2月7日、「加賀」「鳳翔」の飛行機隊は、整備の出来た上海近郊の公大(クンダ)飛行場に進出、以後、此処を拠点に出撃する事に為る。
 2月19日、蘇州方面の索敵に発進した「鳳翔」の戦闘機3機が、ボーイング218戦闘機1機と遭遇。しかしボーイングの性能は、三式艦戦を遥かに上回って居ると思われ、日本側の3機は翻弄されるばかりで、遂に敵機を仕留める事は出来なかった。
 このボーイングが、22日に生田と戦火を交える、ロバート・ショートが操縦する戦闘機だった。性能差をマザマザと見せ着けられた日本側の空気は暗澹たるものだったと生田は回想する。

 敵は米国人義勇飛行士が操縦するボーイング

 日本側は、この敵機が蘇州飛行場を基地にして居るとの情報を掴んだ。ソコで、今度は「加賀」の戦闘機3機・艦攻3機に、蘇州の偵察・爆撃を命じる。余談だが、廟行鎮(びょうこうちん)攻撃中の、陸軍久留米混成旅団の北川丞、江下武二、作江伊之助各一等兵が、突撃路を開こうと爆薬筒を抱えたママ鉄条網に躍り込んで自爆・・・後に「肉弾三勇士」と讃えられた戦闘も、同日朝の出来事である。

 午後3時45分「加賀」の6機は公大飛行場を発進し蘇州へと向かった。小谷進大尉率いる一三式艦攻3機は高度1000メートル。三式艦戦の生田は二番機・黒岩利雄三空曹、三番機・武雄一夫一空(一等航空兵)を率い、艦攻隊の後上方、高度1500メートルの位置に着いた。断雲は有ったが視界は良好だった。

      2-23-12.jpg 三式艦戦

 「4時20分、蘇州上空に到着した、正にその時でした。飛行場の北方、高度300メートル、距離1000メートルを急上昇するボーイングを発見。艦攻隊は直ちに密集隊形を執り、後方旋回機銃を敵機に向けました。ボーイングは物凄いスピードで艦攻隊に迫り、後下方から撃ち上げながら前上方に抜けると、再び反転、今度は急降下しながら小谷機を攻撃しました。
 私は敵発見と同時に列機を展開させ、500メートル下方の艦攻隊を救うべく降下して行きました。その時の戦闘方法は、昭和4年に亀井大尉が英国で学んで来た空戦の型そのママです。
 私の『かかれ』の合図と共に、先ず三番機の武雄が敵機の後上方より機銃攻撃、次いで二番機の黒岩が後下方より撃ち上げ、一番機の私が再び後上方より攻撃して仕留める・・・と云うものです。コレが当時、3対1の対戦闘機戦闘の基本の型とされて居ました」


 武雄機の攻撃は、降下スピードが着き過ぎて敵機に命中弾を与える事が出来ず、黒岩機も、ボーイングが艦攻隊への二度めの攻撃を終え、再び上昇する処を捕捉、後下方約100メートルの位置から撃ったが有効弾は与えられ無かった。
 だが、2機の攻撃がボーイングの行動を制約する形と為り、後上方よりスピードを殺しながら追尾する生田機は、上手く敵機の後上方に回り込む事が出来た。

 「私が一番、時間的に余裕が有りますし、最も好い姿勢でもって敵機の後ろにピッタリくっ付いて、距離150メートル迄肉薄して2秒間、約50発程の機銃弾を発射しました。
 すると、敵機の尾翼の方からプツプツと、ミシンを縫う様に弾丸が命中し、パイロットが突然、バンザイをする様に両手を挙げて仰け反るのが見えた。そしてバアッと火を噴いて、そのママ墜ちて行ったのです。敵機が火を噴いた時には、距離50メートル迄接近して居ました。型通り遣ったとは言え、矢張り無我夢中でありました・・・」

 
 敵機発見から撃墜迄、僅か2分間の出来事だった。部下の2機を従えて、公大飛行場に着陸、敵機撃墜の戦果を報告すると、基地には歓声が起こった。要約、勝ったんだと云う喜びが湧いて来た。偶々居合わせた報道班員が、生田の愛機の前で殊勲の戦闘機搭乗員3名の写真を撮った。
 処がその直後、一足遅れで艦攻隊が着陸。そこで初めて、艦攻の指揮官・小谷大尉が機上戦死して居た事が判明、基地は深い悲しみに包まれる。小谷大尉は、3人乗り真ん中の偵察員席に居て、後席(電信員兼射手)の佐々木一空が撃ち尽くした機銃の弾倉を取り換え様とした処、ボーイングの二度めの銃撃で体に4発の銃弾を受けたのだった。佐々木一空も、左脚脛骨を機銃弾で粉砕される重傷を負って居た。

 「ショックでした。小谷が遣られた、何てことは艦攻が着陸する迄知りませんでした。クラスメートですからね、彼の戦死を知って喜びも吹っ飛んでしまいました」

 太平洋横断を志した冒険野郎との空中戦
 
 ・・・此処迄語り終えて、生田は、私室の頭上に飾られて居る写真を見上げた。着陸直後の、生田大尉、黒岩三空曹、武雄一空の姿。3人とも達成感溢れる笑顔で写って居る。だがコレは、小谷大尉の戦死を知ら無かったからコソの表情だったのだ。

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 数日後、撃墜されたボーイング218を操縦して居たのは、交戦国では無いアメリカ陸軍予備中尉ロバート・ショートであった事が判明し、日本政府は直ちに米政府に厳重な抗議を申し入れた。日本機に戦いを挑み、撃墜されたアメリカ人パイロット、ロバート・ショートとはドンな人物だったか。一言で云えば、太平洋横断の冒険飛行を志し、中国大陸に渡った男である。

 生田とは僅か4ヵ月違いの1904(明治37)10月4日、シアトル近郊の生まれ。1928年、陸軍航空幹部養成所に入ったが家庭の事情で退役、民間航空会社を経て陸軍予備航空団に籍を置き予備少尉と為った。当時は、1927年、チャールズ・リンドバーグによる大西洋無着陸横断飛行の直後で、世界的に冒険飛行ブームタケナワの頃であった。
 残された太平洋横断飛行に対する関心も高まり、日本でも朝日新聞社等が懸賞金を用意して飛行家を募って居た。ショートはこれに応じ、1931(昭和6)年4月、上海経由で来日する。処が、使用飛行機の獲得競争に敗れて再び中国に戻り、此処で中華民国政府の要請で中国空軍の顧問と為った。中華民国空軍は1929年11月に創設されたばかりだが、日本との関係悪化を受けて航空整備を急いで居た。

 太平洋横断飛行は、昭和6年9月4日、日本の淋代(現在の青森県三沢市)を離陸したクライド・パンクボーンとヒュー・ハーンドンにより、翌5日、41時間12分に及ぶ飛行の末達成されて居る。
 中国空軍の顧問として、ショートは、アメリカより新鋭機・ボーイング218(P-12Eの原型)を送らせた。昭和7年2月19日、この戦闘機を駆って所大尉の指揮する三式艦戦3機を翻弄したショートは、聊か自信過剰に為って居たのかも知れない。そして、運命の2月22日を迎えたのだ。
 中華民国政府は、中国の為に戦い死んだショートを英雄として扱い、中国空軍大佐の位を送った上で、国葬を以て送る事を決めた。国葬は、母のエリザベスと弟のエドモンドが船で上海に到着するのを待って、4月25日に盛大に執り行われた。

 一方日本側では、この空戦に関する戦訓調査が行われて居た。空戦そのものは、ボーイング撃墜で幕を降ろしたが、日本側も1名戦死・1名重傷の損害を被り、しかも飛行機の性能差は歴然として居たから、素直に喜べる結果では無かったのだ。
 だが、イザ調査が始まると、肝心の戦闘状況に付いて、戦死した小谷大尉を除く、戦闘機3名・艦攻8名の搭乗員による報告が、何故か一致し無かった。艦攻隊は、艦攻の後方旋回機銃で敵機に白煙を吐かせ撃墜したと言い、又、艦攻の機銃で白煙を吐かせた後、戦闘機の二番機・一番機の命中弾で止めを刺したと報告した搭乗員も居た。

 生田は「私が射撃を開始した時、ボーイングは無傷でした。機体もパイロットも完全な状態で、ガソリンも白煙も引いて居ませんでした。私の撃った弾丸が、パイロットと燃料タンクに命中したのです。僅か50メートルの距離で見て居るんですから、間違いありません」  と言う。
 最後迄列機の攻撃の効果を確認し、一番理想的な攻撃を掛け得る位置に在った点、生田の証言は信用に値する。処が司令部は、生田が強いて自分の戦果と主張し無かった事もあり、又小谷大尉が戦死した事もあって、戦闘機と艦攻・・・双方の命中弾による「協同撃墜」と云う、いかにも日本的な判定を下したのだった。

 空戦後、授与された表彰状には〈小谷小隊及ヒ生田小隊ノ適切勇敢ナル敵戦闘機撃墜ハ帝國海軍航空史上ニ一新紀元ヲ画セリ其ノ功ヲ表彰ス 昭和七年二月二十二日 旗艦出雲 第三艦隊司令長官野村吉三郎〉と記されて居る。








 英雄と讃えられる一方で 誹謗中傷の渦

 2月25日、蘇州上空の空戦の祝勝会が上海の日本領事館で催された。野村長官初め陸海軍の将官、村井倉松総領事等の要人が居並ぶ中、主役は勿論生田である。3月3日、停戦協定が成立すると、生田は、中佐クラスに匹敵する正六位の位階を授けられ、尉官(大尉・中尉・少尉)としては異例の功四級金鵄勲章を授与された。
 日露戦争の日本海海戦で、聯合艦隊司令長官としてロシア・バルチック艦隊を破り、半ば神格化された存在だった東郷平八郎元帥も生田大尉に書を贈って居る。

 新聞が「撃墜王」「日本のリヒトフォーフェン(第一次世界大戦時のドイツの撃墜王)」等と書き立て、生田の乗機・三式艦戦は日本各地を巡回展示される。歌手の四家文子が蘇州上空の空戦を歌った「空中艦隊の歌」がヒットし、浪曲や琵琶にも謡われる。日活では「制空大襲撃」独立プロダクションの赤澤キネマでは「空中艦隊」と映画まで制作された。
 一躍「時の人」に為った生田大尉の下へは、全国の女性からの「お会いしたい」「交際したい」と云う、今で言うファンレターも山の様に届いた。

 「川島芳子と出来て居る、と云う噂を立てられた事もありました。ご存知ですか? 女スパイで『男装の麗人』とか『東洋のマタ・ハリ』と呼ばれた・・・彼女とは上海の領事館の祝勝会で一度会い、親し気にワインを注がれただけナンですがね」
 
 各方面からの招待や講演依頼も殺到し、とても軍務に集中出来る状態では無かったと云う。本来、こう云う事は海軍が窓口と為って仕切るべきだが、広報活動に不慣れだったか、海軍としても格好の宣伝材料と考えたか、世間の好奇の目から生田を守ろうとはしなかった。
 自らの意思に関係無く英雄に祭り上げられた生田の人気が高まるに連れ、妬み、嫉み、誹謗中傷の声も渦を巻き始める。

 「同期生が戦死したのに、生田だけ好い気に為って居る」「アレは生田が墜としたんじゃ無い」「奴の腕など大した事無い」ナドナド・・・これ等の陰口、悪口雑言は、可成り後迄一人歩きをして、生田を苦しめた。
 筆者がインタビューした古い・・・昭和初年に海軍に入った・・・戦闘機搭乗員の何人かは、こうした生田への誹謗の元は「源田實の讒言(ざんげん)」によるものだと語って居る。昭和7(1932)年当時、霞ケ浦海軍航空隊分隊長だった源田大尉(後大佐)が蘇州上空の空戦の戦訓調査に派遣され、この撃墜は生田の戦果では無いと報告したのだと云う。

 後に日本初の編隊アクロバット飛行チーム「源田サーカス」の一番機を勤め、自他共に認める花形戦闘機パイロットでありながら、初戦果をクラスメートの生田に奪われた源田が嫉妬したのだとの声もあった。この事を今、具体的に証明するのは難しい。当事者の間で、生田に付いての好く無い噂と共に、平成の時代迄コンな話が実しやかに語り継がれて居たと云う事実のみを、記して置くに留めて置いた方が好さそうである。

 大口径の砲を搭載した戦艦同士の戦いで勝敗が決まると云う「大艦巨砲主義」の思想が主流だった当時の海軍で、補助兵力に過ぎ無いと考えられて居た飛行機搭乗員が脚光を浴びる事に冷ややかな空気もあった。周囲が作り上げた自分自身の虚像に対する過剰な扱い、そしてそれに反比例するかの様な海軍内部での孤立は、生田に重圧を与え失望感を抱かせた。
 「日本初の敵機撃墜」の栄誉を手にした生田は、そのタイトル故に追い詰められて行ったのである。生田には、既に結婚を約束した女性が居た。だが、海軍大臣に提出した婚姻願いが却下され、入籍が出来ずに居た。

 「海軍士官が結婚する時には海軍大臣の婚姻許可が必要でした。処が、家内との結婚を、海軍大臣は許可して呉れ無かった。詰まら無い事ですが、身元を調査して、家柄や家庭環境、学歴等、少しでも『海軍士官の妻として相応しくない』と判断されたら不可なんです。良家の子女で高等女学校を出て居なくては駄目とか、水商売の家の娘は駄目だとかね・・・」

 又、過つて訓練中に傷めた腰の状態も思わしく無く、搭乗員としての将来も危ぶまれる状態と為って居た。心身共に疲れ果てた生田は遂に海軍を辞する決心をし、昭和7(1932)年11月、休養届を出して自宅に引き籠った。
 「時代の寵児」である生田の休養は、人事を司る海軍省を驚かせた。生田は、海軍航空の大先輩で空母「加賀」副長の大西瀧治郎中佐(のち中将)を初め、上官からは慰留され、更に海軍省にも出頭を命じられ、強い調子で翻意を促されたと云う。又、東郷平八郎元帥にも私邸に招かれ、海軍で人生を全うする様懇々と諭されたが、決意は変わら無かった。

 幼児教育に捧げた後半生

 昭和7(1932)年12月15日、生田は予備役に編入され海軍を去った。蘇州上空の空戦から僅か10ヵ月後の事である。



 





 「海軍に未練は、全くありませんでした」と、生田は言う。

 海軍を離れた生田は、程無く結婚。念願だった妻・イサメとの生活をスタートする。そして、航空中心の軍備を進めると云う、自分自身の理想を政治の面から実現させ様と、気骨の政治家として知られて居た中野正剛が、安達謙蔵等と共に結党した国民同盟の門を叩いた。飛行機を戦艦より格下に見様とする海軍を見返す気持ちも在った。
 中野も、生田の知名度と人物を見込んで、片腕として、自らが主宰する政治団体である東方会の幹事を務めさせた。

 政党の一員と為った生田は、陸海軍の航空兵力を統一し、強力な空軍を造るべきとの主張を「統一空軍論」と題する論文にマトメ、海軍軍令部に直談判に赴いた。「その様な事は論ずるに当たらず」と云うのが、海軍側の答えだった。
 生田は又、昭和10(1935)年、中野の肝煎りで、福岡県に建設中の雁ノ巣飛行場でパイロット養成を目的とした「九州航空青年団」を設立して居る。九州青年航空団は、八幡製鐵所の渡辺義介所長等が出資し、中古の練習機14機・グライダー50機を以て発足したが、所轄官庁である逓信省が、戦時体制への切り換えの為民間航空団体の統合を推し進めた事から、後に「大日本飛行協会」に統合された。

 生田はその後、過つての上官・大西瀧治郎少将の計らいで、逓信省航空局の航空官の職に就き、民間航空行政に携わる事に為る。昭和14(1939)年、沖縄・那覇飛行場長と為り、16(1941)年からは本局の乗員課、職員課長、管理課長を歴任。その間、17(1942)年3月に召集され、航空官の職はそのママに海軍に復帰、20(1945)年5月には少佐に進級し終戦を迎えた。

 「私が過つて主張した様に、戦争は航空戦を中心に推移しましたが、日本の惨状を見ると、自分の見通しが正しかった等と言う気には到底為れませんでした」

 終戦と共に、日本はGHQ(聯合国軍最高司令官総司令部)の指令で一切の航空活動を禁じられ、航空関係の仕事に就いて居た者の多くは仕事を失った。昭和21(1946)年1月には公職追放令が出て、旧陸海軍の正規将校らが公職に就く事が禁じられる。
 失業したのは、生田も例外では無い。逓信省で終戦処理を済ませた生田は、進駐軍将兵と日本人の体格の差を目の当たりにし、これからは日本人の食生活を改善し無ければと考えた。

 「疎開先の船橋で『あけぼの栄養給食研究所』を開業しました。名前だけは理想高く、しかし実態は小さな魚屋でした。処が、今の市川市に在った日本毛織の工場・・・日本毛織は川西航空機と同系列の会社で、戦時には飛行艇の生産に携わって居ました・・・で、全従業員3500人の食糧を、私の店から購入して呉れる事に為ったんです。戦争中の航空行政の繋がりで、有り難い事でした」
 
 約10年、イサメと共に必死で働き、或る程度の財産が出来た処で、生田は新たな決断をする。

 「魚屋が最終目的じゃ無かったですから。これから国家の為に自分が遣るべき事は、将来の日本を背負う子供達を育てる事。その為に魚屋で稼いだ全財産を投じて保育園を造ったのです。最初、幼稚園か保育園、どちらにしようと云う事で、家内が、自分が貧しい家の出身なものですから、恵まれ無い子供を預かる保育園にしようと言いましてソレに決めました」
 
 昭和28(1953)年の総選挙で、改進党の公認で全国区から立候補したが落選。この事も、進路を幼児教育、社会福祉に定める切っ掛けに為った。昭和29(1954)年、市川市に行徳あけぼの保育園、翌年、船橋市の自宅近くに中山あけぼの保育園、更に54(1979)年、矢張り自宅近くにやよい保育園を設立「すべては愛」をモットーに、幼児教育に情熱を注いだ。三つの園合わせての卒園児数は、私が生田に初めて会った平成8(1996)年現在で5000人を超えて居た。

 死の当日迄 撃墜した男を弔い続けた

 昭和52(1977)年、読売新聞社の協力で、生田はロバート・ショートの弟・エドモンドがシアトルで健在である事を知り、ハワイで対面を果たした。

 「戦後、ロバート・ショートの母親の友人、と云う人から手紙を貰いました。それには〈ショートが、足った1機で6機を相手に、しかも低い高度から空戦を挑んだのは、丁度その日、蘇州駅から女・子供の避難民を満載した列車が発車する事に為って居て、日本機がソレを攻撃に来たと思ったからでした。避難民を守ろうと、不利な戦いを挑んだのです〉と云う意味の事が書いてありました。
 避難民を攻撃目標にした事はありませんが、彼はそう思ったんですね。私は、勇敢なロバート・ショートの戦い振りを弟さんに伝えたいと思い、観音像を持って会いに行きました。戦争さえ無ければ、私が、私の撃った弾丸で、ロバート・ショートを殺す事は無かったのに。本当に空しい事です」

 
 生田は、95歳迄、毎日三つの保育園を巡回する事を日課として居た。子供達は生田を「お父さま先生」と呼んで慕って居た。

 「子供達に、年寄り染みた姿を見せてガッカリさせたく無い。子供達の前では若々しい姿で居様と、着るものにも気を使ってるんですよ。だからお爺さんでは無く、お父さま先生なんです」
 
 筆者は何度か、生田の保育園を訪ねたが、グレーフランネルのスーツに身を包んだ生田の姿が見えると、子供達が一斉に「おとうさませんせい!」と駆け寄って来る。生田は、その一人一人に笑顔で語り掛け、全員の頭を撫でて遣る。子供達も、腰の曲がった生田を一生懸命気遣って、転ば無い様支えたりして居た。
 妻・イサメも「お母さま先生」と呼ばれ、子供達から慕われて居たと云う。「お母さま先生」は、平成7年(1995)3月5日、肺炎が元で85歳で世を去った。

 「私が海軍に居た頃、海軍大臣は家内との婚姻許可を呉れず、要約入籍出来たのは海軍を辞めてからの事でした。しかし、そんな家内が42年間幼児教育に尽くして亡く為った時には、政府が正六位の位と勲五等宝冠章を呉れました。可笑しなモンですね」

 生田は又、自分が撃墜したロバート・ショートの菩提を弔い続け、毎年、2月22日の命日には供養を欠かさ無かった。平成14(2002)年2月22日、死去。享年97。蘇州上空の空戦から丁度70年後の、正にその日の事だった。
 朝、ロバート・ショートに供える線香と花を用意して、家族と「今年もアノ日が来たね」と話して居たが、程無く体調が急変、息を引き取ったのだと云う。それはマルで、積年の想いが寿命をコントロールしたかの様な不思議な符合だった。

 船橋市の葬祭場で営まれた通夜、告別式には、保育園の園児や保護者、大人に為った卒園生を初め、立錐の余地も無い程の参列者が溢れ、涙と共に「お父さま先生」を見送った。だが、参列者の中で、生田が過つて、日本初の敵機撃墜を果たした海軍の戦闘機乗りであった事を知る人は殆ど居らず、命日の符合が話題に上る事も無かった。


          神立 尚紀 カメラマン・ノンフィクション作家   以上







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