2020年01月30日
満洲事変は「誰が、何人で」起こしたのか
満洲事変は「誰が、何人で」起こしたのか
〜PHP Online 衆知 Voice 1/30(木) 11:53配信〜
文学博士の宮田昌明氏は著書『満洲事変』にて「侵略」論を超えて世界的視野から当時の状況を知り、歴史認識の客観性を求めようと試みて居る。
軍部の独走⇒政党政治の崩壊⇒帝国主義⇒強引な植民地獲得への国際批判・・・近代日本の転換点と為った満洲事変はどの様にして引き起こされたのか。その背景には現場で日本を憂う者達が居た。本稿では宮田昌明氏の新著『満洲事変』から、関東軍の独走がいかにして満州事変へ至ったのか、そしてその後の満州事変を巡る国際情勢に付いて記した一節を紹介する。
※本稿は宮田昌明著『満洲事変 「侵略」論を超えて世界的視野から考える』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。
現場で外交の限界を感じた関東軍
1931年6月、関東軍は参謀本部に奉天政権に対する武力行使に関する意見を具申し、南次郎陸相は11日、陸軍省と参謀本部による検討会議を設立した。
同会議は、張学良政権の排日緩和は外務当局の交渉を主とすること、排日が熾烈に為れば軍事行動が必要なこと、内閣や外務省と連絡の上、国民や列国に満洲における排日の実情を周知させ、軍事行動が必要と為った場合の理解を得られる様努めること、軍事行動の為の計画を参謀本部で立案すること、内外の理解は来年春迄に得られる様にする事等で合意した。
7月、満洲の長春北西において、漢族地主と朝鮮族農民の大規模な衝突が発生した。万宝山事件と云う。事件を受け、朝鮮でも華僑が大規模に襲撃された。
次いで7月下旬、6月27日に陸軍の中村震太郎大尉が民国側によって殺害されて居た事が明らかに為った。中村大尉は部下1名他、ロシア人、モンゴル人の4人で、6月上旬、中東鉄道博克図駅付近からトウ南に向けて出発したが、6月末に民国側官憲に拘束され、消息不明に為ってしまう。
同地域はソ連軍との想定戦場であったことから、中村大尉は地誌の調査に当たって居たのであろう。その後、関東軍に内通があり、調査の結果、中村大尉がトウ南北方約120キロの地点で6月28、29日頃に拘引され、7月1日に銃殺、焼却の上、遺棄されて居た事が確実と為った。
事件に付いて民国側に抗議した処、民国側は、当初は事件の存在を否認し、次に中村をスパイとし、更には麻薬密売人として非難した。
事件は現場の独断によるもので、政府当局は関知して居無いとしても、スパイを理由とした虐殺と隠蔽を許容出来る筈も無く、関東軍は姿勢を硬化させた。一方、日本政府は事件に関する報道を差し止めた。深刻な事件であった為、報道の自由より緊張回避を優先したのである。
関東軍の独走
石原は永田鉄山軍事課長に外交の無力を批判し、関東軍が中村事件の解決に当たること、特に一個小隊を現地に派遣の上、民国側との共同調査に当たるか、拒否された場合は実力調査を決行すること。解決条件として、謝罪・賠償及びトウ南地方の開放を要求することを提案する。
が、永田は否定的であった。陸軍上層部は、民国側との外交交渉を目指すと云う政府方針を支持した。
8月4日、南陸相は、軍司令官及び師団長会議において、緊縮財政の中で軍制改革を進める為、経費を陸軍内で支出し無ければ為らず、その為、既存部隊の改廃を行わざるを得無い事を述べると同時に、満蒙の事態が重大化しつつある事に触れた。
会議には、本庄繁関東軍司令官に板垣征四郎参謀長が、林銑十郎朝鮮軍司令官に神田正種参謀が随行して参加し、軍内に満洲の危機的状況に付いて訴えた。
花谷正の戦後の回想によれば、首謀者で計画を練る一方で、中央に軍事衝突発生の場合の対応検討を要請し、各方面に謀略に付いて示唆して居たと云う。
とは云え、参謀本部ロシア班長で、後に十月事件を引き起こす橋本欣五郎は、当時の軍上層部の態度に付いて「公式の情勢判断に於て満洲を処理せざるべからざる結論に達したるも、軍高級者は例の如く机上の文案と心得、あたかも何等処置する処無き事例の如し(註1)」と記して居る。
石原が独断行動を決意したのは、こうした陸軍中央に対する失望からであろう。詰まり、軍部の主導による国家の牽引では無く、関東軍の行動による軍部、そして政府の牽引である。
この様に満洲事変は、計画的と云うより、軍の総意としての行動を断念する緊急措置として引き起こされた。又、石原に取って恐らく、武力行使を決意した以上、新たな日本人殺傷事件の発生を待つ方が寧ろ不合理であった。
首謀者は僅か4、5人・・・満洲事変の勃発
9月18日、柳条湖事件が引き起こされた。公式発表された経緯は、奉天郊外の満鉄線路上で爆発があり、部隊を現場に派遣した処、民国軍部隊と衝突したと云うものである。
線路に被害は在ったとされるが、事件後、列車が現場を無事に通過して居る。満洲事変を決行した首謀者は、僅か4人乃至5人であった。
石原莞爾と板垣征四郎は関東軍参謀、今田新太郎は張学良の顧問、花谷正は奉天特務機関で、石原と板垣以外は所属部署が異なる。
この4人が中核で、他に神田正種朝鮮軍参謀が首謀格の協力者と為った。それに柳条湖事件の実行部隊と為った奉天独立守備第二大隊の一部将校が加わる。
事件前、建川美次参謀本部第二部長が満洲に派遣されて居る。石原等が軍事行動に付いて中央各方面に示唆して居た為、自制を求める為であった。事件直前の9月15日の石原日記に「午後9時半より機関にて会議、之に先ち建川来る飛電あり午前3時迄議論の結果中止に一決」 と云う記述がある。
花谷は事件後、決行を知らされて居なかったと片倉衷に弁明する一方で、後の回想では、今田に押されて決行に同意したと記して居る。(註2)
重大事だけに、石原は気後れした花谷を除外しようとしたか、石原にも躊躇があったのであろう。一方、永田は事変勃発後、それ迄の態度を一変して関東軍の行動を支持する。永田は機会主義的で他人を利用する行動が多く、相手次第で発言も変わる為、理解や評価には注意が必要である。
(註1)中野雅夫『橋本大佐の手記』みすず書房、1963年、88頁。
(註2) 角田編『石原莞爾資料──国防論策篇』28頁。花谷正(秦郁彦編)「満洲事変はこうして計画された」『別冊知性』5〈秘められた昭和史〉1956年12月号。片倉衷『回想の満州国』経済往来社、1978年、48-56頁。
石原莞爾の日記に見えた「満洲鉄道への攻撃構想」
〜宮田昌明(文学博士) 2019年12月24日 公開〜
満洲事変とは何だったのか・・・満洲事変から支那事変を経て大東亜戦争に至る日本近代史を、長期的な歴史的文脈の中で、かつ、多面的・複合的な視点から再評価を試みた宮田昌明氏の新著『満洲事変』
同書にて宮田氏は、帝国主義と民族主義の対立構造からでは無く「侵略」論を超えて世界的視野から当時の状況を知り、歴史認識の客観性を求めて居る。本稿では同書より、満洲事変に至る関東軍と作戦参謀・石原莞爾の動向に付いて示した一節をココで紹介する。
※本稿は宮田昌明著『満洲事変 「侵略」論を超えて世界的視野から考える』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。
石原莞爾
満洲事変に至る関東軍の動向
1928年10月、石原莞爾が関東軍参謀(作戦主任)として満洲に赴任した。石原の赴任後、処分前の河本大作は、満蒙問題の武力解決の必要を石原に強調し、関東軍は、奉天軍との武力衝突に際しての作戦計画を検討した。
兵力1万余の関東軍に対し奉天軍は25万を擁したが、奉天付近の奉天軍を短期間に撃滅し政権の打倒を目指すと云う戦略が立てられた。
1927年7月上旬、対ソ作戦計画研究の為の関東軍参謀旅行が行われた。その中で石原は「関東軍満蒙領有計画」を提起し、満蒙問題は日本の満蒙領有によって解決出来、又、それにはアメリカとの戦争の覚悟が必要等とした。
石原は、奉天政権に対する勝利の確信を得た事で、満洲を武力制圧すれば併合は可能と為り、その圧倒的な成果によって満蒙問題は解決すると共に、アメリカの普遍主義乃至覇権主義との対立が不可避に為ると推論したのであろう。
1930年11月中旬から1カ月間、永田鉄山軍事課長が朝鮮、満洲、華北を視察し、奉天で石原や板垣と満蒙問題の解決方法に付いて協議した。陸軍内では、満蒙問題を解決する為の案として @奉天政権を親日政策へと転換させる案 A親日政権を樹立して交渉を行う案 B兵力に訴える案・・・の三案が検討されて居たが、この時点でも結論は出て居なかった。
又、満洲事変の準首謀者と為る朝鮮軍参謀の神田正種によれば、小磯や永田等は、満洲問題解決策の目標を1935年頃とし、先ずは問題解決の必要を軍が主導して国内に宣伝し、国政の革新、即ち国防国家態勢の整備や軍の拡張を進め様として居たと云う。
神田は又、満洲事変の背景に付いて、次の様に回想して居る。
「レーニンからスターリンに移つた大正末期より昭和に入るに及び、ソは所謂一国社会主義に其極端なる統制力の発揮に依り、ソの軍備工業、施設、所謂国防国家の形態は年毎に著大なる発展を遂げて来た。
之を日本の政党政治のダラシ無さに比する時、真に寒心に堪へぬものがある。是は何とかして国政を改めねば為らぬと云ふ考へも起る。[…]即ち満洲事変に依つて政党政治を打破して、国防国家を樹立し様と云ふ考へが逐次起つて、濃厚に為って行つた。是が真因と見らるゝと思ふ(註1)」
1935〜6年の危機を想定し、国防強化の為、ソ連の計画経済に特に関心を持ったのが、恐らく永田鉄山であった。それは、自由主義経済や反ソ的軍人を敵視し、統制経済の導入やソ連との不可侵条約の締結を目指す、後の永田の行動に反映されて行く。
三月事件と石原莞爾の構想
一方、国内では、浜口首相が狙撃され、重症を負った後の1931年2月から3月に掛け、陸軍内で三月事件と称される狂言的クーデタ計画が持ち上がった。切っ掛けは、大川周明と云う国家主義運動に関わった思想家が、内閣総辞職後の宇垣一成内閣の実現を画策した事であった。
大川は宇垣に面会の上、首相就任に向けた宇垣の虚勢的言辞を取り付けた上で、陸軍幹部の建川美次参謀本部第二部長や小磯国昭陸軍省軍務局長に宇垣擁立の為の運動を嗾(けしか)けた処、小磯や建川も計画に同調した。
結局、宇垣は放言のみで何もし無かったが、小磯の命令を受けた永田鉄山軍事課長は、宇垣を首相に奏上する手続きをマトメた三月事件計画書を作成した。計画の存在は満洲事変勃発後に実態以上に誇張されて政界に広がり、様々な余波を引き起こす。
事件は、陸軍幹部の軽率・無能を示すものであったが、その背景は、国内改造に対する陸軍内の観念的な期待であった。これに関して石原は、1931年5月の「満蒙問題私見」で、日本の現状で1936年迄の国内改造は不可能と批判した。
石原は、それよりも国家を動員して対外発展を進め、状況に応じて国内改造を断行すべきとし、又、軍部が団結して戦争計画を確立し「謀略により機会を作製し軍部主導となり国家を強引する(註2)」 事は可能とした。
後の満洲事変との関係で問題と為るのは @1936年を問題解決の期限として居る事 Aそれ迄に軍部の意思統一を図るとして居る事 Bその上で謀略によって機会を作るとして居る事である。
石原莞爾日記の1931年5月31日に「朝、花谷・今田両氏来り、板垣大佐宅にて謀略に関する打合せ」「軍主動の解決の為には満鉄攻撃の謀略は軍部以外の者にて行ふべきもの也(註3)」 との記述がある。後の柳条湖事件と同様の、満鉄を利用する謀略がこの時点で構想されて居た。
とは云え、石原は1936年を念頭に、軍全体の行動を想定して居た。又、謀略は軍部以外の者で行うとされて居た。それは、張作霖爆殺事件の結果を意識したものであろう。後の柳条湖事件はこの時以来の検討に基づくものであっても、石原はこの時点でも9月の謀略決行を想定しては居無かったのである。
(註1)神田正種「鴨緑江」『現代史資料』7〈満洲事変〉みすず書房、1964年、466頁
(註2)角田順編『石原莞爾資料──国防論策篇』原書房、1967年、76-79頁
(註3)同21頁
宮田昌明 文学博士 以上
【管理人のひとこと】
戦前の、昭和大恐慌時代から始まる戦争の足音は、それ迄の欧米支配による植民地拡大や覇権主義の行き着く先を捉え切れず、何れ何等かの大きな解決策が起こるだろう・・・との不安で一杯の人々に、アラユル苦悩と迷いを起こさせずには居られ無い、焦燥の日々であったことだろう。
殆どの日本人が思う戦争の発端を作った一大原因として「満州事変」を指摘するだろうが、これを起案し実践した石原莞爾・関東軍作戦参謀を語る物語の一つが、又、形を変えて現れた。彼に関する著作は多く殆ど書き尽くされたかの感が在ったのだが、矢張り彼には人気がありそれだけ研究に値する人物でも在ったのだろう。
国内の疲弊に我関せずに政党政治は腐敗し、財閥や巨大資本と組む一部の人達が我が世を謳歌して居た時代・・・何だか今の政治を見る様だが・・・その時代には一大暴力装置である「軍隊」が健在だった。軍隊の基本は兵隊であり、兵隊の殆どが日本の各地に広がる貧農・・・水飲み百姓の子供達だった。無論、その中から優秀な人間は教育を受けて軍の幹部や企業の幹部へと出世する者も居ただろうが、教育そのものを受けられない者が多かった時代だ。
兵士であれ幹部であれ、社会から隔離された軍隊に属する者達は、言わば「自分達の言い分」を持って居た。不平等で不誠実な社会に対する「怒り」であり「正したいとする欲求」である。国による囚われの身であるが、社会を嘆く幹部や仲間に触発され無い者は少なく無かっただろう。
恐らく石原莞爾氏もその中の一人であり、実社会から離れた場所(軍隊)から繊細で鋭い探求心で物事を観察して居た事だろう。政治・経済の在り方や軍事・外交の在り方を。そして、自分の属する軍隊の中で「どうしたら国の為に何かを為せるだろうか」を日々考察して「満州事変」に至ったのだ。
それは、始まったばかりの日支事変の解決であり、疲弊した日本の植民地獲得による貧しさからの救済であったり・・・その先は、東南アジアに矛先を向けるアメリカとの戦いも辞せずとする固い怨念の様な気がする。彼の優秀な頭脳により事変は成功するが、彼の予想通りアメリカとの戦いへと発展し・・・敗北する。それは、泡沫(うたかた)の望楼でしか無い石原の限界でもあった。
戦争は、怨念だけでは勝利は成し遂げられ無い、政治と国力と「時代の流れ」の総合力による時の定めなのかも知れない。無謀な戦いは無謀な結果を迎える。石原はアメリカとの戦い迄は考慮したが、その先までは考えられ無かったのか、それとも自分は「起爆剤」と認識し考えなかったのか・・・それは今もって不明なのだが。
過去の出来事を、今の人達は自由に何の束縛も無く批判し分析することが許されるし可能だ。そして、中には善悪までを投げ付ける。しかし、一歩留まって現実の社会を正当に公平に眺められる人がいかほど居るだろう。現実から目を背け過去を批判する前に、もう少し現実を広く深く多方向から見つめ直す態度も必要だ。
無論過去から学び、それを現実に照らし合わす事も必要だし大切な事で、人は多くのものを得られるのだが、過去を学ばず学ぼうともしない人の存在も現実には存在する。その様な人が・・・募っては居るが募集では無い・・・等と屁理屈を通す人を許してしまう風潮を生んでしまうのが現実だ。
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