2020年01月29日
エストニアは本当に「電子国家」なのか 現地に移住した日本の若者がみた実情
エストニアは本当に「電子国家」なのか
現地に移住した日本の若者が見た実情
〜CNET Japan 1/29(水) 9:00配信〜
近年、デジタル化政策を次々と推し進め、世界の中でも最前線を行く「電子国家」として日本でも有名に為って居る、人口僅か130万人の小国がある。それがエストニアである。
「e-government」と呼ばれる国民データベースにより、国民はICチップ付きIDカードによって全ての行政サービスを受ける事が出来る。又国民の96%がインターネット上で所得税申告を行う等、行政インフラのIT化が進んで居る。
現在では「eResidency」と云う制度によって世界中の人々に「virtual国籍」を発行すると云うユニークな政策も行なって居る国である。マルで国全体がスタートアップ組織の様だ。
しかし、国が打ち出す電子国家としてのイメージとは裏腹に、実際には多くの人が未だに現金を使って居たり、ネット投票を利用して居なかったりと、後進的な部分もマダマダ残って居る。だからこそ、この先エストニアと云う小国がどの様な世界を見せて呉れるのか期待出来るのである。
4年前から同国に移住し、現地のタリン工科大学を卒業した筆者(26歳)が、日々の暮らしの中で感じた、エストニアと云う国の実情をご紹介する。但し、飽く迄も筆者の実体験に基づく内容であり、全ての国民には当て嵌ら無い事をご理解頂きたい。
「電子国家」の正体とは?
エストニアの電子サービスとして紹介される事が多いのは「e-Residency」と云う電子国民IDやインターネット投票・電子裁判等である。電子国家と呼ばれて居るが、国民が未来的な生活をして居る訳では無く、行政サービスが非常に整った国と云う事だ。
モッと言えば、エストニアは、国家が安全で信頼出来る個人情報管理システムを提供するOSとして機能し、その上でスタートアップと云うアプリケーションが実装された国である。エストニア政府は、デジタル時代に適切なポジションを取って居り、国家がOSを提供する事で、その上で民間がサービスを開発・提供し易くして居る。政府がミドルウェアと云うイメージだ。
エストニアの電子国家戦略は「政府が電子化すれば、コストを抑えながら行政サービスを提供出来る」と云う考えの下に始まった。そして「政府は最低限のインフラしか提供し無い」と云う事である。
インフラ上で国民IDによって本人確認が出来る為、民間サービスも生まれ易い。国民の安全を守る為に、国が国民の個人情報を守る。そして、それを利用してスタートアップが様々なサービスを世界に向けて構築して行く。国家と民間が夫々役割分担をし、上手く機能して居る国がエストニアと言える。
それを実現可能にした技術の1つが「X-Road」である。分散したデータベース間の情報共有を安全に行う技術で、エストニアの企業Cyberneticaが導入した。
X-Roadは、公的機関がインターネットを介して情報を交換出来る様にするオープンソースのデータ交換レイヤーソリューションである。情報交換に重きを置き、その情報システム間を集中管理する事によって、データ交換当事者間の機密性・完全性・相互運用性を保証して居る。
技術的にはSOAP1.1、WSDL1.1等XML Webサービスの技術を用いて居り、汎用性が高いXMLベースのプロトコルを使い、各行政機関・医療機関・研究機関等をX-Roadを使って連携させる事で、異なる機関のシステムやデータベースを安全かつスムーズに遣り取り出来るのだ。
例えば、異なる病院の治療・検診、及び患者のデータベースを夫々病院間で連携する事によって、患者が他の病院に訪れた際も、医師側は患者の過去の健康データを参照出来る為、患者が今迄どの様な病気で病院に診断に来ていたか、又患者の健康状態等を把握した上で治療に専念出来る。
病院に限らず、警察、刑務所、弁護士、不動産、裁判のシステムやデータベースも連携して居り、様々な行政機関の効率化が実現されつつある。
X-Roadで民間と政府のデータベースを繋ぎ、セキュリティは国が担保した上で「後は民間の皆さん、好きに遣っちゃって」と云う発想である。筆者自身も現地エストニアのビジネスイベントにおいて、実際に手を動かしてエストニア国内の病院データベースの連携と、ソコからチャットボットでの遠隔診断、最適な病院への自動予約システムの提案と開発にトライもしてみた。
現在X-Roadはフィンランド、アゼルバイジャン等でも導入されて居り、今後はより色々な国や地域で導入されて行くのだろう。
国を奪われても「再出発」出来る仕組み
旧ソ連下に在ったエストニアは、独立時にはデータベースも散在して居り、ゼロからシステムを作り上げて行く必要があった。歴史的に、デンマーク、ドイツ騎士団、スウェーデン、ロシア帝国、そしてソ連へと次々に支配者が変わって行った。
ソ連時代は、娯楽が許されず、チューインガムですら他人が噛んだ1つのガムを皆で噛み回す程貧乏だったと当時を知る人は言う。
欧州とロシアの丁度境目にあるエストニアが、このママ国家として存続出来るかは誰も保証出来ない。だからコソ、物理的に国が奪われたとしても、オンライン上に電子的に国をデータとして保護して置く事で、何時でも又再出発出来、国民を守ると云う考えが根元にあるのだ。
それはマルで、ハードウェアが壊れても又新しいハードウェアにOSをインストールすると云う行為に似て居る。国家のシステムは常にアップデートされ続け、 他国に自国のバックアップを取って置く。そう遣って国が国民の情報を電子的に保護して行くのだ。
電子国家としてのエストニアは、本来、国と民族を永続させる為に取った戦略であ り、それは単にテクノロジーによって生活を便利にするだけで無く、自分達の歴史、生活、そして自由を守る為のものだ。国と云う中央集権的な存在が、ブロックチェーンと云う非中央集権的な仕組みを重要視して居るこのエストニアの姿勢は、これからの国家の新しい在り方・新しい役割としてのモデルに為るのでは無いだろうか。
実は「不便」なエストニア暮らし
前述した様に、行政サービスの電子化は日本よりも一歩先を行って居るエストニアだが、実生活ではマダマダアナログで不便な事が多かったり、国民のITリテラシーも特別高い訳では無い事は、意外と知られて居ない。
私は大学在学中にキャンパス内で寮生活をして居たが、IT国家で有名なエストニアにも関わらず、Wi-Fiが切れてしまう事は度々あった。又、寮はソ連時代に作られたもので、壁にはヒビがあり、ソコから雪が部屋の中まで入って来た事もあった。寮の部屋の中で雪掻きをしたり、極寒の冬にお湯が出無く為り冷水シャワーを浴びたりした日々は、今では懐かしい記憶である。
店舗での買い物に付いては、エストニアを初め欧州の多くの国や都市では、支払いはクレジットカードだけで済む。しかし、日本の様に「Suica」やスマホで手軽にタッチ決済する文化は浸透して居らず、クレジットカードを自分で機械に差し込んで暗証番号を入力して支払いを済ますのが主流だ。
エストニア国内の殆どのお店ではクレジットカードでの支払いが可能だが、その他の決済システム等は普及して居ない。クレジットカードが多くのお店で使える事は日本と比べて便利だが、IT国家のイメージの強いエストニアで、スマホ決済等が普及して居ないのは意外と感じるだろう。
エストニアの多くのスーパーには、顧客が自分で商品をスキャンして行くセルフレジと、店舗スタッフによる有人レジの2つが配備されて居る。セルフレジは現金を受け付けて居らず、カード決済のみである。私は現金を普段持ち歩いて居ない為、セルフレジを利用する事が殆どだが、有人レジに列を為して現金払いを選んでいる現地の人は少無くない。
IT教育に付いても、エストニアでは既に小学校からプログラミング教育を開始して居る為、日本よりもITリテラシーが高いと思われるかも知れないが、実はそれも人による。確かに小学校で興味・関心の有る子は、ITの勉強をする事も可能だが「プログラミング何て全くして来なかった」と云う学生は少無くない。又、比較的英語が話せる人が多いエストニアだが、勿論全員では無い。若者の中にもロシア語しか話せ無い学生も居る。
私の実体験として、大学の授業において、シラバスには「英語での授業」と記載されて居たが、実際には担当教授が英語が話せ無い為、エストニア語で授業を進められた事もあった。又、プログラミングの授業ではホワイトボードにコードを手書きし、更にプログラムを紙にペンで書いて提出する試験等もあった。
エストニアにおけるITエンジニアの現状に付いてもお伝えして置きたい。一般サービス業や教員と比べて、ITエンジニアの報酬が高い事や、国自体がIT産業に力を入れて居る事もあり、確かにエンジニアを目指す人は少無くない。しかし、逆にITエンジニアの求人ばかりに偏って居り、その他の仕事を探す人の中には別の国へ移住する人も多い。
又、ITエンジニアと云っても言語的にはJavaのウェブエンジニアが中心だ。私は大学卒業後はデータサイエンティストやデータエンジニアを目指したが、求人は殆ど無く、その所為で競争も激しかった。
欧州のシリコンバレーを名乗るならAIやVRの求人もありそうだが、UnityやUE4を使ったVR エンジニアやデータエンジニアの募集は残念ながら殆ど見た事が無い。
この様に、日本で言われる「電子国家」のイメージと実際の姿には大きなギャップがある事も理解して置くべきだろう。
齊藤大将 Estify Consultants OÜ 代表 エストニア・タリン在住。2016年にタリン工科大学物理学科入学。タリン工科大学テニス夏大会で2度のチャンピオン。在学中にはエストニア小型人工衛星開発や修士研究に従事しつつ、在学中にコンサルティング会社を設立。現地ハッカソンでの受賞多数。2018年夏にタリン工科大学卒業後、エストニアでビジネスをする人のサポートを続けつつ、日本アニメなどのコンテンツ文化を広める為に、ベラルーシのコスプレイベントで審査員を務めたり、コンテンツ制作する等、文化事業での活動を始める。国内外での登壇やワークショップ等の活動も多数で、数々のスタートアップが熱視線を送る若者。
Twitter @T_I_SHOW_global 以上
エストニアの歴史を5分で理解 様々な国に統治された小国の運命
〜 kiitos shop 公開日 2019年4月9日〜
バルト三国の一つであるエストニアは現在人口僅か130万程度、国土面積4万5千平方キロ(九州より少し大きい程度)の小さい国です。現在のエストニアは高度電子化国家として名高く、アノ有名なオンライン通話アプリケーション「スカイプ」が創始された国でもあります。
しかし、エストニアは小国ならではの運命で、歴史的な長年周りの大国に統治されて来た過去があります。
歴史の軌跡を辿って行くと隣国フィンランドに多少似た様な内容ではあるが、ロシアと西欧の真ん中に在る事でフィンランドよりも歴史背景が複雑です。長い歴史の中でエストニアはデンマーク、ドイツ、ロシア、スウェーデン、ポーランド等の大国の間に挟まれ、度々戦争に巻き込まれた場所と為りました。
因みに「エストニア」と云う名前の由来はローマ帝国の元老院議員がバルト海東側の人を「アエスティ」と呼ぶ事から来たとされて居ます。
エストニアを最初に統治したのはデンマーク
エストニアの土地に人類が最初に足を踏み入れたのは氷河期時代終了後の紀元前8500年頃でしたが、13世紀に北欧十字軍が侵入し、最初に国としてこの土地を占領したのはデンマークとゲルマン人でした。13世紀から16世紀の中世時代にエストニアは南北に別れ、南側はゲルマン人が統治し、北側はデンマーク帝国に属する形に為って居ました。現在エストニアの首都タリンも13世紀当時にデンマーク領のフィンランド湾に向かう海岸に建設されました。
スウェーデン・ポーランド時代とロシアとの戦乱
16世紀に入り、ロシアが現在のエストニアに侵攻し、当時のエストニアがスウェーデンとポーランドに援助を求め、スウェーデンとポーランドがロシアを破った事で、エストニアの北部はスウェーデン領、南部はポーランド領と為りました。なお、一部の領土はデンマーク領のママでした。※現在の国名で述べて居ますが、当時の国名は現在の国名と異なります。
17世紀に入り、スウェーデンとポーランドの間に戦争が勃発し、スウェーデンがエストニア全土を統治する事に為りました。しかし、この戦争にエストニアが払う犠牲は巨大でした。当時エストニアの人口はこの戦争によって25〜27万人有った人口が11〜12万人まで激減しました。
17世紀の100年弱の期間で、スウェーデン統治下のエストニアは制度改革や教育興学によって急速に発展し「Good Old Swedish Time」(スウェーデンの良き古い時代)と迄呼ばれたそうです。
18〜20世紀ロシア帝国統治時代
18世紀に入り、北欧全体が巻き込まれたスウェーデン帝国とロシア帝国の間に「大北方戦争」Great Northern Warが勃発。エストニアは瞬く間にロシアに侵攻を許し、再び人口が15〜17万人程度に激減してしまいました。
ロシア統治期間中にスウェーデンが樹立した制度が崩壊し、農民の生活が地獄に落ちた様な状態に為って居ました。
19世紀の1850年前後からエストニアが初めて国家としての意識が覚醒し始めました。エストニア語で発行される新聞、エストニア語で上演される演劇、エストニア語で授業が行われる学校の設立等が始められました。
しかし、20世紀に入り、ロシア帝国は各属国の「ロシア化」を強化し、エストニア国民の自国意識と国家運動は無理やり抑えられて居ました。それでも、エストニア人は負けず、継続的に活動する事で地方政府での影響力が強まる一方でした。
1918年エストニア独立宣言
20世紀に入り、エストニア人の政党が初めて合法的に設立され、エストニア国家議会も組織されました。1917年ロシア革命を機に、エストニアは1918年に独立を宣言しました。しかし、間も無く新生ソ連から侵攻され、エストニア独立戦争が起きました。2年間の戦いを経てエストニアはソ連の侵攻を食い止め、平和条約の締結に辿り着き、無事独立を維持出来ました。
第二次世界大戦の勃発とエストニア独立の喪失
1939年第二次世界大戦が勃発し、エストニアは直ぐ様に中立を宣言したが、何の実質な意味もありませんでした。ドイツは既にソ連と条約を結び、東ヨーロッパを二分し、エストニアはソ連の属地に為ると決められました。
エストニアにソ連から厳しい条約が迫られ、エストニアには他の選択肢が無く、自国をソ連の軍事基地と為る様な条約を飲み込むしかありませんでした。その直後に政府要員、軍事将官、社会の名人等1万人以上がソ連に逮捕され、シベリアに送り込まれ、エストニアは完全にソ連にコントロールされる様に為りました。
ドイツの対ソ連戦争によってエストニアに入り、エストニアはドイツの力によって自国独立に希望を感じたが、直ぐに失望してしまいました。ドイツはエストニアを軍事に利用する事以外何も考えて居ませんでした。ドイツ敗戦後、エストニアはソ連の属地と為り、第二次世界大戦中に25%の自国人口も失ってしまいました。
ソ連統治の46年間とエストニアの再独立
ソ連の下に置かれたエストニアの46年間はエストニアに取って暗黒な時代でした。ソ連統治に反対した人々2万人もシベリアに送り込まれました。エストニアをロシア化にする為、大量なロシア人入植を行い、エストニア人の人口割合が94%から60%まで下がり、自分の故郷なのにロシア人の方が多いと云う現象まで起きました。
エストニアは重工業と軍事だけの国として発展され、人々の生活は苦しいママで、独立を維持出来た隣国フィンランドとの間に強烈な対比が生まれました。1987年ソ連の政治改革によって民間の政治活動が可能と為りました。
エストニアでは独立を願う「歌革命」Singing Revolutionと採鉱による大規模環境破壊に抗議する活動が行われました。その後、エストニア人を代表する政党も設立されました。
1989年8月23日にバルト三国から延べ200万人も参加した平和抗議活動「Baltic Way」が行われ、エストニア、ラトビア、リトアニアの3ヶ国を跨ぐ675キロの距離に200万の人々が手を繋ぎ、独立に対する強い意志を国際社会に表しました。
1990年エストニア議会が成立し、1991年に77.7%賛成を元に、モスクワクープを機にエストニアは1991年8月20日に再独立を宣言し、長い年月を経て要約再び自国の独立を遂げました。ソ連はエストニアの独立を認め、1994年にソ連の軍隊は完全にエストニアから撤退しました。
エストニアは1992年に直ぐ様市場主義へ改革を行い、1991年に国連加入、2004年にEUとNATOに加盟し、高度電子化国家として発展を続けて居ます。
以上
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