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2020年01月20日

徳川幕府は何故、260年も続いたのか〜家康の巧妙な分断政策



 徳川幕府は何故、260年も続いたのか〜家康の巧妙な分断政策

           〜童門冬二(作家) 2019年07月22日 公開〜

              1-20-7.jpg 徳川家康

 二分化された大名の役割

 徳川家康は所謂「御三家」を創った。九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房の三人の息子を、夫々尾張、紀州、水戸の三藩に配し、徳川家を名乗らせた。しかしこれは必ずしも自分の息子達を完全に信頼した上での行為では無い。徳川家康の幕府創設とその運営方針は「分断支配」である。
 詰まり組織を細分化し、夫々に責任者を置き、責任者同士の競争によって組織全体を活性化し、これを保とうと云う考え方である。

 その大きなものが、大名を先ず譜代大名と外様大名に分けた事だ。譜代大名は三河国以来、徳川家が未だ松平家と云って居た当時から忠節を尽くして来た武士が大名に為ったグループである。外様大名と云うのは、過つては織田信長や豊臣秀吉の部下だった者が、関ヶ原の合戦や大坂の陣以降徳川家に忠節を尽くす様に為った連中だ。家康はこう云う転向者を信用しなかった。
 だから、260年間、明治維新迄、徳川政権の政策担当者は全て譜代大名である。外様大名は絶対に幕政に参画する事は出来なかった。常に政権のカヤの外に置かれた。言ってみれば譜代大名は万年与党であり、外様大名は万年野党であった。

 しかし、家康の分断政策は、この大名の二分化だけでは無い。モッと皮肉な扱いをした。それは政権を担当出来る譜代大名の給与は低く抑え、逆に政権担当者に為れ無い外様大名の給与を莫大なものにしたのである。加賀前田100万石、薩摩島津77万石、仙台伊達62万石、肥後細川55万石、筑前黒田52万石等がその例だ。
 しかしそれは只高い給与を与えっ放しにしたのでは無く、参勤交代やお手伝い等によって、これ等の大名の財政が常に逼迫する様に仕向けたものだった。これも分断政策の一つだ。

 ポストを複数制にした効果

 又徳川幕府の管理職ポストを、全て複数制にした。一人の人間に限定しなかった。老中、若年寄、大目付、諸奉行アラユル役職ポストに二人以上の人間を配置する。そして「月番」と云って、一か月交代で仕事をさせた。周りから観れば夫々の仕事の評価が比較出来る。
 言ってみれば、これ等のポストに就いた人物は、衆人環視の下で競争させられたのである。ドッグレースをさせられたのと同じだ。勢い能力をフルに発揮し無ければ為ら無い。ここにも家康の叡知があった。御三家も同じである。

        1-20-8.jpg 童門冬二氏(作家)

 御三家を創った時、家康は「徳川本家に相続人が絶えた時は、三家が好く相談をして相続人を決める様に」
と言ったと云う。その限りにおいては、
 ●家康は別に、御三家の中から相続人を出せとは言って居ない
 ●例え御三家の中から候補者を出すにしても、その順位は決めて居ない
 
 と云う曖昧なものだった。この辺は家康の分断支配の巧妙な処で、彼は何時もこう云う不透明で曖昧な部分を残した。そして当事者が、アアでも無い、コウでも無いと考え尽くすのを期待する。意地が悪い。

 しかし御三家側では、ヤガテ「徳川本家に相続人が絶えた時は、御三家の中から候補者を出す」と云う事に申し合わせた。が、順位に付いては別段の定めは無かった。その為に、何回か争いが起こった。
 特に、第8代将軍を決める時に、尾張か紀州かの争いは切実なものと為り、その後にシコリを残した。しかしこの御三家の制度は、現在でも好く問題に為る後継者決定の時に「血か能力か」と云う問題を「飽く迄も血統を重んずる」と云うことに確定したと言って好いだろう。

 この血統重視の方針は、その後何回か徳川本家に相続人が絶えた時の危機に対応する有力な論理として通用した。5代将軍から6代将軍への移行の時、7代将軍から8代将軍への移行の時、そして10代将軍から11代将軍への移行の時、更に13代将軍から14代将軍への移行の時に遺憾なく発揮される。

 世界に例を見無い有効な管理システム

 この御三家制で確立された「血の尊重」を、最も有効な論理として振り翳(かざ)したのが、幕末の井伊直弼である。この時も、列強の開国要求に迫られて、日本国内は騒然として居た。有能な将軍が出現し無ければ、この混乱は収まら無いと観られた。その為今までに無かった、将軍に対する期待条件として「年長・英明・人望」の3条件が世論として湧き起こった。この世論を京都朝廷も支持した。危機を感じた井伊直弼は、
 「将軍を誰にするかと云うことは、徳川家内部の問題だ。例え年少の将軍が出現したとしても、その為に老中以下補佐役が控えて居る。徳川家に関わりの無い人物が、無責任に誰が好い等と云うことを言うべきでは無い」
 と言って、当時「年長・英明・人望」の3条件を満たして居た一橋慶喜を擁立した連中を全部罰してしまった。安政の大獄である。従って徳川家康が創始した御三家制度は、

 「徳川幕府を指揮する征夷大将軍は、全て徳川家の血を引く者の世襲制とする」

 と云うことを260年間守り抜いたのである。井伊直弼が主張したのも、この御三家制度に根拠を置く論理である。その意味では、御三家だけでは無く御三家を取り囲む形で、アラユル役職、或は大名達に対し分断支配の網の目を隙間無く張りめぐらした徳川家康の叡知は、世界のどの国にも例を見無いシステムを創造したと言って好いだろう。

 そして更にこれ等の武士の論理を貫く為に、士・農・工・商の四階級に日本人を分断してしまった身分制度は、色々な問題を生む。この事は目に見え無いソフトの面だけでは無い。目に見えるハードの面においても、例えば諸都市における「木戸(市内の要所に設けた警戒の為の門)」等によって、夜に為ればそこに住む住民が全く檻の中に住まわされて居る様なシステムが考案された。
 従って、徳川幕府の管理は人的にも物的にも、現代で言われる「高密度管理社会」を、既に実現して居たと云うことが言える。


 ※本稿は、童門冬二著『信長・秀吉・家康の研究』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。


 




 【関連記事】徳川光圀は、何故『大日本史』を編纂したのか

             〜童門冬ニ(作家)2019年02月21日 公開〜

        1-20-9.jpg 徳川光圀

 ※本稿は、童門冬二著『歴史人物に学ぶ 男の「行き方」 男の「磨き方」』より、一部を抜粋編集したものです。


 徳川光圀の若き日々

 不良少年

 徳川光圀の出生は、必ずしも幸福なものでは無かった。父の徳川頼房が歓迎しなかったからだ。頼房は、初代の水戸藩主だった。徳川家康は、九男、十男、十一男を夫々尾張、紀伊、水戸に封じて、所謂「御三家」を創った。もし、徳川本家に相続人が欠けた時は、この御三家の中から候補者を出すと云うことだ。

 母は谷久子と云った。水戸藩に仕える武士の娘で、水戸城の奥勤めをして居た侍女である。頼房に愛されて光圀を身籠った。しかし頼房は、三木仁兵衛と云う信頼する家臣に久子を預け「生まれて来る子は水にせよ」と命じた。「水にする」と云うのは、当時の言葉で「間引き」といって、赤ん坊が生まれると直ぐその命を絶ってしまう慣わしである。
 しかし三木仁兵衛は、非常に心の温かい人物で「この世で人の命程大切なものは無い」と信じて居た。三木は妻と相談して、主人の頼房には内緒で光圀を育てる事にした。母の久子は感謝した。

 父の頼房が「水にせよ」と云ったのは、光圀が初めてでは無かった。久子は七年前にも、頼房の子を身籠った。その時も頼房は「水にせよ」と云った。その子も、三木仁兵衛夫妻はソッと育てた。これが、後の四国高松藩主に為る松平頼重で、この兄の存在が、ヤガテ光圀に大きな心の転機をもたらす。

 光圀は幼名を長丸と云い、後に千代松と改めた。ヤガテ父に認知されて、世子(相続人)に指名されると、時の将軍・徳川家光から名前を一字貰って「光国」とした。「圀」と改めるのは50代に為ってからである。光圀は頼房の三男に為るが、2人の兄を差し置いて相続人に指名された。光圀は少しも喜ば無かった。
 彼には子供の時から心に受けた深い傷があった。それを、三木夫妻は必死に為って隠したが、何時しか少年光圀の耳にも「千代松様は、本当は水にされるお子様だったのだ」と云う噂が入った。(父は、私を殺す積りだったのか?)と云う思いは、身体を骨の底からガタガタにする様なショックだった。

 この頃は未だ戦国の余風が残って居て、武士らしさが求められたが、光圀は逆な生き方をした。三味線を弾いたりサイケな服装をした。自分でデザインを考えた衣類を、色取り取りに染めさせ、これを着て江戸の町を歩き廻った。
 世間の人々は「水戸様の若様はマルでかぶき者だ」と云って指をさした。かぶき者と云うのは、元々は「傾く」から来て居る。只歌舞伎役者の真似をすると云うことよりも、拗ねて世の中に対し斜に構える生き方を云った。

 事実、少年時代の光圀は斜に構えて居た。それは、胸の底にある父への不信感と怒りであり、同時に悲しみでもあった。彼は、その事を思い詰めると、真っ当に生きる事が出来なく為った。だから、斜に構えてかぶき者を気取り、江戸の町をサイケな格好で歩き廻るパフォーマンス活動を自ら許して居た。
 詰まり「自分は、この世に生まれた時から不幸な星の下に育ったので、この位のことはしても好かろう」と云う気持ちであった。

 云ってみれば、自分の個人的な不幸を社会への対抗要件として居た。斜に構える事は、自分の出生を喜ば無かった父を初め、世の中に対する報復でもあった。遊廓である吉原にも好く出入りした。此処で喧嘩もした。こうして、少年時代の徳川光圀は、世間から後ろ指を指されっ放しの、鼻持ち為らない不良少年であった。
 しかし、頭は鋭く、大人が理屈に合わ無い話をすると直ぐ「そんな馬鹿な事は在り得ない」と矛盾点を指摘した。話し手は得意の鼻を折られて白ける。この「常に真実を追求する」と云う態度は、光圀が成人してからの邪教の追放や『大日本史』の作成等でも見受けられる。

 『史記』で人生を悟る

 父の徳川頼房は、光圀を跡目相続人と決めた時に、傅役として、伊藤玄蕃、小野角右衛門、内藤儀左衛門と云う3人の武士を着けた。伊藤と内藤は、役目の範囲内で光圀を育てた為、光圀がいかにかぶき者振りを発揮しても、余り意見を云わなかった。云っても聞か無かったからだ。
 一人小野角右衛門だけがズケズケ意見した。口で云っても判らないので、小野は「諫草」と云うメモにして、シツコク光圀に読ませた。

 初めのうち光圀は「うるさい」と云って「諫草」を跳ね飛ばして居たが、ヤガテ書かれて居ることに関心を持ち、目を留める様に為った。と云うのは、小野の書いた「諫草」の中には、中国の文献からの引用が多かったからだ。
 孔子や孟子等の中国古代の聖人の言葉を引くと「貴方のこう云う行ないは、正に孔子や孟子の云う、人間としてやっては為ら無いことに当て嵌まります」等と書いてあった。光圀は小野の博識振りに感心し、次第に中国の人物と歴史に関心を持つ様に為った。

 彼は『史記』と云う本を読み始めた。ズバリ説教調の孔子や孟子の本よりも面白かった。中国古代の人間の生き方が、活き活きと描かれて居たからである。偶々その中の「伯夷伝」と云う文章を読んで、光圀は大きな衝撃を受けた。

 「伯夷伝」と云うのは伯夷と云う兄と叔斉と云う弟の物語だ。彼等の父は孤竹の国君だったが、死んだ時跡目を継ぐ者の指名をして居なかった。伯夷は、弟の叔斉に「父に愛されて居たお前が相続人に為れ」と云った。叔斉は「兄さんを差し置いて、私が家を継ぐ事は出来ません」と辞退した。何時迄話し合ってもまとまら無い。そこで兄弟は相談して「イッソの事、この国を捨てて、2人何処かで自然と親しみながら暮らそう」と決めた。

 偶々、周と云う国に行った。ここの王である武王が、自分の仕える紂王を武力で退ける企てをして居た。これを知った伯夷と叔斉は、周の武王の馬の手綱に縋って止めた。「いかに悪王と云っても、主人を武力で追放する事は不忠に当たります。好くありません」
 しかし武王は「紂王は悪王であって、既に王では無い。只の人間だ。私は只の人間を征伐しに行くのだ」と云って、言葉通り紂王を追放してしまった。

 光圀はこの話を知って居た。そして、小野が頻りに引用した孟子は「周の武王の行為は正しい。紂王は悪王であって徳を失って居た。徳を失った王は王では無く匹夫である。周の武王が退治したのは匹夫であって、王では無い」
 と武王を支持した。そして、孟子はこれを「放伐」と名付けた。孟子の放伐の理論は、下克上の論理として、戦国時代には日本でも活用された。処が、光圀が衝撃を受けたのは、孟子が肯定する周の武王の行為を、伯夷と叔斉は最後まで「間違った事だ」と否定した勇気に対してである。

 もう一つ事情があった。それは、この頃の光圀は既に自分に頼重と云う兄が居て、四国高松の藩主に為ったことを知って居た。同時に、その兄も罷り間違えば水にされて、生まれて直ぐアノ世に送られて居たかも知れ無いことも知って居た。
 同じ生まれ方をしたのにも関わらず、兄を差し置いて自分が水戸徳川家の当主に為った。その事が、光圀にはズッと引っ掛かっていた。彼の非行の一因にはこの兄の存在もあった。「伯夷伝」を読んで感動した光圀は、水戸徳川家の今後の相続に付いて、途轍もない方法を考え出した。

 同時に、それ迄の非行をピタリと辞めた。真面目な相続人に為り、民を治める知識や技術を学び始めた。そして、根底に為る「愛民」の思想を学んだ。光圀は生まれ変わったのである。『史記』と云う一冊の本が、光圀に根源的な自己変革を促したのだ。

 大義を正す日々

 寛文元年(1661)7月に、父の頼房が死んだ。59歳だった。8月19日、光圀は跡を継いで水戸徳川家の第2代藩主に為った。

 藩主に為って直ぐ光圀が出したのは「殉死禁止」の令である。殉死の禁止は、既に徳川本家でも触れて居たが、全く守られて居なかった。将軍が亡く為る度に、多くの武士が殉死した。
 10年程前、3代将軍・徳川家光が死んだ時も多くの大名や旗本が後を追って腹を切った。人命尊重の気持ちを募らせて居た光圀は、父の死に対して藩の武士が腹を切る事を禁止した。この厳命は守られて、水戸家では父・頼房の死に対する殉死者は1人も出なかった。

 光圀は、自分の政策を発表した。

 ● 民政を重視し、農民の暮らしを豊かにする
 ● 『大日本史』の編纂を続行する
 ● 領内に水道を建設する
 ● よこしまな宗教を禁止する
 ● 農民の負担を軽減する為に、雑税の幾つかを廃止する


 等であった。そして、最も藩内を驚かせたのは、相続人を定める方法である。光圀は「今後、水戸徳川家の相続は、四国高松の松平家と交代で行なう」と宣言した。皆目を見張った。光圀は実行した。即ち、兄・頼重の息子である綱条(つなえだ)を養子に迎えた。頼重には「私の息子を、高松の世子にして貰う」と告げた。頼重は「そこ迄遣らなくても好いのではないか」と云ったが、光圀は承知しなかった。
 18歳の時に読んだ『史記』の「伯夷伝」の衝撃が、ズッと胸の中に残って居た。三男の自分が、兄の頼重を差し置いて水戸の当主に為ったことに、何とも云えない後ろめたさをかんじて居たのである。

 水戸領内の民政を重視して、民の暮らしを豊かにしたいと云うのも、そう云う後ろめたさの裏返しであった。同時に『大日本史』の編纂を続行すると宣言したのも、その為であった。『史記』の「伯夷伝」に感動した光圀は(日本にも、探ってみればこう云う事例が沢山あるのではないか。それを掘り起こして整理し、後世に伝えよう)と思いたったのである。

 『大日本史』編纂の企ては、彼が当主に為る前の明暦3年(1657)から行なわれて居た。彼が30歳の時である。江戸駒込の中屋敷に史局を設け、編纂に従事する専門の学者達を集めた。特別な予算も用意した。この事業は相当な金食い虫であったので批判も多かった。
 しかし光圀は、藩主に為ってもこの編纂は続けると宣言したのである。実を云えば、この『大日本史』の編纂は明治39年(1906)迄掛かる。250年に渉る大規模な修史作業であった。彼は『史記』によって学んだ「人倫の道」即ち「大義を正す」と云うことを、水戸藩内だけで無く、日本全体のコンセンサスにしたかったのである。

 『大日本史』と云う本は、南北両朝に分かれて居た頃の皇統問題に言及し「南朝が正統である」とした。その為、楠木正成や新田義貞達が忠臣と為り、足利尊氏達は逆賊と呼ばれた。しかし、足利3代将軍・義満の時に、南朝の後亀山天皇は、北朝の後小松天皇に「三種の神器」を渡し両朝は合一した。そして以後は、後小松天皇系の天皇が続いて今日に至って居る。

 光圀の意図は何処にあったのだろうか。『大日本史』の思想は、後に「水戸学」と呼ばれ、幕末の尊皇運動の理論的根拠に為る。南朝を正統とし北朝を偽朝とすれば、徳川政権は足利政権と違って正当な武士政権として存立出来る。天下の副将軍・徳川光圀の真意はこんな処にあったのでは無かろうか。
 しかしその後、水戸思想は独り歩きをし、幕末の志士を奮起させた。もし、光圀に初めから倒幕思想があったとすれば、そう云う危険思想の持ち主を、幕府が副将軍として扱う筈は無い。この辺は謎だ。もっと追究されるべきテーマだ。

 愛される「ご隠居」に

 光圀は、元禄3年(1690)10月14日に藩主の座を退いた。63歳だった。後は、約定に従って四国高松藩主・松平頼重の子綱条を指名した。徳川将軍は、家光の後4代目は家綱が継いだが、家綱が死んで5代目に綱吉が就任して居た。処が、綱吉は有名な悪法である「生類憐みの令」を出した。これが拡大解釈されて民衆が酷い目に遭った。

 光圀は、この綱吉の悪政を諫める為に、藩主の座を退いたのだとも云われる。隠居の身なら思い切って意見が出来るからだ。それ迄の彼は副将軍として江戸城で政務に励んで居た。が、綱吉には柳沢吉保と云う側近が居て、殆どこの2人で政治が行なわれて居た。ナカナカ光圀には口を出す機会が無かった。又、綱吉も光圀を煙たがって居た。

           1-20-11.jpg 西山荘

 隠居した光圀は、常陸(茨城県)の太田と云うところに引っこんで「西山荘」と名付けた隠居所に籠った。『大日本史』の編纂は、駒込から小石川の本邸に移された彰考館で行なわれて居たが、これも水戸に移した。西山荘に移った光圀は、付近に梅の木が多かったので自分の号を「梅里」と名付けた。

 身近に『大日本史』を編纂する有名な2人の学者が居た。佐々宗淳(さっさむねきよ)と安積澹泊(あさかたんぱく)である。2人は『大日本史』の記事を正確にする為に好く諸国を探索して歩いた。
 宗淳の通称は介三郎、澹泊の通称は覚だったので、これが後の「助さん・格さん」に発展したのだと思う。『水戸黄門漫遊記』そのものは、全くのフィクションである。光圀が歩き廻ったのは、常陸国内か、精々近隣の地域に過ぎない。恐らく、佐々と安積が歩き廻ったことが漫遊記に発展したのだろう。

 『大日本史』の編纂は相当な金食い虫であり、又この編纂に携わる職員を優遇したので、藩内でも不平の声が多かった。光圀がこの頃寵愛して居た家臣に、藤井紋太夫と云う男が居た。才覚があるので光圀は重宝して居たが、この藤井が将軍・綱吉の側近・柳沢吉保に接近した。
 2人の動きを見て居ると、どうも光圀を力の無い立場に追い込む様な企てをして居る。藤井にすれば『大日本史』が余りにも金を食うので、この編纂を辞めさせようとしたのかも知れない。これを知った光圀は、或る日突然、藤井を刺殺した。天下は驚いた。

 光圀は同じ頃、江戸城に出掛けて行っては将軍・綱吉に『大学』等、中国の古典の講義を行なった。暗に「生類憐みの令」の様な悪法を、早く廃止すべきだと云う意見である。しかし、綱吉は聞か無かった。綱吉も又「生き物の命を大事にしたいと云うのは私も同じだ。だから、小動物の命を大事にする事が、即人間の命を大事にする事に繋がるのだ」と云って聞か無い。光圀は「そんな馬鹿な事は無い」と云ったが、綱吉とは見解の相違があった。

 『大日本史』の編纂だけで無く、この頃の光圀は頻りに領内を歩き廻った。藩主に為った時に約束した上水道も笠原水道として完成して居た。怪し気な宗教も全部無く為っていた。善政を行なったので、領民は光圀を「黄門様」と呼んで敬愛した。
 元禄13年(1700)12月6日、光圀は死んだ。生前の行ないを偲んで「義公」と贈名された。73歳だった。黄門と云うのは官位で中納言の事を云う。従って、中納言であれば誰もが黄門で、光圀の専売特許では無い。しかし、黄門と云えば直ぐ徳川光圀を思い出すのは、矢張り彼の人徳だろう。

 子供の頃、危うく「水」にされそうに為った彼は「人間の傷の痛み」を知って居た。自分の傷の痛みを知るからコソ、他人の傷の痛みが判った。それが弱い人間への優しさや思い遣りに為った。黄門漫遊記は、そう云う彼の気持ちをシンボライズしたドラマだ。明治22年(1889)の憲法発布の直後から流行し始めたと云う。明治天皇の積極的な地方巡幸と、果たして関わりは無かったのだろうか。


                以上

          1-20-10.jpg 童門冬二氏(作家)










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