2020年01月11日
江戸時代の経済成長 何故可能だったのか
江戸時代の経済成長 何故可能だったのか
〜JBpress 1/11(土) 6:00配信〜
東海道中膝栗毛
過つては江戸時代の経済事情に付いて「低成長で、農民が領主に搾取された時代」と云った歴史観が私達の間で共有されて居ました。
その遠因は、第二次世界大戦での敗戦にありました。日本が戦争に負けたのは、民主主義国では無く、欧米と比較して封建的だったからであり、その原因を遡(さかのぼ)れば江戸時代に鎖国をして開明的に為れ無かったからだ、と云う考えが戦後一般に広がったのです。
しかし現在では、江戸時代にもそれ為りの経済成長があった事が判って居ます。ソモソモ産業革命を迎えたヨーロッパがそれ以降、急激に成長したと云う事であって、ヨーロッパと比べれば日本の経済成長率は相対的に低かったかも知れませんが、足下を見れば十分な成長を実現して居たと考えるべきなのです。では、江戸時代の経済成長とは、一体どう云うものだったのでしょうか。
戦乱が無く為り官僚化した武士達
戦国時代は全国で多数の戦いが繰り広げられて来ました。しかし江戸幕府が開かれると一転、日本は戦乱の無い時代に入ります。更には、国を閉じる「鎖国」を選びました。
戦国時代の日本は、世界有数の軍事国家でした。1575年の長篠の合戦においては、過つては「3000丁もの鉄砲が使われた」とされて居ましたが、最近ではその数字は1000丁へと下方修正されて居ます。だとしても、長篠の合戦は世界的に観て最大規模の銃器が使用された戦争でした。
処が江戸時代に為り戦争が無く為り、ヤガテ鎖国政策が執られる様に為ると、軍事産業が大きく縮小する事に為ります。朝鮮への侵略に失敗して居る事もあり、国外に新たな領土を求めて戦争を仕掛ける事も無く為ります。
戦争が無く為ると、軍人としての武士は不要に為ります。江戸時代の武士は理念としては軍人でしたが、現実には官僚でした。彼等は、給料に当たる石高が固定されて居たので所得は増えません。しかも、官僚としての武士は多過ぎでした。
そこで、一つの仕事が複数の武士によって分割される事に為ります。一種のワークシェアリンクです。例えば江戸町奉行は北町と南町に分けられ、毎月担当が変わりました。これは権力集中を排除する目的もありましたが、実は失業対策でもあったと考えられて居ます。
武士とは対照的に、農民や商人の所得は増えました。公的には、江戸時代を通じて石高は一定でした。しかし現実には江戸時代最初の一世紀は、新田開発が奨励され、農地は増大します。更に各地で特産物も栽培される様に為ります。
その上、江戸時代当初は「二公一民」収穫の3分の2が領主、3分の1が農民だった年貢が、1700年頃には、実質的に「一公二民」に為ります。年貢の負担が減った訳です。
こうして農民は豊かに為り、彼等の可処分所得も増加しました。農民だけでは無く、職人や商人の所得水準も上昇し、消費財を購入出来る様に為りました。新田開発により食糧増産が実現すると、人口も爆発的に増えて行きます。江戸時代の初めに1700万人程だった人口も3000万人に達しました。
しかし1700年頃には新田開発は抑制される様に為ると人口も増え無く為りました。江戸時代の人口成長は最初の1世紀でピークに達し、それ以降、余り成長し無く為ったのです。では、この様な状況は江戸の日本経済にどう云う変化をもたらしたのでしょうか。
江地庶民の暮らし 長屋
江戸時代 幕府は海外事情に疎かったのか?
それを論じる前に、ココで江戸幕府の情報収集能力に付いて述べてみます。15世紀、独立国であった琉球は、ジャンク船を駆使して東南アジア諸国との貿易を積極的に行って居ました。そのルートを利用し、16世紀後半には日本人が東南アジアに進出し、各地に南洋日本町を作ります。
詰まり戦国時代の日本人はアジアに積極的に出て行って居り、日本人は海外の情勢に付いて可成りの知識を持って居ました。
それは江戸時代に為っても同じでした。「鎖国」状態に為りはしましたが、幕府は海外との公式ルートを僅かに残して居ました。そのルートとは、長崎の出島・対馬藩・琉球・蝦夷の松前藩の四つに限定し、此処を通じて海外諸国と遣り取りをしました。現代ではこれらの地を総称し「四つの口」と呼ばれて居ます。
詰まり「鎖国」とは言いつつも、当時の日本の実態は完全に国を閉ざした訳では無く、当時のアジアで好く見られた様な「海禁政策」詰まり民間の自由な貿易を禁じ、国家が貿易を管理する体制だったと云うのが現在の学説です。江戸幕府は、これ等「四つの口」を通じて、外国の情報を入手して居ました。
例えば朝鮮通信使は、江戸時代に日本を12回訪れて居ます。幕府は、彼等から海外の情報を入手して居ました。又対馬藩は、現在の釜山市に倭館を置き交易を行いました。更に幕府は、オランダ船が平戸に入港する度に「オランダ風説書」を提出させ、海外の情報を入手して居たのです。政策的には鎖国を続けましたが、だからと云って海外事情に疎い訳では無かった様です。
銀の大量流出
過つて、日本は、貴金属資源に富んだ国でした。マルコ・ポーロが、日本を「黄金の国」と呼んだ事は広く知られて居ます。貴金属の中でも最も重要だったのが銀で、当時の日本は主要な銀産出国でした。
17世紀前半の日本の銀産出高は、世界の三分の一を占めて居たと云う説さえあります。この当時、南米の銀輸出量が可成り多かったのですが、日本の輸出量もそれと匹敵する程だったとされます。
当時の日本の貿易収支は赤字でした。それを補填する為、日本は銀を輸出せざるを得ませんでした。その銀は、長崎、対馬、琉球のルートを通じて中国に輸出されます。中国では税制として地丁銀制が採用されて居ましたので、銀の需要が大きかったのです。
日本の銀輸出に関する研究者として著名な小葉田淳氏は、日本からの銀輸出量を、毎年約2万キログラムと推計して居ます。
17世紀の日本が銀と引き換えに中国から輸入して居たのは、綿、砂糖、生糸、茶などです。この貿易、日本に大量の銀がある内は問題無かったのですが、余りに大量の銀が流出するので、国内で使用する銀が不足する様に為って来ました。そこで、幕府は、銀の流出回避を検討します。
しかし、有力な輸出商品を持た無い日本にそれは難しい相談でした。そこで、勘定奉行だった荻原重秀(1658〜1713)は、1695年、貨幣の純分を落とします。そうする事で、より多くの貨幣が鋳造出来る様に為ったので通貨供給量は増加しました。
これは、生産量が増大して居た江戸の経済に取っては大きなプラスに為りました。経済成長に見合うだけの通貨を供給出来る様に為ったからです。しかしその一方で、アジアでの日本銀貨の評判は急落します。
そこで新井白石(1657〜1725)は、再び銀貨の質を良くします。すると今度は通貨供給量が減り、デフレと為りました。但し、海外での日本銀貨の評判は上がります。しかし長期的に見れば、国内の金山や銀山の産出量は大きく減少し、1750年頃には、金や銀の海外流出は完全にストップします。この時、日本経済は大転換を余儀無くされました。
幕末の飛脚
銀の産出減が促した輸入代替産業の発展
銀輸出が減少し、海外からの輸入が難しく為ると、日本は、中国から輸入されて居た綿、砂糖、生糸、茶、更に朝鮮から輸入されて居た朝鮮人参を国内で製造せざるを得無く為りました。即ち、輸入代替産業が発展したのです。
只困った事に、鎖国の為、中国の技術者を招聘して直接製造方法を教わる事は出来ません。吉宗の時代(在位1716〜45)に外国書の輸入禁止が緩められたので、日本では中国から書物を輸入し、独学でこれ等の作物を栽培しようと云う機運が盛り上がります。
しかし書物を頼りに技術を学ぶには多くの時間が必要です。しかも日本の気候も、これ等の商品の栽培には適して居ませんでした。それでも日本は徐々にではありますが、綿、砂糖、生糸、茶、朝鮮人参の国産化=輸入代替に成功して行きました。
実際、朝鮮人参の国産化により、朝鮮との貿易は大きく減少します。日本は、朝鮮との貿易赤字は無く為って行ったものと推測されます。
明治に為ると綿、砂糖、生糸、茶は、日本の主要な輸出品に為ります。江戸時代、銀産出量減少に伴い、止む無く国産化に取り組んだ事で、結果的に日本は重要な輸出品を獲得する事が出来たのです。
江戸時代、武士の生活水準は上がらず、庶民は上昇して居た
サテ江戸時代の庶民の暮らし振りですが、江戸時代初期には小作農は極めて貧しく、食うや食わずの生活をして居ました。明治維新の時点でも貧しかったのは事実ですが、生活水準は過つて比べれば随分上昇していました。
これは前述の様に実質的な年貢が減少した事に加え、農業器具の改善により農業生産高が大きく上昇した事も関係して居ます。農業の転換点は1680年代から1710年代に掛けて、将軍で言えば五代将軍・綱吉から八代将軍・吉宗の治世に掛けての事でした。
この頃農民は市場向けの新しい野菜を栽培し始める様に為ります。これにより市場経済の形成が強く促され、その為日本人の栄養状態は良く為ります。江戸時代終わり迄に平均寿命が5.6歳延びたのです。一方で、武士の生活水準は余り上昇しませんでした。武士の俸給は相変わらず固定されて居た為、彼等の可処分所得は余り増え無かったのです。
処で、江戸時代には、享保・寛政・天保の三大改革がありました。その内成功したのは、吉宗の時代の享保の改革だけです。それは、享保の改革は殖産興業政策をしたのに対し、後の二つは質素倹約を押し付けたに過ぎ無かったからです。経済を成長させ様と云う意識が無かったことは致命的な問題でした。
佐渡鉱山のスケッチ
庶民の所得が増加すると、身分の高い人だけに許されて居た贅沢な衣類を低い人達も着る様に為ります。庶民は、より多くの消費財を購入する様に為りました。これも産業の振興を促しました。
只、日本の経済成長は、手工業で生産される消費財に基盤を置いたものであり、ヨーロッパの様に蒸気を用いた機械によって消費財を大量に生産すると云う事はありませんでした。ここに、江戸時代の日本の経済成長の限界があった事は否定出来ません。
ですが、江戸時代は、明治以降の経済成長の前提条件を作った事も事実です。綿、砂糖、生糸、茶を国内で生産する事が無かったら、明治を迎えた時の日本には外国に輸出出来る商品は殆ど在りませんでした。日本は江戸時代の内に、欧米経済に追い付く事が出来るだけの潜在力を付けて居た、と見る事も出来るのです。
玉木 俊明 以上
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