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2020年01月07日

これは何かの冗談ですか?日本人が知らない「大日本帝国の終戦構想」



 
 

 


 これは何かの冗談ですか?日本人が知ら無い 「大日本帝国の終戦構想」 

               〜現代ビジネス 1/7(火) 11:01配信〜


            1-7-5.jpg

 戦争をどう終わらせる積りだったのか

 今から79年前の1941年12月、大日本帝国はアメリカやイギリスと勝ち目の無い戦争を始めた。「勝ち目が無いって、今だからそんな事を言えるんだろ」と云う人が居るかも知れない。しかし当時も、軍人を含む少なからぬ為政者達が、アメリカを屈服させる事が不可能である事は分かって居た。では、為政者達は何故戦争を始めたのか。そしてどう遣って戦争を終わらせる積りだったのか。
 今回は開戦までの経緯と、戦争終結構想を観て行こう。戦争を終わらせるのは戦争を始めるより遥かに難しい事、国は、と云うより為政者達は時に飛んでも無い間違いをすると云う事が分かる筈だ。

 1930年代から40年代初頭に掛けて、中国や南方への進出を進める日本に対し、アメリカは態度を硬化させて行った。決定的だったのが1941年7月の南部仏印進駐だ。アメリカは在米日本資産を凍結し、極めて重要な戦略物資である石油の対日輸出を全面禁止した。
 当時、石油の殆どはアメリカから輸入して居た為、日本としては大きな痛手だった。石油が無ければ多くの兵器が役立たずに為る。兵士を戦地に送る事も難しく為るのだ。当時の首相・近衛文麿は、対米戦に慎重な海軍を支えとして陸軍の好戦派を押さえ様として居た。処が燃料である石油を止められた海軍は、石油確保の為に更なる南方進出を見据える。

 近衛文麿首相は対米戦を回避すべく、乾坤一擲(けんこんいってつ)の策を講じる。ルーズベルト米大統領と頂上対談をし中国撤兵を約束する。そして直ぐに昭和天皇の許可を得る・・・と云うものだ。処が肝心のアメリカが乗って来なかった。

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                首相・近衛文麿氏

 「戦争は出来ません」と言え無かった事情

 9月6日、昭和天皇が臨席する御前会議で「帝国国策遂行要領」が決定された。外交交渉がマトまら無い場合「10月上旬頃に至っても要求が貫徹出来ない場合は、直ちに対米英蘭開戦を決意する」ものだ。
 戦中派世代の作家、五味川純平が「軍部に追従する事だけに終わった近衛の政治歴の中で、最も決定的な失敗」(御前会議)と断じた決定であった。

 只、海軍にも慎重論は根強かった。日本と米・英、殊にアメリカとは国力が大きな差があった。そのアメリカとの戦争と為れば主戦場は太平洋であり、と為れば海軍力が勝敗を大きく左右する。当時は軍艦の保有量などで観ると米英が世界1位と2位で帝国は3位だった。
 イギリスはドイツとの戦争で相応の戦力を割か無ければ為ら無いが、アメリカは左程でも無い。帝国海軍の物量的劣位は明らかだった。
 陸軍はどうか・・・1937年に始まった中国との戦争が泥沼化し大きな戦力を割いて居た。米英との戦争と為れば東南アジア・太平洋諸島が戦場と為る。と為れば典型的な二正面戦争と為る。米英より遥かに軍事力で劣る中国さえ屈服させられ無い日本が米英を屈服させる事は不可能だった。

 その事は陸・海軍とも分かって居た。為らば戦争が出来る筈が無い。しかし両方とも、そうは言え無い事情があった。アメリカとの交渉をマトめる為には、中国からの撤兵は避けられ無い。営々と中国侵略を進め、傀儡国家満州国を造る等、多くの「成果」を得て来た陸軍としてはそれは避けたい。
 一方で、代々の仮想敵国はソ連でありアメリカとの戦争は必ずしも望むものでは無い。出来れば海軍から「戦争は出来ない」と言って欲しい。それが陸軍の思惑だった。海軍もアメリカとの戦争とは避けたい。しかしそのアメリカを仮想敵国として獏大な国費を費やして来た手前「アメリカと戦争は出来ません」とは到底言え無かった。

 或る組織、例えば陸軍や海軍の人間が自分の組織の利益を最優先するのは自然だ。夫々の利益が矛盾した場合、当事者同士の交渉では解決しない。第三者が調整力・指導力を発揮して止揚し無ければ為ら無い。しかし、大日本帝国ではそうは為ら無かった。

 歴史に「もしも」は禁物とされるが・・・

            1-7-7.jpg 武藤章軍務局長

 日米交渉は進ま無いまま10月上旬を迎え、戦雲が立ち込めて来た。同月14日、陸軍の中で対米戦回避を模索して居た武藤章軍務局長富田健治の元を訪れた。富田は第2次・第3次近衛内閣で内閣書記官長を務めた人物。内閣の要であり陸海軍と内閣の連絡・調整も行う役目だった。

 富田は1962年、近衛内閣の内幕を綴った『敗戦日本の内側 近衛公の思い出』を著して居る。現在は入手困難だが、2019年秋に刊行された『近衛文麿と日米開戦 内閣書記官長が残した『敗戦日本の内側』』川田稔編・祥伝社新書で内容を確認出来る。

 富田によれば、武藤は以下の事を言った。

 「海軍が本当に戦争を欲し無いなら、陸軍も考えねば為らぬ。処が海軍は、陸軍に向かって表面はそう云う事は口にしないで、只総理一任だと言う。総理の裁断と云う事だけでは、陸軍内部を抑える事は到底出来ない。
 しかし海軍が、この際は戦争を欲し無いと公式に陸軍に言って来れば、若い連中も抑え易い。海軍がそう云う風に言って呉れる様に仕向けて貰えないか」


             1-7-8.jpg 岡敬純軍務局長

 富田は武藤の依頼を海軍の岡敬純軍務局長に伝える。岡は「海軍としては、戦争を欲し無い等と正式には言え無い。首相の裁断に一任と言うのが精一杯」と述べた。
 ゲタを預けられそうに為った近衛は10月16日、内閣総辞職を選んだ。天皇が次の組閣を命じたのが東条英機陸軍大将である。内大臣の木戸幸一が好戦的だった東条を首相に推挙した処、昭和天皇が「虎穴に入らずんば虎児を得ずと云う事だね」と言った事は好く知られている。(木戸日記)

           1-7-9.jpg 東条英機陸軍大将

 東条に、陸軍の主戦派を押さえて戦争を回避させたい・・・そう云う狙いだった。しかしその東条も対米戦に前ノメリと為る陸軍を抑える事は出来無かった。
 陸軍から開戦の是非を事実上委ねられた海軍が「アメリカとの戦争はすべきでは無いと考える」と言って居たら、近衛が「海軍に判断を任されたから自分が裁断する・・・明治憲法の制度上極めて異例だが。アメリカとの戦争は避ける。それを前提に今後の国策を決める」と決めて居たら、日本の現代史は大きく変わって居ただろう。

 歴史に「もしも」は禁物とされるが、筆者はケースバイケースだと思う。「もしも」は為政者達の判断ミスや不作為を炙り出す、有益な思考実験にも為り得るからだ。只海軍だけの責任では無い。中国からの撤兵を頑として拒んだ陸軍にも巨大な責任があるし、軍部を制御出来なかった政治家にもある。適切なシビリアンコントロールが出来なく為る様な、明治憲法体制の構造的問題でもあった。

 講和に向けた筋書き

 為政者達は米英等との戦争を決めた。目指して居たのは講和である。勝て無い以上、妥当な目標ではある。ではどう遣って講和するのか。
 筋書きが決まったのは1941年11月15日大本営政府連絡会議であった。同会議は首相や外相等の主要閣僚と、陸軍の参謀総長と海軍の軍令部総長らが構成し国策決定・戦争指導に関わるものだ。同日「対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」をマトメた。『戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯5』防衛庁防衛研修所戦史室
 
 先ず「方針」が示された
 一 速ニ極東ニ於ケル米英蘭ノ根拠ヲ覆滅シテ自存自衛ヲ確立スルト共ニ更ニ積極的措置ニ依リ蒋政権ノ屈服ヲ促進シ独伊ト連携シテ先ツ英ノ屈服ヲ図リ米ノ継戦意志ヲ喪失セシムルニ勉ム
 二 極力戦争相手ノ拡大ヲ防止シ第三国ノ利導ニ勉ム
 更に「要領」
 一 帝国ハ迅速ナル武力戦ヲ遂行シ、東亜及西南太平洋ニ於ケル米英蘭ノ根拠ヲ覆滅シ、戦略上優位ノ態勢ヲ確立スルト共ニ、重要資源地域並ビニ主要交通線ヲ確保シテ長期自給自足ノ態勢ヲ整フ(後略)
 凡有手段ヲ尽シテ適時米海軍ノ主力ヲ誘致シテ之ヲ撃滅スルニ勉ム
 二 日独伊三国協力シテ先ヅ英ノ屈服ヲ図ル。(以下略)


 要するに
 (1) 東アジアや西南太平洋におけるアメリカ・イギリス・オランダの勢力を排除する。重要資源を確保、長期自給自足体制を整備する
 (2) 中国の蒋介石政権への圧力を強め、屈服させる
 (3) 三国同盟を結んで居たドイツ・イタリアと連携し、先ずイギリスを屈服させる
 (4)それによってアメリカの戦意を失わせる。それで講和に持ち込むと云うものだった。

 
 最も現実味があったのは(1)である。実際、開戦後はフィリピンからアメリカ、シンガポールからはイギリス、インドネシアからはオランダを追い払った。石油など重要資源の供給地も押さえた。只それを運ぶ為の制空権・制海権を長く保持出来なかった為、長期自給自足態勢は出来なかった。
 そして(2)中国との戦争は泥沼化して居て決着する見通しは無かった。決定的に問題なのは(3)(4)である。ドイツはフランスを占領する等、開戦後破竹の勢いを見せて居た。しかし海軍力が弱くイギリスに上陸し「屈服」させる事は難しかった。更に1941年6月にはソ連との戦争を始め典型的な二正面作戦をして居た。

 そんな状況で、仮にドイツがイギリスを降伏させたとしても、それでアメリカが戦意を失い日本との講和に乗り出す保障は全く無い。詰まり大日本帝国は、希望的観測・・・ドイツがイギリスを遣っ付ける、の上に空想・・・イギリスが離脱すればアメリカは戦意を失うかも知れ無い・・・を重ねた様な構想で、戦争を始めたのだ。

 『昭和天皇実録』に書かれて居ないこと
 
 さて2014年に公表された『昭和天皇実録』『実録』は宮内庁が四半世紀の時間と2億円の国費(人件費を除く)を費やして編纂した昭和天皇の一代記であり国家の正史だ。全61巻、1万2000ページと云う膨大な量でありながら「驚くべき事に」と言うべきか「やはり」と言うべきか『実録』には昭和史における極めて重要な事項で書かれて居ないことがある。大日本帝国の「終戦構想」もその一つだ。

 それがマトマった日、1941年11月15日の『実録』を見ると、昭和天皇は皇后と共に朝、葉山御用邸を出て皇居に戻った。午後1時過ぎから、陸海軍の首脳が陪席する中「戦争初頭を想定したマレー・香港・ビルマ・蘭印・フィリピンを中心とする南方作戦の指導とその推移に関する兵棋演習を御覧に為る」陸軍の杉山元参謀総長に「支那軍の北部仏印への動き」や、海軍の永野修身軍令部総長に「陸軍輸送船団の護衛問題」等に付いて夫々聞いた。
 夕方には杉山から「外交が成立すれば戦闘行為を止め、大命に従って軍隊を退けること」等の説明を受けた。

 この部分の記述の典拠の一つに、『実録』は『戦史叢書』を挙げて居る。しかしその『戦史叢書』が挙げて居る終戦構想に付いては全く触れて居ないまま記述が進む。

「御夕餐後、皇后と共に映画『君と僕』文化映画『塩都運城』を御覧に為る」

 昭和天皇がどんな映画を見たのか。それは昭和天皇研究の上で重要なのだろうが、筆者としてはモッと知りたいのは、国民の運命を左右する戦争をどう終わらせるかと云う構想を、天皇が聞いて居たのかどうか、聞いたとしたらどう感じたのか、と云う事だ。しかし筆者のみた限り『実録』からはそれが分から無い。

 司馬遼太郎の指摘

           1-7-10.jpg 

              戦車部隊の小隊長時代の司馬遼太郎氏

 以下『実録』を巡る余談である。これが公表された2014年、新聞やメディア各社が大きく報じた。筆者は勤務する毎日新聞で分析チームの一員と為った。マスコミへの発表から報道迄、短時間で読み込ま無ければ為らない。一人で読み通す事は到底出来ず同僚と手分けした。
 筆者は自分の担当箇所を読みつつ、昭和史の中でも極めて重要と判断した幾つかの事項に絞り『実録』にそれがどう書かれて居るか、或いは書かれて居ないのかを見て行った。記事掲載までの限られた時間の中で、『実録』の本質を覗う為にそれが有効だと判断したからだ。

 すると「当然書いて有るだろう」と思って居たことが、幾つも抜け落ちて居た。終戦構想の顛末はその一つである。国家の正史と言えども、全ての事項・資料を網羅出来る筈がない。どの資料を選ぶのか、或いはその資料のどの部分を抜き出し文脈に嵌め込むのか。何れも編纂者の編纂意図によって左右される。国家が描く歴史物語は、その事を念頭に置いて読み進めるべきだろう。何故勝ち目の無い戦争を始めたのか『実録』を幾ら読み込んでも明確な答えは出て来ない。

 その点で興味深いのは、幕末や戦国時代を中心とした時代小説で多数のベストセラーを書いた作家・司馬遼太郎の指摘だ。本名は福田定一、大阪外国語学校を学徒出陣で繰り上げ卒業と為り陸軍に召集された。戦車部隊の小隊長として満州に渡った。
 司馬は、エッセー「大正生まれの『古老』」新潮文庫『歴史と視点』に収録で書いて居る・・・陸軍が1937年、ノモンハンでソ連軍に「完敗」したにも関わらず「僅か二年後に米国と英国に宣戦布告をして居るのである。こう云う愚行が出来るのは集団的政治発狂者以外に有り得るだろうか・・・とした。

 更に司馬は・・・兵力の分散を避けると云うのは軍事の初歩だが、彼等は足腰の立つ国民を総浚(そうざら)いにして地球そのものにバラ撒いてしまった。バラ撒いた後、どう始末する積りも無かった。如何なる軍事的天才でもこれを始末出来る様な戦略を考えられる筈が無い・・・とし、それでも開戦に踏み切った東条英機を・・・集団的政治発狂組合の事務局長の様な人・・・と断じた。

 司馬の指摘には説得力がある。しかし「軍人達が狂って居たから」と開戦の理由を片付けるだけでは「何故戦争を防げ無かったのか」と云う分析がそこで止まってしまう。
 筆者もその「なぜ?」に確たる解答を持って居る訳では無い。只言えるのは、為政者は、時として国民全体の利益より、自分が属して居るより組織のメンツ或いは利益を優先すると云う事であり、又その結果取り返しの付か無い間違いを起こすと云う事だ。
 そしてそのツケは、国策決定に関わら無い市民に広く長く押し着けられる。蜃気楼の様な終戦構想で310万人もの同胞を失い、今に至るまで戦争・敗戦の後遺症を抱えて居る私達国民が学ぶべきはそう云う事だと思う。


             1-7-11.jpg

              栗原 俊雄    以上








 【管理人のひとこと】

 大日本帝国の終戦構想・・・との事で大い為る興味で読み進んだ。が、しかし、案の定「終戦を考えずに無謀に開戦した・・・」結末の様だ。素人なので判らないが、一国が戦争を開始する決意をし宣戦布告する時、同じ様に「終戦・停戦・交渉・・・」等の結果を幾通りにも読み込んで「結果」を構想して作戦の大綱を練るものだと思って居た。
 好く聞く話だが、真珠湾奇襲を企画した山本五十六大将は「1・2年は思う存分暴れて見せましょう・・・が、大きな戦果を挙げ早々に停戦交渉して欲しい」と言ったとか。しかし、その決定的な「戦果」が得られず「ズルズル」と後退を繰り返し玉砕を続け・・・終戦・停戦の機会を得られず全面降伏へと進んでしまった。「戦争遂行の決意」は熱に魘される様に活気に逸り安易で国民の支持も得られるが「戦争終結交渉」コソは困難で誰も手の付けたく無い「マイナー」な仕事なのだ。
 「勝つ見込みの無い戦争で、これ以上国民を犠牲には出来ない」と終戦を決意した昭和天皇には、矢張り敬意を示す必要が大である。「誰も言いたくても言え無い」から敢て「自分が決断する」のだ。開戦を承認した身で有るからコソ終戦の責任を取ら無くては為ら無い。
 為政者は、時として国民全体の利益より、自分が属して居るより組織のメンツ或いは利益を優先する、又その結果取り返しの付か無い間違いを起こすと云う事。そしてそのツケは、国策決定に関わら無い市民に広く長く押し着けられる。蜃気楼の様な終戦構想で310万人もの同胞を失い、今に至るまで戦争・敗戦の後遺症を抱えて居る私達国民が学ぶべきはそう云う事だと思う・・・との結論に至る。
 為政者を「お上」と尊び意のママ服従すると、全てのツケは我が身に降り掛かる・・・との事が現実に起きて居る。無関心・無反応コソが国を危うくする・・・その大きな試練を経ても尚、繰り返すのが人間の本性なのかも知れない。




 




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