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2018年07月27日

ガダルカナル撤退 もう一つの手記 その8

 
 その8


 21.屍体の山
 
 セキロは軍の野戦病院の在った所である。セキロに近づくに連れて異臭がプンプンとして来た。屍臭だ。
流石我々も前線で沢山の屍体を見て来たが、自然に白骨化して行くし散在して居るので屍臭も割と気に為ら無かったが、ここセキロには、病兵が死ぬと屍体を積み重ねて行き、それが腐って沈んで行くと更にその上に死体を積むから、同じ場所を屍臭が変動し無いのである。

 屍液がその附近を汚し、とても正視出来るものでは無い。丁度板を干す時に井型に積み上げる様に死体が積み重ねられて居り、この山が幾十と無く散在して居るのである。この無数の屍体の山の光景はとても表現出来るものでは無い。この世とは思え無い正に阿鼻地獄(あびじごく)だ。この慄然たる気持は体験せずして到底共感を得られ無いであろう。ガ島作戦の悲惨の極致である。
 前線では尚華々しさがあった。ここでは陰惨(いんさん)極まり無く酸鼻(さんび)の限りだ。彼等とて親もあろう兄弟もあろう、恐らくは万才歓呼で郷頭を送られた事であろう。今見るも無残な姿で瘴癘(しょうれい)の地に朽ち果てんとす。正に痛恨悲涙の極みだ。もうこれ以上筆を進める事は出来ず、切にその魂魄(こんぱく)の上に安かれと瞑福を祈るのみ。

  


 
 セキロに2・3日駐止した。今迄毎日退却して居たが、状況の変化があったのかここで反撃に転ずる様な噂が流れた。今迄流れて居た水が逆に戻るかの様にタサファロング方面に向けて進む部隊もある様である。我々は屍臭を避けて元病院の事務室に為って居た様な所を占拠して2・3日頑張る事に為った。
 一寸身体に暇が出来たので、この間に戦斗詳報を纏めて置こうと思い、図嚢(ずのう)から徒然に書き留めて置いたメモを取出し、略図を書き戦死者の名前と場所とを順次書き入れて行った。百名近くも死んで居るのだ。夥しい数字だ。中隊始まって以来の損失だ。もう中隊の再建は困難であろう。

 南支以来培ちかって来た精神は潰えてしまったのだ。3年間鍛え合った戦友はもう大部分居ないのだ。妙に膚寒い感じが背筋を走った。寂寞感がドット体内を襲った。もう何も考えまい。今日1日の無事を祈って、静かに眠ろう。ウトウトして居ると急に起された。
「これから、この先の高地に行って敵の状況を監視せよ、兵を4名連れて行け。帰哨の命令は後で連絡する」との命令だ。早速無名の高地に登る為に準備をし出発する事に為った。  
 兵隊も無聊(ぶりょう)を囲って居たので格好の憂晴らしと参加して呉れた。5名出発する事は中隊主力の半数に等しい。後に残るのはK中尉とK見習士官と2名の下士官と3名の兵位であろう。もう少し居た様に思われるが、傷ついたり病気の者で戦力とは為ら無かったと思う。

 22.ある高地 

 高地はセキロから歩いて1時間の所だ。高さは約200米(メートル)の丘であるが、附近には高い所が無いので頂上に立つと附近が一望に収められた。タサファロングが見える。コカンボナが見える。工兵隊が戦車壕を完成したらしい。可成り大掛かりな壕だ。これでは戦車は前進出来ない。  
 取り敢えず4人交替で坐哨する事に為った。一番見通しの効く地点に丁度陽蔭に為る灌木があったので、それを背にして坐哨する事にした。立哨すると敵から発見される虞れがあるからだ。ここ迄は屍臭は届か無いし天気は良いし空気は澄んで居て、久し振りに爽快な気持ちを味わった。
 
 明くる朝、K中尉が巡察に来た。異常の無い事を報告すると厳重な警戒を続けよとの事で、その日も又監視哨を続ける事に為った。しかし穴が掘って無いでは無いかと叱責された。しかし円匙(えんぴ)も十字鍬も無い。鉄帽も無い。どうしてこの固い土地を掘れと云うのか。手で掘ったとて知れたものだ。
 又こんな所で穴を掘っても、その効果があるのか。体力が消耗するばかりだ。凹地を利用すれば十分堪え得る事だ。この戦況で何を云うか。兵の気持はそんな所だ。もう上官なんかを信頼して居ないのだ。自分の生命は自分で守る知恵は十分身に着けて居る。そんな事は要らざるお節介と云うものだ。誰も穴を掘ろうとはしなかった。

 私は兵に静かに体を休養する事を命じた。南支以来共に斗って来た顔だ。お互い何を考え、何を求めて居るか語らずして了解出来る仲間だ。  
 静かな戦揚だ。敵状には全然異常は認められ無い。敵は勇川附近からは全然前進して居ない様子だ。一寸一服の格好だ。セキロ附近では余り空腹を感じ無かったが、多少糧秣の配給が増えたのかも知れ無い。前線への運搬に時間が掛かり、それだけ配給量が前線では乏しかったのであろうか。
 その夕方帰哨の命令が来てセキロに戻った。エスペランスに向うのだ。その夜セキロを離れ西方に進んだ。途中の道は泥濘膝を没する湿地帯だ。

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 23.泥濘行
 
 セキロからエスペランスの途中の道は約2粁(キロメートル)に亘り湿地帯と為って居て、膝迄没する泥濘である。転んだら最後仲々起き上がれ無い。海岸を行った方が拠っぽど増しだ。しかし海岸は危無い。この道を通過するより仕方が無い。
 この行軍は難渋を極めた。ここを越えるのに一晩は掛かった。しかも真黒暗だ、尺寸先も見え無い。唯黙々と先行者の後を付いて行くだけだ。途中でこの泥濘を這って行く男がある。これ何と、元中隊に籍があって本部に転属したY軍曹である。

 ガ島上陸頭初に負傷してそれ以後後方に居たものである。腕を遣られた様に聞いて居たが、足も悪く為ったのかも知れぬ。誰もが多少脚気気味ではあったが……この行軍途中で彼を救えと云う声が誰言うと無く、翕然(きゅうぜん)と起こった。
 自分自体の身体すら持ち兼ねて居たのであるが、もうエスペランスも近い。放って置く訳には行け無いと云う気が皆の心にあったのだ。戦友愛と云うものか。急造の担架に乗せ、四人掛かりの交替で湿地帯を抜ける迄搬送した。この為にこの男は生きて内地に帰れたのである。どれ程戦友に感謝した事であろう。

 若し放って置いたら、恐らく泥濘の中で力尽きて絶命して居たであろう。丈夫の者でも仲々困難な場所で、屡々足を捕られた所だ。到底生きては帰れ無かったであろう。  
 この事が後に師団長の耳に達し、これぞ戦友の鑑であると賞讃され、この担架を指揮したT伍長に感状が授与された。人間性が失いつつあったガ島の最後に置いても尚人間性は残って居たのだ。清々しい気持だ。この善行は我が中隊の士気を大いに奮い起こさせた。余りにも陰惨な事ばかりが続いて居た中の出来事であったからだ。

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 さしも苦難のエスペランスヘの道も夜明け迄には了った。夜明けと同時にエスペランスの山が見える。軍は此処で暫らく駐留する予定らしい。もう此処から進む道は無いのだ。
カミンボからもエスベランスに向かって居ると云う。どうやらエスペランスが最後の地と為るらしい。エスペランスは明るい感じのする所だ。
 エスペランスとはどう意味なのか。それは知ら無い。何か好い事がありそうだ。前線から60粁はあろう。1日5・6粁位しか進め無いのだ。10日間歩き通して来たのだ。好くこの身体で歩けたものだ。自分の足に感謝したい気持ちだ。撤退途中で力尽きて倒れて死んだ者その数を知れず、これが勝戦であったならその大部分は生命を取り止めたであろう。軍は動け無い者を捨て置けと命じた。

 最も1人を救ける為に4人が犠牲と為る状況では止むを得無い処置であったかも知れぬ。その様な状況ではあったが、何か割り切れ無いものが心に残る。一定の日時に一定の場所を通過しないとそれ以後は敵と見做すと云う布告も出された。
 軍の作戦に支障を来す事情があったかも知れ無いが、我々兵隊には何の為か判ら無かった。敵が俄かに襲って来る気配も無かったからだ。唯軍の方針としては動け無い者を収容して居ると軍全体の行動に何らかの支障すべき理由があったのであろう。

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 24.彼我の線
 
 部隊がエスペランスに集結したのは1月28日頃であったと思う。その頃に妙な事が起こった。それは軍の命令であると云う事であるが、好くその真相は判ら無い。

 エスペランスの東方2キロ位の所に線が引かれ、これより東方は敵線と見做すと云うのである。従って落伍してこの線より東に居るものは敵と見做されたのだ。
 我が中隊のO上等兵が未だに帰って来無いので探しに戻ると、この線で遮断せられてその東へは出され無かったと云う事である。この線を超えると銃殺されると云うのだ。偉い事に為ったものだ。友軍が友軍を射つ悲劇が生まれたのである。
 
 探しに戻った者の話によるとO上等兵がこの線の東に居る事を認めたと云うのである。救けにも行け無いし、本人も足を負傷して居てやっと此処まで退って来たが、もう自力でどうしても動け無い。
 剛気な男であった彼も力尽きたのか、この地点迄気力を振り絞って退って来たがどうにも為ら無い。虚つろな眼で自己の不運に泣いた事であろう。数日部隊とも離れて居たので何も喰っては居ないのだ。力が出ぬのは無理は無い。救けんとして救くる能わず全く非情の限りだ。遂に彼もここで置去りと為り、絶命した事であろう。ガ島の撤退中最も後味の悪い一場面であった。

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 25.死生観
 
 伝えられる処によると、エスペランスに集結したのは、敵のルンガ飛行場に逆上陸して最後の一戦を挑み華々しく全員玉砕するのが目的だと云う。
 
 エスペランスは、ガ島の西端に位し友軍の揚陸基地と為って居た。エスペランスは敵の攻撃を殆んど受けて居ず、エスペランスの山は樹木が鬱蒼として繁って居り、空の敵より身を遮蔽するには好適の場所と為って居た。
 ガ島より撤退する事は軍の方針であったのだが、その事実は極く上層部の数名しか知ら無かったらしい。後の者はルンガに逆上陸して最後の一戦を交えるのだと信じて居たのである。
 
 その様な情報が流されて居たが、別に命令は無かった様である。勝手に下部部隊に於いてその様な情報を流して居たのに過ぎ無かったらしい。しかし我々はそれを信じて疑わ無かったのである。
 死生観を何度と無く朗唱させられた。「生きて虜囚の辱しめを受けず」「死して罪禍の汚名を残すなかれ」あの荘重な名句を朝な夕なに口ずさんだ。

  


 
 進むも死、退くも死、坐するも亦死。我々は既に為すべき事を為したのだ。後は死のみが待って居るのだ。潔ぎ好く死のう。死に対する心の整理は着いて居る。時期こそ来たれ、もう思い残す事は無い。動け無い者はここに残れ、手榴弾を持って居るか、無い者には渡せ、残る者は進む者に銃を渡せ、銃の無い者は竹槍を作れ、飯を炊け、急に騒々しく為る。

 今夕ここを出発して敵ルンガに上陸すると云うのだ。我が中隊で残る事に為ったのはY一等兵だけだ。Yは15年兵で大人しい奴であったが、胆力の据わって居る男であった。脚気の為にもう一歩も歩け無い状態に為って居る。
 愈々(いよいよ)ここを去る時「長々お世話に為りました。喜んで死んで行きます。心置きなく働いて下さい」と悠然として顔色一つ変えず、死する事帰すが如き立派な態度であった。我々はこの山を下って数百米(メートル)も行ったかと思うと轟音が聞こえた。Yが自決したのだナアと思い、思わず歩足を止めて彼方の山の上を見上げた。その後は元の静寂に返った。

 一路海岸に急いだ。もう辺りは暗く為って居た。海岸迄は2キロ位あったろうか。所々に小川が流れて居て転落する者もあって、そのまま帰ら無かった者もあった。跨げる様な川であるが急流で深かったらしい。
 そこへ落込んだまま追及して来無かった者があったが、そのまま前進してしまった。誰が落ちたのか判ら無かったが、後で海岸で人員を調べたら1人足ら無い。大阪より転属して来た補充兵の男であった。彼は比較的丈夫な方でここまで来たのが、運悪く転落して死んでしまったものらしい。他を顧みている状況では無かったのだ。

  26.エスペランスの夜 

 海岸に就いたのは午後10時近くであったと思う。真暗なジャングルから海面を見るとキラキラと光って居て奇麗であった。今夜限りの生命だ。明日は敵陣へ突入して戦死して居るであろう。
 真暗な海を岸辺に沿って夜の明ける迄に敵陣に辿り着かねば途中で遣られてしまう。早く舟艇が来るのを待って居た。何時迄待っても遣って来無い。その内に遥か沖合で海戦が始まった様子である。両軍の射つ弾丸が曳光を放って花火大会を見て居る様だ。相当長い海戦だ。赤、青と交錯する曳光弾は全く奇麗で思わず見惚れて居て時の経つのも忘れて居た。

 舟艇は遂に来無かった。夜明けと共に空しく海岸より引揚げる事に為った。最も近くのシャングル内に入ったと思う。1キロに足らずの所だと思う。1日待つ事に為った。1日生命が延びた。グッスリ眠ろうと思っても仲々寝着かれぬ。ヤッパリ興奮して居るのであろう。
 何か考え様と思っても頭が真空みたいな様に為って居て、空転するばかりで何一つ纏ったものが浮かんで来ない。妙に内地の事が切れ切れに脳裏を掠める。唯為す事無く時の経つのを待って居たに過ぎ無い。その内又夜に為った。腹ごしらえをして昨夜の海岸迄進発する事に為った。

 今度は8時か9時頃には現地に着いて居た。暫らくすると、又もや海戦が始まった。昨夜と全く同じだ。狐に騙されて居るのではないかと錯覚した位である。その内海戦が止むと、遥か3000メートルの沖合に微かに十数隻の軍艦が横に並んで浮いて居るのが見られた。
 その内に何処とも無く舟艇が海岸に向かって来た。我れ先に乗ろうとするが岸に舟が着いて居ないので、舟は海上をフワリフワリ浮いて居て仲々乗り切れ無い。仕方が無いので銃を肩から外し舟の中へ抛り込んで、先に乗って居る者に手を引上げて貰って漸く乗り込めた。

 海水の為身体は異常な重さに為って居り、容易に足が上がら無いのだ。こうして助け合って乗り組んだ。1隻で精々20名位乗ったかと思うと直ぐ出発だ、愚図愚図して居られないのだ。海岸線に沿って舟は進むかと思いきや、沖合に向かって進んで居るのだ。
 駆逐艦の居る所で止まり、駆逐艦から下げられて居る綱を伝って艦内に乗り込んだ。艦内では、海軍さんが「御苦労さんでした」と鄭重な持て成しだ。ここで初めて、我々はガ島を撤退してボ島(ボーゲンビル島)へ転進する事を知らせられた。

 アア助ったのだ。ガ島で死なずに済んだのだ。こう思うと、先刻まで張り詰めていた気持がサラサラと音を立てて一度に崩れて行くのが自分でも好く判った。思えば長い苦しいガ島の戦斗であった。再び生きてガ島を去る事はあり得ないと諦らめて居たのだ。夢の様な気持であった。

  27.艦上
 
 漸く全員の乗り込みが了ったらしく、間も無く出艦だ。30隻以上の艦隊だ、壮観であった。未だ日本にもこんな軍艦があったのかと感心した。ガ島のボンヤリした島影が見る間に見え無く為ってしまった。
 もう再びガ島へ来る事もあるまい。昨年の11月5日にガ島へ上陸して以来1日も気の休まった事が無い。今日は既に2月1日だ。思えば長い辛い戦いであった。今日はグッスリ眠れるであろう。
 
 処がドッコイ仲々眠らせては呉れ無かった。夜明け方敵機約30機に発見され、機銃掃射を受ける事に為った。入れ替り立ち替り執拗に襲い掛かる荒鷲の如き、敵機は縦横無尽に銃撃し、艦内は相当な損害を受けたらしいが、幸いにも人命には損傷は無かった。
 約2・30分追撃されたが駆逐艦はジグザグ進行を取り、巧みに逃げ廻り敵機も諦めて去ってしまった。爆弾を積んで居なかったらしく又逸早く航続距離を離脱したのは僥幸と云う外は無い。

 一発御見舞を受ければ艦諸共太平洋の藻屑と化した事であろう。後は何の故障も無く、一路ボ島を指して快適に航行を続け、翌日午前中にボ島に無事着港した。  
 しかしボ島には1隻の船すら見当たら無い。湾内のアチコチには日本の艦船が擱坐(かくざ)して居るのが見られ、後方も空襲の物凄さを物語って居た。だが一応生命の危険より脱した安堵感は隠し切れ無かった。

  28.ボ島(ボーゲンビル島

 ボ島へ上陸した。空気がこんなに旨いものであるかを初めて知った。ガ島のあの屍臭に満ちた呼吸の詰まる様な空気とは断然違う、天地の差だ。生きて居たのだ。生きて居て好かった。骸骨の様な姿であっても、生き続けて来たのだ。
 衣服はどんな染料でも染められ無い様な色をして居た。嫌色と云うのは当ら無いかも知れぬ。土と汗とが染み付いてそのもの自体であったかも知れぬ。だが3ケ月肌に着けて来たものだ。自分の身体を護って来て呉れたものだ。自分の身体の一部と為って居たのだ。
 
 残留の者が水と杖を用意して居て呉れた。何事にも勝って有難かった。水らしい水を呑んだ事が無い。屍体の浮いて居る水を幾度か呑んだ事か。脚がもう上ら無い状態に為って居た。気力だけで歩いて来たのだ。
 一寸としたつる木でもあればこれに蹴躓いて転んだものだ。杖は大助りだ。上陸地点より残留の者が用意して呉れた幕舎迄かなりの距離があった様に思う。全く葬式の行列みたいな速度だ。やっとのこと目的地に着く。思わずクタクタと崩れるが如く倒れた。

 中隊編成114名の内、辛うじてボ島ヘ達したのは僅か12名であった。102名がガ島で死んだのだ。恐ろしい戦斗であった。(ガ島に行った者は10年は生命が短かいと云う事だ)我々の身体は半ケ年は十分休養すべき必要があると専門家は云って居た。
 食事はオートミルより始め、順次常食に変えて行く事である。一時に食べると死ぬと云われて居た。本部の給与も身体の回復に合わせて作って居た。  
 ボ島には現在弁護士として活躍して居るH曹長も初年兵10名位と共に来て居た。主に設営作業をして居たが、我々ガ島下番者(ガ島より帰還した者を指す)の世話を親身に為って遣って呉れた。当然の事ながら大いに感謝したものだ。各隊概ね同じ調子で設営隊が派遣されて来て居た。
 
 ボ島よリニューブリテン島へ行く迄の2ケ月間は毎日ブラブラして居たものと思う。何も特別に記憶する様な事が無い。唯入院患者が多く、12名の内半数は入院しその内4名位病院で死んだ様に思う。
 ボ島へ上陸して間も無く、陛下の勅使として待従武官が来島した事がある。炎天下に何時間も整列させ、その為に何人かが倒れた事を憶えて居る。如何に勅使とは云え、我々は殆んど病人なのだ。それを炎天下に数時間も整列させる神経が解せ無い。整列させる必要が何処に在ったのか。各隊を巡回させれば好い。余りにも形式主義化して居る。

 この痩せ衰えた兵隊が当分戦力と為ら無い事は明瞭であり、内地に帰ってその旨上奏すれば好い。好い所を見せる必要は無い。戦争なのだ。我々は曝し者では無い筈だ。辛うじて生還したに過ぎ無い者だ。もっと労りがあっても好さそうだ。  
 本当に自分の身体に為ったナアと気付いたのは「ラバール」に来てからである。ガ島では軽い体操をして、後は休んで居たと思う。時々体力作りにジャングル内に入ってバナナの葉を運んだ様な憶えがあるがそれも1・2回位であろう。
 ガ島の3ケ月間は今でも記憶に生々しく、25年経った今日でも昨日の如く思い出される。それだけ強烈な事であったからだ。

 ボ島の2ケ月間はそれに比べると余り記憶が残って居ない処を見ると、特記すべき様な事が起きて居なかったのだ。トモアレ、ガ島の撤退は敵が驚倒する程の整然とした撤退史上空前の快事であった。敵もよもや、日本軍が敵前を悠々撤退するとは気付か無かったのだ。

 つづく


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