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2018年05月03日
江戸時代を詳しく知ろう・・・
♪♪春・ゴールデンウィークも最終日・・・いよいよアウト・ドアーの季節を迎え、これから昼間の長い日が続き夏を迎えます。何といっても今年の北国の冬は寒くて雪が多く、まるで地球温暖化の逆を行く様な日が続きましたから、今年、これで本当に春や夏が来るのかしら?と心から疑いたくなる毎日を過ごしたのでした。
処が、春は一足飛びに遣って来てアッと言う間に桜が咲き、直ぐに散ってしまいアレよアレよと今を迎えてしまった。なのに今年の夏は猛暑が続き水不足も心配されるとか・・・一体どの様な気候に為るのでしょうか?
そんなお天気様のことだけを心配しても始まら無い。全てを忘れ少しノンビリした気分を味わいたいものです。「あの平和な江戸時代の人達なら、どの様な風流な遊びをしたのだろうか?」と想像を巡らすのも好いかも知れません・・・そこで、色々な江戸のお話しを調べてみました。少し長編ですがでお付き合い下さい・・・お孫さんに聞かれた時のご参考にも為ります。
参照 江戸時代って本当はどの様な時代だったの?
"Tokugawa Japan" 参照 世界が賞賛した「平和国家」江戸日本(2000.10.22)から引用
江戸時代 慶長8年(1603)の「江戸開府」(徳川家康の将軍就任・幕府創設)から、慶応3年(1867)の「大政奉還」に至る徳川将軍15代265年間に及んだ時代。この江戸時代に付いて、皆さんが連想するものは?と聞かれたら、一体何と答えるでしょうか?
水戸黄門・大岡越前・暴れん坊将軍・桃太郎侍・・・ウーン、一寸テレビ時代劇の見過ぎですネ。切り捨て御免・辻斬り・ご禁制の阿片(アヘン)・・・益々、時代劇の見過ぎです。確かに時代劇には好く「江戸時代」が取り上げられますし、お茶の間でも結構人気の高いドラマのジャンルだと思います。しかし、こう言った時代劇に登場する「江戸時代」は、およそ現実の歴史からは掛け離れて居る事もまま在ります。と言う訳で今回は、時代劇の「江戸時代」と実際の「江戸時代」を比較検証してみたいと思います。
◇犯罪の少ない安全な都市だった江戸
先ずは犯罪から。好く時代劇では、毎日の様に何処かで殺人事件が起きその度に同心やら岡っ引きが町中を飛び回って居ますが、あれは「ウソ」です。
当時も確かに犯罪は在りました、しかし、犯罪の多くが今で言う所の「軽犯罪」で、殺人・放火と言った「凶悪犯罪」は殊の外少数でした。ですから偶に何処かで殺人事件でも起き様ものなら、瓦版(かわらばん・現代の新聞・週刊誌に相当)が大上段な記事を載せ、それを読んだ町人達はその噂で持ち切りだったそうです。今なら、差し詰め、世間を震撼させる様な大事件をテレビのワイドショーが大々的に連日取り上げると言った処でしょうか。詰まり、それ程殺人事件等の「凶悪犯罪」が少なかったと言う事です。
ですから、仮にタイムマシンが存在し、江戸時代の人間を現代に連れて来たとしたら、その人は自分の住んで居た江戸時代よりも現代の方が余程恐ろしい社会に思えるでしょう。それ程迄に、江戸時代(幕末動乱以前)とは人々に取って「平和」な時代だったのです。
何故「凶悪犯罪」が少なかったのか?それは、現代の様に犯罪者を社会から「隔離」し無かったからです。例えば凶悪犯罪の犯罪者が「死刑」に処せられるとします。現代では、刑務所の中で「ヒッソリ」と刑が執行されますが、当時は町人に犯罪者の顔を晒(さら)して回る・・・市中引き回しの上、刑場で公開処刑されたりしました。詰まり、町人は処刑を実際に目にする事が出来た訳です。
マア、現代の人権擁護派からは「残酷過ぎる」「人権無視」等と言う意見が出るのでしょうが、当時は、「こんな凶悪犯罪を犯すと、アンナ風にされるんだよ」と言った意識を処刑を目にした町人達は抱く訳で、凶悪犯罪の「抑止」効果としては最も有効だった訳です。
・麻薬事件はゼロに近かった
又、時代劇に出て来る「ご禁制の阿片」も「ウソ」です。当時の日本人で、阿片や 麻薬等を吸引する様な人間は誰一人として居ませんでした。
現代は、麻薬の密輸売買で莫大な利益を上げ様とする不埒(ふらち)者や、その麻薬に手を染めて中毒に罹る人間も後を絶ちません。しかし、当時、麻薬は「嗜好品」として認知されて居ませんでしたし、大枚(大金)を叩いてそんな訳の分から無い物を買おうと言う日本人も居ませんでした。ですから、時代劇の様に、長崎奉行がシナ辺りから「ご禁制の阿片」を密輸して莫大な利益を上げる等と言った事は到底在り得無い訳です。何故なら、日本国内に阿片を求める需要も無ければ市場(マーケット)も無かったのですから・・・
・武士が意味なく切り捨て御免はうそ
武士の「特権」として当時「名字帯刀」(名字を名乗る事と刀を持つ事)を許されて居たご時世です。更に、武士が町人や農民を「無礼討ち」「切り捨て御免」する事も許されて居ました。
しかし「無礼討ち」と言う以上、相手が明らかに無礼を働いた事が前提でした。もし、何の理由も無いまま相手を切り捨てたりすれば、それは単に犯罪としての「辻斬り」と言う事に為ります。しかし、江戸時代前期こそ罷(まか)り通った「切り捨て御免」も、後期とも為ると殆ど「絶滅」します。何故「絶滅」したかと言うと「無礼討ち」に及んだ武士も只では済ま無く為ったからです。
どう済ま無く為ったかと言うと「無礼討ち」をすれば最悪の場合自分も切腹(自害)しなくくては為ら無かったからです。詰まり、相手が例え町人であろうと、刀を抜いて斬り突ける時は自分の命を捨てる(切腹する)覚悟が必要だったと言う事です。最も中には、刀が「真剣」(正真正銘の日本刀)では無く「竹光」(刃が竹で出来て居る偽物の刀)だったので、抜くに抜け無かったと言う事も在ったでしょうが・・・。
・犯罪の少なく戦争の無い250年間の平和
最後に、「平和国家」としての江戸日本に付いて。江戸時代は「幕藩体制」と言う封建社会と「鎖国」に代表される外部との交流を拒絶した閉鎖社会として、以前からマイナス・イメージで捉えられて来ました。確かに「士農工商」(武士・農民・工人・商人)から為る階級制度や、海外との自由貿易の禁止等のマイナス面が在ったのも確かです。しかし、その「江戸時代」が、海外では「Tokugawa Japan」(トクガワ・ジャパン:徳川幕府治下の日本)として高く評価されて居る事も事実です。
何故、高く評価されて居るのかと言うと、
・第一に、犯罪の少なさ(前述の通り)
・第二に、清潔に保たれた都市環境(昔のパリやロンドンは町中、排泄物・汚物だらけ!!)
・第三に、勤勉実直で道徳心に富む国民(これは、戦国末期や幕末期に来日した外国人が指摘して居る)、
・そして、「平和国家」として、江戸日本に「実績」が在ったからなのです。
この「平和国家」としての日本は、「Pax Tokugawana」(パックス・トクガワーナ或はPax Tokugawaパックス・トクガワ:徳川に依る(日本の)平和)と呼ばれて居るのですが、これは、元和元年(1615)の「大坂夏の陣」を最後に、幕末に至る迄実に250年に渉ってこれと言った戦乱も無く幕府が常備軍(国軍)を組織せず、増してや領土拡張を狙った海外侵略も企てず他からの侵略も受けず、只管「泰平の世」(平和)を謳歌して来た事に対する賞賛です。
それに対して、隣国シナ 当時の清国は、康煕帝から乾隆帝に至る全盛期に領土拡張の為の遠征をして居ますし、欧米列強諸国も世界各地に植民地獲得の為に兵を送って居ます。
そう考えると、日本列島と言う狭い空間の中で、曲がり為りにも自給自足体制を確立し戦乱とは無縁な社会を維持して来た徳川将軍15代・265年間の 江戸時代とは、或る意味では現代以上に平和な時代だったとも言えます。
勿論平和・江戸時代は、他に諸々自慢するものがありますよ。子供への教育には町のアチコチに寺小屋があり、主家を失った浪人の生活の糧にも為った。区役所の支所のような戸籍管理は夫々のお寺に過去帳があり、そこから旅行手形も貰い大山や富士山にお伊勢さんや温泉場へ湯治を楽しむ事が出来た。至る所に寄席が出来て落語や講釈を楽しみ、習い事だと三味線や常磐津を色っぽい年増の師匠に稽古を受ける。
何せ、全国から独身男が押し掛けるからどんな女性もモテモテ、花街も大繁盛!上水道は完備し下水は肥料として売れるし布や紙切れもトコトン使い尽くしてゴミも出ない・・・完全リサイクル都市だった江戸。近郊には近代手工業・軽工業も発達して優秀な職人も数多くいた。
詰り、戦争・戦乱が無かったので、軍需・武器以外の技術は夫々が芸術的と言われる程の卓越した技術が育まれたのです。日本刀は、人を殺傷する武器と云うよりは美術・工芸品としての性格が強くなり、日本画に読み物(草子)・脚本から舞台芸術(能・歌舞伎・舞踏)へと様々に発展しました。
その中で特に異才だったのは日本画・版画(浮世絵)でしょうか、後に西洋のゴッホやゴーギャン等の抽象画等に大きな影響を与えました。文化、それも大衆娯楽文化が花開いたのが太平の世の江戸時代だったのです。平和は文化を嫌が上に発展充実させるのです、他にすることもありませんし、ご隠居さんが盆栽に励むようにです。
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・江戸時代の人口は?
好く用いられる数字として、ざっと3000万人だったとされて居ますが、飽く迄も江戸時代中期から後期の推定値です。
人口推計には諸説あります 幕府の調査によれば、1721年の人口は約2,606万人、1804年には2,562万人、1846年には2,690万人です。1870年に明治政府が調査した記録では3,279万人と、幕府の調査から24年で600万人近く増えている事に為ってしまいます。これ程人口が急増する事はあり得ず、江戸時代の人口調査がかなり過小申告されていた事が伺われます。
様々な研究者により推計が行われて居ますが、諸説あり、どれが正しいのかは定まっていません。江戸時代初期1600年頃には1,200万〜1,300万人、1700年頃には2,800万〜2,900万人、1750年頃には2,900万〜3,100万人程度と云うのが一般的に認められている数字でしょう。
豊臣秀吉が実施した人口調査
我が国でかなり正確な調査が行われたのは、1591年の豊臣秀吉の命によるものでした。当時、朝鮮半島への出兵をして居た秀吉は動員の為調べる必要があると考えたのです。秀吉の時代には検地も行われ、この頃に初歩的なものとは言えある程度の統計手法が編み出されて居たようです。
キリシタン排除の為に始まった人口調査
江戸時代になると「宗門人別改帳制度」(しゅうもんにんべつあらためちょうせいど)が出来、調査が行われはじめました。これは人の数を調べる事が目的では無く宗教宗派の分布調査が主目的です。これによって、ある程度の把握は出来ましたが、上述の様な理由から必ずしも正確には調べ尽くされてはいません。乳幼児の死亡率が高いこともあって、藩によっては8才未満の子を数えなかったり15才未満を含めなかったりもしています。
全国レベルで人口調査が始まったのは吉宗の時代
全国を対象とした人口調査に初めて取り組んだのは徳川吉宗の時代です。1726年以降6年毎に人口調査が行われる様に為り、これにより大まかではあるものの人口の推移が分かるようになりました。しかしながら、調査方法は夫々の藩に一任されていた為、一定の基準に基づいた数字ではありませんでした。
その為、現在では実際の人口とは400万人から500万人程の差があったのではないかと推定されています。それでも尚、定期的に調査を行ったと云う意味では画期的なものであり、江戸時代の人口推計の貴重な資料と為っています。
武家の人口は好く判っていない?
武家の人々の人口統計は信頼性の高いものが残って居ないようです。というのも、幕府に忠誠を誓っているとは言え、夫々の藩は一個の独立国家の様なもので、何人の武士・・・詰り兵員を抱えているかは軍事機密に当たることでした。その為、中央政府である幕府にその正確な人数を申告することはありませんでした。又、武家屋敷に勤める奉公人の人数が判ってしまうと簡単に武士の人数も推測出来てしまうので、奉公人の数も秘密にされて居た様です。
・江戸時代の服装にはどのような特徴があったのか
江戸時代の服装は、男女で異なるのは勿論、身分によっても違っていました。今のような服装では無く男女とも着物を着ていましたが、小物などにも身分による違いがありました。時代劇などを好く見ていると気がつきますが、社会制度がそのまま服装にも反映されています。
武家の女性はオシャレをし無ければなら無い!?
江戸時代の武士達は士農工商と云う身分制度の一番頂点に立つ階級です。将軍や御三家などの大名が道を通る時には町人達は土下座をして通り過ぎるのを待たなければなりません。勿論中には下級武士も居て、彼らの生活レベルは町人とほぼ同等か場合によってはそれよりも低いと云う事もありましたが、身分とプライドだけは上です。
その配偶者である武士の妻たちも気位を高く持たなければなりません。例え貧しい下級武士の妻であってもだらしない服装は出来ません。「武士の名折れ」と為ってしまいます。町人達からは「奥方」と呼ばれ、尊敬されて居ます。正式な場に出かける時には正装し無ければなりませんでした。小袖と呼ばれる着物の上に「打掛」(うちかけ)と云う着物を重ね着するのがオーソドックスなスタイルだったようです。但し、夏場は暑いので打掛は着ません。髪はクシでキチンと整え飾りにし扇を手にするのが決まりです。又、武家のタシナミとして小刀を帯に挟んで居ました。
町人の女子は前掛けが習わし!?
江戸時代には年齢や身分に合わせて着物や髪形の仕来りがありましたので、その服装を見ればどんな家の人なのかは直ぐに判ります。 町人の妻たちは、丸髷(まるまげ)と云う髪型に着物を着てエプロンをするのが一般的です。前掛け・前垂れ(まえだれ)と呼ばれるエプロンは着物の汚れを防ぐ為のものです。
町人の妻は何枚も着物を持って居る訳ではありませんし、買う時にも新品と云う事は殆どありません。古着屋で買った着物を大切に着続ける為に前掛けは必需品だったのでしょう。
きちんとした服装をしなければ武士では無い!?
武士は社会の規範です。身分制度のトップに立っている訳ですが、実際の処江戸時代には戦争も殆ど無く、殆どの武士は戦うことなどありません。日々の仕事は現代で云う「役所勤め」と同じです。書類を作ったり申請書にハンコを押したりという毎日です。お城に勤めに行く時には、着物の上に裾の長い袴を着て行きます。かなり長いズボンのようなものですので歩き難いしろものですが、それが礼装でした。これに上着として肩衣をつけ上下セットで「裃」(かみしも)と呼ばれます。
武士と云う名前ではあっても戦闘をする訳では無いので、こうした動き難い服装でも構わ無かったのでしょう。髪型を整えることも武士の嗜みで、ちょんまげスタイルでは頭の天辺を綺麗に剃っていないとカッコ悪いとされていました。不精ヒゲの様にちょんまげの廻りに短い毛が生えていては恥です。しょっちゅう頭を剃っていました。
町人たちのオシャレグッズは羽織!?
町人の男性たちの服装も、女性と同じく質素な身なりをしていました。古着屋で購入した着物を大切に着るのが普通ですが、おしゃれとして「羽織」を上に着るのが粋(いき)でした。江戸時代265年間の間には羽織の流行が屡々変わり、裾の長いものが流行ったり短いものが流行ったり、袖の短いもの袖の無いものなど様々なものが登場したそうです。
武家言葉とべらんめえ調で話された江戸時代の会話
江戸時代には、中央政府が定めた共通語・標準語というものはありませんでした。従って、「方言」という考え方も無く皆が夫々使い慣れた言葉を勝手に使って居た訳です。
江戸時代の初期には全国から何十万人もの武士たちが集められ、又、街作りの為に大工や土木工事の出来る労働者が各地からこぞって遣って来た為に、様々な地方言語が一気に江戸に侵入しかなり混乱した状態であったと推測されます。
文献で残される資料は、一般的には文語体で書かれている為、口語でどの様な言葉使いが為されていたのかは好く分かっていません。各地の言語が混ざり合った混沌とした状態であったとは思われますが、特に江戸時代の初めの頃のことについては余り具体的には分かっていません。しかし江戸後期には、口語を使った文学も数多く登場した為、そうした史料から当時の言葉が大体分かっています。
堅苦しい武家言葉
江戸時代に武士たちの使って居たものを武家言葉と言います。時代劇などで使われているので耳にすれば大体意味が分かります。感謝の意を表す場合の「かたじけない」、可愛い奴という意味で「うい奴」、お前はと云う意味で「うぬは」、いらっしゃるという意味で「おなり(である)」等がありました。武家の言葉は堅苦しく形式ばったもの言いが特徴的です。
柔らかい江戸言葉としては、江戸時代から今でも残っているので耳にした事がある人も多いのが、江戸言葉・所謂「べらんめえ調」の話し方です。町人の間で使われた言語ですが、職人の使うものと商人の使うものとは異なっていました。「ヒ」と「シ」を入れ替えて発音するのが特徴で、東を「シガシ」「質屋」を「ヒチヤ」と読みます。「潮干狩り」は「ヒオシガリ」と読み、それが訛って「ヒヨシガリ」となりました。
かなり乱れた言葉づかいをしていたので、意味不明!?
現代の江戸言葉は大体理解出来るものですが、江戸時代に実際に使われていた表現の中には現代人では意味をとれ無いものもあります。「浮世風呂」に描かれている女性たちの会話では「こうこう、おめえ、ゆうべは大酒屋か」「ああ、おめえは」「あれが口っぱたきなら、そっちは尻っぱたきだ」と云う遣り取りがあります。女性も相手に対して「お前(おめえ)」と使っていたようです。
「傾城買四十八手」に描かれている吉原の場面では「てめえ、もってきたなあなんだ。うめえものならくれろえ」「さあくいなんし」「おきやあがれ。温石か、おらあまた餅かとおもった」と云う遣り取りがあります。何となく分かるようで分かり難い会話ですが「持っているのはなんですか、おいしいものならくださいな」「さあどうぞ」「なんだ、温石(石を熱して布に包んだ暖房器具)か、餅かと思ったのに」と云う内容です。現代の表現とはかなり雰囲気が違います。
出身を隠す為に生まれた「ありんす」
吉原などの高級遊郭では、独特の言葉「ありんす」が使われていました。これは、地方から買われて来た女郎たちが方言によって客に出身地を知られ、田舎の話をする事で「里心」を起こさせ無い様にする為だったと言われています。「です」「あります」の代わりに「ありんす」を使うなど独特の言い回しですが、次第に洗練され優美な表現として定着しました。
時代劇では綺麗な現代的な表現に変えている!?
江戸時代の口語を忠実に再現してドラマや映画を作ると視聴者には意味が分かりません。その為、テレビ番組などでは、現代人が聞いても理解できる程度に綺麗に直してあります。使われてる通りの言葉使いをして居たわけではありません。上で紹介したような言葉でドラマ化しても、殆どの人はぽかんとしてしまうのではないでしょうか。
・江戸時代の代表的な文化と特徴についての豆知識
江戸時代の文化は、ある意味町民が発展させた庶民の文化とも言えます。中世に流行した仏教芸術のような高尚なものはありませんし、古今和歌集などに代表されるような和歌文化や枕草子や源氏物語などのような文芸文化においても、江戸時代の作品は大衆的なものが多く見受けられます。しかし、逆の観方をすれば、一部の貴族階級の間にしか浸透していなかった文化芸術が、一般庶民の間にも広がりすそ野の広い発展をしたと見ることも出来るでしょう。
演芸においても能や狂言のようなものから発展し、浄瑠璃や歌舞伎などの判り易く楽しいものが登場しています。
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大衆に広がった文化
江戸時代にはそれ以前の時代とは比べ物になら無いほどに文化が一般の人々に受け入れられました。芝居見物や相撲見物も町人たちが楽しめる程度の料金で見られるように為りましたし、役者や力士・遊女を描いた浮世絵版画(今で言えば、プロマイド写真)も、庶民的な値段で買えるようになりました。勿論全ての人が、こうした文化に触れられる程に豊かであった訳ではありませんが、少なくとも江戸に暮らす町人たちはチャンスを得ることが出来たのです。
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身分を超えた交流がありました
江戸時代は、士農工商の身分制度が確立し封建的な上下関係が厳しかったのですが、それでも大衆文化においてはそうした格差は意識されていなかった様です。大名が身をやつして町人の芝居を見に出かけ、身分の低い儒者の処に弟子入りして教えを乞うと言う様な事もありました。学術や芸術の世界では、社会的な身分は無視され実力で勝負出来る土俵があったのです。
庶民的文化の繁栄を世の乱れとして幕府は取り締まった!?
大衆的文化の流行は治世者に取っては「好ましく無いもの」とされ、しばしば幕府によって取り締まりや禁止令が発令されました。現代で言えば、アダルトビデオを取り締まったり風俗店の営業を規制したりするようなものだったのでしょう。
しかし、このような取り締まりは殆ど効果が無く、一旦は鳴りを潜めるものの直ぐにまた流行を繰り返したようです。それだけ、江戸時代はエネルギーが溢れていたのでしょう。
錦絵の流行
江戸時代には錦絵と呼ばれる大衆的な版画が流行りました。初期の頃には墨一色の白黒でしたが、次第に色を重ねるようになり人気を集めました。歌舞伎役者や力士などの錦絵は飛ぶように売れ、現代のアイドルのような扱いをされました。又「江戸買物独案内」など、江戸の名店を網羅したショッピングガイドのようなチラシも刷られ広告・マーケティングも発展しました。
大衆小説も流行りました
「東海道中膝栗毛」の十返舎一九「南総里見八犬伝」の滝沢馬琴「浮世床」の式亭三馬「好色一代男」の井原西鶴など、親しみ安い大衆的な文芸が登場し大人気となりました。
江戸の女子たちは習い事好き
踊りや三味線、生け花や茶道、義太夫、小唄や長唄、川柳や狂歌など、様々な大衆芸能の教室が登場し武家の奥方から町人の娘まで様々な階層が習い事に通いました。江戸時代のこうした各種文化は社交場としての銭湯で情報交換されて居た様です。各家庭に風呂の無い時代、殆どの人が銭湯通いをしていましたが、洗い場で互いの背中を流しながら「流行」について語りあったそうです。
・江戸時代の識字率は世界でも断トツに高かった!? /span>
江戸時代の鎖国政策などにより、我が国は世界的な産業革命に大きく後れを取りました。 しかし、明治の富国強兵によって瞬く間に世界に追い着き、経済力でも西欧諸国に肩を並べ軍事力の面でも清やロシアに勝利するほどの力を着けました。それは日本人の勤勉で実直な努力の賜物でもありますが、江戸時代においても絶対的な学力が極めて高く識字率は世界で最も高かったことも大きな要因です。
江戸時代においては多くの子供が学校に通い「読み書きそろばん」と言われる基本的な学力を身に着けて居ました。貧しい町人の子ですら文字が読め、中国や朝鮮は勿論、イギリスやロシアなどに比べても識字率では大きく上回っていたのです。
幕末の頃の識字率はなんと7割〜9割
識字率について厳密な調査がある訳で無く、実際にどの程度であったのかは推測するしかありません。 どの国どの時代においても初等教育で最初に教えるのは「文字」です。文章の読み書きが出来なければ書物を使って学習する事が出来ません。それ故、就学率が識字率の一定の判断材料となります。
江戸時代後期の我が国においては、江戸の就学率は70%〜86%程度だったとされていますので、少なくとも識字率はそれ以上だったと考えられます。
イギリスの大工業都市では20%〜25%に過ぎなかった
同じ時代のイギリスでは、大都市でも就学率は25%以下であり識字率は極めて低かったとされます。産業革命によって世界の工場と呼ばれるようになり最盛期を迎えた時代においてすら、下層階級の子どもの多くは文字を読む事が出来ず識字率は1割程度だったと言われています。
フランスでは殆ど学校に通って居なかった!?
我が国が江戸時代だった頃、1794年にフランスでは初等教育の無料化が実施されました。しかし、それでも10代の就学率は僅か1.4%と極めて低く識字率も高まりませんでした。勿論、富裕層の子弟は学校に通わず家庭教師によって教えられていたという事情もあります。しかし、そうした教育を受けられるのは極一部に過ぎず、国全体の識字率は我が国とは比べ物にならない程に低かったのです。
武士で文字の読み書きができない者は居なかった
江戸時代の政治・行政の担い手であった武士階級は、現代で言えば公務員に当たります。職務において「書類」は欠かせません。戦国時代から江戸時代初期までは「武力」が重要視されましたが、太平の世が長く続くと次第に「学力」重視に変わって行きます。必要な能力が学問によって得られるように為り、武士に取って学校に通う事は剣術を磨くこと以上に重要に為っていったのです。当然のことながら江戸時代の武士たちの識字率は100%でした。
ニコライ堂のニコライも驚いた!?
江戸時代の末期に我が国を訪れたロシア正教の宣教師ニコライは、8年間の滞在後ロシアに戻り手記を記しています。その中で、国民全体に教育が行き届いていることや、孔子(論語)のような高度なものを、知識階級は暗唱出来るほどに、又身分の低い者ですらかなり詳しく知っていることに驚いています。江戸時代の我が国においては、世界で類を見無いほどに教育が行き届き、識字率においてはダントツに世界一だったと考えられます。それが、文明開化の時代に花開き、今日のような世界トップクラスの経済力の国家へと結びついているのです。
・江戸時代のお医者さんは誰でも為れて資格試験も無し
江戸時代においても医者は現代と同じように尊敬される職業で、幕府や藩によって様々な特典も与えられていました。当時は漢方医学が中心で、18世紀の後半以降はオランダから伝わった欄方医学が少しずつ流行し始めます。とは言え、町医者の殆どが漢方医学しか知ら無い為手術を行う事も無く、治療は脈を取って薬を処方することでした。
誰でも医者に為れた
江戸時代には身分制度が厳しかった為に自由に職業選択は出来ませんでしたが、医者に限っては誰でも為ることが許されていました。それだけ、医術が尊重されていたのでしょう。貧しい町人の子供でも、ある程度頭の良い子であれば取り立てられることもあったのです。
医者に為ればカゴに乗れた
医師は特別な身分であり、通常は上級の武士にしか許され無かった「カゴ」に乗ることが許されていました。江戸戸時代の診察は往診が殆どでしたのでカゴに乗って診に行く訳ですが、その代金は診察料に上乗せすることになり患者負担でした。
医師には資格が無かった!?
現代では、医者に為る為には医学部を卒業した上で国家試験にパスしなければなりません。しかし、江戸時代にはそんな資格制度はありませんでした。特定の職業につくのに試験を受ける事は無かったのです。誰にでも医者の門戸は開かれており、おまけに資格試験が無いという事で、目先の利く町人が「医者になろう」と思うのは当然のことだったしょう。
江戸には沢山の医者が居た
誰でも比較的容易に医者に為れた為、次々と志願する人が現れました。その為江戸時代後期の1820年頃には江戸の街だけで2500名程の医師がおり、人口400〜500人に1人は居るという過密振りとなりました。しかし、無試験で為れてしまう為に「無学にして医師と為り」と云う人も居て、ヤブ医者も少なく無かったようです。
治療費は全額個人負担
江戸時代には健康保険制度などありません。診察費用は全て自分で支払わなければなりませんでした。その為、貧しい人々の中には病気になっても医者に罹る事の出来ない人も少なくはなく、社会問題化して行きました。
貧しい人達の為に公共病院も設立された!?
1722年(享保7年)に江戸時代初の公共病院が設立されました。それが小石川療養所です。市中に設けられていた「目安箱」に入れられた町人からの投書が切っ掛けだったと言われます。そこでは、極貧の患者向けに無料で治療が施されました。入院収容人数は117人と定められており、明治の初めまで続く診療所となります。只、当初は貧しい人たちの救済の場だったものの、次第に不十分な治療が為されたり不正行為が横行したりして、入所を希望する町人の数は減って行ってしまいました。
はやり病もあった!?
江戸時代には「江戸わずらい」という病気が江戸にだけ流行しました。患者は特に、地方から江戸に出て来た奉公人などに多かったそうです。実は、精白米ばかり食べた為にビタミンB1が不足して脚気に為ったのですが、当時はビタミンと脚気との因果関係など知られている筈もなく「奇病」として扱われて居ました。何故か江戸を去り地方に戻ると治ってしまうという「不思議な病気」とされていたのです。
・江戸時代のお風呂は混浴だったって本当!?
江戸時代は銭湯の全盛期だったとも言えます。江戸時代の始まる少し前、徳川家康が江戸に入った翌年の1591年に最初の銭湯が出来ました。当初の入浴料は1文だったと言われますので、現代の価値にして数十円ほどだったようです。当時の風呂は混浴で、現代のように湯船に入るものでは無く蒸し風呂です。現代風にいえばミストサウナのようなものです。未だ湯を沸かして漬かると言う様な習慣は、殆どありませんでした。
時代と共に木の桶に湯を張ってお湯に漬かる形式の銭湯が登場し、次第にそれが主流となっていきます。お湯を張るには大量の水を沸かさなければなりません。男湯と女湯とを分ければ、お湯も余計に必要です。銭湯経営者にとっては、ひとつの風呂に男も女も入れてしまえば経済的です。その為、入り口は男女別々なのに、湯船は男も女も一緒と云う混浴がとても多く為りました。
江戸で風呂屋が栄えたのは?
江戸は、人口が多いのに対して水道が十分整っていなかった為に慢性的な水不足状態でした。又、都市部の物価高の影響で薪代も高いと云う事情があり、町人が家に風呂を持つと云う事は出来ませんでした。更に火事が多く「火を使わない」ことが重要でしたので、裕福な商人たちの中にも自宅に風呂を作らず銭湯に通う人もいました。普通の宿屋にも風呂は無く、宿泊客も銭湯に行くしかありません。
そんな事情から江戸では銭湯が大繁盛でした。風が強くてホコリが立つ為に、毎日風呂に入る必要もありました。朝夕2回入るという人も少なくは無く、江戸時代後期の1800年代初めの江戸には600軒もの風呂屋があったそうです。
混浴の蒸し風呂ではちゃんと裸を隠していた!?
江戸時代の前期までは蒸し風呂しかありませんでした。蒸気の中で身体を洗い温めたのです。当時の蒸し風呂は男女混浴が当たり前でしたが、素っ裸で入ると云うことは無かったようです。男性はふんどしを絞めたまま、女性は湯文字(腰巻)を着けて入ります。
混浴ですので、お互いに多少は隠そうと云う事だったのでしょう。只、女性の着けていたのは下着のようなものです。胸は肌蹴ていましたし、パンティの無い時代ですので腰の周りに布を巻いて居るだけです。その為、屡々「事故」も起こってしまったようです。
次第に素っ裸で入るように為った!?
江戸時代初期の蒸し風呂の頃には、男女とも陰部を隠す為下着を履いたまま入るのが普通でしたが、次第に何も着けずに入るようになります。恐らく、お湯を張った湯船に漬かるのが普通に為ったことと関係があるでしょう。
下着を着けたまま湯に入れば湯が汚れますので、フンドシや湯文字を取って入るようにと銭湯経営者が指導したのかも知れません。こうして混浴の風呂に男女が裸で入浴するように為りました。
いかがわしいことも起こった!?
男女が裸で入浴して居れば、欲情する人が居ても不思議ではありません。実際、混浴の風呂では性行為に及ぶものも少なからず居た様です。そうした風紀の乱れを危惧した幕府は、1791年(寛政3年)寛政の改革の中で混浴を禁止する旨のお触れを出しました。
混浴では無くなっても、未だ混浴だった
混浴が禁止されると、銭湯経営者は一日置きに男性の日、女性の日と分けて入浴させるようになりました。
しかし、それでは客が少なく為る為、湯船の上に板をはり、男女別々にして営業するように為ります。一応仕切りがある為混浴ではありませんが、区切られているのは湯の上だけ。浴槽内には仕切りが無い為、覗くのは簡単でした。結局、江戸時代を通じて混浴文化はずっと続いて居たのです。
・江戸時代のお風呂は庶民の社交場的なサロンでした
江戸っ子はお風呂が大好きな人たちでした。 江戸時代の初期には新しい街づくりが始まり、全国から土木・建設作業員が上京しましたが、働いた後の土やほこりにまみれた身体を綺麗にする為に風呂が欠かせなかったのです。その為、銭湯が急発達し、江戸の町中に幾つもの湯屋が出来ました。
朝晩2回入るという程の風呂好きは珍しく無く、銭湯は何時も流行っていました。そうした混雑を避ける為に、八丁堀の旦那方(与力や同心たち)は早朝に女湯に入る事もあったそうです。
男湯にだけ2階があった!?
江戸時代には自宅に風呂の無いのが普通でした。武士や裕福な商人たちですら銭湯通いをして居ました。
武士たちは銭湯に来る時にも刀を身に着けているため、入る前に刀をとらなければなりません。刀を置く場所が必要だった為、男湯にだけは2階に座敷が設けられていました。 只、混雑する銭湯の場合、空いている早朝に来て女湯に入る旦那衆が居た為に、女湯にも刀置場が設置されているところもありました。
刀置場はサロンに為った!?
元々は武士の為の刀置場として作られた2階のお座敷は、次第に用途が変化して行きます。銭湯が副業として2階席を活用するように為ったのです。囲碁や将棋、読み物を置いたりして武士に限らず誰もが楽しめるサロンにして、お茶やお菓子・酒などを供するようになりました。風呂の2階は入浴客の休憩所として流行りはじめ、身分に関係無く人々が歓談し楽しめるサロンに為っていきました。江戸時代の銭湯は身分に関係なく老若男女が集まる場所でしたので、職業や貧富の別無くまさに「裸の付き合い」の出来る場として栄えます。
江戸時代の人たちにとっては、風呂場は大切なコミュニケーションの場に為りました。
銭湯の料金は100円〜200円くらい!?
最初に江戸に銭湯が出来たのは1591年の事です。銭瓶橋(現在の千代田区大手町)の畔に伊勢出身の与一と云う人が開業しました。当時の入浴料は1文だったそうですが、寛永年間(1650年頃)には6文になり、寛政年間(1800年頃)には10文に為っています。当時の貨幣価値を現代に置き替えるのは難しいですが、1文を20円として、120円〜200円程度だったのでしょう。
夜のお風呂は真っ暗闇!?
現代でこそ風呂に入るのは夜と大体決まって居ますが、江戸時代には電灯がありません。提灯などの明かりはあったものの、遅い時間帯は真っ暗闇に近かったと考えられます。湯船に入る際に人の頭を踏み着けてしまったりブツカッタリと云う事が起こり得る為、掛け声を掛けて入っていました。
式亭三馬の「浮世風呂」にも「田舎者で御座います。冷物で御座い、御免為さいと言い、或いはお早い、お先へと述べ、或いはお静かに、おゆるり等という類、即ち礼なり」とあります。声を掛けて湯船に入るのがマナーだったのです。
マイ風呂桶もあった!?
風呂で他人と桶を共用するのは嫌だと云う人も居るでしょう。 江戸時代にもそう云う人は居ました。そこで、風呂には「留桶」(とめおけ)と云うシステムがあり、自分の名前を書いた専用の桶をキープして置くことも出来ました。殆どの女性が留桶を持って居たそうです。
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・江戸時代の人はどのように避妊していたのでしょうか?
人類の歴史の中で、「避妊」と云うのは大きなテーマでした。高度な避妊法が確立されている現代においても、若い男女が十分な知識の無いまま性行為をし望ま無い妊娠をしてしまうと云うケースは少なくないようです。 妊娠についての科学的な知識の乏しかった江戸時代には、迷信に近い方法も含めかなり幼稚な方法がとられていました。
江戸時代の性に関する倫理観は、現代以上に緩やかなものだったと言われ「処女を守る」と言う様なお堅い感覚を持って居る女性は少なかった様です。その為、簡単に性行為に及び、結果としてかなり高い確率で妊娠をし中には中絶をせざるを得ないケースも多々あったようです。又、江戸時代には売春が合法的に認められて居ましたので、遊郭などの遊女・女郎たちに取っては避妊法はとても重要視されており、色んな手段がとられていました。
兎に角洗えば何とかなる!?
現代でもこの方法を取っているカップルが居る様ですが、膣内に入った精子を洗い流せば妊娠しないと考えられて居ました。実際には膣内で射精された精子は直ぐに子宮内に泳いで行ってしまいますので、行為の後で幾ら洗浄しても間に合う事は滅多にありません。戸時代にはそうした知識無かった為、兎に角遊女たちは洗って居たのです。遊郭の浴室やトイレには洗浄用の場所が設けられて居ました。
この方法は一般の家庭でも取られており、子供を望ま無い夫婦や未婚のカップルは行為の後にマメに洗って居た様です。
コンドームもあるにはあった!?
男性用に「甲形」(かぶとがた)と云うべっ甲で作られた道具がありました。ペニスに装着してその内部で射精する装置ですが、べっ甲で出来ていたので装着感はとても悪く実用には向いていません。専ら「大人のおもちゃ」として遊女相手に活用されてた様です。その他、魚の浮き袋をコンドームの様に用いていたとも言われます。但し、強度が無い為、行為の最中に破れてしまうリスクはかなり高かったと思われます。
ペッサリーもあった!?
「詰め紙」と呼ばれる柔らかい紙を女性器の奥に丸めて挿入し、精子の侵入を防ぐと云う方法もとられていたようです。「揚げ底」(あげぞこ)とも呼ばれて居ましたが、吉野産の「吉野紙」と云う上質紙が人気でした。精子の侵入を防ぐと云う意味では一定の効果はあったと考えられますが、妊娠を確実に回避出来るほどの確実性はありません。
避妊薬もあった!?
「朔日丸」(ついたちがん)と云う避妊薬があり、毎月一日に飲むと妊娠し無いとされていました。 江戸時代後期に流行った薬ですが、全く効能は無く殆どサギに近いものだったと考えられます。
お灸で避妊できる!?
江戸時代には、2月2日におへその下にお灸を据えると妊娠しないと云う、マコトシヤカナ説が信じられており、遊郭・女郎屋等では、毎年この日に為ると皆でお灸をしていたと伝えられています。恐らく、効果は全く無かったであろうと考えられます。
因みに、江戸時代には結婚は親が決めるものでしたので、激しい恋の末に結ばれるという事は殆どありませんでした。それでも「恋」は存在し、若い男女は倉庫の裏や神社の境内にある林の陰・川沿いに停めた小舟の中等で性行為に及んだそうです。そういう場所での性交では、上で紹介した洗浄法すら使えません。殆ど避妊無しの状態だった為、中絶に至る場合も多かったそうです。
・侍たちの一寸意外な面白おかしい生き様記事一覧
江戸のお侍さんは意外にも貧乏でした〜内職をするのは当たり前
江戸のお侍さんと言えば身分が高くそれなりの優雅な生活をして居たと思われますが、下級武士たちになるとその生活はかなり質素なものでした。多くの下級武士たちは内職をして生活の足しにしていたのです。内職というと貧乏臭いイメージがありますが、江戸の彼らはどのような内職をして居たのでしょうか?
最下級武士の年収は何と37万5千円!?
時代劇などで、下級武士に対して「このドサンピン」等と云うセリフを吐くシーンが好く見られます。実はこの「ドサンピン」と云う言葉は、当時の最下級武士の1年間の給料が「三両一人扶持」だった事に由来しています。詰り「三両」のサンと「一人扶持」の一、即ちピンを合わせて「ドサンピン」と云う訳です。
1両の貨幣価値を現代に置き換えるのはなかなか難しいのですが、当時の物の値段から換算するとおよそ10万円程度と考えられます。そして「一人扶持」と云うのは米五俵の事です。詰り、当時の最下級武士の給料は1年間で僅か30万円ほどの現金と五俵のお米だったと云うことに為ります。
お米の値段を現代の貨幣価値に換算すると、お米一俵は1万5千円ほどです。という事は五俵だと7万5千円ほどと云うことに為ります。現金で頂く三両と合わせて、およそ37万5千円が彼らの年収ということに為ります。月収では無く飽く迄年収です。現代のサラリーマンの平均年収の10分の1以下です。
お侍さんたちが行っていた意外な内職の数々
流石にこれだけの給料で生活していくのは実質的に不可能で、当時の多くの下級武士たちは「内職」をしていました。当時、百石以下の下級武士たちは内職をする事を許されていたのです。彼らの行っていた内職には様々なものがありました。金魚や鈴虫、コオロギなどの養殖から、傘張りや提灯、凧などを作る仕事、或いは朝顔やツツジの栽培などありとあらゆる仕事を行って居ました。
特に傘張りは時代劇などでそのシーンを見かけることが多いので、武士の内職と云うと傘張りを思い浮かべる人も多いことでしょう。このように彼らは様々な仕事を行っていましたが、それらの仕事は地域によって盛んな場所があり、代々木の鈴虫・コオロギ、下青山の傘張り等が有名です。
明治以降の名物である「入谷の朝顔市」も、元を辿れば武士たちの朝顔栽培の内職から来て居る訳です。しかし、彼らには仮にも武士としてのプライドがある為に内職で作ったものを商人の屋敷まで売りに行く事をしませんでした。それらを卸問屋まで持って行って換金するのは、武家地の辻番の番人が副業として行っていました。武士たるもの、いかに懐事情が寂しくても商人に頭を下げる訳に行か無かったのでしょう。
旗本でさえも決して豊かでは無かった懐事情
こうした内職が許されたのは百石以下の下級武士だけだったのですが、実は下級旗本なども決して懐が暖かかった訳では無い様です。そこで彼らは三味線や踊りなどの腕を磨いて、高級旗本などが催す宴会でそれらを披露して「おひねり」を頂くと言う様な事をしていたようです。
高級武士である旗本が、芸人まがいのことをしてお金を稼いでいたと云うのは驚きです。江戸時代では、農民ばかりが貧しい生活をして居たようなイメージがありますが、実は武士たちの生活も決して楽では無かったのです。
江戸時代は農民でもお金を払えば武士に為れたッテ本当?江戸時代は
ある程度の年齢の方は、江戸時代の人々は士農工商と云う四つの身分に分けられていたと学校で教わった記憶があると思います。しかし、現代ではそれらは学説的に否定されており、学校の教科書からも「士農工商」の項目は削除されて居ます。
とは言え、江戸時代の職業が世襲制であった事には変わり無く、余程の事が無ければ武士の子は一生武士、農民の子は一生農民であった訳です。ましてや、農民が武士に為る等ということはあり得ないと一般には思われています。しかし、驚くべきことに世襲制である筈の武士の身分を農民がお金で買う事が出来たのです。
武士に為る為の料金表が存在しました
特に江戸後期に為ると、お金を出して武士の身分を得る人が多かったようです。それだけ武士と云う身分に憧れる人が多かったのでしょう。これらのお金で武士の身分を買った人々は「金上侍」と呼ばれました。驚くべきことに、藩によっては武士に為る為の料金を表にして居た所もあるようです。武士に為る為の料金表があるなんて信じ難いことですが、事実です。例えば独眼竜伊達政宗で有名な仙台藩などは次のような料金体系に為っていました。
「百姓に帯刀を許す」のに必要な料金は50両「百姓に苗字を許す」のに必要な料金は100両「百姓が武士の戸籍に入るのを許す」のに必要な料金は250両。
詰り、現代の貨幣価値に直して、およそ2500万円程度のお金を積めば百姓から晴れて武士に為る事が出来たと云う事です。しかし、余程の豪農でも無ければおいそれと百姓が出せる金額ではありません。矢張り、武士に為るにはそれなりに敷居は高かったと言えるでしょう。料金が余りに高く希望者が少無かった為か、後にこれらの料金は半額にされた様です。半額に為ったとはいえ高額である事には変わり無く、武士と云う身分を得るにはそれだけの価値があると仙台藩では考えられていたのでしょう。
格安料金で武士に為れた盛岡藩
この様に仙台藩で武士の資格を得るには、それなりの金銭的に高いハードルがあったのですが、同じく東北の盛岡藩の場合は仙台藩に比べるとかなり格安でした。40両から50両で武士の身分を買う事が出来た様です。
現代の貨幣価値に直すと、400万円から500万円程度と為りますので、仙台藩の料金と比べると大分割安感はありますし現実的な気がします。仙台藩が現代で言えば家1件分の料金なのに対して、盛岡藩は高級車1台分と言った処でしょうか。
仙台藩と比べて大分割安だった盛岡藩の料金ですが、それでも余り希望者は居なかったようで、後にこの料金は3分の1に下げられたようです。130万円から170万円程度で武士の身分が買えてしまうと云うのは、何とも驚きです。何処の藩も財政事情が厳しかったのでしょうか、武士の身分をお金で売って居たという事実にも驚かされますが、それが最後は投げ売り状態だったと云う事に少なからぬ哀れみさえ感じてしまいます。
侍たちは週休5日が当たり前だった!?
現代の日本では週休2日が当たり前と為っていますが、昭和の時代には休みは週休1日が一般的でしたし、世界的にも日本人は勤勉であると言われ続けて来ました。しかし、そんな多忙な現代人に取っては何とも羨ましい限りですが、江戸時代の武士たちの中には何と週休5日でのんびり勤務の人も大勢居たのです。
週休5日という事は、即ち1週間で経った2日しか仕事をし無かったということに為ります。当時の侍たちが、いかにタップリとプライベートな時間を持っていたかが容易に想像できるかと思います。
「三日勤め」や「六日勤め」と 言った勤務形態
江戸城の護衛や雑務に従事する御家人たちは「三日勤め」と云う勤務形態に為っていました。「三日勤め」というのは、当番一日に対して非番が二日のサイクルで公務を行うものです。しかも、当番の日も朝番・夕番・不寝番の三交代制でした。事務職の役人であっても、三交代こそありませんが二日出勤すれば1日の休暇が与えられました。
幕末には、本丸に月に1日勤め、その他の勤番が五日という「六日勤め」という番方もあったようです。この場合ですと、まさに週休五日の計算になります。このように、江戸の下級武士たちには毎月20日前後の休暇があったことに為り彼らにはタップリと余暇がありました。
休暇が多いのは内職をすることが前提に為っていたから
彼らに何故それほどの休暇が与えられたのでしょうか?実は、下級武士の多くは非番の日の多くを内職に当てていたのです。当時の最下級武士たちの1年間の給料は「三両一人扶持」でした。「三両一人扶持」とは詰り、現金三両とお米5俵と云う事です。現代の貨幣価値に直せば、40万円弱と言った処でしょう。要するに年収が40万円弱と云う事に為ります。これだけでは流石に生活出来ないので彼らは内職に励んだのです。
武士の内職というと傘張りを思い浮かべる人も多いと思いますが、それ以外にも鈴虫やコオロギの養殖をしたり、房楊枝を作ったり、提灯や凧を作ったりと様々な内職が行われて居た様です。そういったことを考えてみますと、「三両一人扶持」の最下級武士たちに取っては、勤番の日よりも寧ろ休暇の日の方が大変だったのかも知れません。武士という華やかな身分とは裏腹に、そういった苦労もあった訳です。
湯屋でのんびりと余暇を過ごす武士もいました
一方で、同じ武士でもある程度の収入があった中級以上の幕臣とも為れば、内職に日々追われるという事もなく有り余る余暇を武芸などの習い事や趣味、学問などに有効に使って居た様です。一方、余暇のある江戸勤番の下級武士たちにとっての一番の暇つぶしは、神社を参詣しながらの江戸見物でした。観光の合間に湯屋の2階でゴロゴロしたり、安い蕎麦をたしなんだりするのが彼らの密かな楽しみだったようです。
本来であれば、武士が湯屋に通うことは許され無かったのですが、実際には湯屋は下級武士にとって暇つぶしの定番の場所だったようです。現代人でいえば、健康ランドでのんびりと疲れを癒すようなイメージでしょうか。なんとも羨ましい限りですね。
武士は食わねど高楊枝は本当?〜質素だったサムライたちの食事事情
武士は食わねど高楊枝は本当?〜質素だったサムライたちの食事事情身分の高い武士たちは、さぞや美味しいものを食べていたのではないかと思われ勝ちですが、実際には江戸の武士たちは贅沢をすることを禁じられており食事は意外にも質素なものでした。
ある武士の日記には日々の食事メニューが克明に残されており、当時の武士ある日には、朝昼晩全ての食事が「お茶漬け」等という日もあったようです。ここでは、そんな江戸の武士たちの慎ましい食事事情について紹介してみます。
将軍の側用人でさえも食事は質素なものでした
食事が質素であったのは、薄給で生活が苦しかった下級武士ばかりではありません。将軍の側用人であった柳沢吉保でさえも、朝食が一汁三菜・夕食が一汁五菜の1日2食であったと言われています。元々江戸初期の頃は、戦国時代の名残から武士は朝と夕方の2食という形が一般的だったのです。
しかし元禄の頃になると、武士も町人も朝昼夕の3度の食事が一般的に為っていました。そんな中、幕府は武士たちが贅沢に走るのを抑えるため、享保9年に「御触」を出しました。その御触では、旗本などの上級武士の場合でも、結婚などの祝儀で二汁六菜、それ以下の会合では一汁四菜以下にせよと命じられていました。旗本でさえもその程度ですから、その御触に従えばずっと位の低い小身などは一汁三菜以下に為ってしまいます。それほど江戸の武士は質素に拘ったのです。
意外にも飲み食いに贅沢をしていた町人たち
因みに江戸には武士とほぼ同じ人数の町人が住んで居ましたが、質素な武士たちを尻目に彼らは貧しいながらも「食い倒れの江戸」と呼ばれる程飲み食いだけは贅沢をしていました。江戸には当時「八百善」や「百川」等という高級料亭がありましたが、そう言った場所には旗本たちや御家人は全く縁がありませんでした。
そう言った高級料亭の主なお客は、諸藩の留守居や豪商と言った懐事情の暖かい町人たちでした。
日記に残されたある武士の食事メニュー
当時の武士たちの質素な食事振りが日記として残されています。武蔵野国忍城下(現在の埼玉県行田市)に住んでいた尾崎準之助と云う十人扶持の武士が残した「石城日記」には、食事のメニューが記載されています。ある年の六月のメニューを紹介すると以下のような感じです。
六月十五日 朝食:なし 昼食:焼き貝 夕食:しじみ汁
六月十六日 朝食:つみいれ汁 昼食:豆腐 夕食:豆腐
六月十七日 朝食:ごぼう汁 昼食:ナス 夕食:鰹節 夜食:ゴボウ・ドジョウ・奴豆腐
六月十八日 朝食:なし 昼食:八杯豆腐 夕食:八杯豆腐
六月十九日 朝食:なし 昼食:なし 夜食:塩引きサケ・奴豆腐
六月二十日 朝食:茶漬け 昼食:茶漬け 夕食:茶漬け
六月二十一日 朝食:なし 昼食:なし 夕食:揚げ物・塩ナス 夜食:料理屋にて・玉子焼き・茶碗蒸 し・ウナギ・ナス甘煮・ほか1品
これを見ても、いかに武士たちの食事が質素だったかがおお分かりでしょう。一日三食ともお茶漬けの日があったりして、栄養バランス的にもあまりよさそうな食事ではありませんね。只、六月二十一日の夜食に見られる様に、時々は仲間達と小料理屋で飲み食いをすると云う、一寸した贅沢を味わって居た様です。武士は食わねど高楊枝とは言え、矢張り本音は贅沢をしたかったに違いありません。
岡っ引きに連れていかれる番所(自身番)は、本当は公民館だった!?
時代劇の捕り物帳などでお馴染みの「岡っ引き」が「御用、御用」犯人を捕まえて連れて行く所と言えば番所です。江戸の町で罪を犯すと番所に連れて行かれたのです。現代でいえば警察署の取り調べ質のようなイメージがあるかも知れませんが、実はこの実はこの番所は、普段は自由に町民たちが出入りできる公民館として利用されていたようです。
湯屋や床屋などと同じように町内の人に取っての一種の社交場だったのです。そこでは一体どの様なことが日常的に行われていたのでしょうか。
治安維持の為に町内会費で賄われた自身番
番所は正式名称を自身番と言い、各町内に簡易的な小屋を設置して家主や書役などが昼夜そこに詰めて町内の治安を守っていました。江戸の末期には1000か所近くあったと言われています。これ等に詰める番人たちは、夜回りをして不審人物を尋問する権利を与えられていたのです。自身番の設置費用や運営のための経費はすべて町内の人たちから集めた町入用と呼ばれる町内会費で賄われてしました。
江戸時代後期になると自身番に火の見櫓が設置されるようになり、建物の中には捕り物の道具だけではなく消防活動のための道具も置かれるようになりました。いざ火事が起こった時には自身番の番人が消火活動も行っていたようです。現代でいえば、交番と消防署が合体したようなイメージでしょうか。
普段から人の出入りの多い公民館のような所でした
自身番では、これらの捕り物や消火活動の他に、様々な願書などへの捺印や喧嘩の仲裁、更には捨て子や行き倒れの人を保護するといった様なことまで行っていました。そのため、自身番には普段からたくさんの人が出入りをしていたようです。もともと町内の人がお金を出し合って運営施設ですから出入りは基本的自由である為、ある意味公民館的な場所でもあった訳です。自身番の中で将棋を指したり本を読んだりするものも多く、町民たちの憩いの場として大いに利用されていたわけです。
もともと自身番は治安維持が目的であったために、例え夜であっても戸や障子を閉めてはいけない決まりでしたが、中には障子をしめ切って中で酒盛りを行うなどという不届き者もいたようです。こうなると、時代劇で岡っ引きにつれて行かれる怖い場所と云うイメージは全くありませんね。
必要に迫られて増築されていったが、その後....
ちなみに、この自身番の大きさはどの程度だったのでしょうか。元々は規格が決められており、間口が約2.7メートル・奥行きが3.6メートル・高さが4.8メートルというのが正式なサイズでした。様々なことが行われて居たわりには、サイズ的にはかなり小さな小屋といえると思います。
しかしその後、専任の番人がそこの居住することが出来る広さに2階建てなどに増築されることが多くなりました。増築によって広くなる事で、自身番は社交場として益々快適な場所となって行きました。そのため、天保の改革の際には次に自身番を改築するときには、元の規定通りの大きさに戻すようにとの厳命が下りました。
棄捐令で借金120万両を踏み倒した江戸の旗本や御家人
江戸時代において地位が高いとされていた武士ですが、下級武士たちの生活はかなりきびしいものでした。生活のために傘張りなどの内職をする下級武士も多かったようです。内職をするのは当たり前生活の苦しい武士たちは、「札差(ふださし)」と呼ばれる米の仲介人から、相当な額の借金をしていました。
そんな借金塗れの旗本や御家人たちの借金が、チャラに為ってしまうという事件が起こったのです。それが「棄捐令(きえんれい)」と呼ばれるものです。松平定信が寛政の改革の時に初めて発令した棄捐令では、何と120万両(1536億円)もの借金が棒引きに為ってしまったのです。これでは「札差」は堪ったものではありません。
何故旗本や御家人は借金まみれになったのか?
旗本や御家人たちの収入源は、夫々の家禄に応じて幕府から給料として年に三度支給されるお米です。これらの幕府から支給されるお米は「蔵取り米」と呼ばれていました。武士たちは、この「蔵取り米」中から自分たちで食べる分だけを残して、残りを米問屋に売却して現金に変えていた訳です。
しかし、江戸の町の物価が高騰して行く中でも、幕府から支給されるお米の量は変わりません。更に、農業の技術が進歩したことによりお米が沢山採れるように為ると徐々に米価が下がって行きました。支給されるお米の量は変わら無いのに、物価の上昇と米価の下落と云うダブルパンチのお陰で武士たちの生活はどんどん苦しく為っていった訳です。そんな生活に困窮した旗本や御家人たちは、札差への借金を重ねて行った訳です。
札差の本来の仕事とは?
札差の本来の仕事は、勿論旗本や御家人にお金を貸すことではありません。札差は、元々は武士たちが幕府から支給された蔵取り米を運搬する事で収入を得ていました。旗本や御家人が幕府から支給されたお米を現金に換えるには、米問屋まで運搬しなければなりません。それを代行するのが、本来の札差の仕事だった訳です。面倒なお米の運搬を武士たちの代わりに行って、「札差料」と呼ばれる手数料をいただいていたわけです。
又、運搬と同時に米問屋への売却も代行して行い、「売側(うりかわ)」と呼ばれる手数料も取っていました。詰り、この「札差料」と「売側」が本来の収入源だった訳です。しかし、武士たちの生活が苦しく為るにつれて、将来支給される予定の「蔵取り米」を担保にお金を貸すように為ったのです。そうして、札差は金融業者として徐々に力をつけていった訳です。利息は、当初年利で20%〜25%ほど取って居た様です。その後幕府によって、15%以下とするよう法定利息が決められました。
しかし、実際には15%を多少超える程度の利息を受け取る事が認められて居た様で、実際には年利18%程度になっていた様です。現代の銀行のなどの金利と比べるとかなり高く、消費者金融の金利とほぼ同じ位といって好いでしょう。元々生活の苦しかった武士たちが、そんな高利で借金を繰り返した訳ですから益々生活が苦しく為っていったのは当然です。中には4年先や5年先の蔵取り米まで担保に入れて借金するものも現れ、旗本や御家人の借金は膨らんで行く一方でした。
棄捐令で一度は救われた武士たちですが
武士たちの借金が膨らんで行くのを、見かねた幕府はとうとう禁じ手を使うことに為ります。武士たちが札差にしている借金の内、借り手から6年以上のものについては全てチャラにし、それ以降の分は利息を3分の1に減らすと云うものです。これが所謂「棄捐令」と呼ばれるものですが、札差が貸し付けたお金120万両が棒引きに為ってしまったと言われています。
現代で例えるならば、消費者金融から借り入れをして居る人の借金を、国がチャラにするようなものです。このような理不尽きわまり無い踏み倒しをされたのでは、札差たちも黙ってはいられません。それ以降は、武士たちからの借金の申込みを一切断るように為ってしまったのです。借金がチャラに為って、一時的には楽になった旗本や御家人たちですが、新たな借金ができなく為ってしまったことで再び生活が苦しくなりました。
生活に困った武士たちの中には、追剥(おいはぎ)や盗人になる人まで居たと言います。一時凌ぎの政策では、何も解決にならないという好い見本が「棄捐令」であると言えるでしょう。
今回は ここまで・
2018年05月02日
恥ずかしく無い国に・・・
徴用工像問題 その2
朝鮮人の強制連行・強制労働の問題を否定するレポートを随分と調べ上げました。が、どの反論する文章にも具体的資料が無く、間接的な言い回しや、そうあるべきだとする希望的推測のみで、参考と為るべく有力な指摘も数少無いのに驚いて居ます。
問題の根本は、戦争を遂行する労働力を確保する為に国内に総動員を掛け、次に当時植民地であった朝鮮・台湾へと広げざるを得無かった政府が関わったにも関わらず、そこへ強制性が加わった事で一遍に消極的な資料しか出せ無く為ったしまった・・・国家としての品性を問われるからでしょう。
と云う事で、全く奥歯にものが挟まった感じのレポートしか存在しませんでした。現在までの政府見解をトレースしその裏付けを強化出来る様なものは一切ありませんでした。そこで、今回否定する方の参考を取り辞め、又や肯定する方のレポートを一緒に見て行き結論を出したいと(遅過ぎるとは思いますが)。次へと進むには避けて通れ無い問題だと思います。
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『データで見る植民地朝鮮史』
朝鮮人労務者強制連行
〜生き証人が至る所に健在だった時分は決して語られ無かった「強制連行は無かった」説。数字と一次資料でハッキリさせて置きましょう〜
まとめ
@ 1939〜45年に掛けて、国家総動員法に基づく国民動員計画により、約72万人の朝鮮人労務者が日本本土等に送られた
A 最初の年だけは応募好調だったが、現地待遇の悪さが知れ渡る等して、強制無しに計画人数を動員する事が出来無く為った
B 強制動員の方法は夜襲・誘い出し等、誘拐と言える手段も用いられ、文字通りの強制連行であり様々な抵抗もあった
C 動員先は大半が炭鉱や土木工事現場で、劣悪な条件の所が多く、給料も満足に受け取れ無い事が多々あった
●当時の日本政府自身が強制と認めて居る
・先ずは実行当局の責任者の話
『国民動員計画に基く内地その他の地域に対する産業要員及び軍要員の送出又激増を来し、今日尚相当弾力性を有する半島の人力が我が国戦力増強上最大の鍵と為って居るのであります。(中略)
官庁斡旋労務供出の実情を検討するに、労務に応ずべき者の志望の有無を無視して漫然(まんぜん)と下部行政機関に供出数を割当て、下部行政機関も又概して強制供出を敢てし、かくして労働能率低下を招来しつつある欠陥は断じて是正せねば為りません』
これは1944年4月13日付の朝鮮総督府官報に載った政務総監(総督の次席に当たる高官)田中武雄の訓示。同時掲載の小磯総督訓示は行政機関が民を苦しめて居ると云う趣旨の厳しいお説教でした。事態は総督府トップが民草の眼前で組織を強く諌め無くては為ら無い程切羽詰った事態だったと。何れにしても、国民動員計画に係る官庁斡旋労務供出、所謂官斡旋は「概して強制供出」だった事が判る。
そして、訓示の3ヶ月後に朝鮮に派遣された内務省管理局嘱託の小暮泰用氏は、1944年7月31日の復命書(出張報告)にこう書いて居る。
『戦争に勝つ為にはかくの如き多少困難な事情にあっても国家の至上命令に依って無理にでも内地に送り出さ無ければ為ら無い今日である、然らば無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務舎の残留家庭の実情は果たして如何であらうか(中略)蓋(けだ)し朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的略奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼす悪影響もさる事乍ら、送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様である』
『徴用は別としてその他如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様な状態である。それはもし事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、その他各種の方策を講じて人質的略奪拉致の事例が多く為るのである、何故に事前に知らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼等を精神的に惹付ける何物も無かった事から生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪極まる事は往々にして彼等の身心を破壊する事のみならず残留家族の生活困難ないし破滅が屡々あったからである』
ここで更に、強制連行は全て当時の国民徴用令に依る「国民の義務」だったと云う見解も明快に否定される。ソモソモ強制連行は法的な徴用が実施される前から既に行われて居た。そして、この復命書が出され、追って徴用による動員が始まった直後の9月に開かれた第85回帝国議会への説明資料で、朝鮮総督府は「警察に於ける濃厚なる指導取締の裏付を為すにあらざれば所期の動員至難」と述べ、暴力装置の助けを借りた動員を継続する旨表明して居る。この様に、存在証明に充分な一次資料が残されて居る。ここではそれを、具体的数字を見ながら追って行きます。
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●何人、如何やって何処に送られたのか?
一連の動員は、国家総動員法に基づく国民動員計画に依って実施された(初期の名称は「労務動員計画」)。労働期間は当初、2年間を原則として居た。
上図はこの動員数に付いて、日本政府の内部文書に記載された数字。これ以外の動員として朝鮮域内の動員等があるが、所謂「朝鮮人強制連行」と言えば域外への労務者動員を指します。1943年度までの数字は、朝鮮総督府が第86回帝国議会(1944年12月〜翌3月)向けに作成した説明資料に記載の、「昭和十四年以降国民動員計画ニ基キ内地、樺太南洋ニ送出シタル状況」の数字です。
1944〜45年度は、大蔵省が1947年に非公表で取り纏めた「日本人の海外活動に関する歴史的調査」と云う文書が情報源です。
延べ72万人強が朝鮮から外に労務動員された。これとは別に、軍属など軍要員に動員された人も145,010人居る。朝鮮内での動員も官斡旋422,397人、道内動員延べ200万人超、他徴用等様々な形でありました(大蔵省、前掲、第10冊P71-72)。
送られた先を業種別で見ると下のグラフの様に為る。「工場その他」分が上積みされた1944年を除き、炭鉱、建設現場が圧倒的多数を占める。
★最初は募集の建前
最初の年(1939年)は朝鮮で旱魃(かんばつ)があり、応募が好調だったとされて居るが、翌年から早くも強制連行の事例が出て来ます。『朝鮮の鉱山に「斡旋」で遣って来た労働者の1940年中の「離散」の理由を調査した朝鮮総督府は、10.9%が強制募集と推定される事を認めて居た』 (外村大「朝鮮人強制連行」2012年、P77)。
この初期の遣り方は、事業者が職業紹介所を通じて募集を申請し朝鮮総督府の承認を得て自ら募集し職場まで連れて行くと云う建前だが、現地行政機関・警察が屡々(しばしば)協力した。この時期既に官憲の深い関与と強制色があった事を示す、受け入れ企業側のこんな文書が残って居る。
一、募集実務
・・・従って募集は募集取締規則に基く各社の募集者による募集と言う事に為って居るが、実務は前記事由により朝鮮官権に依って各道各郡各面に於て強制供出する手筈に為って居る 即ち警察に於て割当数を必ず集める 之を各社の募集従事者が詮衡する事に為って居る
一、供出半島人に就て
所轄警察署に於て思想堅実身元確実 身体強健にして成るべく国語を解する者を供出する
住友鉱業鞄熾博送ソ「半島人移入雇傭ニ関スル件」1939.9.22 朴慶植『戦時強制連行・労務管理政策(1)』1982年収録 P298-299より
★1年半で官斡旋に移行
1942年2月には「朝鮮人内地移入斡旋要綱」が出されます。所謂官斡旋の始まりで、これには 「職業紹介所及び府邑面は常に管内の労働事情の推移に留意精通し供出可能労務の所在及供出時期の緩急を考慮し、警察官憲・朝鮮労務協会・国民総力団体其の他関係機関と密接なる連絡を持し労務補導員と協力の上割当労務者の選定を了するものとする」と規定されました(外村、前掲書、P113:太字は引用者)。
職業紹介所は数が少なかったので、実行部隊は末端行政機関の府邑面(日本で言えば市町村)でした。割当人数分の応募が無ければ、村役場が選定せざるを得無い事に為り行政機関の関与が公的に明確に為る。この時期の官斡旋の実態が、当局の担当者によって語られて居る。東洋経済新報社が1943年11月に行った座談会で朝鮮総督府厚生局労務課の田原実が述べた発言を上述の外村氏著書が紹介して居るので、P144から引用します。(太字は引用者)
「この官斡旋の仕方ですが、朝鮮の職業紹介所は各道に一ヶ所位しか無く組織も陣容も極めて貧弱ですから、一般行政機関たる府・郡・島を第一線機関として労務者の取りまとめを遣って居ます。が、この取りまとめが非常に窮屈なので仕方無く半強制的に遣って居ます。
その為輸送途中に逃げたり、折角山〔鉱山〕に伴れて行っても逃走したり、或いは紛議を起す等と云う事例が非常に多く為って困ります。しかし、それかと云って徴用も今直ぐには出来無い事情にありますので、半強制的な供出は今後も強化して行かなければ為るまいと思って居ます」
冒頭に引用した「夜襲・誘出・その他各種の方策を講じて人質的略奪拉致」を「半」強制的と表現してますが、公開刊行物への掲載を考慮して表現を割り引いての発言でしょう。何れにせよ、募集に非常に難儀して居た事、強制的供出が常態化して居た事を少なくとも半分は公然と認めて居た。
この座談会の半年後に出たのが冒頭に紹介した「概して強制供出」の訓示で、「全く拉致同様の状態」の復命書が続きます。「出稼ぎに応募しただけ」と云う論外のデマであるかは充分に証明して居る。
★末期に為って徴用
国民徴用令に基づく徴用が労務者動員に適用されたのは1944年8月。徴用ですから必然的に強制に為るが、如何云う状況だったか、これも朝鮮総督府自身に語って貰います。1944年8月の第85回帝国議会に出された説明資料から引用します。戦前の例に洩れず文を区切ら無い読点も打た無い書き方で非常に読み辛いので、適宜整形して居ます。太字は引用者。
「最近一般徴用実施せられる旨発表せらるるや、一部知識階層並びに有産階級中には逸早く支那満州国方面に逃晦(とうかい)し、或いは住居を転々として当局の住居調査を至難為らしめ、或いは急遽徴用除外部門への就職を企て、一般階層に於ても医師を篭絡(ろうらく)、仮病入院し、又態々花柳病に羅染し疾患の故を以て免れんと企て、中には自己に於て肢体を傷け不具者と為り忌避せんとする者、
甚だしきに至りては、労務動員は邑面職員乃至警察官の専恣に因るものと曲断し、これを怨み、暴行脅迫の挙に出づる等の事案は実に枚挙に遑(いとま)無く、最近報告に接せる事犯のみにても二十数件を算する状況に在り
殊に先般忠清南道に発表せる送出督励に赴きたる警察官を殺害せる事犯の如きは克(かつ)く這間の動向を物語るものにて、特に最近注目すべきは、集団忌避ないし暴行行為にして慶尚北道慶山警察署に於て検挙せる不穏企図事件の如きは、徴用忌避の為、青壮年27名が決心隊なる団体を結成し、食料、竹槍、鎌などの武器を携行、山頂に立て籠もり、飽く迄目的貫徹を企図し居たるものにして先鋭化せる労働階層の動向の一端を窮知し得らるる所なり
如上の如き情況下に於ける今次の緊急大動員は、実に容易為らざる事に属し、此の際、警察に於ける濃厚なる指導取締の裏付を為すにあらざれば所期の動員至難なるのみならず、治安上に及ぼす影響また甚大なるものあるに鑑み、指導啓蒙を更に強化実施すると共に、労務動員を阻害するが如き事案に対しては、厳重取締為しつつあり」
この引用箇所は、徴用が強く拒絶されて居た事、「警察に於ける濃厚なる指導取締の裏付を為すにあらざれば所期の動員至難」である状況が判る。徴用は議論の余地無く強制。「国民の義務だったに過ぎ無い」等と吹聴する向きを見掛けるが、植民地化故に発生した「義務」ならそれは植民地化による被害なので何の弁解にも為って無い。日本の植民地にされ無ければ、この様な強制は受け無かったから。
●劣悪な待遇、給料の天引きに強制貯金
・特高月報に見る、強制連行された朝鮮人労務者の実情(1943-44年)
初年度は応募好調と言われた労務者動員が、何でアッと云う間に強制連行し無いと人手を確保出来無い事態に転落したのか?給料の支払が良く労働条件も宿舎も真面で、約束の2年経てば故郷に錦を飾れる様な話だったら、好評が好評を呼んで「半強制的な供出は今後もなほ強化」する必要など無い。
・当初からトラブル多発
動員先の企業によって待遇は様々だった筈なので、一律にこうだったと言う事は出来無いが、当初からトラブルの多かった事を示唆する数字はある。
『労務動員されて来た朝鮮人を受入れた事業場では労働争議や或いは「内鮮人争闘事件」と官憲が呼んだ日本人と朝鮮人の衝突事件が多発した。両者を「紛争議」として調査して居た特高警察によれば、その件数と参加人員数は1939年から1940年末までに於いて338件、23.338人を数える。参加人数は1940年末時点の「移入朝鮮人労働者」数の26.3%、詰り四人に一人が紛争議に関わって居た事に為る。
紛争議の原因は、@募集時の労働条件と実際の労働条件との相違A言語習慣の違いによる誤解B坑内作業を危険視しての忌避C安全対策や福利施設の設備要求等であると特高警察は纏めている。』(外村、前掲書、P65)
炭鉱の安全対策と言えば戦後頻発した炭鉱事故を思い出すが、動員2年目で早くも4人に1人以上が警察の記録に残るトラブルに至らざるを得無かった事は、自発的応募者ですら受忍出来無い労働環境が低く無い確率で当初から待ち受けて居た事を示して居る。
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・給与は天引きに強制預金、手に入ら無いケースも
冒頭でご紹介した内務省嘱託・小暮泰用氏の復命書に挙げられて居る事例を。太字は引用者。
「大邱府の斡旋に係る山口県下沖宇部炭鉱労務者967人に就て調査して見ると、一人平均月76円26銭の内、稼働先の諸支出月平均62円58銭を控除し、残額13円68銭が毎月一人当りの純収入にして、謂はば之が家族の生活費用に充てらるべきものである。
給料の内実に82%が何だかんだで天引きされ、18%しか手許に残ら無いと云うのです。斯の如く一人当りの月収入は極めて僅少にして、何人も現下の如き物価高の時に之にて残留家族が生活出来るとは考へられ無い事実であり、更に次の様なことに依って一層激化されるのである。
(イ)右の純収入の中から若干労務者自身の私的支出があること
(ロ)内地に於ける稼先地元の貯蓄目標達成と逃亡防止策としての、貯金の半強制的実施及び払出の事実上の禁止等があって、到底右金額の送金は不可能であること
(ハ)平均額が右の通りであって個別的には多寡の凹凸があり、中には病気等の為赤字収入の者もあること、而も収入の多い者と言えども其れは問題に為ら無い程の極めて僅少な送金額であること
以上の如く彼等としては、此の労務送出は家計収入の停止と為るのであり、況や作業中不具廃疾と為りて帰還せる場合に於ては、其の家庭に取っては更に一家の破滅とも為るのである。
斯して送出後の家計は如何なる形に於ても補はれ無い場合が多い、以上を要するに、送出は彼等家計収入の停止と為り、作業契約期間の更新等に依り長期に亘る時は破滅を招来する者が極めて多いのである、音信不通、突然なる死因不明の死亡電報等に至てはその家族に対して言う言葉を知ら無い程気の毒な状態である、然し彼等残留家族は家計と生活に苦しみ乍ら一日も早く帰還する事を待ち倦んで居る状態である。
軍方面の徴用者の中には克く家庭との通信、送金等があって残留家族にありても比較的安心し生活上にも左程不便を感ぜざるも、特に一般炭鉱並びに其の他会社等の関係に在りては右の如く送出後殆ど音信を絶ち、尚家庭より通信するも返信無く、半年乃至一年を経るも仕送金無きものもありて、其の残留家族、特に老父母や病妻等は生不如死の如き悲惨な状態であるのみ為らず、其の安否すら案じつつ不安感を有する者極めて多く、此の如きは当事者の家庭現状にのみ限らず今後朝鮮から労務者送出上大なる影響を与へるものとして憂慮に堪へ無いのである」
「法に基づく徴用だと国民徴用扶助規則に依って留守家族への援助も制度上あった様だが、徴用為らぬ強制連行ではその対象にも為りません。之等の事情に対する異論もある様で、即ち労務援護や労務協会の事や残留家族殊に婦人の積極的活動に依る収入の確保等があるでは無いかと、然し朝鮮の労務援護に就て云へば、左の如き二つの方法があるであろう、
其の一つは隣保相助を、之れも朝鮮の農民と労働者の大衆は未だ斯る良風美俗の実践者たる為には余りにも貧困過ぎる現状であり、其の二は労務協会の援護だが、之れも労務者一人当り5円を財源とする本会の実情は之の予算も現実的には宴会其の他の費用に充てられて居る現状である」
遅まきながら1944年9月には財団法人朝鮮勤労動員援護会が発足、官斡旋労務者を含め困窮する留守家庭を援護する事に。
「空襲に伴う通信の不円滑又は援護機関の末端不整頓の為、送金極めて円滑を欠き、政府に対する更に新しき不信の声となつて遂に終戦と夏田。」(大蔵省管理局編『日本人の海外活動に関する歴史的調査 第10冊』 P73)
「援護施策の不徹底と云う結果には、受給資格を有する者を含めてその制度が好く知られて居なかった事が関係した。…朝鮮に残って居たのは女性や老人であり、申請書類の作成の能力を持た無いケースが寧ろ多かった。…そして申請を行ったとしても受給決定迄には可成りの時間を要した…朝鮮勤労動員援護会会員、詰り動員された朝鮮人を雇用する企業側のサボタージュの問題もあった。…日本内地の企業からの補給の送金も、1945年3月末時点で予定額の10%程度に留まって居たと言われて居た」(外村、前掲書、P193-195)
と云う有様で、民草を救うに至りません。
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・その他、監獄部屋、暴行、飯が碌に出無い……
約束通りの真っ当な待遇をした企業も探せば在るかも知れ無いが、『動員された朝鮮人の証言でより多く語られるのは、矢張り暴力を伴う抑圧的な管理、労働するには十分とは言え無い食事、長時間労働の強要等である』(外村、前掲書、P159)。慰問演芸会を催す炭鉱もあった様だがそれ位は刑務所でもある。娯楽を提供する炭鉱は暴力や酷使が無いと云う事には為ら無い。
一方、上に挙げた話を素直に受け止めるなら、足った1年で強制連行が出始め、その後加速した事の説明が成り立つ。朝鮮人労務者が高待遇だったと言い張る向きが居るが、もう少し突っ込んでみよう。高待遇論者は例えばこんな感じ。「炭鉱現場、待遇の差無し」「徴用」記憶遺産、韓国は事実に基づく主張を 九州大・三輪教授 産経WEST 2015.9.30
行き成り《「町を歩いて居る者、田圃(たんぼ)で仕事をして居る者等手当たり次第、そのままトラックに乗せて日本に連れて来た」等と、徴用を担当したと云う労務係の証言を伝聞として掲載し「強制連行」のイメージを作った》と始まるが、上に見た通り総督府の政務総監など当局上層部も募集側人事担当も揃って、官斡旋の段階で既に「概して強制」「半強制」だったと認めて居る。
「韓国側は強制的に連れて行かれたと主張しますが、自ら日本に来た人も多い。何とも可笑しな話です」等と話がジャンプして居るのは、勉強不足で無ければ故意に無視して居る。(自己希望で来日した事実を誰も否定して居ない)
「(労働の)期間を定めて居る事自体、奴隷の様な強制連行では無かった事を示して居ます」と珍説を披露してるが、期間さえ定めれば強制連行で無いなら、それこそ強制連行でも奴隷労働でも「期間を定めて」遣り放題。と云う訳で、この記事こんな事も言って居る。
「財団法人労働科学研究所の『半島労務者勤労状況に関する調査報告』によれば、19年頃の九州での炭鉱の賃金は1日4〜8円。各種手当が付いて月収は150円、多い人で300円を稼ぐ人も居ました。大卒事務系の初任給は75円程度です。石炭採掘は確かに危険を伴い命を落とした人も多い。その分、厚遇されたのも事実です」
「赤池炭鉱(福岡県福智町)の採炭労働者1人当たりの平均日給は、内地人4・65円に対し、朝鮮半島出身者は4・64円でした」と言って居るから、朝鮮人鉱夫は 150÷4.64=月平均32.33日働いたと言って居る様で支離滅裂だが、一応確認しましょう。
産経記事が根拠にして居る労働科学研究所「半島労務者勤労状況に関する調査報告」(1943年5月)の記述がこれです。この他、平均値(朝鮮人)として炭鉱Aは月収69.9円、炭鉱Fは日給3.373円とある。炭鉱Dは異常値(収入が支出より大幅に低く、明らかに矛盾)で、何かありそうだが留保するとしても、平均で月150円行く様な水準で無かった事位は判る。内務省報告書にある宇部炭鉱の平均月76円26銭とも辻褄が合う水準。 この報告書には、支出に関するデータも載っている。収入を併せてデータが揃っている3つの炭鉱に付きグラフにしたのが下図。
寄宿舎費用の殆どを占めるのが食費で、何処も一日45〜-50銭前後で大きくは違いません。後は送金と貯蓄に回って居る。炭鉱Aは支出が収入を上回って居るが、春窮(はるきゅう)で実家が苦しい時分に手持ち現金からの送金額が大きく為ったなら有り得無い数字ではありません。
この内、送金は届か無かった例が少なからずあるのは内務省報告書にもある通り。大蔵省管理局が言う「送金が極めて不円滑」な状況も影響して居た事でしょう。又貯金に付いてもこれ迄見た通り、足止めの為に強制的に貯金させ、引出しを抑圧した挙句、戦後不払いと為り今に至るケースが多々指摘されて居る。
労働省が1950年に「帰国朝鮮人労働者に対する未払賃金債務等に関する調査」を全国的に行って居り、この結果として供託済み未払い賃金458万円、その他未払い金9.674万円、郵便貯金945万円等が把握されて居る(田中宏他『未解決の戦後補償』 2012年、P176-179。因みに現在の貨幣価値に直すと、後ろにゼロが幾つか付きます)。
更に、坑内保安、死傷者の発生状況及びこれへの手当て等、金銭為らざる待遇も併せて見るべきである事は勿論、そもそも待遇さえ弾めば強制連行して好いのかと云う根源の問題も忘れては為りません。
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●逃走と防止システム
動員されて来日した朝鮮人労務者は全員「協和会」と云う統制団体に入会させられました。中央協和会は1939年6月、厚生省管轄の財団法人として設立され、沖縄を除く各道府県(東京府が都に為るのは1943年)と樺太庁に下部組織が設置されて居る。
道府県の協和会は知事を会長とし、その下に警察管区毎の支会が置かれ警察署長を支会長として、特高警察のメンバーが幹事に加わって居た(協和事業年鑑(1941年版) P26「協和事業機構」の図参照)。
この団体に入ると協和会手帳が発給される。写真欄の左ページには職業欄があり、逃亡しても手帳を見られれば逃亡元が判り摘発出来る仕組み。更に企業に依っては「住宅の廻りに歩哨みたいなものを立てたり、場合によっては鉄条網を張つて非常に厳重な管理を致します」(日産懇話会本部『時局下に於ける労務問題座談会』1941年。引用元は外村、前掲書、P64)
と云う具合に、監禁では無いのかと思える具体例も残って居る。「嫌なら辞めて帰れば良かった」様な生易しいものでは無かったのです。しかしそれでも脱走者は多く、警察による1943年末時点の「現在調べ」では動員された朝鮮人「移入者」366,464人中逃走者が118,735人で、実に32.4%が逃走して居た計算に為る(外村、前掲書、P158)。
●世界遺産・端島の強制連行
ユネスコの世界遺産に長崎県の旧炭鉱・端島(所謂軍艦島)等の炭鉱施設を登録するに当たり、これら炭鉱に強制連行された朝鮮人労働者等に関する記述で韓国との交渉が難航し、「forced to work」の表現で妥結して居る。
処が安倍政権は「強制労働を意味するものでは全く無い」(菅官房長官記者会見・7月6日) 「我が国として,強制労働があったと認めるものでは無く,これ迄の日本政府の認識を述べたものであります」(岸田外務大臣記者会見・7月7日) 等と発表。
端島は三菱高島炭鉱の一部で、高島は長崎市中心部から十数キロ、端島はそこから更に数キロを隔てた島。1941年の出炭量は高島坑37万トン、端島坑41万トン(『竹内康人『調査・朝鮮人強制労働@ (炭鉱編)』P267)で、炭鉱の規模として高島と端島は当時拮抗して居た。このヤマも又強制連行、強制労働の場であった事は資料でハッキリ証明されて居る。
[1] 内部資料
石炭統制会、と云う当時の業界団体(炭鉱は全部強制加入)の内部資料が出版されて居る。
高島炭鉱への朝鮮人の在籍が明確に記録されて居る。死傷者数と死傷率の計算が合いませんが、少ない方に合わせて死傷者合計191人、合計死傷率12.7%として整合させても全国平均12.0%よりやや高め。これだけ死傷率が高い事から、客観的に劣悪な環境であった事はほぼ間違い無いが、国内の他炭鉱と比べても決して良い方で無かった。
それなのに、他の炭鉱が軒並み逃走者を出して居る中で高島炭鉱は逃走者ゼロ。高島も端島も離島なので自明とは言え逃走が非常に困難であった事が改めて確認出来る。
又、竹内・前掲書P270 に依れば、厚生省は1942年8月(詰り官斡旋が始まった後)以降に高島炭鉱に入山し1945年8月15日現在在籍した朝鮮人労務者に付いて「厚生省勤労局報告書長崎県分高島炭鉱名簿」を作成して居る。
この名簿から当該労務者は1,299名居た事が判って居る。官斡旋開始以降の入山なので、総督府訓示の表現を借りれば全員が「概して強制供出」で連れて来られた人達と云う事に為る。無理やり連れて来られた人が海の孤島に配属され、公然かつ平穏に脱出出来たと考えるのは無理で、端島が「監獄島」 だったとする数多くの証言を裏打ちする客観史料と捉えるべきだろう。
[2] 証言
『調査・朝鮮人強制労働@ (炭鉱編)』は炭鉱毎にデータ、証言や解説を収録して居り、端島に付いては要旨次の様な証言が掲載されて居る。
労務者名・ 連行時期・ 配属・ 証言内容・ 掲載頁
・李任逑 1939年 端島 一日の賃金が5円、食事は白米と言った甘言に依る連行であり、新参者は1円50銭だった。1940年7月に炭車事故により下敷きと為り死亡 274
・尹椿基 1943年 端島 賃金の3分の1は強制貯金、3分の1は故郷への送金とされたが、帰国してみると全く送金されて居なかった。食事はさつまいもや外米飯と汁、イモを覗くと飯はスプーン3杯程度。1日3交替で働かされ、1日のノルマはトロッコ10台以上。同じ村の李は餓死、それを知らせる手紙を書くと端島の派出所へと拘留された。 276
・崔璋燮 1943年 端島 青年訓練の最中に捕らえられて益山の郡庁に連れて行かれた。益山から端島に連行され、9階の建物の地下1階に入れられた。逃走して捕まった者はゴムのチューブで皮膚が剥げるほど叩かれ、拷問された。「将に収容所の様な場所」「人間の地獄がここだナアと思った」 276-277
・徐正雨 1944年? 端島 連行された人々は端島の端の「2階と4階」の建物に収容された。人々は腕立て伏せの体罰やケーブル線による殴打などの暴力的脅迫によって入坑させられた。数ヶ月後に三菱長崎造船所へと転送され、被爆した。 277
出典:竹内康人『調査・朝鮮人強制労働@炭鉱編』 社会評論社、2013年
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女優・松坂慶子氏の父親・韓英明氏も1938年、強制連行とは別枠だが端島の属する高島炭鉱に日本人名で応募し日本人飯場に入って居る。8時間労働・日給4円の筈が、親方から「10銭」「20銭」等と書いた紙切れを貰っただけで、逆らえば殴られ逃げればリンチと云う環境で、仲間3人で丸太に掴まり泳いで逃げたと言う(同書、P264-265)。被害者の証言は他にも、幾つも残されています。
[3] 加害者自身が認めて居る
戦争末期の炭鉱に居たのは朝鮮人労務者だけでは無い。連合軍の捕虜や中国人も強制労働させられて居た。当然、両者からもこの問題を追及されて居る。右は朝日新聞の2015年7月24日付け記事です。
『戦時中に日本に強制連行され過酷な労働を強いられたとして、中国人元労働者らが三菱マテリアル(旧三菱鉱業)等に損害賠償を求めて居た問題で、同社が「使用者としての歴史的責任」を認めて謝罪し、一人10万元(約200万円)を支払う等、訴訟外で和解する条件を示して居る事が中国側の複数の関係者の話で判った』
『元労働者側は…一つのグループを除く全てのグループが、こうした和解条件を基本的に受け入れて居る』。
この1年後、2016年6月1日に三菱マテリアルは「中国人元労働者との和解に付いて」と云うプレスリリースを発表し、「第二次世界大戦中に中国人元労働者(以下、元労働者)が当社の前身である旧三菱鉱業株式会社(以下、旧三菱鉱業)の事務所において労働を強いられた事に付いて、3名の元労働者の方々と和解致しました。…歴史的責任に対し真摯かつ誠実な謝罪の意を表明」
と述べて居る。このプレスリリースに挙げられた対象の砿山に、端島炭鉱も入って居る。この10日程前には、連合軍捕虜に謝罪すると云う報道が為されて居る。捕虜の場合は強制が自明として、中国人に付いて認めた以上、朝鮮人だけは強制労働で無かったと強弁し続けるのは無理。朝鮮人に強制する必要が無い様な環境なら中国人に強制する動機の説明が付か無いからです。
余談:245人居る!
現在の在日コリアンの方々の市民権に付いて、「先祖が強制連行された人達だから市民権を認めるべきだ」と主張して居る人が居るのか居無いのか私は存じ上げませんが、そう主張するのは許せ無いとの趣旨とおぼしき書き物は時々見掛けます。
在日コリアンの方々の市民権問題は、ご先祖の強制連行云々には関係無いと云うのが私の理解です。そうでは無く、過つて日本国籍と扱われた状況の下に日本国内に生活基盤を築き、日本国内の日本語環境の中で子孫をもうけた故に故国への帰還が困難に為った人達なのに、敗戦の後一方的に日本国籍を取り上げ、故に我が国では国籍とセットに為って居る市民権迄剥奪した事が問題なのだと私は考えます。一言で言うなら、一度日本人扱いした責任を取るべしと云う事です。在日台湾人に付いても全く同様です。
在日コリアンの大半が2世、3世以降に為った今日に於いては尚更です。日本生まれ日本育ちなのに親の国籍を理由に満足な市民権を享受出来無いのは、私から見れば門地による差別です。
そう云う訳で、現在の在日コリアンの方々の何%の先祖が強制連行で日本に来たのか私は余り興味がありませんが、これは余りにヒドイだろうと云う話が目に入ったので一言して置きます。
外務省が1959年7月11日付で発表した文書で、当時の在日コリアン約61万人の「外国人登録原票について、いちいち渡来の事情を調査した結果、右のうち戦時中に徴用労務者として来たものは245人に過ぎ無い事が明らかになつた」と遣らかしています。これを近年穿り返して何かのエビデンスに用いようとした国会議員が居るようです。
そもそも徴用だけ数えて官斡旋の分を無視して居る時点で可笑しいのですが、徴用開始後だけでも推定20万人オーダー vs. 245人で、残留率は0.1%近辺にしか為らず余りに不自然ですので一寸確かめてみましょう。
外務省(当時)は「外国人登録原票について…渡来の事情を調査した」と言っています。当時有効だった外国人登録法の第4条によれば、外国人登録原票に記載される情報は次の通りです。一体どの項目を見れば「戦時中の徴用で日本に来た」と判るのでしょうか?
一 登録番号
二 登録の年月日
三 氏名
四 出生の年月日
五 男女の別
六 国籍
七 国籍の属する国に於ける住所又は居所
八 出生地
九 職業
十 上陸した出入国港(出入国管理令に定める出入国港を云う。以下同じ。)
十一 旅券番号
十二 旅券発行の年月日
十三 上陸許可の年月日
十四 在留資格(出入国管理令に定める在留資格をいう。)
十五 在留期間(出入国管理令に定める在留期間をいう。)
十六 居住地の地番
十七 世帯主の氏名
十八 世帯主との続柄
十九 勤務所又は事務所の名称及び所在地
二十 市町村名及び作成の年月日
在留資格を見ても判りません。精々、1945年9月2日以前に来日したか如何か程度が判るだけ。上陸許可の日付でしょうか?国民動員計画とほぼ同時期の1939年9月1日〜1945年8月15日に来日し定住して居た人は、当の外務省発表で35,016人居ます。245人の100倍以上。終戦前からの在留者388,359人から日本出生者、来日時期不明を引いた143,012人に対して24%を占めます。この外務省発表はこんな事も言って居ます(太字は引用者)。
「1939年末現在日本内地に居住して居た朝鮮人の総数は約100万人であつたが、1945年終戦直前にはその数は約200万人に達して居た。そして、この間に増加した約100万人の内、約70万人は自から内地に職を求めて来た個別渡航と出生に依る自然増加に依るのであり、残りの30万人の大部分は工鉱業、土木事業等に依る募集に応じて自由契約に基付き内地に渡来したものであり…」
この様に基本的な所で明らかな間違いを犯して居る資料は、数字の出し方も信頼出来無いと判断するのが賢明。この発表は当時から問題視され、新聞に掲載された翌日の7月14日には早くも朝鮮総連の反論が新聞に出て居る。動員先の一つだった宇部炭鉱の地元「山口県宇部地区だけでも、強制徴用残留者は245人居る」との指摘はナカナカ示唆に富んで居る。
他、朴慶植氏が体験者への聞き取り調査によって『朝鮮人強制連行の記録』を著す大きな切っ掛けに為る等、この外務省文書は強制連行問題の掘り起こしに火を点け多くの反証を招いたとは言えるかも知れませんが、後年の調査研究に対して反証し得る文書と考えるのは論理的順序が逆な様です。
以上
長い文章に為ってしまい申し訳ありません。具体的な資料を揃えてのレポートですので何となく理解できた感じがします。有難うございました。皆さんがどの様に考えるか、そしてどの様にしたいのか・・・投稿出来たらお願いします、待っております・・・
戦時中の朝鮮人の強制連行と強制労働はデマなのか?
韓国の騒ぎは何だったの?
釜山の日本総領事館前 警察の機動隊が像を取り囲んで動かず
【釜山(プサン・韓国南部)渋江千春】韓国の労働団体がメーデーの1日、日本の植民地時代に徴用された朝鮮人労働者を象徴する像を釜山市東区にある日本総領事館前に設置しようと試みた。警察の機動隊が総領事館手前で像を取り囲んで動かせないようにしたため労働団体側は「物理的に不可能だ」として設置をいったん断念し解散した。ただ像は歩道上に置かれたままで今後の動き次第では日韓関係に影響が出る可能性が残っている。
労働団体側は1日午前から像を押しながら総領事館に向かって前進。総領事館の数十メートル手前で機動隊が労働団体の関係者を排除しようとした際にもみ合いも起きた。設置を断念した後、労働団体は総領事館周辺で「釜山労働者大会」を開催。外交公館の100メートル以内では集会やデモが禁じられており総領事館の周りに配置された警察官約3000人が警戒にあたった。
徴用工像設置の動きは昨年韓国メディアの報道で明らかになり先月11日に訪韓した河野太郎外相が康京和(カン・ギョンファ)外相に「望ましく無い」と云う日本の立場を説明。その後、韓国外務省は「外交公館の保護や関連する国際儀礼と慣行の側面から適切ではなく、外交的な摩擦を招く可能性がある」として、文書で労働団体側に自制を求めた。外務省は釜山市や道路を管理する東区にも同様の文書を送付し、「釜山市内の別の場所への設置が望ましい」との意向を伝えてきた。
総領事館前には既に、慰安婦を象徴する少女像が設置されている。2016年12月に設置された後、東区は一旦撤去したが、市民から抗議が殺到し市民団体による再設置を黙認。日本政府は大使を帰国させ、日韓関係が冷え込む要因の一つと為った。 徴用工像についての今後の対応について、東区は「外務省、釜山市などの意見は無視出来ない。状況を見て議論する」として居る。 毎日新聞記事より
一体如何いう事なのか・・・
参照 「日韓の新たな火種か 元徴用工問題」(時論公論)
2017年08月21日 (月) NHK解説委員 出石 直
北朝鮮への対応で日本と韓国の緊密な連携が求められているこの時期に、韓国のムン・ジェイン大統領から日韓関係に水を差しかね無い発言が飛び出しました。先月から韓国で公開されている映画「軍艦島」。終戦間際、長崎県の端島(はしま)=通称、軍艦島で過酷な労働に従事して居た朝鮮半島出身の若者達が集団で脱出を試みるというストーリーです。
歴史的事実に基づいたものでは無く、日本国内では「誤った歴史認識を伝える恐れがある」と云う批判がありますが、ムン・ジェイン大統領の発言はこの映画を切っ掛けに韓国国内で徴用工への関心が高まっている中で行われました。その発言です。
「個人請求権、詰り朝鮮半島から内地に動員された元徴用工の人達が日本企業に損害賠償を求める権利は残っている。韓国政府はそうした立場で歴史問題に臨んでいる」
と述べたのです。真意をもう少し確かめる必要はありますが、「元徴用工の問題は解決済み」として来た韓国政府の従来の立場を覆したとも受け取れられかねない重大な発言です。この問題では、新日鉄住金や三菱重工など日本の企業に損害賠償などを求める裁判が韓国国内で相次いで起こされて居ます。今後の展開によっては慰安婦問題以上に深刻で厄介な火種に為りかねません。
先ず元徴用工問題とは何か、簡単にご説明します。日中戦争で深刻化した労働力不足を補う為、日本政府は国家総動員法と国民徴用令によって民間人を軍需工場や炭鉱などに動員しました。戦火の拡大によって対象は日本の植民地だった朝鮮半島にも広げられました。徴用された朝鮮半島出身者の数については公式な記録が残されていない為正確には判りませんが、研究者の調査では70万人から80万人位と推定されて居ます。
この問題は、戦後の国交正常化交渉の主要議題のひとつでした。14年に及んだ交渉の末、1965年に両国は国交を回復します。この時、結ばれた請求権協定の第2条1項には「日韓両国と国民の財産、権利及び利益、並びに請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決された」と明記されて居ます。韓国政府も日本政府が拠出した経済協力資金の運用に関する法律を制定し、徴用で死亡した人に対し、一人当たり30万ウォンを支給して居ます。これが「この問題は完全かつ最終的に解決している」とされる根拠です。
請求権協定で何が解決し、何が解決して居ないかを巡っては、長い間、論争がありました。元徴用工やその遺族は「未だ解決していない」として1990年代から日本政府や企業に損害賠償などを求める裁判を次々と起こしました。しかし一連の裁判は2007年4月、最高裁判所で「完全かつ最終的に解決済み」とする判断が示され、日本での訴訟の道は閉ざされました。
韓国で、歴史の清算の問題に積極的に取り組んだのがノ・ムヒョン政権でした。何が解決され、何が解決されて居ないのかの検証を行ったのです。その結果、国交正常化交渉時には存在が知られて居なかった慰安婦や韓国人被爆者などは「請求権協定では解決されて居ない」と結論付けました。しかしこの時の検証でも、元徴用工に付いては韓国国内で立法措置が取られて居ることなどを理由に「解決済み」とされ、韓国政府も裁判所もこの立場を踏襲してきました。
この問題が再び浮上したのは、2012年に韓国の最高裁判所で示された判決が切っ掛けでした。請求権協定で解決済みであり被害者個人が損害賠償を求める事は出来ないとしていた判決を破棄し、裁判をやり直すよう高等裁判所に差し戻したのです。
「日本の国家権力が関与した反人道的不法行為や植民地支配に直結した不法行為による損害賠償請求権は、請求権協定によっても消滅して居ない」
と云う初めての判断でした。この判決を切っ掛けに韓国国内では、日本企業に損害賠償を命じる判決が次々と出される様になりました。解決済みとされていた元徴用工の問題が、この韓国の最高裁判所の判決によって、一転、未解決とされたのです。
当時、軍需工場や炭鉱などに動員された人達の労働環境が劣悪で過酷だった事は確かです。日本で起こされた裁判でも、「有刺鉄線に囲まれた寮で12畳の部屋に12人が収容されて居た」「食事は粗末で休日は月に1、2回しか与えられ無かった」「こん棒で腰を20回も殴られた」と言った過酷な実態が認定されて居ます。
安倍総理大臣も戦後70年に当たって発表した談話の中で「何の罪も無い人々に、計り知れ無い損害と苦痛を我が国が与えた事実を噛み締める時、ただただ断腸の念を禁じえません」と述べて居ます。誰もが苦難を強いられて居た戦時下と云う特殊な状況だったとは言え、こうした歴史の事実は謙虚に受け止めねば為らないでしょう。
ここまで元徴用工問題を巡るこれまでの経緯を見てきました。最後に今後の日韓関係への影響について考えます。韓国の最高裁判所から高等裁判所に差し戻され再び最高裁判所に上告された訴訟は、最終的な判決が言い渡され無いままの状態が続いて居ます。
政治的な影響の大きさを考慮して結論を先送りして居るものと思われます。最大の焦点は、韓国の最高裁判所が何時最終的な判断を示すかです。最終的に原告の主張が認められ日本企業に損害賠償の支払いを命じる判決が確定する事に為れば、1965年の請求権協定で決着した筈の問題が悉く覆され、日韓関係の根幹を揺るがす政治問題に為ることは確実です。際限無く次々と裁判が起こされ、日本企業の韓国での活動にも深刻な影響が出るでしょう。
ムン・ジェイン大統領は一昨年両政府の間で交わされた慰安婦合意に付いても、「国民の大多数が情緒的に受け入れて居ない」として交渉の過程を再検証する作業を進めています。双方の外交努力によって解決し封印された筈の問題が再び蒸し返される、ゴールポストが何度も動くと受け取られる事は、日韓関係に取ってマイナスになるだけでプラスには為ることは一つもありません。
今週から朝鮮半島有事に備えたアメリカ軍と韓国軍による合同軍事演習が始まりました。朝鮮半島情勢が緊迫化し、今ほど日本と韓国の緊密な連携が求められている時はありません。韓国政府と司法当局には、とかく感情的に為りがちな世論に流される事無く、幾多の努力によって積み重ねられて来た両国関係の歴史を踏まえた慎重かつ理性的な判断を求めたいと思います。(出石 直 解説委員)参照 おわり
サテ、この「朝鮮人の強制連行による強制労働」の問題は、どの様なものだったのか? 先ずは、「肯定する」立場の人の話を参照しよう・・・
参照 明らかにされた朝鮮人強制連行の真実、息を飲むその過酷な実態
2010.07.06 岩垂 弘 (ジャーナリスト)
〔書評〕林えいだい著『《写真記録》筑豊・軍艦島――朝鮮人強制連行、その後』(弦書房、¥2000+税)
今年は、日本による韓国併合から100年。朝鮮半島に対する日本の植民地支配は1910年から1945年迄の35年に及んだが、その間の植民地支配の一端を明らかにした写真記録が刊行された。
ノンフィクション作家、林えいだいさん(76歳)の『《写真記録》筑豊・軍艦島――朝鮮人強制連行、その後』である。日本人が知ら無い、或いは知ろうともしない朝鮮人強制連行の真実が、半世紀にわたる林さんの追跡取材で明らかにされている。
本書に依ると、1937年以降、日本は深刻な労働力不足に陥った。この年、日本は日中戦争に突入し、軍需産業部門が拡大する一方で、工場で働いて居た労働者が戦争で戦地に送られたからだ。取り分け、九州の産炭地・筑豊では炭鉱労働者が次々と軍隊に召集され、石炭企業は労働力不足に直面した。
この結果、石炭生産量が極端に落ち込み、政府としても朝鮮半島からの労働者の移入を考えざるをえ無く為った。この為、政府は1939年、内務・厚生両次官通牒「朝鮮人労務者内地移住に関する件」に依って各企業に朝鮮人労働者募集を認可、募集方式による労働者移入が始まった。
太平洋戦争に為ると、労働力不足は益々深刻に為った。この為、政府は「朝鮮人労務者活用に関する方策」を決定し、それ迄の募集方式を改め、国家権力が直接朝鮮人労働者を“募集”する官斡旋方式にした。更に、戦況が末期的な段階に為った1944年には、労働力の充足がより切実な緊急課題と為り、遂に国民徴用令に依って朝鮮人を日本に連行した。
本書の中で林さんは書く。「最大の問題点は、建て前としては募集方式であっても、現実には強制であったと云う事である」林さんは朝鮮から連行されて来た人達から集めた証言を紹介して居るが、それに依ると、日本に送る朝鮮人労働者に付いては朝鮮総督府から道庁に割り当てがあり、面(村に相当)の募集担当者と日本人巡査が供出リストを作った。
「例え募集方式であろうと、面事務所と面駐在所の巡査の二人がリストアップした事は、そこに権力が介入した事に為る。既に募集では無く、飽く迄強制と為る。該当者の中には、日本行きを逃れる為に山奥に潜んだ。夜に為ると降りて来て畑仕事をし、夜が明ける頃には再び山へと帰る者が居たが、しかし、何時までも逃れる事は出来ず、駐在所の巡査に捕まり強制連行された」
林さんがソウルで知り合った朝鮮人は、太平洋戦争中、郡守として労働者の徴用に当たった。その人が林さんに話した処に依ると、徴用は朝鮮総督府から道庁に割り当てがあり、それを郡守に命令した。それを郡守は管轄の面に割り当てるが、山岳地帯が多い為に集めるには限度があり、その郡守は徴発隊を組織すると、全員に竹槍を持たせて出動した。行き成り民家を襲い、働けそうな男達を全員トラックに積んで帰り、炭鉱から来た労務係に引き渡した、と云う。
朝鮮人の殆どは、炭鉱で働く事を知らされずに日本に連行された。そして、入山した翌日に坑内見学をして、2、3日休ませると直ぐ入坑させて採炭と云う無謀な事が行われた。
地下の深い所で石炭を採掘する作業は常に危険に晒されて居る。天井からの落盤、側壁の崩壊、ガス爆発、炭塵爆発、断層からの出水、炭車の暴走など、突然の事故に依って大勢の生命が失われた。「坑内で最も危険な場所で、しかも生産量の上がら無い切羽を、朝鮮人坑夫に採炭させた。当然の様に朝鮮人の死亡事故も多く為る」と本書は書く。しかも、朝鮮人炭鉱労働者の賃金は日本人の約半分だった。本書は、更に続ける。
「坑内での過酷な労働。体力回復の為の休養と必要な食糧が十分与えられず不満が鬱(うっ)積した。二年満期で帰国させると約束しても、その保障は一切無い。絶望的な状況の中で朝鮮人坑夫達が考える事は、炭坑から逃走する事であった」
林さんに依れば、1939年から40年に掛けての時期、福岡県内には250以上の炭鉱があって、その中心であった筑豊地方では15万人の朝鮮人が強制連行されて居た事を田川警察署の特高主任と飯塚警察署の特高主任が証言して居る。
「移入者数に対する逃走者の割合は福岡県全体では、51.7パーセントに達して居る。強制連行した朝鮮人の内、半数以上が逃走した現実は、それ自体が強制であった事の証明である。死亡者数は711人、不良坑夫の強制送還者数も1824人と非常に多い事に注目したい。単なる募集であれば、半数以上が逃走する事は考えられ無い。更に労働条件と待遇が最悪であった事の証しである」と林さん。
此処では、最も過酷な炭鉱労働が行われて居た例として、軍艦島の当時の状況が紹介されて居る。軍艦島は長崎港外15キロにあった海底炭鉱・端島(はしま)炭鉱だった。採炭の為に造られた南北480メートル、東西160メートル、海抜45メートルの人工島だ。島を高さ10メートルの防波堤が囲み、東シナ海の荒波が叩き着ける。島の形が軍艦に似て居る処から、「軍艦島」と呼ばれた。切羽は深い所で坑口から1キロ以上もあった。
本書に依れば、採炭最盛期の1945年には約5300人に上る炭鉱労働者が居て、島から溢れそうだった。内朝鮮人は強制連行者を入れて約500〜600人。他に自由渡航で遣って来た所帯持ちが約80人働いて居た。中国人も捕虜ら204人が働かされて居たと云う。
そして「日本人坑夫の多くは、深部の急斜面の採炭現場は如何しても生産量が落ち、落盤の危険があるので敬遠した。結局、危険な場所には、朝鮮人と中国人が投入されたと云う」。
過酷な労働に耐えかねて、島からの逃走を試み、溺死した朝鮮人も居た。警察は監視を兼ねて野母半島(長崎半島)に警官を配置。警官は島抜けした者を見つけると逮捕した。林さんに依れば「死を覚悟して続々と逃走しようとする坑夫達を見た野母半島の人達は『端島は監獄島』と呼ぶ様に為った」
端島炭鉱は1974年に閉山。今、廃墟に為った軍艦島を世界遺産にしようと云う運動が長崎市で起こって居る。朝鮮半島から日本に連れて来られた人達は、炭鉱ばかりで無く、鉱山、ダム建設工事、軍事施設等で働かされた。その数は全体で何人位だったろうか。林さんは本書の末尾で、日本政府の資料を紹介して居る。それによると・・・
公安調査庁 724,787人
厚生省勤労局 661,684人
第86回帝国議会説明資料(朝鮮総督府) 724,875人
厚生省労務局 667,684人
朝鮮経済統計要覧資料 1,119,032人
政府資料に依ってもかなりの開きがある。何とも杜撰な統計だが、何れにしても110万から66万に上る朝鮮人が強制的に連行されて来た事が分かる。その多さに改めて驚く。その上、何とも遣り切れ無い思いに駆られるのは、この人達の帰国時の状況だ。 日本敗戦により、日本政府は強制連行した朝鮮人の徴用解除を決定した。が、日本政府による配船の不足、毎日全国から集まる朝鮮人の受け入れ態勢の不備から、博多港の埠頭は大混乱に陥った。
朝鮮人達は持てるだけの荷物を持って船待ちをした。待ち切れ無い人達は、闇船をチャーターして帰国しようとした。定員以上乗った闇船の中には、台風や嵐に遭って沈没した船もあった。船待ちの間に所持金を使い果たし、帰国を諦めた人も居た。
本書の中で強制連行の経験を証言する朝鮮人は、何れも本名で登場する。しかも、写真着きである。その写真は何れも林さん自身が撮影したものだ。詰り、本書は、林さんが連行されて来た人達から直に話を聞いてその実態を明らかにした記録で、伝聞に基づく記録では無い。従って、その証言は生々しく、説得力を持つ。
林さんは筑豊生まれだが、父の寅治さんは神主だった。炭鉱から脱走した朝鮮人を多数匿った事から、1943年に逮捕され、特高警察による拷問を受け、その傷が元で釈放1カ月後に死亡した。48歳だった。 林さんの半世紀に及ぶ朝鮮人強制連行取材の原点には、こうした父の死がある。
本書を読み終わった時、この5月にジャーナリスト訪問団の一員として北朝鮮を訪れた折にこの国の外務省幹部が私達に語った言葉を思い出した。それは「今年は、我が国が日本に占領され、植民地にされてから100年に為るが、未だにこの罪業が清算されて居ない」と云うものだった。朝鮮人強制連行問題は今尚解決されて居ない。そう思わずには居られ無い。
弦書房:福岡市中央区大名2−2−43 ELK大名ビル301 電話092-726-9885
以上 参照 おわり
勝手に引用しました、ありがとう御座います。次回は、これに反証する人達のご意見を紹介します・・・
戦時中の朝鮮人の強制連行と強制労働はデマなのか?
韓国の騒ぎは何だったの?
今夜のニュースで、韓国で戦時中に日本へ強制連行され強制労働させられた人達を象徴する銅像の立ち退きを巡って、韓国警察と銅像建立を掲げる韓国民衆との間の小競り合いを報じて居た。日本の大使館や公館の近くの公道に像の建設は禁じられ警察が移動し撤去しようとする行為への抗議だった様だ。
慰安婦問題と共に今尚残された日韓の歴史認識の相違であり、ナカナカ解決の糸口も無い。日本政府は、強制連行・強制労働の存在を否定し、給与未払いの問題では日韓条約に依って支払い済みだと主張。韓国では、個別の補償は民事訴訟で決着を着け様として居る立場の様だ。
サテ、この「朝鮮人の強制連行による強制労働」の問題は、どの様なものだったのか? 先ずは、「肯定する」立場の人の話を参照しよう・・・
参照 明らかにされた朝鮮人強制連行の真実、息を飲むその過酷な実態
2010.07.06 岩垂 弘 (ジャーナリスト)
〔書評〕林えいだい著『《写真記録》筑豊・軍艦島――朝鮮人強制連行、その後』(弦書房、¥2000+税)
今年は、日本による韓国併合から100年。朝鮮半島に対する日本の植民地支配は1910年から1945年迄の35年に及んだが、その間の植民地支配の一端を明らかにした写真記録が刊行された。
ノンフィクション作家、林えいだいさん(76歳)の『《写真記録》筑豊・軍艦島――朝鮮人強制連行、その後』である。日本人が知ら無い、或いは知ろうともしない朝鮮人強制連行の真実が、半世紀にわたる林さんの追跡取材で明らかにされている。
本書に依ると、1937年以降、日本は深刻な労働力不足に陥った。この年、日本は日中戦争に突入し、軍需産業部門が拡大する一方で、工場で働いて居た労働者が戦争で戦地に送られたからだ。取り分け、九州の産炭地・筑豊では炭鉱労働者が次々と軍隊に召集され、石炭企業は労働力不足に直面した。
この結果、石炭生産量が極端に落ち込み、政府としても朝鮮半島からの労働者の移入を考えざるをえ無く為った。この為、政府は1939年、内務・厚生両次官通牒「朝鮮人労務者内地移住に関する件」に依って各企業に朝鮮人労働者募集を認可、募集方式による労働者移入が始まった。
太平洋戦争に為ると、労働力不足は益々深刻に為った。この為、政府は「朝鮮人労務者活用に関する方策」を決定し、それ迄の募集方式を改め、国家権力が直接朝鮮人労働者を“募集”する官斡旋方式にした。更に、戦況が末期的な段階に為った1944年には、労働力の充足がより切実な緊急課題と為り、遂に国民徴用令に依って朝鮮人を日本に連行した。
本書の中で林さんは書く。「最大の問題点は、建て前としては募集方式であっても、現実には強制であったと云う事である」林さんは朝鮮から連行されて来た人達から集めた証言を紹介して居るが、それに依ると、日本に送る朝鮮人労働者に付いては朝鮮総督府から道庁に割り当てがあり、面(村に相当)の募集担当者と日本人巡査が供出リストを作った。
「例え募集方式であろうと、面事務所と面駐在所の巡査の二人がリストアップした事は、そこに権力が介入した事に為る。既に募集では無く、飽く迄強制と為る。該当者の中には、日本行きを逃れる為に山奥に潜んだ。夜に為ると降りて来て畑仕事をし、夜が明ける頃には再び山へと帰る者が居たが、しかし、何時までも逃れる事は出来ず、駐在所の巡査に捕まり強制連行された」
林さんがソウルで知り合った朝鮮人は、太平洋戦争中、郡守として労働者の徴用に当たった。その人が林さんに話した処に依ると、徴用は朝鮮総督府から道庁に割り当てがあり、それを郡守に命令した。それを郡守は管轄の面に割り当てるが、山岳地帯が多い為に集めるには限度があり、その郡守は徴発隊を組織すると、全員に竹槍を持たせて出動した。行き成り民家を襲い、働けそうな男達を全員トラックに積んで帰り、炭鉱から来た労務係に引き渡した、と云う。
朝鮮人の殆どは、炭鉱で働く事を知らされずに日本に連行された。そして、入山した翌日に坑内見学をして、2、3日休ませると直ぐ入坑させて採炭と云う無謀な事が行われた。
地下の深い所で石炭を採掘する作業は常に危険に晒されて居る。天井からの落盤、側壁の崩壊、ガス爆発、炭塵爆発、断層からの出水、炭車の暴走など、突然の事故に依って大勢の生命が失われた。「坑内で最も危険な場所で、しかも生産量の上がら無い切羽を、朝鮮人坑夫に採炭させた。当然の様に朝鮮人の死亡事故も多く為る」と本書は書く。しかも、朝鮮人炭鉱労働者の賃金は日本人の約半分だった。本書は、更に続ける。
「坑内での過酷な労働。体力回復の為の休養と必要な食糧が十分与えられず不満が鬱(うっ)積した。二年満期で帰国させると約束しても、その保障は一切無い。絶望的な状況の中で朝鮮人坑夫達が考える事は、炭坑から逃走する事であった」
林さんに依れば、1939年から40年に掛けての時期、福岡県内には250以上の炭鉱があって、その中心であった筑豊地方では15万人の朝鮮人が強制連行されて居た事を田川警察署の特高主任と飯塚警察署の特高主任が証言して居る。
「移入者数に対する逃走者の割合は福岡県全体では、51.7パーセントに達して居る。強制連行した朝鮮人の内、半数以上が逃走した現実は、それ自体が強制であった事の証明である。死亡者数は711人、不良坑夫の強制送還者数も1824人と非常に多い事に注目したい。単なる募集であれば、半数以上が逃走する事は考えられ無い。更に労働条件と待遇が最悪であった事の証しである」と林さん。
此処では、最も過酷な炭鉱労働が行われて居た例として、軍艦島の当時の状況が紹介されて居る。軍艦島は長崎港外15キロにあった海底炭鉱・端島(はしま)炭鉱だった。採炭の為に造られた南北480メートル、東西160メートル、海抜45メートルの人工島だ。島を高さ10メートルの防波堤が囲み、東シナ海の荒波が叩き着ける。島の形が軍艦に似て居る処から、「軍艦島」と呼ばれた。切羽は深い所で坑口から1キロ以上もあった。
本書に依れば、採炭最盛期の1945年には約5300人に上る炭鉱労働者が居て、島から溢れそうだった。内朝鮮人は強制連行者を入れて約500〜600人。他に自由渡航で遣って来た所帯持ちが約80人働いて居た。中国人も捕虜ら204人が働かされて居たと云う。
そして「日本人坑夫の多くは、深部の急斜面の採炭現場は如何しても生産量が落ち、落盤の危険があるので敬遠した。結局、危険な場所には、朝鮮人と中国人が投入されたと云う」。
過酷な労働に耐えかねて、島からの逃走を試み、溺死した朝鮮人も居た。警察は監視を兼ねて野母半島(長崎半島)に警官を配置。警官は島抜けした者を見つけると逮捕した。林さんに依れば「死を覚悟して続々と逃走しようとする坑夫達を見た野母半島の人達は『端島は監獄島』と呼ぶ様に為った」
端島炭鉱は1974年に閉山。今、廃墟に為った軍艦島を世界遺産にしようと云う運動が長崎市で起こって居る。朝鮮半島から日本に連れて来られた人達は、炭鉱ばかりで無く、鉱山、ダム建設工事、軍事施設等で働かされた。その数は全体で何人位だったろうか。林さんは本書の末尾で、日本政府の資料を紹介して居る。それによると・・・
公安調査庁 724,787人
厚生省勤労局 661,684人
第86回帝国議会説明資料(朝鮮総督府) 724,875人
厚生省労務局 667,684人
朝鮮経済統計要覧資料 1,119,032人
政府資料に依ってもかなりの開きがある。何とも杜撰な統計だが、何れにしても110万から66万に上る朝鮮人が強制的に連行されて来た事が分かる。その多さに改めて驚く。その上、何とも遣り切れ無い思いに駆られるのは、この人達の帰国時の状況だ。 日本敗戦により、日本政府は強制連行した朝鮮人の徴用解除を決定した。が、日本政府による配船の不足、毎日全国から集まる朝鮮人の受け入れ態勢の不備から、博多港の埠頭は大混乱に陥った。
朝鮮人達は持てるだけの荷物を持って船待ちをした。待ち切れ無い人達は、闇船をチャーターして帰国しようとした。定員以上乗った闇船の中には、台風や嵐に遭って沈没した船もあった。船待ちの間に所持金を使い果たし、帰国を諦めた人も居た。
本書の中で強制連行の経験を証言する朝鮮人は、何れも本名で登場する。しかも、写真着きである。その写真は何れも林さん自身が撮影したものだ。詰り、本書は、林さんが連行されて来た人達から直に話を聞いてその実態を明らかにした記録で、伝聞に基づく記録では無い。従って、その証言は生々しく、説得力を持つ。
林さんは筑豊生まれだが、父の寅治さんは神主だった。炭鉱から脱走した朝鮮人を多数匿った事から、1943年に逮捕され、特高警察による拷問を受け、その傷が元で釈放1カ月後に死亡した。48歳だった。 林さんの半世紀に及ぶ朝鮮人強制連行取材の原点には、こうした父の死がある。
本書を読み終わった時、この5月にジャーナリスト訪問団の一員として北朝鮮を訪れた折にこの国の外務省幹部が私達に語った言葉を思い出した。それは「今年は、我が国が日本に占領され、植民地にされてから100年に為るが、未だにこの罪業が清算されて居ない」と云うものだった。朝鮮人強制連行問題は今尚解決されて居ない。そう思わずには居られ無い。
弦書房:福岡市中央区大名2−2−43 ELK大名ビル301 電話092-726-9885
以上 参照 おわり
勝手に引用しました、ありがとう御座います。次回は、これに反証する人達のご意見を紹介します・・・
戦時中の朝鮮人の強制連行と強制労働はデマなのか?
韓国の騒ぎは何だったの?
今夜のニュースで、韓国で戦時中に日本へ強制連行され強制労働させられた人達を象徴する銅像の立ち退きを巡って、韓国警察と銅像建立を掲げる韓国民衆との間の小競り合いを報じて居た。日本の大使館や公館の近くの公道に像の建設は禁じられ警察が移動し撤去しようとする行為への抗議だった様だ。
慰安婦問題と共に今尚残された日韓の歴史認識の相違であり、ナカナカ解決の糸口も無い。日本政府は、強制連行・強制労働の存在を否定し、給与未払いの問題では日韓条約に依って支払い済みだと主張。韓国では、個別の補償は民事訴訟で決着を着け様として居る立場の様だ。
サテ、この「朝鮮人の強制連行による強制労働」の問題は、どの様なものだったのか? 先ずは、「肯定する」立場の人の話を参照しよう・・・
参照 明らかにされた朝鮮人強制連行の真実、息を飲むその過酷な実態
2010.07.06 岩垂 弘 (ジャーナリスト)
〔書評〕林えいだい著『《写真記録》筑豊・軍艦島――朝鮮人強制連行、その後』(弦書房、¥2000+税)
今年は、日本による韓国併合から100年。朝鮮半島に対する日本の植民地支配は1910年から1945年迄の35年に及んだが、その間の植民地支配の一端を明らかにした写真記録が刊行された。
ノンフィクション作家、林えいだいさん(76歳)の『《写真記録》筑豊・軍艦島――朝鮮人強制連行、その後』である。日本人が知ら無い、或いは知ろうともしない朝鮮人強制連行の真実が、半世紀にわたる林さんの追跡取材で明らかにされている。
本書に依ると、1937年以降、日本は深刻な労働力不足に陥った。この年、日本は日中戦争に突入し、軍需産業部門が拡大する一方で、工場で働いて居た労働者が戦争で戦地に送られたからだ。取り分け、九州の産炭地・筑豊では炭鉱労働者が次々と軍隊に召集され、石炭企業は労働力不足に直面した。
この結果、石炭生産量が極端に落ち込み、政府としても朝鮮半島からの労働者の移入を考えざるをえ無く為った。この為、政府は1939年、内務・厚生両次官通牒「朝鮮人労務者内地移住に関する件」に依って各企業に朝鮮人労働者募集を認可、募集方式による労働者移入が始まった。
太平洋戦争に為ると、労働力不足は益々深刻に為った。この為、政府は「朝鮮人労務者活用に関する方策」を決定し、それ迄の募集方式を改め、国家権力が直接朝鮮人労働者を“募集”する官斡旋方式にした。更に、戦況が末期的な段階に為った1944年には、労働力の充足がより切実な緊急課題と為り、遂に国民徴用令に依って朝鮮人を日本に連行した。
本書の中で林さんは書く。「最大の問題点は、建て前としては募集方式であっても、現実には強制であったと云う事である」林さんは朝鮮から連行されて来た人達から集めた証言を紹介して居るが、それに依ると、日本に送る朝鮮人労働者に付いては朝鮮総督府から道庁に割り当てがあり、面(村に相当)の募集担当者と日本人巡査が供出リストを作った。
「例え募集方式であろうと、面事務所と面駐在所の巡査の二人がリストアップした事は、そこに権力が介入した事に為る。既に募集では無く、飽く迄強制と為る。該当者の中には、日本行きを逃れる為に山奥に潜んだ。夜に為ると降りて来て畑仕事をし、夜が明ける頃には再び山へと帰る者が居たが、しかし、何時までも逃れる事は出来ず、駐在所の巡査に捕まり強制連行された」
林さんがソウルで知り合った朝鮮人は、太平洋戦争中、郡守として労働者の徴用に当たった。その人が林さんに話した処に依ると、徴用は朝鮮総督府から道庁に割り当てがあり、それを郡守に命令した。それを郡守は管轄の面に割り当てるが、山岳地帯が多い為に集めるには限度があり、その郡守は徴発隊を組織すると、全員に竹槍を持たせて出動した。行き成り民家を襲い、働けそうな男達を全員トラックに積んで帰り、炭鉱から来た労務係に引き渡した、と云う。
朝鮮人の殆どは、炭鉱で働く事を知らされずに日本に連行された。そして、入山した翌日に坑内見学をして、2、3日休ませると直ぐ入坑させて採炭と云う無謀な事が行われた。
地下の深い所で石炭を採掘する作業は常に危険に晒されて居る。天井からの落盤、側壁の崩壊、ガス爆発、炭塵爆発、断層からの出水、炭車の暴走など、突然の事故に依って大勢の生命が失われた。「坑内で最も危険な場所で、しかも生産量の上がら無い切羽を、朝鮮人坑夫に採炭させた。当然の様に朝鮮人の死亡事故も多く為る」と本書は書く。しかも、朝鮮人炭鉱労働者の賃金は日本人の約半分だった。本書は、更に続ける。
「坑内での過酷な労働。体力回復の為の休養と必要な食糧が十分与えられず不満が鬱(うっ)積した。二年満期で帰国させると約束しても、その保障は一切無い。絶望的な状況の中で朝鮮人坑夫達が考える事は、炭坑から逃走する事であった」
林さんに依れば、1939年から40年に掛けての時期、福岡県内には250以上の炭鉱があって、その中心であった筑豊地方では15万人の朝鮮人が強制連行されて居た事を田川警察署の特高主任と飯塚警察署の特高主任が証言して居る。
「移入者数に対する逃走者の割合は福岡県全体では、51.7パーセントに達して居る。強制連行した朝鮮人の内、半数以上が逃走した現実は、それ自体が強制であった事の証明である。死亡者数は711人、不良坑夫の強制送還者数も1824人と非常に多い事に注目したい。単なる募集であれば、半数以上が逃走する事は考えられ無い。更に労働条件と待遇が最悪であった事の証しである」と林さん。
此処では、最も過酷な炭鉱労働が行われて居た例として、軍艦島の当時の状況が紹介されて居る。軍艦島は長崎港外15キロにあった海底炭鉱・端島(はしま)炭鉱だった。採炭の為に造られた南北480メートル、東西160メートル、海抜45メートルの人工島だ。島を高さ10メートルの防波堤が囲み、東シナ海の荒波が叩き着ける。島の形が軍艦に似て居る処から、「軍艦島」と呼ばれた。切羽は深い所で坑口から1キロ以上もあった。
本書に依れば、採炭最盛期の1945年には約5300人に上る炭鉱労働者が居て、島から溢れそうだった。内朝鮮人は強制連行者を入れて約500〜600人。他に自由渡航で遣って来た所帯持ちが約80人働いて居た。中国人も捕虜ら204人が働かされて居たと云う。
そして「日本人坑夫の多くは、深部の急斜面の採炭現場は如何しても生産量が落ち、落盤の危険があるので敬遠した。結局、危険な場所には、朝鮮人と中国人が投入されたと云う」。
過酷な労働に耐えかねて、島からの逃走を試み、溺死した朝鮮人も居た。警察は監視を兼ねて野母半島(長崎半島)に警官を配置。警官は島抜けした者を見つけると逮捕した。林さんに依れば「死を覚悟して続々と逃走しようとする坑夫達を見た野母半島の人達は『端島は監獄島』と呼ぶ様に為った」
端島炭鉱は1974年に閉山。今、廃墟に為った軍艦島を世界遺産にしようと云う運動が長崎市で起こって居る。朝鮮半島から日本に連れて来られた人達は、炭鉱ばかりで無く、鉱山、ダム建設工事、軍事施設等で働かされた。その数は全体で何人位だったろうか。林さんは本書の末尾で、日本政府の資料を紹介して居る。それによると・・・
公安調査庁 724,787人
厚生省勤労局 661,684人
第86回帝国議会説明資料(朝鮮総督府) 724,875人
厚生省労務局 667,684人
朝鮮経済統計要覧資料 1,119,032人
政府資料に依ってもかなりの開きがある。何とも杜撰な統計だが、何れにしても110万から66万に上る朝鮮人が強制的に連行されて来た事が分かる。その多さに改めて驚く。その上、何とも遣り切れ無い思いに駆られるのは、この人達の帰国時の状況だ。 日本敗戦により、日本政府は強制連行した朝鮮人の徴用解除を決定した。が、日本政府による配船の不足、毎日全国から集まる朝鮮人の受け入れ態勢の不備から、博多港の埠頭は大混乱に陥った。
朝鮮人達は持てるだけの荷物を持って船待ちをした。待ち切れ無い人達は、闇船をチャーターして帰国しようとした。定員以上乗った闇船の中には、台風や嵐に遭って沈没した船もあった。船待ちの間に所持金を使い果たし、帰国を諦めた人も居た。
本書の中で強制連行の経験を証言する朝鮮人は、何れも本名で登場する。しかも、写真着きである。その写真は何れも林さん自身が撮影したものだ。詰り、本書は、林さんが連行されて来た人達から直に話を聞いてその実態を明らかにした記録で、伝聞に基づく記録では無い。従って、その証言は生々しく、説得力を持つ。
林さんは筑豊生まれだが、父の寅治さんは神主だった。炭鉱から脱走した朝鮮人を多数匿った事から、1943年に逮捕され、特高警察による拷問を受け、その傷が元で釈放1カ月後に死亡した。48歳だった。 林さんの半世紀に及ぶ朝鮮人強制連行取材の原点には、こうした父の死がある。
本書を読み終わった時、この5月にジャーナリスト訪問団の一員として北朝鮮を訪れた折にこの国の外務省幹部が私達に語った言葉を思い出した。それは「今年は、我が国が日本に占領され、植民地にされてから100年に為るが、未だにこの罪業が清算されて居ない」と云うものだった。朝鮮人強制連行問題は今尚解決されて居ない。そう思わずには居られ無い。
弦書房:福岡市中央区大名2−2−43 ELK大名ビル301 電話092-726-9885
以上 参照 おわり
勝手に引用しました、ありがとう御座います。次回は、これに反証する人達のご意見を紹介します・・・
2018年05月01日
吉田松陰を尊敬すると言う人達
これを記念する様なクイズ番組をテレビで遣って居ました。家族と夕食を採りながら見るとは無しに聞いていたのですが「吉田松陰を尊敬する幕末に強い・・・」と紹介された某中堅タレントが、中盤から俄然正解を続けてトップの座へ・・・その後は見てませんが、久しぶりに聞く吉田松陰の名で、彼を尊敬して止まないと公言する安倍晋三氏の姿を思い出してしまいました。
サテ、吉田松陰と言えば彼の妹(久坂玄瑞の妻)を主人公として描いたNHKの大河ドラマ「花燃ゆ」が最後迄人気が出ず不評のまま終了したのは何時の事だったろう・・・何度か視聴率回復の手が打たれたそうですが、到頭挽回出来ず最低の記録を作ってしまったとの事でした。(私はこれを一度も見なかったので一切の批評は出来ません)
元々この「花燃ゆ」の企画は、安倍晋三氏がNHKの会長に籾井氏を推薦したそのお礼の意味で企画したもの。松陰を尊敬する安倍首相の為に彼の選挙地の山口県を背景とした、原作も無い無名な松陰の妹を持ち出したものだった・・・と初めから多くの批判を浴びて始まった作品でした。
主人公である松陰の妹の資料も少なく準備期間も短く人物設定も雑なストーリーに視聴者の共感を得るのは難しかった様で、現在のNHK大河ドラマは、明治維新150年を記念して、人気女流作家と女流脚本家が描く「西郷(せご)どん」が比較的好評のうちに続いて居る様です。何たって幕末物は、今から時代が近い一大変革であった事で題材と為り易く、維新側と幕府側の夫々を描く多くの作品があり多くの人に人気があります。それに、国民的人気者の西郷隆盛を描くと為れば、幕末に興味の無い方々にも注目する事でしよう。このドラマの成功を陰ながら祈っています・・・
思い返してみると、この吉田松陰と云う人物程、その人物像を政治的・意図的に根本から大きく作リ挙げられた例は稀だろうと感じます。何故、何の目的で、この様に「神様・大人物」として祭り上げられたのでしようか?
それは、明治維新を成し遂げた松陰の門下生と名乗る人達が「偉大な指導者・教育者」とする架空の人物像を作り上げ、明治維新の正当性と権威付けに利用したものだった・・・と言われて居ます。更に戦前は、その愛国主義的考えや植民地主義、更に尊王思想の理想像として神格化され過分に語られ、多くの作家もそれに追従し多様な作品を出版しました。現在も、安倍晋三氏の様に心から尊敬する人達も居る訳です。ここで、私は「吉田松陰なる人物像」を改めて見て行こうと考えまする。先ずは、次のレポートを参照下さい。
参照 日本を守るのに右も左も無い(抜粋) 2012年08月07日
幕末の思想4 「吉田松陰は単なるテロリストに過ぎ無い」
幕末の思想家と言えば、先ず挙げられるのが吉田松陰。吉田松陰と言えば、維新の志士を多数輩出した松下村塾の主宰者にして維新の精神的支柱と為った偉大な思想家・教育者であり、正義を貫き「安政の大獄」の犠牲と為った悲劇の主人公・・・これが、私共が公教育によって教え込まれた吉田松陰である。が、実態は全く違って居た様だ。今日は、そんな吉田松陰の実態に迫って行こうと思う。
■吉田松陰、その人を見る
「・・・政府はこうして早くも欧米の圧力からの民族独立と云う課題を、隣邦朝鮮・中国への侵略と結び着けた。欧米には『信義』を立てると云う名で従属しながら、朝鮮・中国の侵略を目指すと云うのは、幕末に長州藩士の指導者吉田松陰が説いた事である。アメリカ及びロシアとの和親条約が結ばれた後の1855年、松陰が獄中から「同士一致の意見」として兄に送った「獄是帳」に曰く、
『魯(ロシア)墨(アメリカ)講和一定、我より是を破り信を夷狄に失うべからず。唯、章程を厳にし信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取り易き朝鮮満州支那を切り随え、交易にて魯墨に失う所は、又土地にて鮮満に償うべし』
と。木戸等は先師の教えに何と忠実であった事だろう・・・」
(井上 清著−日本の歴史(中)より引用)
「松陰の思想の基本が何処に在ったか?」
松陰は幼少時から、神国思想・尊皇思想を父から叩き込まれて居た・・・一般の多くの有識者に取って神国思想は一般的であった。それが松陰の中ではより以上に抽出・濃縮されて殆どその思考によって「がんじがらめに」為って居た。その彼が、外国を知りその脅威を肌で感じたその刹那に皇国の危機を感じた。その危機意識が松陰に「対外的膨張主義」を考え出させるに至る。
松陰が理想とする皇国は、天皇統治の元対外膨張をする事で光輝を得る。ここには、軍事力による侵略主義の性格が在る。この露骨な軍事力による海外雄飛は、ペリーの軍事的圧迫による開国要求と同じである。
(高橋文博著「吉田松陰」より引用)
これは、読めば判る様に(彼の思想の根本は)明治以降の政府の方針そのものだった。松陰の父親から受けた教育の所為もあるが、その思考は、アメリカやイギリス等の欧米諸国と同様植民地政策を取り乍ら欧米の干渉を排除するのがその方針であり、これが明治政府の基本方針と為った。明治政府のその方向性が誤って居たとしたら、それは松陰の思考の歪みによるものだろう。
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次に松陰の平等思想に付いて
好く松陰は「平等の思想を持って居た」と云う。しかし、その平等思想の中身を考えてみよう。松下村塾において門弟の身分の上下を問わ無かった点において確かに松陰は他の多くの武士とは違って居たであろう。しかしその発想、武士としての考え方は他の武士達と何ら変わら無い。
彼も幕府を廃し世の中を天皇を中心とした国に作り変えようとする場合に頼んだのは矢張り武士であった。平等であろうとしながらも武士階級とその他の『農工商』の違いを念頭に置いて居り、決して彼等と手を繋ごうと云う気持ちは無かった。(但し、これは松陰のみで無く他の多くの武士もそうであったが)武士である自分達の特権階級にしがみ付いてしまい、そこから抜けられ無かった。以下の文章を見てみよう。
「・・・だが、現実から遊離した自己の絶対化は、閉塞した状況を打開出来無い絶望と表裏する。松陰の次の言葉にはそうした様相が現れて居る。
『只今の勢にては諸侯は勿論捌けず、公卿も捌け難し、草莽に止まるべし。併し草莽も亦力なし。天下を跋渉して百姓一揆にても起こりたる所へ付け込み奇策あるべきか。・・・・』」
(高橋文博著 「吉田松陰」より引用)
この文章に示された様に松陰は、民衆を利用出来るなら利用しても良いと考えて居る様だ。しかし、民衆と手を取って戦おうとする様な気持ちは見られ無い。飽く迄民衆とは違う自分達の武士としての立場から抜け出られ無いで居る。ここら辺が松陰の限界と言える。そして、この師に教えられた伊藤博文や山形有朋等がこの限界を感じる事も知る事も出来ず唯弾圧するしか無かったのも当然。
■吉田松陰と云うウソ
一言で言えば、松陰とは単なる乱暴者の多い長州人の過激派若造の一人に過ぎ無い。今で言えば、地方都市の悪ガキと言った処で、何度注意しても暴走を止め無いのでショッ引かれただけの男。唯、仲間内ではホンの少し知恵の廻る処が在ってリーダーを気取って居た。
とは言え、思想家・教育者等とは程遠く、それは明治が成立してから山縣有朋等がデッチ上げた虚像なのだ。長州藩自体がこの男にはホトホト手を焼き遂には士分を剥奪して居る。詰まり、武士の資格が無いと見られた食み出し者だった。
松陰と言えば、誰でも「松下村塾」を開いて維新の「志士」達を育成した指導者と答えるだろう。松陰と松下村塾と云う言葉は一体と為って居り、私達は松陰=松下村塾と刷り込まれて居る。
実は、松下村塾とは陽明学者とも見られる叔父の玉木文之進の私塾である。安政2(1855)年、又も実家預かりの身と為ったままで叔父であり師でもある玉木文之進の「松下村塾」の看板を掲げ、久坂玄瑞や前原一誠達と交わる。これは、僅か3年で閉じられるが、世に言う吉田松陰=松下村塾と言う維新のシンボルとも云える言葉はこの時期の事を指して居る。
公教育では、久坂・前原以外に木戸孝允や高杉晋作・品川弥二郎・伊藤博文・山縣有朋等が門下生として教えを受け、維新の英傑を輩出した事に為って居るが、この事は大いに史実と異なる。木戸は明らかに門下生でも塾生でも無く、高杉も“門下生”と言うより“ダチ”と言った方が近い。
そもそも松陰の松下村塾とは、師が何かを講義して教育すると云う場では無く、同志が集まって談論風発「尊王攘夷」論で大いに盛り上がると云う場であった様だ。そう云う仲間のリーダー格が松陰であり、山縣有朋の様な何処にも教えを受ける場の無い境遇の者も集まる様に為り後輩も生まれて来たと云う事の様だ。(尤も松陰は、山縣の事を殆ど知ら無い)
安政5(1858)年、日米修好通商条約が締結されると、松陰は老中の間部詮勝の暗殺を計画した。それを公言する松陰に対し藩は再び彼を捕縛・投獄する。安政6(1859)年、幕府は松陰の江戸への送致を命令、松陰は伝馬町の獄舎にて斬首刑。満29歳(享年30歳)であった。
松陰は、大老・井伊直弼の暗殺も主張して居た。又、幕府転覆を堂々と主張し、藩に対して大砲を始めとする武器の支給を願い出たりして居る。兎に角、暗殺、暗殺と喚く。これが又、久坂や前原と言った松陰同様の“跳ね上がり”には受けた。
長州藩が、杉家の杉梅太郎(松陰の兄)に警告を出して居る。「妄動して止まざれば投獄あるのみ」藩や門下生と言われる者達の一族にしてみれば、松陰の言動は文字通り「妄動」で、久坂の一族等は、何とか久坂を松陰から離そうと苦労した。(久坂の妻は松陰の妹である・・・花燃ゆの主人公)
安政の大獄の名で、大老の井伊が松陰に目を着け彼を処刑した事に為って居るが、当時の松陰は世間に溢れ出した尊攘派の中の特に荒っポイ一人に過ぎず、井伊は松陰と云う男の事等知ら無い。松陰自らが役人にそれ等の計画や考えを持って居ると申し出たに過ぎ無かった。井伊は、松陰の処刑に付いて長州藩に意向を聞いて居るが、長州藩の回答が、松陰の行動を「暴発」とし「斬首止む無し」と云うものだった。
当時の幕閣にしても諸大名にしても、松陰処刑を殊更の事件とも何ともみて無い。不逞の輩が一人処刑されただけ。こう云う松陰を「師」であると崇め出したのは、維新が成立して暫く経ってからの事。
拾い上げたのは日本軍閥の祖、長州閥の山縣有朋。中間(ちゅうげん)と云う足軽以下の出自を持つ山縣は、自然と累進するに従い拠り所が欲しく為った。又、それが必要と感じた。権力欲の強い男は己を引き上げる為にこう云う事を遣る。これによって、吉田松陰=松下村塾は一気に陽の当たる場所へ躍り出た。後は、雪だるまが坂道を転がる様なもので、気が着けば松陰は「神様」に為って居た。
高杉晋作・久坂玄瑞・前原一誠等が、松陰の「遺志」を継いだ“跳ね上がり”であった事を述べれば、松陰の実像はもっと理解し易くなる筈。百歩譲って、松陰が何らかの思想を持って居たとしても、それは将来に向けて何の展望も無い虚妄と呼ぶに近いもので、只管倒幕の機会を窺って居た長州藩そのものに取っても松陰は単なる厄介者に過ぎ無かった。
例えば、松陰の外交思想と云うものは余り語られ無いが、実に稚拙なものだった。北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州・台湾・フィリピンを領有するべきだ・・・と云うのだ。これを実行するのが、彼の言う「大和魂」なのだ。一体、松陰はどう云う国学を勉強したのだろうか。
■「維新」の“真犯人”水戸藩の狂気(其の六 水戸の公家かぶれと司馬史観の罪)
作家の司馬遼太郎氏はこれに付いては大変な罪を犯して居る。司馬氏は、全ての暗殺を否定すると断言するが、その同じ舌で「唯、桜田門外ノ変だけは『歴史を進展させた』珍しい例外」であると断じ、このテロを高く評価する。「歴史を進展させた」と云う一言で、司馬氏がどう云うスタンスで幕末史を語って居るかが明白に顕れて居る。
司馬氏には、人物で言えば三つの過ちがある。坂本龍馬(司馬氏は「竜馬」と云う表記で逃げ道を作って居る)・吉田松陰・勝海舟の三人を高く評価した点である。司馬史観と云うものがあってその核に「桜田門外ノ変」とこの三人の存在があるとすれば、司馬史観とは大いなる罪を犯して居ると言わざるを得ない。そして、更にそれは創作された虚構に過ぎ無い。
以上 参照 おわり
格安!新幹線の旅
歴史上の人物の評価は、時が過ぎる毎に新たな真実が見出され吟味され変化し、中には人の手で脚色され大きく逸(そ)れ色々と異なる様々な評価も存在する。研究で新たな資料が出て来たり、作者の想像で色々な脚色が着けられるから、時代に依って色々と変遷するものだろう。
だから、好く「貴方の尊敬する歴史上の人物は?」と問われ「断然、坂本龍馬だ!」と答える人が居るが、それは殆どが司馬遼太郎署の「竜馬が行く」を読んで、小説の中の竜馬の考えや生き方に感銘し感激した訳であり、正確には「司馬遼太郎が描く竜馬を尊敬し好きだ」と言うべきだろう。無論、司馬氏だけで無く他の大勢の作家が龍馬を取り上げて居り、その集合した龍馬像を読んでのものでもあるのだろうが・・・
同じく、徳川家康や豊臣秀吉に織田信長等も色々な作者に依って区々な性格描写を生み出して居る。作者は苦労して資料を手繰(たぐ)り、エピソードを吸い上げ一つの人物像を形作る。そして作者の中でストーリーを練り上げて行くのだが、それがその人物の全てでは無い、飽く迄も作者の作り出した人物だ。
作者は、時代状況や人物像を語りながら≪何か≫を読者に訴えたいのであり、そこに描かれた人物像と実像には大きな違いが在って当然であり、それが創作と言う小説だ。私は別にそれを悪いと言ってるのでは無い。一人の人物の見方は作者に依っては色々な角度から見られるし、どの様な評価でも可能だから。
本当は史実に基づくものがベターなのだろうが、歴史とは勝者が作り出した「作り物」であるのはご存知の通り。私達は、古事記以来日本の勝者の作り物を見せられ聞かされ、それを日本の歴史だと教えられて来た。敗者には歴史を語る資格は無いだから後世には残ら無い訳です。私達は、その作り物の中に隠された真実を想像し感じ、少しでも本質に近づきたいと努力し続けるだけ。
年号や事件に出来事の概略はある程度正確に伝わるだろうが、その裏に隠されたものは、時代の前後や状況を研究して想像するしか無い。特に近代の幕末から明治維新への物語は、歴史も浅く資料も豊富にある様で、一人の作者でも同じ人物を幾通りにも描き、相当な作品が残されて居る。大きな時代の変化が作者の興味を引き起こすのてしょう。が、明治維新への評価の殆どが「幕府の没落で政治が怠り、新興の外様の下級武士が新たな時代を切り拓いた・・・」と評価して居ます。敗者である新選組を取り扱った作品でも「敗者の美学」「滅びる美しさ」を唄い、明治維新で日本は新たな文明国へと為った・・・と結ぶものが多い。
しかし、この明治維新と云う言葉はその当時には無く、昭和に為って国を憂いてクーデターを企てた右翼や軍の下級将校達が、今まで「ご一新」と呼ばれて居た幕末からの時代を「明治維新」と名付け、今回の行動を「昭和維新」と叫んで始まったものだった。
このご一新で、果たして庶民の生活が楽に為り文化的な生活へと向上したかどうかは人に依って大きく評価が異なる。特に一般庶民に取って新政府が自分達の生活を楽にしたと思ったのは数少ないと思う。富国強兵を唄い殖産興業を目指した新政府にはお金が在りませんでした。それには国民から税金を今まで以上取るしか無い。更に、開国し貿易を始めた事で日常必需品の物価が上がり生活が苦しく為る。増税と物価高で一般庶民の生活が豊かに為る訳は無いのです。
「明治は好かった・・・」とする司馬氏の思い入れは、自ら戦争体験を持つ人に取って如何なものでしようか。明治に為ってから戊辰戦争・西南戦争・日清・日露戦争・・・と太平洋戦争の敗北まで日本は戦争を続けたのです。これが、長州の吉田松陰の目指した植民地獲得の為の侵略戦争だとしたら・・・果たして一般庶民に取って明治は好かったのでしようか・・・そして、松陰は日本の未来に一体何を残したのでしようか・・・
松陰の残したこと・・・
戦前まで、吉田松陰は類まれな「愛国者・偉大な教育者・神様」と崇められました。多くの書籍や浪曲・歌謡曲まで、現在までも「素晴らしい人物・人格者」と持ち上げられて居ます。特に心からの天皇崇拝者・愛国者としてその方面では神様として尊敬されています。
天皇崇拝の思想は、水戸学と本居宣長の影響を強く受けて居ますが、諸事態の解決策としてテロ・暗殺へと短絡的に走るのは彼の持って生まれた信条なのでしよう。何せ、考えるより行動が先走るのは、無暗に脱藩して各地を旅したり、黒船に乗り込んで密航を企てたり・・・そして、直ぐに自首して掴まる・・・これらの繰り返しでした。
幕府単独の開国に怒り、老中の井伊や真部暗殺を計画し仲間に決起を促します。これに久坂や高杉が「反対!」と血判状で諫(いさ)めますが、彼等に絶交を言い渡し藩に決起・討幕の為の武器を要求します。抑えの利か無い松陰に藩は彼を投獄しますが、伝え聞いた幕府が反幕運動の情報を得ようと彼を江戸に呼びます。
参考人調べ程度の幕府の取り調べに「老中暗殺を計画した謀反人です、処刑してください!」と松陰は申し出ます。遠島程度を考えていた幕府は長州藩に「如何する?」と問うています。藩は「処刑しても構わ無い」と回答します。
その獄中で仲間に対して書かれたのが「北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州・台湾・フィリピンを領有するべきだ・・・」とするものでした。驚くべきなのは、これが明治以来の日本外交の本質を突いて居たことです。実に明治以降の日本は、松陰の目指す「天皇中心の軍国国家・侵略国家」への道を進んだ訳です。
松陰を祀り上げる事に為ったのは、天皇中心の中央集権・軍国国家・侵略国家に為ろうとする明治政府に取っては都合の好い人物だからでした。自分の死を投げうって国を愛し行動する・・・殖産し富を増やして全てを軍備に廻して強い軍隊を作り、周囲に侵略を続けて植民地として富を吸い上げよう・・・これに政府やメディアが飛び付き、彼をアレヨアレヨと神様に持ち上げるシナリオが出来上がったのです。
聖徳太子の様に神童であり、10歳で藩主の前で講義し年少で藩の海防を任される・・・彼の弟子が明治政府の要職に就く様な偉大な教育者・・・と彼の人格を作り上げます。ですから、松陰の真実を知ろうと彼の過去を調べても、特別なことは見当たら無い。癇癪で短気で人の意見に耳を貸さず意固地な青年だった・・・程度です、全てが作られたものなのですから。
最も熱心に彼を持ち上げたのが軍閥の総指・山縣有朋だと言われて居ます。最も、長州閥として他の多くの人達が明治政府の権威付けの為に大いに協力した事でしょう。素晴らしい思想の下に明治政府が作られ、指導者の権威を飾るに相応しい素晴らしい人物を作り上げた訳です。
実際の松陰本人では無く、作り上げられ脚色された松陰像を尊敬し愛し崇めたてるのは個人の自由です。作られ描かれた人物像は非の無い理想的な人格を得られますから。ですから、もし人に話すのなら「作り上げられ脚色された吉田松陰が好きだ」と言うのが正確なのでしょう。明治維新から150年、次々と今迄色々隠されて来たものが現れる事に期待して今回は終わります・・・
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2018年04月29日
明治維新から150年 東北を歩く 白石城
維新戦争(明治維新)150年 東北を歩く
〜列藩同盟 歴史の大舞台 *白石城(宮城県・白石市)〜
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(*白石城は1602年伊達家の重臣・片倉小十郎が城主と為って以降片倉家の居城と為る。維新後の1874年に解体されたが1995年に三階櫓・天守閣などが復元された。白石城・歴史探訪ミュージアムには、片倉家ゆかりの甲冑などが展示され、近くには武家屋敷もある。東北新幹線・白石蔵王駅から車で10分。東北自動車道・白石ICから車で10分)
維新戦争を語る上で欠かせ無い「奥羽越列藩同盟」が基本合意されたのが1868年の「白石城」ででした。「錦の御旗」を掲げた新政府軍は、奥羽越諸藩に会津藩の討伐を命じましたが、仙台・米沢藩を中心として、会津藩を救済する平和解決を目指すべく奥羽越諸藩に呼び掛けます。その呼び掛けに応じた14藩の代表が白石城に集まり話し合いを始めました。
その白石会議では、白石城三の丸に在った片倉家・家老の屋敷で行われ、会議では会津藩救済の嘆願書を出す事に決定しました。が、新政府総督府はその嘆願を直ちに却下してしまいます。そして事件が起こります・・・仙台藩士等が総督府の下参謀・世良修蔵(長州藩士)を暗殺してその首が白石城に運ばれたのです。この暗雲が立ち込める中、諸藩は白石に参集し盟約に基本同意する31藩から為る「奥羽越列藩同盟」が誕生する運びと為ります。7月には白石城に同盟の軍議所(公議府)が設けられ、新政府と敵対した皇族の輪王寺宮を迎えたのです。
だが・・・数か月後、同盟の要だった仙台・米沢藩が新政府に降伏、その後次々と同盟した諸藩が新政府に降伏します。維新戦争はその後函館に局面が代わり、五稜郭での幕府側の敗戦に至ります。
白石藩(片倉家)は城と領地を新政府に没収され、家臣の多くが北海道への移住を迫られます。1868年の白石は、東北に取って維新戦争が始まりそれ以後長く続く苦難の始まりでした。辛い記憶として受け継がれて来た維新戦争ですが、白石は最後まで徳川家への「義」を貫いたのです。
「地元の人々は、その事を余り語りません」が「歴史が動いた重要な舞台だった事を地元の人々に知って欲しい。歴史の掘り起こしを集めたい」と白石の歴史に詳しい白石市立図書館の桜井和人係長が思いを寄せます。
〜朝日新聞 2018年(平成30年)4月29日 朝刊記事より引用〜 以上
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白石城は、伊達政宗の重臣・片倉小十郎の居城として、江戸幕府の一藩一城令の例外として認められ幕末まで続きました。藩政時代より仙台藩の南の防御として重く置かれて居たのです。今では、「白石温麺(うーめん)」発祥の地として名が知られて居ます。小麦粉に塩のみで作られた短いソーメンの様な食べ物ですが、アッサリとした感触で親しまれて居ます。片倉家の北海道開拓物語も、小説や映画にも何度も取り上げられたものですが、簡単にそのあらましを・・・
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北海道を開拓した片倉家中
明治元年(1868年)戊辰戦争に敗れた片倉氏は、賊軍の汚名を受け白石城とその領地を取り上げられます。片倉家中1.400人とその家族は住む場所が無く為ってしまいました。当時の領主片倉邦憲は、家来の代表数百名を集め今後を話し合います。薄暗い本堂に3日間寝ずに話し合いますが好い考えは出ません。19才の家老佐藤孝郷が言いました。「賊軍の汚名を払うには、北海道に移住してこそ武士の面目が立つ」
孝郷の言葉に家来達も賛成し、明治3年(1870年)から片倉家中の命懸けの北海道移住が始まります。当時、全くの未開地であった北海道に女子供を連れた旅は辛く厳しいものでした。しかも、北海道への旅費を貧しい家来達が自分で支払わ無ければ為らぬ苦しい思いのものでした。余りの状況を見兼ねた白石按察府(あんさつふ・地域の政治を行った新政府の行政機関)は、白石城を壊し売ったお金150両を特別に家来達に与えます。
移住を提案した孝郷は、明治4年(1871年)9月12日 398人の仲間と寒風沢(かんぷうざわ・今の塩竈市浦戸)を出発します。船は過って勝海舟や福沢諭吉等を乗せてアメリカを往復した咸臨丸でしたが、帆船と為って居た咸臨丸は6日掛かって函館に着きます。その後、小樽に向かう途中で嵐に遭って船は岩に乗り上げ、全員がヤッと上陸すると咸臨丸は敢え無く沈没してしまいます。
その後、後続の船に乗り替え苦労の末やっと新しい土地の小樽に辿り着きました。孝郷は、開拓使貫属(かいたくしかんぞく)取締に任命され札幌本庁と交渉し、月寒(つきさっぷ)の丘から川が流れ林が広がる土地を選び譲り受けます。機械の無い時代、全て人の手で大きな木を切り根を堀起こし土地を耕し冬の寒さに耐えながら開拓を続けます。
視察に訪れた北海道開拓使判官岩村通俊は、片倉家中達の見事な仕事振りに感心し、この土地を故郷の名を取って「白石村」(今の札幌市白石区)と名付けました。孝郷は、多くの困難を乗り超え開拓者達を励まし続けた働きを認められ、明治7年(1877年)25歳で札幌初代区長に為ります。以上
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サテ、今までの文中に出て来た、長州藩士・新政府総督府の下参謀・世良修蔵の暗殺事件に付いての記事です。
世良修蔵暗殺
1867年、江戸幕府の将軍・徳川慶喜が天皇に政治を返上し、薩摩藩や長州藩が中心と為り明治政府が出来ました。明治元年(1868年)1月、新政府軍と旧幕府軍の戦いが始まり、京都の鳥羽・伏見で新しい武器を使う新政府軍に幕府軍は敗走しました。
3月 新政府軍は、仙台・米沢藩等に会津藩・庄内藩を倒せと命令します。左大臣の九条道隆・長州藩の世良修蔵・薩摩藩の大山格之助が奥羽地方に遣って来ました。仙台藩は、新政府軍と会津藩の間に入り、戦いに為ら無い様穏やかに解決しようとしました。しかし、世良は会津を戦いで倒そうと考えて居ました。
仙台藩の伊達慶邦は世良に背く事が出来ず、白石城を本陣とし会津藩と戦う決意をしますが、両方の藩に戦う気持ちは無く、最終的に会津藩に負けを認めさせ話合いをする事に為りました。そして、4月11日 奥羽地方の27の藩主・家老達が白石城に集まります。そこで、全ての藩が会津藩と戦わ無い事に賛成しました。これが「奥羽越列藩会議」です。
会議の次の日、伊達慶邦達は岩沼に居た左大臣の九条道隆に会い「会津藩が負けを認めるから戦わ無いで欲しい」とお願いしますが九条道隆は断りました。「会津藩を何が何でも討ち取る」と云う世良の考えがあったからです。
1868年4月19日 世良修蔵は秘密の手紙を新庄の大山格之助へ出します。偶々、この事を知った仙台藩の瀬上主膳が世良の秘密の手紙を手に入れます。この秘密の手紙には「奥羽を皆敵と見て、武力で一気に倒す」と云う事が書かれて居ました。怒った瀬上は仙台藩の武士8名に世良修蔵を殺すよう命令、福島北町の金沢屋に泊まって居た世良を捕らえ、翌朝、阿武隈川の河原で打ち首にし、身体は河原に埋め首は白石に持って行きます。
この暗殺の後白石城で話合いが始まり、同意する31の藩で「奥羽越列藩同盟」が結ばれ新政府軍と戦う事を決定。しかし、新しい武器を使う新政府軍に次々と負け続け白石城も壊されます。この戦いで負けた東北の人々を新政府は賊(ぞく)と呼びました。
明治8年(1875年)、宮城県が翌年の明治天皇東北巡行(天皇が各地を旅する)に備えて世良修蔵のお墓を建てます。このお墓には、世良を殺した者を「為賊(反ぎゃく者と為った)」と刻まれて居ましたが、今はその碑に「為賊」の二文字は残って居ません。明治22年大日本帝国憲法発布を記念して行なわれた明治政府の許しにより、賊名が取り除かれた為白石の役所で削り取ったらしいのです・・・以上
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私も何度か白石城へ行った経験があります。再建された天守閣は映画のロケ地の模型のような小規模な感じですが、庭も広がる全体に可愛らしい佇まいです。ミュージアムでは、白石城の維新戦争を題材にした映画を見ること出来ました。
帰りに白石温麺の色々な具(天ぷら・刺身・その他もろもろ)と各種タレ付きの定食をとりましたが、醤油・白ごま・黒ごま・味噌等の色々なタレによって単純な温麺がバラエティーに富んで味わう事が出来ます。市内には色々な店で温麺を味わえます。
5月3日からの「市民春祭り〜片倉候まつり〜」で、太鼓山車や甲冑姿の武者行列が壮観に白石城下を練る歩き、本丸広場では片倉鉄砲隊による火縄銃演武もまつりを盛り上げます。
白石からは近くに、家族で遊べる大規模な温泉プール等もあり子供たちも大喜び・・・ひなびた遠刈田温泉はナカナカ風情に富んでいます。又は少し足を伸ばして秋保温泉の大型ホテルもありますよ・・・
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季節が遣って来ました・・・サイクリングです。事前に充分手入れを怠りなく服装も再チェックして出発です!
2018年04月28日
日本は元々平和民族だった・・・その2
参照 第3回 「コバテツ独創史観」 五十年戦争史観
1問題意識 「平和民族に取っての戦争時代と云う矛盾」
私はこの小論全体を「平和民族日本」と云うテーマで一貫したものとして書いて居ます。前章で「江戸時代迄の平和な歴史」を説明しました。処が、明治以後の日本を見ると、とても平和愛好民族とは言え無い多くの戦争をして来ました。
それにも関わらず私は「平和民族として一貫して居る」と書こうとして居る処に、以下の章の理解困難な処があります。今の日本で私の様に「日本人は平和民族」と思って居る人は少ないでしょうから、前章を説得する事に先ず困難がありました。ここからの章はそれにも増して困難なもので、一見奇妙にさえ思えるかも知れません。
60年前に侵略戦争を経験してしまった現代日本人に取って「日本人は本来平和民族だった」と云う事が信じられ無いのも無理はありません。だから現代日本人は「日本人は本来好戦的な民族だ」と思い込んで居る節があります。
その常識に逆らって私は「日本人は平和民族であった」と云う仮説を立て、江戸時代迄の平和な様子に付いて前章で一応説明しました。「幾らあの戦争が酷いものだったからと言って、何も江戸時代の平和迄否定する事は無い!」と云うのが先ず言いたい事でした。この章では明治以後の戦争の時代の説明に入ります。
この章で扱うのは「江戸時代迄平和民族だった日本人が、何故明治以後に突然戦争ばかりする様に為ったのか?好戦民族に変身してしまったのだろうか?」と云う疑問です。これは今迄誰も考え付か無かった設問だと思います。
前段の「本来平和民族だった」と云う部分に同意出来無い人には「平和民族にも関わらず近代に為って突然戦争を始めた理由を考える」等と云う発想そのものが浮かば無いでしょう。「過去の戦争の反省が不足だ」と主張して居るサヨクの人に「平和民族日本」等と云っても、誤魔化された様な気持ちに為るだけかも知れません。
この様な誰も発し無かった質問に取り組む為には、様々な常識を一度ヒックリ返して見る必要があります。これがこの章で独断的仮説が沢山必要に為る理由です。兎に角この章では頭の体操みたいな事に為りますが、少々私の独断と付き合って貰いたいと思います。
2平和な日本史の例外的時期
日本史全体を「平和」に焦点を当てて眺めて見ると、大阪夏の陣(1615年)以後、現在迄の約400年間が日本本来の平和の時代で,その内明治維新(1868年)以後、敗戦(1945年)迄の80年間だけは、その間に挟まった例外的な戦争の時代と見る事が出来ます。
日本が戦争ばかりして居た近代と云う時代は、本来平和民族だった日本人の例外的時期に過ぎ無いと云う見方です。この様に長いスパンで日本史を眺めて、戦争の時期の方が例外の期間だったと見ると、この例外は何故起こったのか?と云う疑問が考え易く為ります。
近代日本の戦争をズッと見渡してみると、何と馬鹿気た戦争をして来たのだろうか?と云う思いに捕らわれます。先ず一番理解に苦しむのが太平洋戦争ですが、何故負けるに決まって居る無謀な戦争をしてしまったのでしょうか?
未だに、あの戦争をし無ければ為ら無かった理由を説明出来る人は居ません。何故あんな馬鹿気た戦争をしたのか?と考え詰めると、日本人は本来戦争が不得手な民族なのではないか?と云う仮説を思い着きます。
日清・日露戦争は、現在でも成功だったと思われて居ますが、あの戦争に付いても「何の為に戦争をしたのか?」と検討してみると、私には矢張り意味の無いものだったと見えて来ます。日本人は元々戦争が嫌いで苦手だったから、あんな奇妙で馬鹿気た必要の無い戦争をしてしまったと考えると何だか辻褄が合う気がします。
サテ「本来不得手な戦争を立て続けにする様な日本に何故為ったのか?」と云う疑問を解く鍵は「平和日本から戦争日本へのターニングポイント」である「明治維新」にあると思います。
注:過つての戦争を「侵略戦争」と規定して反省する考えも有りますが、ここで私が強調して居るのは「必要の無い戦争」と云う点である事にご留意下さい。戦争を中国の立場から見るのでは無く、より日本人の立場から見ようとする為の発想です。
明治維新で悪く為った日本
あの間違った戦争の原因は、あの戦争を見て居るだけでは解らず、もっと遡って明治維新の経過を詳しく見てみる必要があると考えました。これがこの章のテーマです。
3、日本史3回の「侵略と敗戦」
明治維新との類似性
明治維新は、黒船ショックに対応して、近代的国民国家を形成したものですが、勢い余って海外侵略を始め、その結果は太平洋戦争の敗戦に終わるものでした。日本史全体を眺めるとこの様な侵略・敗戦の経験は三回在ったと前章で述べました。ここでは明治維新との類似性に焦点を宛てて、もう一度、第一回白村江の敗戦、二回目秀吉の朝鮮侵略を見直します。
@ 大化の改新(645年)と明治維新
白村江の敗戦(663年)
大化の改新は、豪族を抑えて天皇制を確立したクーデター程度と思われて居ますが、私は国際変動に対応しての中央集権国家の確立と言う見方を提案します。
中国では先ず隋が統一国家を創り(581年)、次いで唐と云う強大な帝国が起こり、半島では新羅が統一を図りつつありました。この国際社会の変化に緊張した大和政権は、対外的には百済を応援し、国内的には律令国家を整備して、国民の統合・中央集権国家の確立と富国強兵策で対決しようとしました。この時の文明開化は遣隋使(600年)に始まります。
618年に唐が建国されて、その軍事的圧力に対応する必要を感じた大和政権は、旧勢力を打倒して天皇の下の中央集権を図る大化の改新(645年)を断行して、土地制度・租税制度・法体系・政治組織等全てを唐の制度を見習って変革しました。(これは明治維新に当たり、その改革と殆ど同じ範囲でした)
しかしながらこの改革にも関わらず、百済応援軍は白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に大敗し百済は滅亡しました。(これは太平洋戦争敗戦に当たります)
この敗戦によって本土防衛の必要性を痛感した大和政権は、その為の様々な体勢・設備を整えました。唐と戦って敗れたにも関わらず、引き続き唐から学ぶ為に遣唐使を継続して、更に律令体制の導入に懸命な時代が暫く続きます。
アメリカに負けたのにその後物凄い勢いでアメリカ化した戦後の我々の経験を思い出します。負けた相手に学ぶと云う事が共通して居ます。こう云う風に見て、明治維新から敗戦迄の間は「第二の大化の改新」だったと言えます。
A秀吉の天下統一と朝鮮征伐
南蛮人がもたらした鉄砲によって戦国地図が一変し、結局信長・秀吉によって全国統一が完成しました。この頃日本のエネルギー(活力)は国内で収まりが着かず、東南アジア(ルソン・シャム等)へ活躍の場を広げて居ましたが、ここで南蛮(スペイン等)勢力と接触し国際緊張を体験する事と為ります。この接触から外圧を感じて国内統一が進んだと言っては言い過ぎですが、そう云う要素も少しは在ったかも知れません。
秀吉の統一は、明治の中央集権化に対応します。そう云う統一のエネルギーが外へ向かった処が明治と共通して居ます。統一を完成した秀吉が直ちに朝鮮征伐を開始した事を、彼の狂気やボケの所為にするのでは無く、この様な時代の流れの中で解釈すべきと私は考えます。鉄砲の威力・キリスト教や南蛮のものに対する魅力は、恐らく日本人の心の中を混乱させた事でしょう。
これは明治の文明開化の興奮に共通します。西洋との最初の接触に触発された興奮が朝鮮侵略を誘い、そして手痛い敗戦で終わると云う点が明治維新との共通点です。秀吉の敗北は、江戸時代250年の泰平に繋がる事と為りますが、昭和の敗北はどう云う未来を開くでしょうか?
このページの結論
日本の海外侵略は必ず失敗する。もし日本史に三回の海外侵略と云う事が無かった為らば、これ程平和な歴史を持つ素晴らしい国民は無いと言えます。こう云う自信を持って日本の将来を築けば、平和で幸福な未来は間違い無し、と思うのですが如何でしょうか?
4 世界史の中の近代日本(世界史のゲームへの参加)
前章では「江戸時代迄の日本が平和民族であった事」を縄文時代以来の日本本来のものとして見てみました。戦争ばかりして居た世界の中での「例外的な存在」としての平和な日本を強調しました。日本列島を、日本海で隔てられた島国と見て、ユーラシア大陸の戦争の世界とは別の文明として対比させました。ユーラシア大陸全体(西洋から中国迄)を戦争文明と一括りにして、それと島国日本の平和文明とを対比させました。
ユーラシア大陸は、歴史始まって以来の攻めたり攻められたりの繰り返しによって戦争の技術を高めて来ました。19世紀の西洋は国民国家同士が植民地争奪戦を演じて居た時代であり、これは正しく「世界史のゲーム」が戦われて居た時代でした。
ユーラシア大陸の熾烈な戦争社会から隔絶した平和な島国で、侵略される恐れを感じた事の無い生活をして来た日本が、黒船によって泰平の夢を覚まされた時にどの様に対応したか?と云うのがこの章で考える「幕末―明治維新」の問題です。
この荒波を受けて「世界史のゲーム」に参加したのが開国でした。「政治の延長としての戦争」等と考えられる様な「世界史のゲーム」の真っ只中に、日本はこの時強制的に参加させられました。この時日本は、嫌応無しにグローバルスタンダードの時代に突入したと言えます。唯受身的に世界に向かって窓を開いたと云うだけで無く、この「世界史のゲーム」に積極的に参加したのが明治維新でした。
世界史のゲームと云うのは「戦争ゲーム」に他なら無いものですから、平和日本の最も不得意とするゲームだったのです。一万年の間、異民族との戦争を殆どした事の無い日本が、一万年の間戦争を繰り返してお互いに鍛え合って来た西洋のゲームの世界に参加するのですから、そこには大きな力の差が歴然として居ました。言わば縁台でへぼ将棋を打って居た素人が突然プロに勝負を挑んだ様なものでした。
この様に近代日本の戦争は、戦争を避けて来た平和民族日本人が背伸びをして戦争ゲームに加わったもので、そもそも初めから無理がありました。そう云う無理な背伸びをして、する必要の無い戦争をしてしまい大敗北を喫する事に為ってしまいました。
5 明治維新は奇跡的な成功か?
維新は無くとも近代化は成功した
日本は現在、世界の中の経済大国としての繁栄を謳歌して居ますが、これは明治維新による近代化(西洋化)の成功のお陰だと普通には考えられて居ます。日本はこの時、西洋の模倣に見事に成功し中央集権体制を確立し、近代国家に生まれ変わる事が出来た、この成功のお陰で日本の現在が在るのだと高く評価するのが現在の常識です。それは非西洋世界での唯一の奇跡的成功だったと迄言われます。
しかし私は「維新の素晴らしい改革のお陰で日本の現在がある」と云う考えに異議を立てて、維新が無くとも日本の現在の繁栄はあり得た」寧ろ「維新が無かった方が、もっと平和で豊かな日本に為って居たに違い無い」と云う歴史認識を提案します。
大政奉還・倒幕・廃藩置県・徴兵制等の大変革をし無いで、文明開化・近代化だけをした為らば、以後の戦争をし無くて済んだに違い無い。そうすればもっと素晴らしい日本に成って居たに違いない。今からでも遅く無いから、そう云う日本を目指せば世界の尊敬を集める日本に成る事が出来るに違い無いと云う提案です。
日本の現在の繁栄は奇跡では無い
江戸時代に既に日本の産業は離陸準備期に在って、開国をすれば直ちに民間活力で離陸出来る態勢にありました。即ち維新のお陰で現在が在るのでは無くて、当時の日本には経済発展の潜在的・顕在的能力が在ったのであり、決して奇跡ではありません。
アジアと日本
一早く世界史のゲームに参加して成功した日本に比べて、中国・朝鮮は近代化に遅れた為に、先に強く為った日本によって酷い目に会わされてしまいました。日本としては良かったとしても、近隣諸国に迷惑を掛けてしまったと云う事は否定出來ません。この事がある限り、明治維新を手放しで礼賛出来るものではありません。この章では、アジアに対しての加害の事実も心に留めて、明治維新を見直したいと思います。
6 坂本龍馬の理念・・・大政奉還
明治維新に理念を持って居た人として坂本龍馬が居ます。彼の理想が一番正当性のあるものだったと私は思います。坂本龍馬は徳川慶喜が大政奉還を実行した事を聞いた時に、慶喜の為になら死んでも良いと感激したと言いますが、これは本当に国を思う真心だと私も感服して居ます。しかし彼が暗殺されてしまった為に、彼の意思に反した戦争が起こってしまいました。(戊辰戦争)
薩長は、飽く迄も倒幕・権力奪取を目指した為、平和主義の坂本が邪魔に為り彼を暗殺したのに違い無いと考えます。(伊藤博文が犯人だと言う説が浮上して居ます)よって明治維新はこの時点で横道に逸れて迷走を始め、行き着いたのは太平洋戦争の敗戦と云う悲劇でした。
ここで私が迷走と書いたのは、その後の西南戦争等の内乱・明治始めの一揆の頻発・なかんずく日清・日露に続く海外侵略を意味します。しかし坂本龍馬と言えども、その理想は脱藩の時から持って居たものではありません。様々な試行錯誤を経てやっと最後に大政奉還の理念に辿り着いたと云う所です。
7 反幕にも倒幕にも大義は無い
初めは反幕 鎖国を絶対の原則と信じた保守的な考えの人達は、外国に対する反感を露わにして攘夷を叫びました。この反感は西洋が近づいた時に何処の国にも見られた自然な気持でした。そしてこの攘夷派の人達は、黒船の要求を入れて開国した幕府に屈辱感を持ち、それに反発して反幕運動を開始します。これは幕府の具体的な政策に対する具体的な反発ですから、反幕で在っても倒幕の意識はありません。
何回も書きますが、攘夷等と云う感情は決して大義に為る様な思想ではありませんから、この反幕運動に大義はありません。況(いわん)や幕府を倒さなければ為ら無いと説明出来る理由や大義は全く無かったのです。
倒幕思想 一方長州藩には関ヶ原以来の徳川幕府に対する恨みが残って居たと言われて居ます。この怨念は山県大弐・吉田松陰・月性・久坂玄瑞・真木和泉・高杉晋作へと引き継がれました。しかしこの倒幕思想がハッキリと藩の方針と為るのは、薩長同盟が成立する頃です。又薩摩藩はそれ迄は幕府側に立って長州を敵とする側でしたから倒幕等思いも寄ら無い事でした。
だから「倒幕」と言う考えが反幕府勢力のコンセンサスと為ったのは、維新最期の局面の戊辰戦争の時からに過ぎません。それ迄は幕末の志士達は幕府の政策に反対して「尊王攘夷」を叫んで幕府に反対し反幕運動を繰り広げて居ました。これは幕府からは睨まれて居ましたが、「倒幕」を意識しては居ませんでした。「何の為に幕府を倒す必要があるのか」と云う理念が無かったからです。又勤皇の志士のスローガンであった「尊王」の大義は、大政奉還・公武合体で十二分に実現され倒幕迄は必要無かった筈です。
今から考えると「制度疲労を起こしてしまった今の幕府では、この困難な時局に対応出来無いから、政権交代が必要だ!」と考えた人が居たのでは無いかと思ってしまいますが、実際はそう云う事を言った人は殆ど見当たりません。(勝海舟は例外?)自分ならこうすると云う具体案・対案が無ければ言え無い事でした。西洋に対抗して国民国家と為る事を最重要課題とする為らば幕府を倒す必要はありませんでした。
この時に、戦争をしなければなら無い正当な理由を私は見つけられません。それ処か外国が犇(ひしめいて)めいて居るこの様な時に、内輪揉めをして居る時では無かった筈だからです。西郷隆盛は「未だ戦争が足り無い」と言ったそうですが、この様な理由で戦争をしたとしたらそれは暴力主義そのものの発想です。
サテ、薩長勢力が強引に戊辰戦争を始めた目的は「倒幕」であり、自分達が徳川幕府に取って代わる事でした。薩長が倒幕を考えて戊辰戦争を仕掛けた時に至っても、諸藩を潰して集権国家を造る等と云う考えは無く、別の幕府を開く程度の気持ちだったと推測します。詰まり近代国家を作る為の倒幕では無かったと言えます。
結論 倒幕(政権交代)と云う考えには大義がありません。倒幕は維新の理念に為り得ず、維新に理念は無かったとまとめる事が出来ます。詰まり「明治維新は必要無かった」と云う結論に為ります。
以上 参照第三回 おわり
私は、この文章に全面的に賛成します。私の父は鹿児島藩の下級士族の出で、父の兄等は医者や地方官僚として土地の名士でも在ったそうで、所謂、支配階級の末端に属して居ました。 父は末っ子で甘やかされて育ち禄(ろく)でも無い学生時代を続けましたが、何とか教師の職に在り付いて一生を終えました。
子供の頃古い戸籍謄本を見た事が在り、父の名前の下に「士族」と母の名の下に「平民」と書かれて居ました。母は岩手県盛岡郊外の貧乏百姓の娘で女子師範を出て小学校の教師をして父と見合いしたのです。父は、恐らく薩長閥に属し何らかの特典も受けた人なのでしようが、母の生まれた岩手県は、反政府側の領主の農民としてさぞや辛い扱いを受けた事でしよう。
サテ「平和民族日本を、50年間の戦争時代に導いた元凶は『明治維新』にある」とする仮説のレポートを参照しました。如何だったでしようか。
島国である日本は、外敵から侵略された事は無く(元寇は日本が侵略と誤解したものとする)、その恐れだけで軍備を増強し備えた。しかし、強大な軍備を持つとそれを使いたく為ります。そこから日本の軍事大国化へと進み近隣主国への侵略が開始されたのです。「明治は素晴らしい」・・・とする一途な感慨は如何なものでしようか。多くの人達に語り継がれた明治維新の「日本を開いた」とする称賛は、一度立ち止まって考え直す時期に来て居るのでは無いでしようか。
勿論、明治は見方によっては新しく素晴らしい時代では在ったのですが、全ての政策が過激であり極端であり上から下への権力の一方通行の硬直したものでした。そして、一番に挙げたいのが、未来の日本を築く青少年の教育が国家に依って多様的価値観を投げ捨てた画一された価値観のみを国民に押し付けたものだったのです。教育が画一化された事で、精神的に足腰の弱い、個人としての自我が弱く全体に流される(空気を読みすぎる・・・忖度)感の強い、悪い意味で付和雷同の強い専制国家へと流され易い体質へと為ってしまった様です。
明治の遺産は「教育⇒戦争 参照 第3回 「コバテツ独創史観」 五十年戦争史観
1 問題意識 「平和民族に取っての戦争時代と云う矛盾」
私はこの小論全体を「平和民族日本」と云うテーマで一貫したものとして書いて居ます。前章で「江戸時代迄の平和な歴史」を説明しました。処が、明治以後の日本を見ると、とても平和愛好民族とは言え無い多くの戦争をして来ました。
それにも関わらず私は「平和民族として一貫して居る」と書こうとして居る処に、以下の章の理解困難な処があります。
今の日本で私の様に「日本人は平和民族」と思って居る人は少ないでしょうから、前章を説得する事に先ず困難がありました。ここからの章はそれにも増して困難なもので、一見奇妙にさえ思えるかも知れません。
60年前に侵略戦争を経験してしまった現代日本人に取って「日本人は本来平和民族だった」と云う事が信じられ無いのも無理はありません。だから現代日本人は「日本人は本来好戦的な民族だ」と思い込んで居る節があります。
その常識に逆らって私は「日本人は平和民族であった」と云う仮説を立て、江戸時代迄の平和な様子に付いて前章で一応説明しました。「幾らあの戦争が酷いものだったからと言って、何も江戸時代の平和迄否定する事は無い!」と云うのが先ず言いたい事でした。この章では明治以後の戦争の時代の説明に入ります。
この章で扱うのは「江戸時代迄平和民族だった日本人が、何故明治以後に突然戦争ばかりする様に為ったのか?好戦民族に変身してしまったのだろうか?」と云う疑問です。これは今迄誰も考え付か無かった設問だと思います。
前段の「本来平和民族だった」と云う部分に同意出来無い人には「平和民族にも関わらず近代に為って突然戦争を始めた理由を考える」等と云う発想そのものが浮かば無いでしょう。「過去の戦争の反省が不足だ」と主張して居るサヨクの人に「平和民族日本」等と云っても、誤魔化された様な気持ちに為るだけかも知れません。
この様な誰も発し無かった質問に取り組む為には、様々な常識を一度ヒックリ返して見る必要があります。これがこの章で独断的仮説が沢山必要に為る理由です。兎に角この章では頭の体操みたいな事に為りますが、少々私の独断と付き合って貰いたいと思います。
2 平和な日本史の例外的時期
日本史全体を「平和」に焦点を当てて眺めて見ると、大阪夏の陣(1615年)以後、現在迄の約400年間が日本本来の平和の時代で、その内明治維新(1868年)以後、敗戦(1945年)迄の80年間だけはその間に挟まった例外的な戦争の時代と見る事が出来ます。
日本が戦争ばかりして居た近代と云う時代は、本来平和民族だった日本人の例外的時期に過ぎ無いと云う見方です。この様に長いスパンで日本史を眺めて戦争の時期の方が例外の期間だったと見ると、この例外は何故起こったのか?と云う疑問が考え易く為ります。
近代日本の戦争をズッと見渡してみると、何と馬鹿気た戦争をして来たのだろうか?と云う思いに捕らわれます。先ず一番理解に苦しむのが太平洋戦争ですが、何故負けるに決まって居る無謀な戦争をしてしまったのでしょうか?
未だに、あの戦争をし無ければ為ら無かった理由を説明出来る人は居ません。何故あんな馬鹿気た戦争をしたのか?と考え詰めると、日本人は本来戦争が不得手な民族なのではないか?と云う仮説を思い着きます。
日清・日露戦争は、現在でも成功だったと思われて居ますが、あの戦争に付いても「何の為に戦争をしたのか?」と検討してみると私には矢張り意味の無いものだったと見えて来ます。日本人は元々戦争が嫌いで苦手だったから、あんな奇妙で馬鹿気た必要の無い戦争をしてしまったと考えると何だか辻褄が合う気がします。
サテ「本来不得手な戦争を立て続けにする様な日本に何故為ったのか?」と云う疑問を解く鍵は「平和日本から戦争日本へのターニングポイント」である「明治維新」にあると思います。
注 過つての戦争を「侵略戦争」と規定して反省する考えも有りますが、ここで私が強調して居るのは「必要の無い戦争」と云う点である事にご留意下さい。戦争を中国の立場から見るのでは無くより日本人の立場から見ようとする為の発想です。
明治維新で悪く為った日本
あの間違った戦争の原因は、あの戦争を見て居るだけでは解らず、もっと遡って明治維新の経過を詳しく見てみる必要があると考えました。これがこの章のテーマです。
3 日本史3回の「侵略と敗戦」
明治維新との類似性
明治維新は、黒船ショックに対応して、近代的国民国家を形成したものですが、勢い余って海外侵略を始めその結果は太平洋戦争の敗戦に終わるものでした。日本史全体を眺めるとこの様な侵略・敗戦の経験は三回在ったと前章で述べました。ここでは明治維新との類似性に焦点を宛てて、もう一度、第一回白村江の敗戦、二回目秀吉の朝鮮侵略を見直します。
@ 大化の改新(645年)と明治維新
白村江の敗戦(663年)
大化の改新は、豪族を抑えて天皇制を確立したクーデター程度と思われて居ますが、私は国際変動に対応しての中央集権国家の確立と言う見方を提案します。
中国では先ず隋が統一国家を創り(581年)次いで唐と云う強大な帝国が起こり、半島では新羅が統一を図りつつありました。この国際社会の変化に緊張した大和政権は、対外的には百済を応援し国内的には律令国家を整備して、国民の統合・中央集権国家の確立と富国強兵策で対決しようとしました。この時の文明開化は遣隋使(600年)に始まります。
618年に唐が建国されてその軍事的圧力に対応する必要を感じた大和政権は、旧勢力を打倒して天皇の下の中央集権を図る大化の改新(645年)を断行して、土地制度・租税制度・法体系・政治組織等全てを唐の制度を見習って変革しました。(これは明治維新に当たりその改革と殆ど同じ範囲でした)
しかしながらこの改革にも関わらず、百済応援軍は白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に大敗し百済は滅亡しました。(これは太平洋戦争敗戦に当たります)
この敗戦によって本土防衛の必要性を痛感した大和政権は、その為の様々な体勢・設備を整えました。唐と戦って敗れたにも関わらず、引き続き唐から学ぶ為に遣唐使を継続して更に律令体制の導入に懸命な時代が暫く続きます。
アメリカに負けたのにその後物凄い勢いでアメリカ化した戦後の我々の経験を思い出します。負けた相手に学ぶと云う事が共通して居ます。こう云う風に見て、明治維新から敗戦迄の間は「第二の大化の改新」だったと言えます。
A秀吉の天下統一と朝鮮征伐
南蛮人が齎した鉄砲によって戦国地図が一変し、結局信長・秀吉によって全国統一が完成しました。この頃日本のエネルギーは国内で収まりが着かず東南アジア(ルソン・シャム等)へ活躍の場を広げて居ましたが、ここで南蛮(スペイン等)勢力と接触し国際緊張を体験する事と為ります。
この接触から外圧を感じて国内統一が進んだと言っては言い過ぎですが、そう云う要素も少しは在ったかも知れません。
秀吉の統一は、明治の中央集権化に対応します。そう云う統一のエネルギーが外へ向かった処が明治と共通して居ます。統一を完成した秀吉が、直ちに朝鮮征伐を開始した事を彼の狂気やボケの所為にするのでは無く、この様な時代の流れの中で解釈すべきと私は考えます。鉄砲の威力、キリスト教や南蛮のものに対する魅力は、恐らく日本人の心の中を混乱させた事でしょう。
これは明治の文明開化の興奮に共通します。西洋との最初の接触に触発された興奮が朝鮮侵略を誘い、そして手痛い敗戦で終わると云う点が明治維新との共通点です。秀吉の敗北は江戸時代250年の泰平に繋がる事と為りますが、昭和の敗北はどう云う未来を開くでしょうか?
このページの結論
日本の海外侵略は必ず失敗する。もし日本史に三回の海外侵略と云う事が無かった為らば、これ程平和な歴史を持つ素晴らしい国民は無いと言えます。こう云う自信を持って日本の将来を築けば、平和で幸福な未来は間違い無しと思うのですが如何でしょうか?
4 世界史の中の近代日本(世界史のゲームへの参加)
前章では「江戸時代迄の日本が平和民族であった事」を縄文時代以来の日本本来のものとして見てみました。戦争ばかりして居た世界の中での「例外的な存在」としての平和な日本を強調しました。
日本列島を、日本海で隔てられた島国と見て、ユーラシア大陸の戦争の世界とは別の文明として対比させました。ユーラシア大陸全体(西洋から中国迄)を戦争文明と一括りにして、それと島国日本の平和文明とを対比させました。
ユーラシア大陸は、歴史始まって以来の攻めたり攻められたりの繰り返しによって戦争の技術を高めて来ました。19世紀の西洋は国民国家同士が植民地争奪戦を演じて居た時代であり、これは正しく「世界史のゲーム」が戦われて居た時代でした。
ユーラシア大陸の熾烈な戦争社会から隔絶した平和な島国で侵略される恐れを感じた事の無い生活をして来た日本が、黒船によって泰平の夢を覚まされた時にどの様に対応したか?と云うのがこの章で考える「幕末―明治維新」の問題です。
この荒波を受けて「世界史のゲーム」に参加したのが開国でした。「政治の延長としての戦争」等と考えられる様な「世界史のゲーム」の真っ只中に日本はこの時強制的に参加させられました。この時日本は、嫌応無しにグローバルスタンダードの時代に突入したと言えます。唯受身的に世界に向かって窓を開いたと云うだけで無く、この「世界史のゲーム」に積極的に参加したのが明治維新でした。
世界史のゲームと云うのは「戦争ゲーム」に他なら無いものですから、平和日本の最も不得意とするゲームだったのです。
一万年の間、異民族との戦争を殆どした事の無い日本が、一万年の間戦争を繰り返してお互いに鍛え合って来た西洋のゲームの世界に参加するのですから、そこには大きな力の差が歴然として居ました。言わば縁台でへぼ将棋を打って居た素人が突然プロに勝負を挑んだ様なものでした。
この様に近代日本の戦争は、戦争を避けて来た平和民族日本人が背伸びをして戦争ゲームに加わったもので、そもそも始めから無理がありました。そう云う無理な背伸びをしてする必要の無い戦争をしてしまい大敗北を喫する事に為ってしまいました。
5 明治維新は奇跡的な成功か?/span>
維新は無くとも近代化は成功した
日本は現在、世界の中の経済大国としての繁栄を謳歌して居ますが、これは明治維新による近代化(西洋化)の成功のお陰だと普通には考えられて居ます。
日本はこの時、西洋の模倣に見事に成功し中央集権体制を確立し近代国家に生まれ変わる事が出来た、この成功のお陰で日本の現在が在るのだと高く評価するのが現在の常識です。それは非西洋世界での唯一の奇跡的成功だったと迄言われます。
しかし私は「維新の素晴らしい改革のお陰で日本の現在がある」と云う考えに異議を立てて、「維新が無くとも日本の現在の繁栄はあり得た」寧ろ「維新が無かった方が、もっと平和で豊かな日本に為って居たに違い無い」と云う歴史認識を提案します。
大政奉還・倒幕・廃藩置県・徴兵制等の大変革をし無いで、文明開化・近代化だけをした為らば、以後の戦争をし無くて済んだに違い無い。そうすればもっと素晴らしい日本に成って居たに違いない。今からでも遅く無いからそう云う日本を目指せば世界の尊敬を集める日本に成る事が出来るに違い無いと云う提案です。
日本の現在の繁栄は奇跡では無い
江戸時代に既に日本の産業は離陸準備期に在って、開国をすれば直ちに民間活力で離陸出来る態勢にありました。即ち維新のお陰で現在が在るのでは無くて、当時の日本には経済発展の潜在的・顕在的能力が在ったのであり、決して奇跡ではありません。
アジアと日本
一早く世界史のゲームに参加して成功した日本に比べて、中国・朝鮮は近代化に遅れた為に、先に強く為った日本によって酷い目に会わされてしまいました。日本としては良かったとしても近隣諸国に迷惑を掛けてしまったと云う事は否定出來ません。この事がある限り、明治維新を手放しで礼賛出来るものではありません。この章では、アジアに対しての加害の事実も心に留めて、明治維新を見直したいと思います。
6 坂本龍馬の理念・・・大政奉還
明治維新に理念を持って居た人として坂本龍馬が居ます。彼の理想が一番正当性のあるものだったと私は思います。坂本龍馬は徳川慶喜が大政奉還を実行した事を聞いた時に、慶喜の為になら死んでも良いと感激したと言いますが、これは本当に国を思う真心だと私も感服して居ます。しかし彼が暗殺されてしまった為に、彼の意思に反した戦争が起こってしまいました。(戊辰戦争)
薩長は、飽く迄も倒幕、権力奪取を目指した為、平和主義の坂本が邪魔に為り彼を暗殺したのに違い無いと考えます。(伊藤博文が犯人だと言う説が浮上して居ます)
よって明治維新はこの時点で横道に逸れて迷走を始め、行き着いたのは太平洋戦争の敗戦と云う悲劇でした。ここで私が迷走と書いたのは、その後の西南戦争等の内乱、明治始めの一揆の頻発、なかんずく日清・日露に続く海外侵略を意味します。しかし坂本龍馬と言えどもその理想は脱藩の時から持って居たものではありません。様々な試行錯誤を経てやっと最後に大政奉還の理念に辿り着いたと云う所です。
7 反幕にも倒幕にも大義は無い
始めは反幕
鎖国を絶対の原則と信じた保守的な考えの人達は、外国に対する反感を露わにして攘夷を叫びました。この反感は西洋が近づいた時に何処の国にも見られた自然な気持でした。そしてこの攘夷派の人達は、黒船の要求を入れて開国した幕府に屈辱感を持ち、それに反発して反幕運動を開始します。これは幕府の具体的な政策に対する具体的な反発ですから反幕で在っても倒幕の意識はありません。
何回も書きますが、攘夷等と云う感情は決して大義に為る様な思想ではありませんから、この反幕運動に大義はありません。況(いわん)や幕府を倒さなければ為ら無いと説明出来る理由や大義は全く無かったのです。
倒幕思想
一方長州藩には関ヶ原以来の徳川幕府に対する恨みが残って居たと言われて居ます。この怨念は山県大弐、吉田松陰、月性、久坂玄瑞、真木和泉、高杉晋作へと引き継がれました。しかしこの倒幕思想がハッキリと藩の方針と為るのは薩長同盟が成立する頃です。又薩摩藩はそれ迄は幕府側に立って長州を敵とする側でしたから倒幕等思いも寄ら無い事でした。
だから「倒幕」と言う考えが反幕府勢力のコンセンサスと為ったのは、維新最期の局面の戊辰戦争の時からに過ぎません。
それ迄は幕末の志士達は幕府の政策に反対して「尊王攘夷」を叫んで幕府に反対し反幕運動を繰り広げて居ました。これは幕府からは睨まれて居ましたが「倒幕」を意識しては居ませんでした。「何の為に幕府を倒す必要があるのか」と云う理念が無かったからです。
又勤皇の志士のスローガンであった「尊王」の大義は、大政奉還・公武合体で十二分に実現され倒幕迄は必要無かった筈です。
今から考えると「制度疲労を起こしてしまった今の幕府では、この困難な時局に対応出来無いから政権交代が必要だ!」と考えた人が居たのでは無いかと思ってしまいますが、実際はそう云う事を言った人は殆ど見当たりません。(勝海舟は例外?)
自分ならこうすると云う具体案・対案が無ければ言え無い事でした。西洋に対抗して国民国家と為る事を最重要課題とする為らば幕府を倒す必要はありませんでした。この時に、戦争をしなければなら無い正当な理由を私は見つけられません。それ処か外国が犇(ひしめいて)めいて居るこの様な時に、内輪揉めをして居る時では無かった筈だからです。西郷隆盛は「未だ戦争が足り無い」と言ったそうですが、この様な理由で戦争をしたとしたらそれは暴力主義そのものの発想です。
サテ、薩長勢力が強引に戊辰戦争を始めた目的は「倒幕」であり、自分達が徳川幕府に取って代わる事でした。薩長が倒幕を考えて戊辰戦争を仕掛けた時に至っても、諸藩を潰して集権国家を造る等と云う考えは無く、別の幕府を開く程度の気持ちだったと推測します。詰まり近代国家を作る為の倒幕では無かったと言えます。
結論
倒幕(政権交代)と云う考えには大義がありません。倒幕は維新の理念に為り得ず、維新に理念は無かったとまとめる事が出来ます。詰まり「明治維新は必要無かった」と云う結論に為ります。
以上 参照第三回 おわり
私は、この文章に全面的に賛成します。私の父は鹿児島藩の下級士族の出で、父の兄等は医者や地方官僚として土地の名士でも在ったそうで、所謂、支配階級の末端に属して居ました。 父は末っ子で甘やかされて育ち禄(ろく)でも無い学生時代を続けましたが、何とか教師の職に在り付いて一生を終えました。
私の子供の頃、両親の古い戸籍謄本を見た事が在り、父の名前の下に「士族」と母の名の下に「平民」と書かれて居ました。母は岩手県盛岡郊外の貧乏百姓の娘で女子師範を出て小学校の教師をして父と見合いしたのです。父は、恐らく薩長閥に属し何らかの特典も受けた人なのでしようが、母の生まれた岩手県は、反政府側の領主の農民としてさぞや辛い扱いを受けた事でしよう。
サテ、一昨日・昨日・今日と三度に渉って「平和民族日本を、50年間の戦争時代に導いた元凶は『明治維新』にある」とする仮説のレポートを参照しました。如何だったでしようか。
島国である日本は、外敵から侵略された事は無く(元寇は日本が侵略と誤解したものとする)、その恐れだけで軍備を増強し備えた。しかし、強大な軍備を持つとそれを使いたく為ります。そこから日本の軍事大国化へと進み近隣主国への侵略が開始されたのです。
「明治は素晴らしい」・・・とする一途な感慨は如何なものでしようか。多くの人達に語り継がれた明治維新の「日本を開いた」とする称賛は、一度立ち止まって考え直す時期に来て居るのでは無いでしようか。
勿論、明治は新しく素晴らしい時代では在ったのですが、全ての政策が過激であり極端であり、上から下への権力の一方通行の硬直したものでした。そして、未来の日本を築く青少年の教育が国家に依って、多様的価値観を投げ捨て画一された価値観を国民に押し付けたのです。教育が画一化された事で、精神的に足腰の弱い、悪い意味の専制国家へと導いてしまった様です。
明治の遺産は「教育⇒戦争⇒侵略」だったのでしよう。世界が「戦争・侵略」を競って居た所に日本も進んで参加したのです。日本は敗北してその遺産を捨てましたが、勝利した各国は依然その遺産を引き摺って居ます。
敗戦した日本は明治以来の「戦争・侵略」を投げ捨て経済復興に専心しました。お蔭で経済大国と呼ばれる国に為ったのですが、今や、戦争・敗戦を経験した事の無い年代の人が指導者となり、世界の国々の仲間に入り発言権を高めようとして居ます。
その力の一つの裏付けが経済で在ったのですが「金だけでは無く血を流せ!」と言われたと思い込み、軍事力での世界貢献を夢見る様に為って居ます。この事が果たして好い事なのか・・・今やその経済力も中国に追い抜かれてしまった。私達は未来の日本にも責任を持つべきだと考えます・・・
以上
2018年04月27日
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社会老いる2040年 差し迫る行政課題・・・総務省研究会が中間報告
2040年頃に向けた地方自治体の課題を議論する総務省の有識者研究会、「自治体戦略2040構想研究会」(座長・清家篤 日本私立学校振興・共済事業団理事長)は、26日 中間報告をまとめ野田聖子総務省に中間報告書を提出した。
中間報告では、各省庁が調査した将来推計を集約。それに拠ると、65歳以上の人口は2042年にピークを迎え、進む少子高齢化を「未曽有の危機」と表現。高齢者がピークと為る高齢化率・必要な介護職員数・インフラや公共施設の更新費等の将来推計をまとめ危機感を強調。行政サービスの水準を維持する爲、複数の自治体が共同で提供出来る様にする等の対応を求めて居る。
2040年には高齢者が3.291万人に達し、主に義務教育を受ける5〜14歳の人口は814万人に減る。介護職員は25年の段階で今の1.4倍近く迄需要が高まり、40年には更に増えそうだ。小中学校、高校は現状でも毎年計500校前後が廃校に為って居るが、この動きが加速。通学バスの費用がかさむ他、大学進学者が減って地域経済への影響が拡大する可能性もある。インフラや公共施設の老朽化も大きな課題で、維持するかどうかの取捨選択を迫られそうだ。有識者研究会は今年6月に最終報告書をまとめる予定。(平林大輔)
〜 朝日新聞2018年(平成30年) 4月27日記事より抜粋〜
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今更驚く事では無いが、色々な研究機関から将来の日本の在り方への予想・提言が為されている。少子高齢化の先頭を走る我が国では、世界に先駆けてその対策を迫られて居るのだが、例えば消滅する地方として「秋田県」が挙げられたり、東京でも「豊島区(池袋)」が指摘されたのは遂最近だった。
しかし、この様なショック療法が今では余り効果が無く「そう〜?」と軽く受け流される程度で、私達にはそれ 程ピンと来ない。しかし、最近のニュースの四国での脱走犯が2週間以上掴まらない原因として「過疎化と空き家」が挙げられて居るのを知らされると「そうなのか・・・」と身近な問題だと深く思い知らされる。島の中には1000戸以上の空き家があり、警察も夫々の所有者の同意無しの捜査が出来難いとの事だ。
親以来の古い家に住む事を嫌い、そこを捨てて新たな家を建設して便利な生活をしたい、とするのは個人の勝手(自由)だろう。そして、古い家を売ろうにも過疎地では需要も無く更地にするには200〜300万以上の費用も掛かる。結局誰も住まず自然に朽ちるのを待つことに為る。これは、四国のその島だけの問題では無く全国に広がる大きな問題だ。
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この様な問題は、一個人・一つの市町村区県だけでは解決できない問題では無かろうか?破壊し更地にして何が出来る?誰が何に利用する?そんな需要は無いのに・・・と来たらその先が無い。勿論、防犯上の問題で放って置く事は危険だし環境上の問題もある・・・実に困難な問題だ。
30年前までは辺鄙な山を削って住宅地を造成し「00団地」「00ニュータウン」等の開発が盛んだった。が、交通不便な地なので敬遠され今では半分以上が売れ残り親達が残ってる、所謂、老人タウンとして寂れてしまった。当初は共同の上下水道や公園やその他の公共施設も作ったのだが、人も増えず管理費が賄えず自治体に助けを求めて放棄している。
先を読まず、現状の住宅難を解決する為に自治体もそれを誘致し援助したのだが、今では自治体のお荷物に為ってしまって居る。道路・環境・上下水道・・・過疎地の公共施設を援助する事は自治体にとって大変キツイ事なのだ。だからと言って全部壊して更地にしても何の利用も為さないので、そんな無駄な予算は認められない。
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駅前のシャッター街も同じだろう。駅前の繁盛した商店街は今までそれほどの努力もせず営業を続けて来たが、近年続く郊外のショッピングセンターの開発で一挙に消滅した。「街おこし」として自治体は色々な対策を練っているが、2.3の店舗が若い人たちの起業の場として再興する等の記事を目にしたが、これと言っての策は無い様だ。
駅前商店街は、場所と人の集まる利点とで客数を獲得していたが、地方へ行くに従って路線の廃線や廃駅が増えて年々乗降客も減少し先行きは難しい。一体どうしたら好いのだろうか・・・
少子高齢化と地方の衰退・・・これは、単なる人口の減少の問題だけでは無い。人口比率・・・詰り、若い人に比べ老人が多過ぎると云う問題だ。理想的なピラミッド型に為らず歪で不安定な形だろう・・・生産年齢の人口が少なく世話を焼かせる老齢人口が増え続ける訳だ。この人口比率を考えず(考えても仕方が無いので)に一体過去の日本の人口はどれ程の人間が暮らしていたのだろうと気になった。そこで、ネットで調べてみた。
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日本の人口推移
〜昔の日本ってどれ位の人が住んで居たのか・・と云う事で調べてみました〜
★日本の人口の推移歴史
縄文時代 早期 紀元前1万年 2万人 今より平均気温2℃低かったと言われる
初期 紀元前6千年 10万人 今より平均気温1℃高かったと言われる
中期 紀元前5千年 26万人 少しずつ寒冷化しはじめる
後期 紀元前4千年 16万人
晩期 紀元前3千年 7万人 今より1℃以上低くなり栄養不足、大陸 からの疫病
弥生時代 紀元前600年 59万人 稲作農耕の普及と国家の形成で人口大幅増
古墳時代 不明
飛鳥時代 不明
奈良時代 725年 451万人
平安時代 800年 550万人 人口増の停滞期
1150年 684万人
鎌倉時代 1200年 700万人
室町時代 不明
安土・桃山時代 1600年 1,227万人 戦国大名の領内開発、小農民の自立
江戸時代 1650年 1,750万人
1721年 3,128万人
1750年 3,101万人
1830年 3,248万人
1846年 3,200万人 江戸・大坂等大都市の高い未婚率と悪い衛生状態
明治時代 1870年 3,481万人
1900万人 4,384万人 出生率が高いまま死亡率が低下したため人口爆発
大正時代 1920年 5,596万人
昭和時代 1930年 6,445万人
1940年 7,193万人
1950年 8,320万人
1960年 9,341万人
1970年 10,372万人
1980年 11,706万人
平成 1990年 12,361万人
2000年 12,697万人
2005年 12,776万人
2010年 12,805万人 今ピークぐらい
図録▽人口の超長期推移(縄文時代から2100年まで)http://www.geocities.jp/ysigle/Rekisi.html
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★これからの日本の人口の推移予測
平成37年 2025年 12,114万人
平成61年 2050年 10,059万人
平成86年 2075年 7,808万人
平成111年 2100年 6,241万人
◆2075年頃までは、出生数がこれまでのトレンド通り減少を続ける(予想は難しい・・・)
◆死亡者数が急増、高止まりする(高齢者層の人口がどんどん増え、大体想像がつく)
人口減少は避けられ無さそう・・・2075 年までの人口減少を防ぐには、予測の約2倍の出生数を期待し無ければいけないと云う非現実的な仮定が必要に為るそうです。出生数を相当に効果的に増やす事が出来たとしても、これから100 年程度人口減少自体を止める事は殆ど不可能だと云う事が確認できる。
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好く判る日本の人口
日本はこれから・・・ドンドン小さい国に為って行っちゃうんですかねぇ。。少しでも国を維持して行く為には、沢山の子供が生まれて来る事が必要。その為に、「子供手当て」だ〜とか「児童手当」だ〜とか出て来て居るんですよね。一次的な話では無く、日本全体で子供を生み出して行く、育てて行く事が、日本全体の幸せに繋がる・・・この人口の推移をみているとそう感じます。
今がピーク!!人口も!幸せ度合いも!・・・だったら、悲しい。今から20年位経った時に、「あの頃は良かった名ぁ・・・」だと取り返しがつか無い気がしますね。政治を動かしている人は大半が結構お年の方。そして選挙を行って投票するのも若い人は少ない。
本当にそれで好いの??これからの国を作るのは若い層であり、今遣って居る事が後の世代にツケとして廻って来ます。若い人も積極的に政治や国の遣る事に関心持た無きゃダメですよね・・・反省。
勝手に参考にしてゴメンナサイ・・・ペコッ
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2018年04月26日
安倍晋三の強みとは何か?
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「安倍嫌い」を解剖する
古谷経衡氏の解説 オピニオン新潮45 2018年2月号掲載
〜敗北を重ねても懲り無い「反安倍」勢力。安倍嫌いを標榜する人々の病理に、文筆家の古谷経衡氏が迫る〜
(以下、「新潮45」2018年2月号 【特集「反安倍」病に着ける薬】「『安倍嫌い』」を解剖する」(古谷経衡)より転載)
2017年10月に行われた衆院選挙は、反安倍勢力に取っては3度目の正直であった。1度目は14年衆院選、2度目は16年参院選である。
第2次安倍政権が長期安定政権と為って久しい中、政権運営を問う過去2つの国政選挙で、反安倍勢力は無残な敗北に敗北を重ねて来た。殊に16年参院選は、参院選の特性上多数党が大勝し難い構造にも拘らず改憲勢力の議席に3分の2超を許す事となり、最も手酷い敗退であった。この16年参院選と17年衆院選の間に起こったのが「モリカケ問題」である。この2つの「事件」に、反安倍勢力は「モリカケ問題」が安倍政権失陥の一里塚として極めて大きな期待を抱いた。
実際、「モリカケ問題」が世論を沸騰させると、内閣支持率は明らかに下降トレンドに為った。この様な中で解散総選挙を行えば自民党の大敗は大いにあり得る。しかし定数が10減少したにも拘わらず、自民党の議席は変わら無かった。反安倍勢力が期待した3度目の正直は見事に裏切られたのだ。
何故安倍自民は強いか。安倍自民は小泉自民と違い、ゼロ年代に切り捨てた*守旧勢力(郵政、農協、土建)等の疲弊職能を再度取り込み、且つ*都市部の無党派への訴求を維持しつつ>、*公明党の組織票を利用すると云う、自民党の歴史の中でも稀にみるトライアングル構造の上に成り立って居るからだ。
事実、16年参院選挙での自民党全国比例1位当選は、小泉時代に切り捨てられた筈の全特(郵便局)推薦候補(疲弊職能)であり、2位は保守系ジャーナリスト(無党派)である。巷間言われる日本会議等の中小宗教勢力(約30万票程度)よりも、この三竦みの方が余程集票に貢献して居る。
野党の反安倍勢力はこの構造が分かって居ないから、柔弱な世論調査の数字がそのまま票に反映すると思って居るが甘い。ツイッターで「アベNO!」の怪気炎を上げるユーザーの多寡と、1票の違いで当落が決まる選挙区情勢は異なる。勝つ要素よりも負ける要素の少ない安倍自民がこの程度でコケる訳が無いのは、安倍自民への好き嫌いでは無く選挙のテクニカル上の評価である。
「モリカケ」でも安倍政権への痛打を与えられ無い事が判ると、反安倍勢力の姿勢は概ね次の2つに分かれた。
・一つは「モリカケ」の追及それ自体がマダマダ甘く、大メディアの政権忖度と併せ、この「路線」をこのまま維持・強化し、政権攻撃を続けるべきだと云う「継戦派」。
・もう一つは現在の安倍政権への対抗姿勢を見直し、より現実的な対立軸を構築・模索しようと云う「改革派」の2派である。数としては前者の方が多い。
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書類上の反安倍師団
「継戦派」の根底には、「極右のアベを国民が支持して居るのは、政権の工作とメディアの忖度が原因である」と云う基本思想。拠って有権者が選挙の旅に自民党に投票して居るのを「愚民化の進行」と認定し、或いは巨大権力の陰謀と捉える。
実際に安倍自民の継続はテクニカル的には上記の3要素に加え、巨視的には消去法的選択と北朝鮮情勢に代表される国民の安保観の変化が教条的護憲を空論として倦厭(けんえん)する様に為ったからに過ぎ無いのだが、ともあれ「継戦派」は粘り強く政権攻撃を続ければ国民の洗脳とメディアの忖度は徐々に喪失すると考えて居る。
しかし安倍自民の本丸は堅いので、先ず周辺人物を重用して攻撃の嚆矢(こうし)とする。例えば「モリ」の籠池泰典、「カケ」の前川喜平である。だが、前者は逮捕収監中で、後者はやや役者として弱い。この弱さを自覚して居るので、今度は安倍と親密なジャーナリストの準強姦揉み消し疑惑を攻撃材料とする。こう為れば総力戦で、反安倍に使えれば、豊中の怪しいネット右翼のプチブルでも元官僚でも何でも好い。
しかし乍らこう言った「継戦派」の総力戦は、ロッキード事件やリクルート事件と違って事実関係が、不明瞭且つ矮小で決定打に欠けるから安倍政権の本丸を撃ち抜くには程遠い。「安倍さん、一寸説明不足だよね」の感は広がるが、実際の選挙の際には自民党に投票する。矮小な攻撃材料しか持ち得無いのに政権に総力戦を挑む処が根本的に間違いである。安倍氏の所属する清和会は反共右派だが、世襲議員が多く富裕な者が多い。正に「清和会のプリンス」安倍氏がその典型。この政権を、金銭疑惑や利権誘導の筋で倒そうと云うのがそもそも戦略上間違いなのかも知れ無い。
一方、「改革派」は、何度遣っても安倍政権が倒れ無いので戦い方を変えるべきだと自覚し出した反安倍勢力の一部である。彼等に取って衝撃だったのは、民進党の分裂であった。これ迄安保法制や特定秘密保護法に反対し護憲の論陣を張って来た反安倍の同志が、それ等の主張を捨てて次々と小池百合子の希望の党に「大移動」した様は、反安倍と云う対抗勢力が如何に脆弱であるかを思い知った大事件であった。
彼等は、所詮書類上の反安倍師団に過ぎず、何かあれば脱兎を警戒すべき日和見傍観軍だったのである。徒に教条的護憲、反アベノミクスを唱えるだけでは政権への攻撃は愚か対抗すら不可能であると悟った彼等は、「箸が転んでもアベの所為にするのは止めるべき」「リベラルも反省すべき点は多々ある」「政権批判が陰謀論に過ぎるのは良く無い」と、イエズス会にも似た自己改革・自己批判を口にし出して居る。
だが、致命的なのは自等の問題点を自覚して居るものの今後如何するかの方向性は全く見えて来ないと云う点である。立憲民主党が野党第1党に為ったのは望外の展開だとしても、その勢力は56議席(衆院)で、民進党の最盛期には程遠いし、旧社会党のそれにも及ば無い。欠点は認めるが、さりとて代案は無い、と云うのが「改革派」の辛い処だ。
選挙に為れば頼れるのは旧態依然とした連合・労組と市民団体。17年衆院選挙では立憲民主が共産党支持者の都市型無党派を取り込んだ事が明らかに為ったが、党勢に大きな貢献をして居るとは言い難い。「何とかしなきゃ」と自問しつつ何とも出来無いと云う、緊縛の状態が続いて居る。
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「極右のアベ」は間違い
反安倍と云う病は、「極右のアベを国民が支持して居るのは異常であり正すべきである」と云う思想と現実とのギャップの中から生まれて来た病理構造である。しかし「自民党より右」を標榜した右派政党・旧次世代の党(現・日本のこころ)は14年衆院選挙で壊滅した。在野には様々な極右団体やネット右翼団体が居るが、安倍自民が重視して居るのはその様な極右勢力では無く、繰り返す様に疲弊職能・大都市部の無党派・公明党組織票の3つである。「極右のアベ」と云う認識がそもそも間違って居る。
又有権者の大多数は、積極的に安倍政権を支持し、誰に言われる迄も無く自民党の応援演説に日の丸の小旗を持って集まる様なアクティブ層では無い。「自民党の方がよりマシだから」「安倍政権の方が相対的に未だしも良いから」と云う理由のみで、投票所で自民と書いて居る微温支持者が圧倒的多数だ。この様な事実を認められ無いから反安倍と云う病が発生する。
量的緩和は一定程度奏功し、株価は上昇・雇用が拡大して居るのは事実である。外交面ではトランプ追従の度が過ぎるものの、特段の失政は無いと言える。沖縄政策では強引さと粗雑が目立つが、総じて60点を取り続けて居る。一度の答案で60点を取るのは難しい事では無いが、5年間連続で60点を取るのは至難である。少なくとも投票所に足を運ぶ有権者は、ドンドン馬鹿では無く為って居る。
ほぼ2年で交代した90年代の自民党政権と、10カ月しか持た無かった非自民連立政権。そして小泉自民以降、ゼロ年代以降も1年で自民・民主(当時)の首班が交代した時代、この国のGDPは中国に抜かれ世界3位に為り、国民所得はイタリアと同じであるのにも関わらず労働生産性はG7で最低に為った。
この20年間で、有権者は短命政権とそれが故の政策継続性の無さが、日本の停滞を招いた大きな要因の1つであると好い加減思い知ったのである。
反安倍と云う病は、有権者の知的水準を一方的に低いままであると仮定して居る。進歩主義者を自称する割に、大衆の知的水準や感覚の進歩を否定するのは滑稽である。私は安倍が良いと言って居るのでは無い。事実こうだ、と指摘して居るに過ぎ無い。安倍以外に盤石な宰相や政党が登場するなら、喜んでそちらに投票する。
古谷経衡(ふるや・つねひら) 文筆家。1982年札幌市生まれ。立命館大学文学部史学科(日本史)卒業。ネット保守、若者論等を中心に言論活動を展開。著書に『左翼も右翼もウソばかり』『日本を蝕む「極論」の正体』など。
以上 参照 おわり
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衆参の集中委員会をボイコットし国会が空転する中、野党に対して自民党の幹部が「内閣不信任案を出すような事態に為れば、解散の選択肢もある・・・」と、選挙に弱い野党連合に脅しと取れる発言をしたそうだ。昨年の秋に国民を無視して巨費を投じ選挙を行い、圧倒的支持を回復した自民の国民・メディアへの脅かしとも取れる発言だった。一体、政権保持の爲に政権・総理にこの様な無駄な税金の浪費を許す権限を有しているのだろうか?
立憲の枝野氏は以前「総理の解散権の見直し」を口にしていたが、現状の選挙制度では何度総選挙を行っても結果は見えている。又もや野党の惨敗と自民の圧勝で終わるのが関の山だ。恐らく50%を切る投票率で安倍シンパの投票のみが浮かび上がり、上記の古谷経衡氏の指摘する「安倍トライアングル」に拍車の掛る大活躍で「安倍独裁政権」も夢では無くなる。果たして安倍シンパも、彼の独裁政権を望んでいるのだろうか?
野党の自然消滅で、政治は腐敗と権力者への迎合で自民の勝手次第の有様だ。国民(投票者)は昨年この様な事に為ると予想して居ただろうか?
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政権の腐敗を攻撃する野党の切れ者が、国民に愛される自衛隊の三佐に「国民の敵!」的な暴言を吐かれたと言う。氏は口頭で「国民を守るために戦っている・・・」反論したそうだが、「そんなことは言ってない!」と自衛隊の最高幕僚機関に勤める高級自衛官は白を切って居るそうだ。
2.26や5.15の際には、地方の部隊の将校が中央の政界や財界の腐敗に反発したのだが、自衛隊本丸のエリート階級の幹部が≪日頃その様に思い、咄嗟に口に出した・・・≫ことは、もしかしたら自衛官の間に漂う氷山の一角かも知れない。防衛庁が省となり、海外派兵も認められ格段と任務の内容がキナ臭くなるに従い、自衛官も色々な思いに苦しむだろう。
特に武官の、文官達の巻き起こす各種の不手際には苛立ちが募ることだろう。無知で不手際な答弁を繰り返す大臣に官僚・・・彼等の怒りが沸騰する一つ手前の出来事かも知れないと思う。この教訓を如何に考えるか・・・単なる懲戒や処分で済ますことは至って危険だろう。
特に、旧空幕長の田母神氏の例をとっても、三軍組織トップの幕僚長等の言動に注意を払う必要があり、組織的な大改革を遂げなければ「実力部隊」へのシビリアンコントロールは、絵に描いた餅と為ってしまうだろう。満州事変や盧溝橋事件等は、現場の部隊が勝手に独自行動を起こして軍中央や政府の制動が全く効かずに日中戦争へと進み、それが対米英戦争へと繋がった過去を思い返して欲しい。
特に我が国は、個人の責任を放棄し全体の流れに沿うことを美徳とする民族であり、シビリアンコントロールの効かない体質のようだ。
果たして、国民に愛され訓練された実力組織が、脆弱な政治の下に置かれる事に何時までも納得するだろうか?彼等は、彼等なりの心情を築き上げ、いつかは・・・と心に決めていても可笑しくは無い。嫌、恐らく色々な事態を想定して訓練に励まなくては役に立つ組織とは為らないのだから、特に仕事熱心な自衛官は心身共に鍛えているだろう。
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そんな事は考え過ぎだ・・・と為って呉れれば好いのだが、中国や朝鮮半島に米国との外交にスッキリした見通しが立たない中、日本の防衛組織は一段と米軍との一体感を強化している。F35のステルス戦闘機や陸上型イージス装置・・・その他、トランプ氏から防衛装備の輸入を迫られている。
アメリカの軍人は、政治家や政府の主導者に批判や反感は持たないのだろうか?飽く迄もシビリアンコントロールを保持し続けれるのだろうか・・・
以上