2018年04月28日
日本は元々平和民族だった・・・その2
参照 第3回 「コバテツ独創史観」 五十年戦争史観
1問題意識 「平和民族に取っての戦争時代と云う矛盾」
私はこの小論全体を「平和民族日本」と云うテーマで一貫したものとして書いて居ます。前章で「江戸時代迄の平和な歴史」を説明しました。処が、明治以後の日本を見ると、とても平和愛好民族とは言え無い多くの戦争をして来ました。
それにも関わらず私は「平和民族として一貫して居る」と書こうとして居る処に、以下の章の理解困難な処があります。今の日本で私の様に「日本人は平和民族」と思って居る人は少ないでしょうから、前章を説得する事に先ず困難がありました。ここからの章はそれにも増して困難なもので、一見奇妙にさえ思えるかも知れません。
60年前に侵略戦争を経験してしまった現代日本人に取って「日本人は本来平和民族だった」と云う事が信じられ無いのも無理はありません。だから現代日本人は「日本人は本来好戦的な民族だ」と思い込んで居る節があります。
その常識に逆らって私は「日本人は平和民族であった」と云う仮説を立て、江戸時代迄の平和な様子に付いて前章で一応説明しました。「幾らあの戦争が酷いものだったからと言って、何も江戸時代の平和迄否定する事は無い!」と云うのが先ず言いたい事でした。この章では明治以後の戦争の時代の説明に入ります。
この章で扱うのは「江戸時代迄平和民族だった日本人が、何故明治以後に突然戦争ばかりする様に為ったのか?好戦民族に変身してしまったのだろうか?」と云う疑問です。これは今迄誰も考え付か無かった設問だと思います。
前段の「本来平和民族だった」と云う部分に同意出来無い人には「平和民族にも関わらず近代に為って突然戦争を始めた理由を考える」等と云う発想そのものが浮かば無いでしょう。「過去の戦争の反省が不足だ」と主張して居るサヨクの人に「平和民族日本」等と云っても、誤魔化された様な気持ちに為るだけかも知れません。
この様な誰も発し無かった質問に取り組む為には、様々な常識を一度ヒックリ返して見る必要があります。これがこの章で独断的仮説が沢山必要に為る理由です。兎に角この章では頭の体操みたいな事に為りますが、少々私の独断と付き合って貰いたいと思います。
2平和な日本史の例外的時期
日本史全体を「平和」に焦点を当てて眺めて見ると、大阪夏の陣(1615年)以後、現在迄の約400年間が日本本来の平和の時代で,その内明治維新(1868年)以後、敗戦(1945年)迄の80年間だけは、その間に挟まった例外的な戦争の時代と見る事が出来ます。
日本が戦争ばかりして居た近代と云う時代は、本来平和民族だった日本人の例外的時期に過ぎ無いと云う見方です。この様に長いスパンで日本史を眺めて、戦争の時期の方が例外の期間だったと見ると、この例外は何故起こったのか?と云う疑問が考え易く為ります。
近代日本の戦争をズッと見渡してみると、何と馬鹿気た戦争をして来たのだろうか?と云う思いに捕らわれます。先ず一番理解に苦しむのが太平洋戦争ですが、何故負けるに決まって居る無謀な戦争をしてしまったのでしょうか?
未だに、あの戦争をし無ければ為ら無かった理由を説明出来る人は居ません。何故あんな馬鹿気た戦争をしたのか?と考え詰めると、日本人は本来戦争が不得手な民族なのではないか?と云う仮説を思い着きます。
日清・日露戦争は、現在でも成功だったと思われて居ますが、あの戦争に付いても「何の為に戦争をしたのか?」と検討してみると、私には矢張り意味の無いものだったと見えて来ます。日本人は元々戦争が嫌いで苦手だったから、あんな奇妙で馬鹿気た必要の無い戦争をしてしまったと考えると何だか辻褄が合う気がします。
サテ「本来不得手な戦争を立て続けにする様な日本に何故為ったのか?」と云う疑問を解く鍵は「平和日本から戦争日本へのターニングポイント」である「明治維新」にあると思います。
注:過つての戦争を「侵略戦争」と規定して反省する考えも有りますが、ここで私が強調して居るのは「必要の無い戦争」と云う点である事にご留意下さい。戦争を中国の立場から見るのでは無く、より日本人の立場から見ようとする為の発想です。
明治維新で悪く為った日本
あの間違った戦争の原因は、あの戦争を見て居るだけでは解らず、もっと遡って明治維新の経過を詳しく見てみる必要があると考えました。これがこの章のテーマです。
3、日本史3回の「侵略と敗戦」
明治維新との類似性
明治維新は、黒船ショックに対応して、近代的国民国家を形成したものですが、勢い余って海外侵略を始め、その結果は太平洋戦争の敗戦に終わるものでした。日本史全体を眺めるとこの様な侵略・敗戦の経験は三回在ったと前章で述べました。ここでは明治維新との類似性に焦点を宛てて、もう一度、第一回白村江の敗戦、二回目秀吉の朝鮮侵略を見直します。
@ 大化の改新(645年)と明治維新
白村江の敗戦(663年)
大化の改新は、豪族を抑えて天皇制を確立したクーデター程度と思われて居ますが、私は国際変動に対応しての中央集権国家の確立と言う見方を提案します。
中国では先ず隋が統一国家を創り(581年)、次いで唐と云う強大な帝国が起こり、半島では新羅が統一を図りつつありました。この国際社会の変化に緊張した大和政権は、対外的には百済を応援し、国内的には律令国家を整備して、国民の統合・中央集権国家の確立と富国強兵策で対決しようとしました。この時の文明開化は遣隋使(600年)に始まります。
618年に唐が建国されて、その軍事的圧力に対応する必要を感じた大和政権は、旧勢力を打倒して天皇の下の中央集権を図る大化の改新(645年)を断行して、土地制度・租税制度・法体系・政治組織等全てを唐の制度を見習って変革しました。(これは明治維新に当たり、その改革と殆ど同じ範囲でした)
しかしながらこの改革にも関わらず、百済応援軍は白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に大敗し百済は滅亡しました。(これは太平洋戦争敗戦に当たります)
この敗戦によって本土防衛の必要性を痛感した大和政権は、その為の様々な体勢・設備を整えました。唐と戦って敗れたにも関わらず、引き続き唐から学ぶ為に遣唐使を継続して、更に律令体制の導入に懸命な時代が暫く続きます。
アメリカに負けたのにその後物凄い勢いでアメリカ化した戦後の我々の経験を思い出します。負けた相手に学ぶと云う事が共通して居ます。こう云う風に見て、明治維新から敗戦迄の間は「第二の大化の改新」だったと言えます。
A秀吉の天下統一と朝鮮征伐
南蛮人がもたらした鉄砲によって戦国地図が一変し、結局信長・秀吉によって全国統一が完成しました。この頃日本のエネルギー(活力)は国内で収まりが着かず、東南アジア(ルソン・シャム等)へ活躍の場を広げて居ましたが、ここで南蛮(スペイン等)勢力と接触し国際緊張を体験する事と為ります。この接触から外圧を感じて国内統一が進んだと言っては言い過ぎですが、そう云う要素も少しは在ったかも知れません。
秀吉の統一は、明治の中央集権化に対応します。そう云う統一のエネルギーが外へ向かった処が明治と共通して居ます。統一を完成した秀吉が直ちに朝鮮征伐を開始した事を、彼の狂気やボケの所為にするのでは無く、この様な時代の流れの中で解釈すべきと私は考えます。鉄砲の威力・キリスト教や南蛮のものに対する魅力は、恐らく日本人の心の中を混乱させた事でしょう。
これは明治の文明開化の興奮に共通します。西洋との最初の接触に触発された興奮が朝鮮侵略を誘い、そして手痛い敗戦で終わると云う点が明治維新との共通点です。秀吉の敗北は、江戸時代250年の泰平に繋がる事と為りますが、昭和の敗北はどう云う未来を開くでしょうか?
このページの結論
日本の海外侵略は必ず失敗する。もし日本史に三回の海外侵略と云う事が無かった為らば、これ程平和な歴史を持つ素晴らしい国民は無いと言えます。こう云う自信を持って日本の将来を築けば、平和で幸福な未来は間違い無し、と思うのですが如何でしょうか?
4 世界史の中の近代日本(世界史のゲームへの参加)
前章では「江戸時代迄の日本が平和民族であった事」を縄文時代以来の日本本来のものとして見てみました。戦争ばかりして居た世界の中での「例外的な存在」としての平和な日本を強調しました。日本列島を、日本海で隔てられた島国と見て、ユーラシア大陸の戦争の世界とは別の文明として対比させました。ユーラシア大陸全体(西洋から中国迄)を戦争文明と一括りにして、それと島国日本の平和文明とを対比させました。
ユーラシア大陸は、歴史始まって以来の攻めたり攻められたりの繰り返しによって戦争の技術を高めて来ました。19世紀の西洋は国民国家同士が植民地争奪戦を演じて居た時代であり、これは正しく「世界史のゲーム」が戦われて居た時代でした。
ユーラシア大陸の熾烈な戦争社会から隔絶した平和な島国で、侵略される恐れを感じた事の無い生活をして来た日本が、黒船によって泰平の夢を覚まされた時にどの様に対応したか?と云うのがこの章で考える「幕末―明治維新」の問題です。
この荒波を受けて「世界史のゲーム」に参加したのが開国でした。「政治の延長としての戦争」等と考えられる様な「世界史のゲーム」の真っ只中に、日本はこの時強制的に参加させられました。この時日本は、嫌応無しにグローバルスタンダードの時代に突入したと言えます。唯受身的に世界に向かって窓を開いたと云うだけで無く、この「世界史のゲーム」に積極的に参加したのが明治維新でした。
世界史のゲームと云うのは「戦争ゲーム」に他なら無いものですから、平和日本の最も不得意とするゲームだったのです。一万年の間、異民族との戦争を殆どした事の無い日本が、一万年の間戦争を繰り返してお互いに鍛え合って来た西洋のゲームの世界に参加するのですから、そこには大きな力の差が歴然として居ました。言わば縁台でへぼ将棋を打って居た素人が突然プロに勝負を挑んだ様なものでした。
この様に近代日本の戦争は、戦争を避けて来た平和民族日本人が背伸びをして戦争ゲームに加わったもので、そもそも初めから無理がありました。そう云う無理な背伸びをして、する必要の無い戦争をしてしまい大敗北を喫する事に為ってしまいました。
5 明治維新は奇跡的な成功か?
維新は無くとも近代化は成功した
日本は現在、世界の中の経済大国としての繁栄を謳歌して居ますが、これは明治維新による近代化(西洋化)の成功のお陰だと普通には考えられて居ます。日本はこの時、西洋の模倣に見事に成功し中央集権体制を確立し、近代国家に生まれ変わる事が出来た、この成功のお陰で日本の現在が在るのだと高く評価するのが現在の常識です。それは非西洋世界での唯一の奇跡的成功だったと迄言われます。
しかし私は「維新の素晴らしい改革のお陰で日本の現在がある」と云う考えに異議を立てて、維新が無くとも日本の現在の繁栄はあり得た」寧ろ「維新が無かった方が、もっと平和で豊かな日本に為って居たに違い無い」と云う歴史認識を提案します。
大政奉還・倒幕・廃藩置県・徴兵制等の大変革をし無いで、文明開化・近代化だけをした為らば、以後の戦争をし無くて済んだに違い無い。そうすればもっと素晴らしい日本に成って居たに違いない。今からでも遅く無いから、そう云う日本を目指せば世界の尊敬を集める日本に成る事が出来るに違い無いと云う提案です。
日本の現在の繁栄は奇跡では無い
江戸時代に既に日本の産業は離陸準備期に在って、開国をすれば直ちに民間活力で離陸出来る態勢にありました。即ち維新のお陰で現在が在るのでは無くて、当時の日本には経済発展の潜在的・顕在的能力が在ったのであり、決して奇跡ではありません。
アジアと日本
一早く世界史のゲームに参加して成功した日本に比べて、中国・朝鮮は近代化に遅れた為に、先に強く為った日本によって酷い目に会わされてしまいました。日本としては良かったとしても、近隣諸国に迷惑を掛けてしまったと云う事は否定出來ません。この事がある限り、明治維新を手放しで礼賛出来るものではありません。この章では、アジアに対しての加害の事実も心に留めて、明治維新を見直したいと思います。
6 坂本龍馬の理念・・・大政奉還
明治維新に理念を持って居た人として坂本龍馬が居ます。彼の理想が一番正当性のあるものだったと私は思います。坂本龍馬は徳川慶喜が大政奉還を実行した事を聞いた時に、慶喜の為になら死んでも良いと感激したと言いますが、これは本当に国を思う真心だと私も感服して居ます。しかし彼が暗殺されてしまった為に、彼の意思に反した戦争が起こってしまいました。(戊辰戦争)
薩長は、飽く迄も倒幕・権力奪取を目指した為、平和主義の坂本が邪魔に為り彼を暗殺したのに違い無いと考えます。(伊藤博文が犯人だと言う説が浮上して居ます)よって明治維新はこの時点で横道に逸れて迷走を始め、行き着いたのは太平洋戦争の敗戦と云う悲劇でした。
ここで私が迷走と書いたのは、その後の西南戦争等の内乱・明治始めの一揆の頻発・なかんずく日清・日露に続く海外侵略を意味します。しかし坂本龍馬と言えども、その理想は脱藩の時から持って居たものではありません。様々な試行錯誤を経てやっと最後に大政奉還の理念に辿り着いたと云う所です。
7 反幕にも倒幕にも大義は無い
初めは反幕 鎖国を絶対の原則と信じた保守的な考えの人達は、外国に対する反感を露わにして攘夷を叫びました。この反感は西洋が近づいた時に何処の国にも見られた自然な気持でした。そしてこの攘夷派の人達は、黒船の要求を入れて開国した幕府に屈辱感を持ち、それに反発して反幕運動を開始します。これは幕府の具体的な政策に対する具体的な反発ですから、反幕で在っても倒幕の意識はありません。
何回も書きますが、攘夷等と云う感情は決して大義に為る様な思想ではありませんから、この反幕運動に大義はありません。況(いわん)や幕府を倒さなければ為ら無いと説明出来る理由や大義は全く無かったのです。
倒幕思想 一方長州藩には関ヶ原以来の徳川幕府に対する恨みが残って居たと言われて居ます。この怨念は山県大弐・吉田松陰・月性・久坂玄瑞・真木和泉・高杉晋作へと引き継がれました。しかしこの倒幕思想がハッキリと藩の方針と為るのは、薩長同盟が成立する頃です。又薩摩藩はそれ迄は幕府側に立って長州を敵とする側でしたから倒幕等思いも寄ら無い事でした。
だから「倒幕」と言う考えが反幕府勢力のコンセンサスと為ったのは、維新最期の局面の戊辰戦争の時からに過ぎません。それ迄は幕末の志士達は幕府の政策に反対して「尊王攘夷」を叫んで幕府に反対し反幕運動を繰り広げて居ました。これは幕府からは睨まれて居ましたが、「倒幕」を意識しては居ませんでした。「何の為に幕府を倒す必要があるのか」と云う理念が無かったからです。又勤皇の志士のスローガンであった「尊王」の大義は、大政奉還・公武合体で十二分に実現され倒幕迄は必要無かった筈です。
今から考えると「制度疲労を起こしてしまった今の幕府では、この困難な時局に対応出来無いから、政権交代が必要だ!」と考えた人が居たのでは無いかと思ってしまいますが、実際はそう云う事を言った人は殆ど見当たりません。(勝海舟は例外?)自分ならこうすると云う具体案・対案が無ければ言え無い事でした。西洋に対抗して国民国家と為る事を最重要課題とする為らば幕府を倒す必要はありませんでした。
この時に、戦争をしなければなら無い正当な理由を私は見つけられません。それ処か外国が犇(ひしめいて)めいて居るこの様な時に、内輪揉めをして居る時では無かった筈だからです。西郷隆盛は「未だ戦争が足り無い」と言ったそうですが、この様な理由で戦争をしたとしたらそれは暴力主義そのものの発想です。
サテ、薩長勢力が強引に戊辰戦争を始めた目的は「倒幕」であり、自分達が徳川幕府に取って代わる事でした。薩長が倒幕を考えて戊辰戦争を仕掛けた時に至っても、諸藩を潰して集権国家を造る等と云う考えは無く、別の幕府を開く程度の気持ちだったと推測します。詰まり近代国家を作る為の倒幕では無かったと言えます。
結論 倒幕(政権交代)と云う考えには大義がありません。倒幕は維新の理念に為り得ず、維新に理念は無かったとまとめる事が出来ます。詰まり「明治維新は必要無かった」と云う結論に為ります。
以上 参照第三回 おわり
私は、この文章に全面的に賛成します。私の父は鹿児島藩の下級士族の出で、父の兄等は医者や地方官僚として土地の名士でも在ったそうで、所謂、支配階級の末端に属して居ました。 父は末っ子で甘やかされて育ち禄(ろく)でも無い学生時代を続けましたが、何とか教師の職に在り付いて一生を終えました。
子供の頃古い戸籍謄本を見た事が在り、父の名前の下に「士族」と母の名の下に「平民」と書かれて居ました。母は岩手県盛岡郊外の貧乏百姓の娘で女子師範を出て小学校の教師をして父と見合いしたのです。父は、恐らく薩長閥に属し何らかの特典も受けた人なのでしようが、母の生まれた岩手県は、反政府側の領主の農民としてさぞや辛い扱いを受けた事でしよう。
サテ「平和民族日本を、50年間の戦争時代に導いた元凶は『明治維新』にある」とする仮説のレポートを参照しました。如何だったでしようか。
島国である日本は、外敵から侵略された事は無く(元寇は日本が侵略と誤解したものとする)、その恐れだけで軍備を増強し備えた。しかし、強大な軍備を持つとそれを使いたく為ります。そこから日本の軍事大国化へと進み近隣主国への侵略が開始されたのです。「明治は素晴らしい」・・・とする一途な感慨は如何なものでしようか。多くの人達に語り継がれた明治維新の「日本を開いた」とする称賛は、一度立ち止まって考え直す時期に来て居るのでは無いでしようか。
勿論、明治は見方によっては新しく素晴らしい時代では在ったのですが、全ての政策が過激であり極端であり上から下への権力の一方通行の硬直したものでした。そして、一番に挙げたいのが、未来の日本を築く青少年の教育が国家に依って多様的価値観を投げ捨てた画一された価値観のみを国民に押し付けたものだったのです。教育が画一化された事で、精神的に足腰の弱い、個人としての自我が弱く全体に流される(空気を読みすぎる・・・忖度)感の強い、悪い意味で付和雷同の強い専制国家へと流され易い体質へと為ってしまった様です。
明治の遺産は「教育⇒戦争 参照 第3回 「コバテツ独創史観」 五十年戦争史観
1 問題意識 「平和民族に取っての戦争時代と云う矛盾」
私はこの小論全体を「平和民族日本」と云うテーマで一貫したものとして書いて居ます。前章で「江戸時代迄の平和な歴史」を説明しました。処が、明治以後の日本を見ると、とても平和愛好民族とは言え無い多くの戦争をして来ました。
それにも関わらず私は「平和民族として一貫して居る」と書こうとして居る処に、以下の章の理解困難な処があります。
今の日本で私の様に「日本人は平和民族」と思って居る人は少ないでしょうから、前章を説得する事に先ず困難がありました。ここからの章はそれにも増して困難なもので、一見奇妙にさえ思えるかも知れません。
60年前に侵略戦争を経験してしまった現代日本人に取って「日本人は本来平和民族だった」と云う事が信じられ無いのも無理はありません。だから現代日本人は「日本人は本来好戦的な民族だ」と思い込んで居る節があります。
その常識に逆らって私は「日本人は平和民族であった」と云う仮説を立て、江戸時代迄の平和な様子に付いて前章で一応説明しました。「幾らあの戦争が酷いものだったからと言って、何も江戸時代の平和迄否定する事は無い!」と云うのが先ず言いたい事でした。この章では明治以後の戦争の時代の説明に入ります。
この章で扱うのは「江戸時代迄平和民族だった日本人が、何故明治以後に突然戦争ばかりする様に為ったのか?好戦民族に変身してしまったのだろうか?」と云う疑問です。これは今迄誰も考え付か無かった設問だと思います。
前段の「本来平和民族だった」と云う部分に同意出来無い人には「平和民族にも関わらず近代に為って突然戦争を始めた理由を考える」等と云う発想そのものが浮かば無いでしょう。「過去の戦争の反省が不足だ」と主張して居るサヨクの人に「平和民族日本」等と云っても、誤魔化された様な気持ちに為るだけかも知れません。
この様な誰も発し無かった質問に取り組む為には、様々な常識を一度ヒックリ返して見る必要があります。これがこの章で独断的仮説が沢山必要に為る理由です。兎に角この章では頭の体操みたいな事に為りますが、少々私の独断と付き合って貰いたいと思います。
2 平和な日本史の例外的時期
日本史全体を「平和」に焦点を当てて眺めて見ると、大阪夏の陣(1615年)以後、現在迄の約400年間が日本本来の平和の時代で、その内明治維新(1868年)以後、敗戦(1945年)迄の80年間だけはその間に挟まった例外的な戦争の時代と見る事が出来ます。
日本が戦争ばかりして居た近代と云う時代は、本来平和民族だった日本人の例外的時期に過ぎ無いと云う見方です。この様に長いスパンで日本史を眺めて戦争の時期の方が例外の期間だったと見ると、この例外は何故起こったのか?と云う疑問が考え易く為ります。
近代日本の戦争をズッと見渡してみると、何と馬鹿気た戦争をして来たのだろうか?と云う思いに捕らわれます。先ず一番理解に苦しむのが太平洋戦争ですが、何故負けるに決まって居る無謀な戦争をしてしまったのでしょうか?
未だに、あの戦争をし無ければ為ら無かった理由を説明出来る人は居ません。何故あんな馬鹿気た戦争をしたのか?と考え詰めると、日本人は本来戦争が不得手な民族なのではないか?と云う仮説を思い着きます。
日清・日露戦争は、現在でも成功だったと思われて居ますが、あの戦争に付いても「何の為に戦争をしたのか?」と検討してみると私には矢張り意味の無いものだったと見えて来ます。日本人は元々戦争が嫌いで苦手だったから、あんな奇妙で馬鹿気た必要の無い戦争をしてしまったと考えると何だか辻褄が合う気がします。
サテ「本来不得手な戦争を立て続けにする様な日本に何故為ったのか?」と云う疑問を解く鍵は「平和日本から戦争日本へのターニングポイント」である「明治維新」にあると思います。
注 過つての戦争を「侵略戦争」と規定して反省する考えも有りますが、ここで私が強調して居るのは「必要の無い戦争」と云う点である事にご留意下さい。戦争を中国の立場から見るのでは無くより日本人の立場から見ようとする為の発想です。
明治維新で悪く為った日本
あの間違った戦争の原因は、あの戦争を見て居るだけでは解らず、もっと遡って明治維新の経過を詳しく見てみる必要があると考えました。これがこの章のテーマです。
3 日本史3回の「侵略と敗戦」
明治維新との類似性
明治維新は、黒船ショックに対応して、近代的国民国家を形成したものですが、勢い余って海外侵略を始めその結果は太平洋戦争の敗戦に終わるものでした。日本史全体を眺めるとこの様な侵略・敗戦の経験は三回在ったと前章で述べました。ここでは明治維新との類似性に焦点を宛てて、もう一度、第一回白村江の敗戦、二回目秀吉の朝鮮侵略を見直します。
@ 大化の改新(645年)と明治維新
白村江の敗戦(663年)
大化の改新は、豪族を抑えて天皇制を確立したクーデター程度と思われて居ますが、私は国際変動に対応しての中央集権国家の確立と言う見方を提案します。
中国では先ず隋が統一国家を創り(581年)次いで唐と云う強大な帝国が起こり、半島では新羅が統一を図りつつありました。この国際社会の変化に緊張した大和政権は、対外的には百済を応援し国内的には律令国家を整備して、国民の統合・中央集権国家の確立と富国強兵策で対決しようとしました。この時の文明開化は遣隋使(600年)に始まります。
618年に唐が建国されてその軍事的圧力に対応する必要を感じた大和政権は、旧勢力を打倒して天皇の下の中央集権を図る大化の改新(645年)を断行して、土地制度・租税制度・法体系・政治組織等全てを唐の制度を見習って変革しました。(これは明治維新に当たりその改革と殆ど同じ範囲でした)
しかしながらこの改革にも関わらず、百済応援軍は白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に大敗し百済は滅亡しました。(これは太平洋戦争敗戦に当たります)
この敗戦によって本土防衛の必要性を痛感した大和政権は、その為の様々な体勢・設備を整えました。唐と戦って敗れたにも関わらず、引き続き唐から学ぶ為に遣唐使を継続して更に律令体制の導入に懸命な時代が暫く続きます。
アメリカに負けたのにその後物凄い勢いでアメリカ化した戦後の我々の経験を思い出します。負けた相手に学ぶと云う事が共通して居ます。こう云う風に見て、明治維新から敗戦迄の間は「第二の大化の改新」だったと言えます。
A秀吉の天下統一と朝鮮征伐
南蛮人が齎した鉄砲によって戦国地図が一変し、結局信長・秀吉によって全国統一が完成しました。この頃日本のエネルギーは国内で収まりが着かず東南アジア(ルソン・シャム等)へ活躍の場を広げて居ましたが、ここで南蛮(スペイン等)勢力と接触し国際緊張を体験する事と為ります。
この接触から外圧を感じて国内統一が進んだと言っては言い過ぎですが、そう云う要素も少しは在ったかも知れません。
秀吉の統一は、明治の中央集権化に対応します。そう云う統一のエネルギーが外へ向かった処が明治と共通して居ます。統一を完成した秀吉が、直ちに朝鮮征伐を開始した事を彼の狂気やボケの所為にするのでは無く、この様な時代の流れの中で解釈すべきと私は考えます。鉄砲の威力、キリスト教や南蛮のものに対する魅力は、恐らく日本人の心の中を混乱させた事でしょう。
これは明治の文明開化の興奮に共通します。西洋との最初の接触に触発された興奮が朝鮮侵略を誘い、そして手痛い敗戦で終わると云う点が明治維新との共通点です。秀吉の敗北は江戸時代250年の泰平に繋がる事と為りますが、昭和の敗北はどう云う未来を開くでしょうか?
このページの結論
日本の海外侵略は必ず失敗する。もし日本史に三回の海外侵略と云う事が無かった為らば、これ程平和な歴史を持つ素晴らしい国民は無いと言えます。こう云う自信を持って日本の将来を築けば、平和で幸福な未来は間違い無しと思うのですが如何でしょうか?
4 世界史の中の近代日本(世界史のゲームへの参加)
前章では「江戸時代迄の日本が平和民族であった事」を縄文時代以来の日本本来のものとして見てみました。戦争ばかりして居た世界の中での「例外的な存在」としての平和な日本を強調しました。
日本列島を、日本海で隔てられた島国と見て、ユーラシア大陸の戦争の世界とは別の文明として対比させました。ユーラシア大陸全体(西洋から中国迄)を戦争文明と一括りにして、それと島国日本の平和文明とを対比させました。
ユーラシア大陸は、歴史始まって以来の攻めたり攻められたりの繰り返しによって戦争の技術を高めて来ました。19世紀の西洋は国民国家同士が植民地争奪戦を演じて居た時代であり、これは正しく「世界史のゲーム」が戦われて居た時代でした。
ユーラシア大陸の熾烈な戦争社会から隔絶した平和な島国で侵略される恐れを感じた事の無い生活をして来た日本が、黒船によって泰平の夢を覚まされた時にどの様に対応したか?と云うのがこの章で考える「幕末―明治維新」の問題です。
この荒波を受けて「世界史のゲーム」に参加したのが開国でした。「政治の延長としての戦争」等と考えられる様な「世界史のゲーム」の真っ只中に日本はこの時強制的に参加させられました。この時日本は、嫌応無しにグローバルスタンダードの時代に突入したと言えます。唯受身的に世界に向かって窓を開いたと云うだけで無く、この「世界史のゲーム」に積極的に参加したのが明治維新でした。
世界史のゲームと云うのは「戦争ゲーム」に他なら無いものですから、平和日本の最も不得意とするゲームだったのです。
一万年の間、異民族との戦争を殆どした事の無い日本が、一万年の間戦争を繰り返してお互いに鍛え合って来た西洋のゲームの世界に参加するのですから、そこには大きな力の差が歴然として居ました。言わば縁台でへぼ将棋を打って居た素人が突然プロに勝負を挑んだ様なものでした。
この様に近代日本の戦争は、戦争を避けて来た平和民族日本人が背伸びをして戦争ゲームに加わったもので、そもそも始めから無理がありました。そう云う無理な背伸びをしてする必要の無い戦争をしてしまい大敗北を喫する事に為ってしまいました。
5 明治維新は奇跡的な成功か?/span>
維新は無くとも近代化は成功した
日本は現在、世界の中の経済大国としての繁栄を謳歌して居ますが、これは明治維新による近代化(西洋化)の成功のお陰だと普通には考えられて居ます。
日本はこの時、西洋の模倣に見事に成功し中央集権体制を確立し近代国家に生まれ変わる事が出来た、この成功のお陰で日本の現在が在るのだと高く評価するのが現在の常識です。それは非西洋世界での唯一の奇跡的成功だったと迄言われます。
しかし私は「維新の素晴らしい改革のお陰で日本の現在がある」と云う考えに異議を立てて、「維新が無くとも日本の現在の繁栄はあり得た」寧ろ「維新が無かった方が、もっと平和で豊かな日本に為って居たに違い無い」と云う歴史認識を提案します。
大政奉還・倒幕・廃藩置県・徴兵制等の大変革をし無いで、文明開化・近代化だけをした為らば、以後の戦争をし無くて済んだに違い無い。そうすればもっと素晴らしい日本に成って居たに違いない。今からでも遅く無いからそう云う日本を目指せば世界の尊敬を集める日本に成る事が出来るに違い無いと云う提案です。
日本の現在の繁栄は奇跡では無い
江戸時代に既に日本の産業は離陸準備期に在って、開国をすれば直ちに民間活力で離陸出来る態勢にありました。即ち維新のお陰で現在が在るのでは無くて、当時の日本には経済発展の潜在的・顕在的能力が在ったのであり、決して奇跡ではありません。
アジアと日本
一早く世界史のゲームに参加して成功した日本に比べて、中国・朝鮮は近代化に遅れた為に、先に強く為った日本によって酷い目に会わされてしまいました。日本としては良かったとしても近隣諸国に迷惑を掛けてしまったと云う事は否定出來ません。この事がある限り、明治維新を手放しで礼賛出来るものではありません。この章では、アジアに対しての加害の事実も心に留めて、明治維新を見直したいと思います。
6 坂本龍馬の理念・・・大政奉還
明治維新に理念を持って居た人として坂本龍馬が居ます。彼の理想が一番正当性のあるものだったと私は思います。坂本龍馬は徳川慶喜が大政奉還を実行した事を聞いた時に、慶喜の為になら死んでも良いと感激したと言いますが、これは本当に国を思う真心だと私も感服して居ます。しかし彼が暗殺されてしまった為に、彼の意思に反した戦争が起こってしまいました。(戊辰戦争)
薩長は、飽く迄も倒幕、権力奪取を目指した為、平和主義の坂本が邪魔に為り彼を暗殺したのに違い無いと考えます。(伊藤博文が犯人だと言う説が浮上して居ます)
よって明治維新はこの時点で横道に逸れて迷走を始め、行き着いたのは太平洋戦争の敗戦と云う悲劇でした。ここで私が迷走と書いたのは、その後の西南戦争等の内乱、明治始めの一揆の頻発、なかんずく日清・日露に続く海外侵略を意味します。しかし坂本龍馬と言えどもその理想は脱藩の時から持って居たものではありません。様々な試行錯誤を経てやっと最後に大政奉還の理念に辿り着いたと云う所です。
7 反幕にも倒幕にも大義は無い
始めは反幕
鎖国を絶対の原則と信じた保守的な考えの人達は、外国に対する反感を露わにして攘夷を叫びました。この反感は西洋が近づいた時に何処の国にも見られた自然な気持でした。そしてこの攘夷派の人達は、黒船の要求を入れて開国した幕府に屈辱感を持ち、それに反発して反幕運動を開始します。これは幕府の具体的な政策に対する具体的な反発ですから反幕で在っても倒幕の意識はありません。
何回も書きますが、攘夷等と云う感情は決して大義に為る様な思想ではありませんから、この反幕運動に大義はありません。況(いわん)や幕府を倒さなければ為ら無いと説明出来る理由や大義は全く無かったのです。
倒幕思想
一方長州藩には関ヶ原以来の徳川幕府に対する恨みが残って居たと言われて居ます。この怨念は山県大弐、吉田松陰、月性、久坂玄瑞、真木和泉、高杉晋作へと引き継がれました。しかしこの倒幕思想がハッキリと藩の方針と為るのは薩長同盟が成立する頃です。又薩摩藩はそれ迄は幕府側に立って長州を敵とする側でしたから倒幕等思いも寄ら無い事でした。
だから「倒幕」と言う考えが反幕府勢力のコンセンサスと為ったのは、維新最期の局面の戊辰戦争の時からに過ぎません。
それ迄は幕末の志士達は幕府の政策に反対して「尊王攘夷」を叫んで幕府に反対し反幕運動を繰り広げて居ました。これは幕府からは睨まれて居ましたが「倒幕」を意識しては居ませんでした。「何の為に幕府を倒す必要があるのか」と云う理念が無かったからです。
又勤皇の志士のスローガンであった「尊王」の大義は、大政奉還・公武合体で十二分に実現され倒幕迄は必要無かった筈です。
今から考えると「制度疲労を起こしてしまった今の幕府では、この困難な時局に対応出来無いから政権交代が必要だ!」と考えた人が居たのでは無いかと思ってしまいますが、実際はそう云う事を言った人は殆ど見当たりません。(勝海舟は例外?)
自分ならこうすると云う具体案・対案が無ければ言え無い事でした。西洋に対抗して国民国家と為る事を最重要課題とする為らば幕府を倒す必要はありませんでした。この時に、戦争をしなければなら無い正当な理由を私は見つけられません。それ処か外国が犇(ひしめいて)めいて居るこの様な時に、内輪揉めをして居る時では無かった筈だからです。西郷隆盛は「未だ戦争が足り無い」と言ったそうですが、この様な理由で戦争をしたとしたらそれは暴力主義そのものの発想です。
サテ、薩長勢力が強引に戊辰戦争を始めた目的は「倒幕」であり、自分達が徳川幕府に取って代わる事でした。薩長が倒幕を考えて戊辰戦争を仕掛けた時に至っても、諸藩を潰して集権国家を造る等と云う考えは無く、別の幕府を開く程度の気持ちだったと推測します。詰まり近代国家を作る為の倒幕では無かったと言えます。
結論
倒幕(政権交代)と云う考えには大義がありません。倒幕は維新の理念に為り得ず、維新に理念は無かったとまとめる事が出来ます。詰まり「明治維新は必要無かった」と云う結論に為ります。
以上 参照第三回 おわり
私は、この文章に全面的に賛成します。私の父は鹿児島藩の下級士族の出で、父の兄等は医者や地方官僚として土地の名士でも在ったそうで、所謂、支配階級の末端に属して居ました。 父は末っ子で甘やかされて育ち禄(ろく)でも無い学生時代を続けましたが、何とか教師の職に在り付いて一生を終えました。
私の子供の頃、両親の古い戸籍謄本を見た事が在り、父の名前の下に「士族」と母の名の下に「平民」と書かれて居ました。母は岩手県盛岡郊外の貧乏百姓の娘で女子師範を出て小学校の教師をして父と見合いしたのです。父は、恐らく薩長閥に属し何らかの特典も受けた人なのでしようが、母の生まれた岩手県は、反政府側の領主の農民としてさぞや辛い扱いを受けた事でしよう。
サテ、一昨日・昨日・今日と三度に渉って「平和民族日本を、50年間の戦争時代に導いた元凶は『明治維新』にある」とする仮説のレポートを参照しました。如何だったでしようか。
島国である日本は、外敵から侵略された事は無く(元寇は日本が侵略と誤解したものとする)、その恐れだけで軍備を増強し備えた。しかし、強大な軍備を持つとそれを使いたく為ります。そこから日本の軍事大国化へと進み近隣主国への侵略が開始されたのです。
「明治は素晴らしい」・・・とする一途な感慨は如何なものでしようか。多くの人達に語り継がれた明治維新の「日本を開いた」とする称賛は、一度立ち止まって考え直す時期に来て居るのでは無いでしようか。
勿論、明治は新しく素晴らしい時代では在ったのですが、全ての政策が過激であり極端であり、上から下への権力の一方通行の硬直したものでした。そして、未来の日本を築く青少年の教育が国家に依って、多様的価値観を投げ捨て画一された価値観を国民に押し付けたのです。教育が画一化された事で、精神的に足腰の弱い、悪い意味の専制国家へと導いてしまった様です。
明治の遺産は「教育⇒戦争⇒侵略」だったのでしよう。世界が「戦争・侵略」を競って居た所に日本も進んで参加したのです。日本は敗北してその遺産を捨てましたが、勝利した各国は依然その遺産を引き摺って居ます。
敗戦した日本は明治以来の「戦争・侵略」を投げ捨て経済復興に専心しました。お蔭で経済大国と呼ばれる国に為ったのですが、今や、戦争・敗戦を経験した事の無い年代の人が指導者となり、世界の国々の仲間に入り発言権を高めようとして居ます。
その力の一つの裏付けが経済で在ったのですが「金だけでは無く血を流せ!」と言われたと思い込み、軍事力での世界貢献を夢見る様に為って居ます。この事が果たして好い事なのか・・・今やその経済力も中国に追い抜かれてしまった。私達は未来の日本にも責任を持つべきだと考えます・・・
以上
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