2018年05月02日
戦時中の朝鮮人の強制連行と強制労働はデマなのか?
韓国の騒ぎは何だったの?
釜山の日本総領事館前 警察の機動隊が像を取り囲んで動かず
【釜山(プサン・韓国南部)渋江千春】韓国の労働団体がメーデーの1日、日本の植民地時代に徴用された朝鮮人労働者を象徴する像を釜山市東区にある日本総領事館前に設置しようと試みた。警察の機動隊が総領事館手前で像を取り囲んで動かせないようにしたため労働団体側は「物理的に不可能だ」として設置をいったん断念し解散した。ただ像は歩道上に置かれたままで今後の動き次第では日韓関係に影響が出る可能性が残っている。
労働団体側は1日午前から像を押しながら総領事館に向かって前進。総領事館の数十メートル手前で機動隊が労働団体の関係者を排除しようとした際にもみ合いも起きた。設置を断念した後、労働団体は総領事館周辺で「釜山労働者大会」を開催。外交公館の100メートル以内では集会やデモが禁じられており総領事館の周りに配置された警察官約3000人が警戒にあたった。
徴用工像設置の動きは昨年韓国メディアの報道で明らかになり先月11日に訪韓した河野太郎外相が康京和(カン・ギョンファ)外相に「望ましく無い」と云う日本の立場を説明。その後、韓国外務省は「外交公館の保護や関連する国際儀礼と慣行の側面から適切ではなく、外交的な摩擦を招く可能性がある」として、文書で労働団体側に自制を求めた。外務省は釜山市や道路を管理する東区にも同様の文書を送付し、「釜山市内の別の場所への設置が望ましい」との意向を伝えてきた。
総領事館前には既に、慰安婦を象徴する少女像が設置されている。2016年12月に設置された後、東区は一旦撤去したが、市民から抗議が殺到し市民団体による再設置を黙認。日本政府は大使を帰国させ、日韓関係が冷え込む要因の一つと為った。 徴用工像についての今後の対応について、東区は「外務省、釜山市などの意見は無視出来ない。状況を見て議論する」として居る。 毎日新聞記事より
一体如何いう事なのか・・・
参照 「日韓の新たな火種か 元徴用工問題」(時論公論)
2017年08月21日 (月) NHK解説委員 出石 直
北朝鮮への対応で日本と韓国の緊密な連携が求められているこの時期に、韓国のムン・ジェイン大統領から日韓関係に水を差しかね無い発言が飛び出しました。先月から韓国で公開されている映画「軍艦島」。終戦間際、長崎県の端島(はしま)=通称、軍艦島で過酷な労働に従事して居た朝鮮半島出身の若者達が集団で脱出を試みるというストーリーです。
歴史的事実に基づいたものでは無く、日本国内では「誤った歴史認識を伝える恐れがある」と云う批判がありますが、ムン・ジェイン大統領の発言はこの映画を切っ掛けに韓国国内で徴用工への関心が高まっている中で行われました。その発言です。
「個人請求権、詰り朝鮮半島から内地に動員された元徴用工の人達が日本企業に損害賠償を求める権利は残っている。韓国政府はそうした立場で歴史問題に臨んでいる」
と述べたのです。真意をもう少し確かめる必要はありますが、「元徴用工の問題は解決済み」として来た韓国政府の従来の立場を覆したとも受け取れられかねない重大な発言です。この問題では、新日鉄住金や三菱重工など日本の企業に損害賠償などを求める裁判が韓国国内で相次いで起こされて居ます。今後の展開によっては慰安婦問題以上に深刻で厄介な火種に為りかねません。
先ず元徴用工問題とは何か、簡単にご説明します。日中戦争で深刻化した労働力不足を補う為、日本政府は国家総動員法と国民徴用令によって民間人を軍需工場や炭鉱などに動員しました。戦火の拡大によって対象は日本の植民地だった朝鮮半島にも広げられました。徴用された朝鮮半島出身者の数については公式な記録が残されていない為正確には判りませんが、研究者の調査では70万人から80万人位と推定されて居ます。
この問題は、戦後の国交正常化交渉の主要議題のひとつでした。14年に及んだ交渉の末、1965年に両国は国交を回復します。この時、結ばれた請求権協定の第2条1項には「日韓両国と国民の財産、権利及び利益、並びに請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決された」と明記されて居ます。韓国政府も日本政府が拠出した経済協力資金の運用に関する法律を制定し、徴用で死亡した人に対し、一人当たり30万ウォンを支給して居ます。これが「この問題は完全かつ最終的に解決している」とされる根拠です。
請求権協定で何が解決し、何が解決して居ないかを巡っては、長い間、論争がありました。元徴用工やその遺族は「未だ解決していない」として1990年代から日本政府や企業に損害賠償などを求める裁判を次々と起こしました。しかし一連の裁判は2007年4月、最高裁判所で「完全かつ最終的に解決済み」とする判断が示され、日本での訴訟の道は閉ざされました。
韓国で、歴史の清算の問題に積極的に取り組んだのがノ・ムヒョン政権でした。何が解決され、何が解決されて居ないのかの検証を行ったのです。その結果、国交正常化交渉時には存在が知られて居なかった慰安婦や韓国人被爆者などは「請求権協定では解決されて居ない」と結論付けました。しかしこの時の検証でも、元徴用工に付いては韓国国内で立法措置が取られて居ることなどを理由に「解決済み」とされ、韓国政府も裁判所もこの立場を踏襲してきました。
この問題が再び浮上したのは、2012年に韓国の最高裁判所で示された判決が切っ掛けでした。請求権協定で解決済みであり被害者個人が損害賠償を求める事は出来ないとしていた判決を破棄し、裁判をやり直すよう高等裁判所に差し戻したのです。
「日本の国家権力が関与した反人道的不法行為や植民地支配に直結した不法行為による損害賠償請求権は、請求権協定によっても消滅して居ない」
と云う初めての判断でした。この判決を切っ掛けに韓国国内では、日本企業に損害賠償を命じる判決が次々と出される様になりました。解決済みとされていた元徴用工の問題が、この韓国の最高裁判所の判決によって、一転、未解決とされたのです。
当時、軍需工場や炭鉱などに動員された人達の労働環境が劣悪で過酷だった事は確かです。日本で起こされた裁判でも、「有刺鉄線に囲まれた寮で12畳の部屋に12人が収容されて居た」「食事は粗末で休日は月に1、2回しか与えられ無かった」「こん棒で腰を20回も殴られた」と言った過酷な実態が認定されて居ます。
安倍総理大臣も戦後70年に当たって発表した談話の中で「何の罪も無い人々に、計り知れ無い損害と苦痛を我が国が与えた事実を噛み締める時、ただただ断腸の念を禁じえません」と述べて居ます。誰もが苦難を強いられて居た戦時下と云う特殊な状況だったとは言え、こうした歴史の事実は謙虚に受け止めねば為らないでしょう。
ここまで元徴用工問題を巡るこれまでの経緯を見てきました。最後に今後の日韓関係への影響について考えます。韓国の最高裁判所から高等裁判所に差し戻され再び最高裁判所に上告された訴訟は、最終的な判決が言い渡され無いままの状態が続いて居ます。
政治的な影響の大きさを考慮して結論を先送りして居るものと思われます。最大の焦点は、韓国の最高裁判所が何時最終的な判断を示すかです。最終的に原告の主張が認められ日本企業に損害賠償の支払いを命じる判決が確定する事に為れば、1965年の請求権協定で決着した筈の問題が悉く覆され、日韓関係の根幹を揺るがす政治問題に為ることは確実です。際限無く次々と裁判が起こされ、日本企業の韓国での活動にも深刻な影響が出るでしょう。
ムン・ジェイン大統領は一昨年両政府の間で交わされた慰安婦合意に付いても、「国民の大多数が情緒的に受け入れて居ない」として交渉の過程を再検証する作業を進めています。双方の外交努力によって解決し封印された筈の問題が再び蒸し返される、ゴールポストが何度も動くと受け取られる事は、日韓関係に取ってマイナスになるだけでプラスには為ることは一つもありません。
今週から朝鮮半島有事に備えたアメリカ軍と韓国軍による合同軍事演習が始まりました。朝鮮半島情勢が緊迫化し、今ほど日本と韓国の緊密な連携が求められている時はありません。韓国政府と司法当局には、とかく感情的に為りがちな世論に流される事無く、幾多の努力によって積み重ねられて来た両国関係の歴史を踏まえた慎重かつ理性的な判断を求めたいと思います。(出石 直 解説委員)参照 おわり
サテ、この「朝鮮人の強制連行による強制労働」の問題は、どの様なものだったのか? 先ずは、「肯定する」立場の人の話を参照しよう・・・
参照 明らかにされた朝鮮人強制連行の真実、息を飲むその過酷な実態
2010.07.06 岩垂 弘 (ジャーナリスト)
〔書評〕林えいだい著『《写真記録》筑豊・軍艦島――朝鮮人強制連行、その後』(弦書房、¥2000+税)
今年は、日本による韓国併合から100年。朝鮮半島に対する日本の植民地支配は1910年から1945年迄の35年に及んだが、その間の植民地支配の一端を明らかにした写真記録が刊行された。
ノンフィクション作家、林えいだいさん(76歳)の『《写真記録》筑豊・軍艦島――朝鮮人強制連行、その後』である。日本人が知ら無い、或いは知ろうともしない朝鮮人強制連行の真実が、半世紀にわたる林さんの追跡取材で明らかにされている。
本書に依ると、1937年以降、日本は深刻な労働力不足に陥った。この年、日本は日中戦争に突入し、軍需産業部門が拡大する一方で、工場で働いて居た労働者が戦争で戦地に送られたからだ。取り分け、九州の産炭地・筑豊では炭鉱労働者が次々と軍隊に召集され、石炭企業は労働力不足に直面した。
この結果、石炭生産量が極端に落ち込み、政府としても朝鮮半島からの労働者の移入を考えざるをえ無く為った。この為、政府は1939年、内務・厚生両次官通牒「朝鮮人労務者内地移住に関する件」に依って各企業に朝鮮人労働者募集を認可、募集方式による労働者移入が始まった。
太平洋戦争に為ると、労働力不足は益々深刻に為った。この為、政府は「朝鮮人労務者活用に関する方策」を決定し、それ迄の募集方式を改め、国家権力が直接朝鮮人労働者を“募集”する官斡旋方式にした。更に、戦況が末期的な段階に為った1944年には、労働力の充足がより切実な緊急課題と為り、遂に国民徴用令に依って朝鮮人を日本に連行した。
本書の中で林さんは書く。「最大の問題点は、建て前としては募集方式であっても、現実には強制であったと云う事である」林さんは朝鮮から連行されて来た人達から集めた証言を紹介して居るが、それに依ると、日本に送る朝鮮人労働者に付いては朝鮮総督府から道庁に割り当てがあり、面(村に相当)の募集担当者と日本人巡査が供出リストを作った。
「例え募集方式であろうと、面事務所と面駐在所の巡査の二人がリストアップした事は、そこに権力が介入した事に為る。既に募集では無く、飽く迄強制と為る。該当者の中には、日本行きを逃れる為に山奥に潜んだ。夜に為ると降りて来て畑仕事をし、夜が明ける頃には再び山へと帰る者が居たが、しかし、何時までも逃れる事は出来ず、駐在所の巡査に捕まり強制連行された」
林さんがソウルで知り合った朝鮮人は、太平洋戦争中、郡守として労働者の徴用に当たった。その人が林さんに話した処に依ると、徴用は朝鮮総督府から道庁に割り当てがあり、それを郡守に命令した。それを郡守は管轄の面に割り当てるが、山岳地帯が多い為に集めるには限度があり、その郡守は徴発隊を組織すると、全員に竹槍を持たせて出動した。行き成り民家を襲い、働けそうな男達を全員トラックに積んで帰り、炭鉱から来た労務係に引き渡した、と云う。
朝鮮人の殆どは、炭鉱で働く事を知らされずに日本に連行された。そして、入山した翌日に坑内見学をして、2、3日休ませると直ぐ入坑させて採炭と云う無謀な事が行われた。
地下の深い所で石炭を採掘する作業は常に危険に晒されて居る。天井からの落盤、側壁の崩壊、ガス爆発、炭塵爆発、断層からの出水、炭車の暴走など、突然の事故に依って大勢の生命が失われた。「坑内で最も危険な場所で、しかも生産量の上がら無い切羽を、朝鮮人坑夫に採炭させた。当然の様に朝鮮人の死亡事故も多く為る」と本書は書く。しかも、朝鮮人炭鉱労働者の賃金は日本人の約半分だった。本書は、更に続ける。
「坑内での過酷な労働。体力回復の為の休養と必要な食糧が十分与えられず不満が鬱(うっ)積した。二年満期で帰国させると約束しても、その保障は一切無い。絶望的な状況の中で朝鮮人坑夫達が考える事は、炭坑から逃走する事であった」
林さんに依れば、1939年から40年に掛けての時期、福岡県内には250以上の炭鉱があって、その中心であった筑豊地方では15万人の朝鮮人が強制連行されて居た事を田川警察署の特高主任と飯塚警察署の特高主任が証言して居る。
「移入者数に対する逃走者の割合は福岡県全体では、51.7パーセントに達して居る。強制連行した朝鮮人の内、半数以上が逃走した現実は、それ自体が強制であった事の証明である。死亡者数は711人、不良坑夫の強制送還者数も1824人と非常に多い事に注目したい。単なる募集であれば、半数以上が逃走する事は考えられ無い。更に労働条件と待遇が最悪であった事の証しである」と林さん。
此処では、最も過酷な炭鉱労働が行われて居た例として、軍艦島の当時の状況が紹介されて居る。軍艦島は長崎港外15キロにあった海底炭鉱・端島(はしま)炭鉱だった。採炭の為に造られた南北480メートル、東西160メートル、海抜45メートルの人工島だ。島を高さ10メートルの防波堤が囲み、東シナ海の荒波が叩き着ける。島の形が軍艦に似て居る処から、「軍艦島」と呼ばれた。切羽は深い所で坑口から1キロ以上もあった。
本書に依れば、採炭最盛期の1945年には約5300人に上る炭鉱労働者が居て、島から溢れそうだった。内朝鮮人は強制連行者を入れて約500〜600人。他に自由渡航で遣って来た所帯持ちが約80人働いて居た。中国人も捕虜ら204人が働かされて居たと云う。
そして「日本人坑夫の多くは、深部の急斜面の採炭現場は如何しても生産量が落ち、落盤の危険があるので敬遠した。結局、危険な場所には、朝鮮人と中国人が投入されたと云う」。
過酷な労働に耐えかねて、島からの逃走を試み、溺死した朝鮮人も居た。警察は監視を兼ねて野母半島(長崎半島)に警官を配置。警官は島抜けした者を見つけると逮捕した。林さんに依れば「死を覚悟して続々と逃走しようとする坑夫達を見た野母半島の人達は『端島は監獄島』と呼ぶ様に為った」
端島炭鉱は1974年に閉山。今、廃墟に為った軍艦島を世界遺産にしようと云う運動が長崎市で起こって居る。朝鮮半島から日本に連れて来られた人達は、炭鉱ばかりで無く、鉱山、ダム建設工事、軍事施設等で働かされた。その数は全体で何人位だったろうか。林さんは本書の末尾で、日本政府の資料を紹介して居る。それによると・・・
公安調査庁 724,787人
厚生省勤労局 661,684人
第86回帝国議会説明資料(朝鮮総督府) 724,875人
厚生省労務局 667,684人
朝鮮経済統計要覧資料 1,119,032人
政府資料に依ってもかなりの開きがある。何とも杜撰な統計だが、何れにしても110万から66万に上る朝鮮人が強制的に連行されて来た事が分かる。その多さに改めて驚く。その上、何とも遣り切れ無い思いに駆られるのは、この人達の帰国時の状況だ。 日本敗戦により、日本政府は強制連行した朝鮮人の徴用解除を決定した。が、日本政府による配船の不足、毎日全国から集まる朝鮮人の受け入れ態勢の不備から、博多港の埠頭は大混乱に陥った。
朝鮮人達は持てるだけの荷物を持って船待ちをした。待ち切れ無い人達は、闇船をチャーターして帰国しようとした。定員以上乗った闇船の中には、台風や嵐に遭って沈没した船もあった。船待ちの間に所持金を使い果たし、帰国を諦めた人も居た。
本書の中で強制連行の経験を証言する朝鮮人は、何れも本名で登場する。しかも、写真着きである。その写真は何れも林さん自身が撮影したものだ。詰り、本書は、林さんが連行されて来た人達から直に話を聞いてその実態を明らかにした記録で、伝聞に基づく記録では無い。従って、その証言は生々しく、説得力を持つ。
林さんは筑豊生まれだが、父の寅治さんは神主だった。炭鉱から脱走した朝鮮人を多数匿った事から、1943年に逮捕され、特高警察による拷問を受け、その傷が元で釈放1カ月後に死亡した。48歳だった。 林さんの半世紀に及ぶ朝鮮人強制連行取材の原点には、こうした父の死がある。
本書を読み終わった時、この5月にジャーナリスト訪問団の一員として北朝鮮を訪れた折にこの国の外務省幹部が私達に語った言葉を思い出した。それは「今年は、我が国が日本に占領され、植民地にされてから100年に為るが、未だにこの罪業が清算されて居ない」と云うものだった。朝鮮人強制連行問題は今尚解決されて居ない。そう思わずには居られ無い。
弦書房:福岡市中央区大名2−2−43 ELK大名ビル301 電話092-726-9885
以上 参照 おわり
勝手に引用しました、ありがとう御座います。次回は、これに反証する人達のご意見を紹介します・・・
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