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2018年05月03日

江戸時代を詳しく知ろう・・・


 ♪♪春・ゴールデンウィークも最終日・・・いよいよアウト・ドアーの季節を迎え、これから昼間の長い日が続き夏を迎えます。何といっても今年の北国の冬は寒くて雪が多く、まるで地球温暖化の逆を行く様な日が続きましたから、今年、これで本当に春や夏が来るのかしら?と心から疑いたくなる毎日を過ごしたのでした。
 処が、春は一足飛びに遣って来てアッと言う間に桜が咲き、直ぐに散ってしまいアレよアレよと今を迎えてしまった。なのに今年の夏は猛暑が続き水不足も心配されるとか・・・一体どの様な気候に為るのでしょうか?
 そんなお天気様のことだけを心配しても始まら無い。全てを忘れ少しノンビリした気分を味わいたいものです。「あの平和な江戸時代の人達なら、どの様な風流な遊びをしたのだろうか?」と想像を巡らすのも好いかも知れません・・・そこで、色々な江戸のお話しを調べてみました。少し長編ですがでお付き合い下さい・・・お孫さんに聞かれた時のご参考にも為ります。

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 参照 江戸時代って本当はどの様な時代だったの?


 "Tokugawa Japan" 参照 世界が賞賛した「平和国家」江戸日本(2000.10.22)から引用


 江戸時代 慶長8年(1603)の「江戸開府」(徳川家康の将軍就任・幕府創設)から、慶応3年(1867)の「大政奉還」に至る徳川将軍15代265年間に及んだ時代。この江戸時代に付いて、皆さんが連想するものは?と聞かれたら、一体何と答えるでしょうか? 

 水戸黄門・大岡越前・暴れん坊将軍・桃太郎侍・・・ウーン、一寸テレビ時代劇の見過ぎですネ。切り捨て御免・辻斬り・ご禁制の阿片(アヘン)・・・益々、時代劇の見過ぎです。確かに時代劇には好く「江戸時代」が取り上げられますし、お茶の間でも結構人気の高いドラマのジャンルだと思います。しかし、こう言った時代劇に登場する「江戸時代」は、およそ現実の歴史からは掛け離れて居る事もまま在ります。と言う訳で今回は、時代劇の「江戸時代」と実際の「江戸時代」を比較検証してみたいと思います。


 ◇犯罪の少ない安全な都市だった江戸

 先ずは犯罪から。好く時代劇では、毎日の様に何処かで殺人事件が起きその度に同心やら岡っ引きが町中を飛び回って居ますが、あれは「ウソ」です。
 当時も確かに犯罪は在りました、しかし、犯罪の多くが今で言う所の「軽犯罪」で、殺人・放火と言った「凶悪犯罪」は殊の外少数でした。ですから偶に何処かで殺人事件でも起き様ものなら、瓦版(かわらばん・現代の新聞・週刊誌に相当)が大上段な記事を載せ、それを読んだ町人達はその噂で持ち切りだったそうです。今なら、差し詰め、世間を震撼させる様な大事件をテレビのワイドショーが大々的に連日取り上げると言った処でしょうか。詰まり、それ程殺人事件等の「凶悪犯罪」が少なかったと言う事です。
 ですから、仮にタイムマシンが存在し、江戸時代の人間を現代に連れて来たとしたら、その人は自分の住んで居た江戸時代よりも現代の方が余程恐ろしい社会に思えるでしょう。それ程迄に、江戸時代(幕末動乱以前)とは人々に取って「平和」な時代だったのです。

 何故「凶悪犯罪」が少なかったのか?それは、現代の様に犯罪者を社会から「隔離」し無かったからです。例えば凶悪犯罪の犯罪者が「死刑」に処せられるとします。現代では、刑務所の中で「ヒッソリ」と刑が執行されますが、当時は町人に犯罪者の顔を晒(さら)して回る・・・市中引き回しの上、刑場で公開処刑されたりしました。詰まり、町人は処刑を実際に目にする事が出来た訳です。
 マア、現代の人権擁護派からは「残酷過ぎる」「人権無視」等と言う意見が出るのでしょうが、当時は、「こんな凶悪犯罪を犯すと、アンナ風にされるんだよ」と言った意識を処刑を目にした町人達は抱く訳で、凶悪犯罪の「抑止」効果としては最も有効だった訳です。

 ・麻薬事件はゼロに近かった

 又、時代劇に出て来る「ご禁制の阿片」も「ウソ」です。当時の日本人で、阿片や 麻薬等を吸引する様な人間は誰一人として居ませんでした。
 現代は、麻薬の密輸売買で莫大な利益を上げ様とする不埒(ふらち)者や、その麻薬に手を染めて中毒に罹る人間も後を絶ちません。しかし、当時、麻薬は「嗜好品」として認知されて居ませんでしたし、大枚(大金)を叩いてそんな訳の分から無い物を買おうと言う日本人も居ませんでした。ですから、時代劇の様に、長崎奉行がシナ辺りから「ご禁制の阿片」を密輸して莫大な利益を上げる等と言った事は到底在り得無い訳です。何故なら、日本国内に阿片を求める需要も無ければ市場(マーケット)も無かったのですから・・・

 ・武士が意味なく切り捨て御免はうそ

 武士の「特権」として当時「名字帯刀」(名字を名乗る事と刀を持つ事)を許されて居たご時世です。更に、武士が町人や農民を「無礼討ち」「切り捨て御免」する事も許されて居ました。
 しかし「無礼討ち」と言う以上、相手が明らかに無礼を働いた事が前提でした。もし、何の理由も無いまま相手を切り捨てたりすれば、それは単に犯罪としての「辻斬り」と言う事に為ります。しかし、江戸時代前期こそ罷(まか)り通った「切り捨て御免」も、後期とも為ると殆ど「絶滅」します。何故「絶滅」したかと言うと「無礼討ち」に及んだ武士も只では済ま無く為ったからです。
 どう済ま無く為ったかと言うと「無礼討ち」をすれば最悪の場合自分も切腹(自害)しなくくては為ら無かったからです。詰まり、相手が例え町人であろうと、刀を抜いて斬り突ける時は自分の命を捨てる(切腹する)覚悟が必要だったと言う事です。最も中には、刀が「真剣」(正真正銘の日本刀)では無く「竹光」(刃が竹で出来て居る偽物の刀)だったので、抜くに抜け無かったと言う事も在ったでしょうが・・・。

 ・犯罪の少なく戦争の無い250年間の平和

 最後に、「平和国家」としての江戸日本に付いて。江戸時代は「幕藩体制」と言う封建社会と「鎖国」に代表される外部との交流を拒絶した閉鎖社会として、以前からマイナス・イメージで捉えられて来ました。確かに「士農工商」(武士・農民・工人・商人)から為る階級制度や、海外との自由貿易の禁止等のマイナス面が在ったのも確かです。しかし、その「江戸時代」が、海外では「Tokugawa Japan」(トクガワ・ジャパン:徳川幕府治下の日本)として高く評価されて居る事も事実です。

 何故、高く評価されて居るのかと言うと、
 ・第一に、犯罪の少なさ(前述の通り)
 ・第二に、清潔に保たれた都市環境(昔のパリやロンドンは町中、排泄物・汚物だらけ!!)
 ・第三に、勤勉実直で道徳心に富む国民(これは、戦国末期や幕末期に来日した外国人が指摘して居る)、
 ・そして、「平和国家」として、江戸日本に「実績」が在ったからなのです。

 この「平和国家」としての日本は、「Pax Tokugawana」(パックス・トクガワーナ或はPax Tokugawaパックス・トクガワ:徳川に依る(日本の)平和)と呼ばれて居るのですが、これは、元和元年(1615)の「大坂夏の陣」を最後に、幕末に至る迄実に250年に渉ってこれと言った戦乱も無く幕府が常備軍(国軍)を組織せず、増してや領土拡張を狙った海外侵略も企てず他からの侵略も受けず、只管「泰平の世」(平和)を謳歌して来た事に対する賞賛です。
 それに対して、隣国シナ 当時の清国は、康煕帝から乾隆帝に至る全盛期に領土拡張の為の遠征をして居ますし、欧米列強諸国も世界各地に植民地獲得の為に兵を送って居ます。

 そう考えると、日本列島と言う狭い空間の中で、曲がり為りにも自給自足体制を確立し戦乱とは無縁な社会を維持して来た徳川将軍15代・265年間の 江戸時代とは、或る意味では現代以上に平和な時代だったとも言えます。
 勿論平和・江戸時代は、他に諸々自慢するものがありますよ。子供への教育には町のアチコチに寺小屋があり、主家を失った浪人の生活の糧にも為った。区役所の支所のような戸籍管理は夫々のお寺に過去帳があり、そこから旅行手形も貰い大山や富士山にお伊勢さんや温泉場へ湯治を楽しむ事が出来た。至る所に寄席が出来て落語や講釈を楽しみ、習い事だと三味線や常磐津を色っぽい年増の師匠に稽古を受ける。
 何せ、全国から独身男が押し掛けるからどんな女性もモテモテ、花街も大繁盛!上水道は完備し下水は肥料として売れるし布や紙切れもトコトン使い尽くしてゴミも出ない・・・完全リサイクル都市だった江戸。近郊には近代手工業・軽工業も発達して優秀な職人も数多くいた。

 詰り、戦争・戦乱が無かったので、軍需・武器以外の技術は夫々が芸術的と言われる程の卓越した技術が育まれたのです。日本刀は、人を殺傷する武器と云うよりは美術・工芸品としての性格が強くなり、日本画に読み物(草子)・脚本から舞台芸術(能・歌舞伎・舞踏)へと様々に発展しました。
 その中で特に異才だったのは日本画・版画(浮世絵)でしょうか、後に西洋のゴッホやゴーギャン等の抽象画等に大きな影響を与えました。文化、それも大衆娯楽文化が花開いたのが太平の世の江戸時代だったのです。平和は文化を嫌が上に発展充実させるのです、他にすることもありませんし、ご隠居さんが盆栽に励むようにです。

    

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 ・江戸時代の人口は?

 好く用いられる数字として、ざっと3000万人だったとされて居ますが、飽く迄も江戸時代中期から後期の推定値です。
 人口推計には諸説あります 幕府の調査によれば、1721年の人口は約2,606万人、1804年には2,562万人、1846年には2,690万人です。1870年に明治政府が調査した記録では3,279万人と、幕府の調査から24年で600万人近く増えている事に為ってしまいます。これ程人口が急増する事はあり得ず、江戸時代の人口調査がかなり過小申告されていた事が伺われます。
 様々な研究者により推計が行われて居ますが、諸説あり、どれが正しいのかは定まっていません。江戸時代初期1600年頃には1,200万〜1,300万人、1700年頃には2,800万〜2,900万人、1750年頃には2,900万〜3,100万人程度と云うのが一般的に認められている数字でしょう。

 豊臣秀吉が実施した人口調査 

 我が国でかなり正確な調査が行われたのは、1591年の豊臣秀吉の命によるものでした。当時、朝鮮半島への出兵をして居た秀吉は動員の為調べる必要があると考えたのです。秀吉の時代には検地も行われ、この頃に初歩的なものとは言えある程度の統計手法が編み出されて居たようです。

 キリシタン排除の為に始まった人口調査 

 江戸時代になると「宗門人別改帳制度」(しゅうもんにんべつあらためちょうせいど)が出来、調査が行われはじめました。これは人の数を調べる事が目的では無く宗教宗派の分布調査が主目的です。これによって、ある程度の把握は出来ましたが、上述の様な理由から必ずしも正確には調べ尽くされてはいません。乳幼児の死亡率が高いこともあって、藩によっては8才未満の子を数えなかったり15才未満を含めなかったりもしています。

 全国レベルで人口調査が始まったのは吉宗の時代 

 全国を対象とした人口調査に初めて取り組んだのは徳川吉宗の時代です。1726年以降6年毎に人口調査が行われる様に為り、これにより大まかではあるものの人口の推移が分かるようになりました。しかしながら、調査方法は夫々の藩に一任されていた為、一定の基準に基づいた数字ではありませんでした。
 その為、現在では実際の人口とは400万人から500万人程の差があったのではないかと推定されています。それでも尚、定期的に調査を行ったと云う意味では画期的なものであり、江戸時代の人口推計の貴重な資料と為っています。

 武家の人口は好く判っていない? 

 武家の人々の人口統計は信頼性の高いものが残って居ないようです。というのも、幕府に忠誠を誓っているとは言え、夫々の藩は一個の独立国家の様なもので、何人の武士・・・詰り兵員を抱えているかは軍事機密に当たることでした。その為、中央政府である幕府にその正確な人数を申告することはありませんでした。又、武家屋敷に勤める奉公人の人数が判ってしまうと簡単に武士の人数も推測出来てしまうので、奉公人の数も秘密にされて居た様です。

 ・江戸時代の服装にはどのような特徴があったのか

 江戸時代の服装は、男女で異なるのは勿論、身分によっても違っていました。今のような服装では無く男女とも着物を着ていましたが、小物などにも身分による違いがありました。時代劇などを好く見ていると気がつきますが、社会制度がそのまま服装にも反映されています。

 武家の女性はオシャレをし無ければなら無い!?

 江戸時代の武士達は士農工商と云う身分制度の一番頂点に立つ階級です。将軍や御三家などの大名が道を通る時には町人達は土下座をして通り過ぎるのを待たなければなりません。勿論中には下級武士も居て、彼らの生活レベルは町人とほぼ同等か場合によってはそれよりも低いと云う事もありましたが、身分とプライドだけは上です。
 その配偶者である武士の妻たちも気位を高く持たなければなりません。例え貧しい下級武士の妻であってもだらしない服装は出来ません。「武士の名折れ」と為ってしまいます。町人達からは「奥方」と呼ばれ、尊敬されて居ます。正式な場に出かける時には正装し無ければなりませんでした。小袖と呼ばれる着物の上に「打掛」(うちかけ)と云う着物を重ね着するのがオーソドックスなスタイルだったようです。但し、夏場は暑いので打掛は着ません。髪はクシでキチンと整え飾りにし扇を手にするのが決まりです。又、武家のタシナミとして小刀を帯に挟んで居ました。

 町人の女子は前掛けが習わし!? 

 江戸時代には年齢や身分に合わせて着物や髪形の仕来りがありましたので、その服装を見ればどんな家の人なのかは直ぐに判ります。 町人の妻たちは、丸髷(まるまげ)と云う髪型に着物を着てエプロンをするのが一般的です。前掛け・前垂れ(まえだれ)と呼ばれるエプロンは着物の汚れを防ぐ為のものです。
 町人の妻は何枚も着物を持って居る訳ではありませんし、買う時にも新品と云う事は殆どありません。古着屋で買った着物を大切に着続ける為に前掛けは必需品だったのでしょう。

 きちんとした服装をしなければ武士では無い!? 

 武士は社会の規範です。身分制度のトップに立っている訳ですが、実際の処江戸時代には戦争も殆ど無く、殆どの武士は戦うことなどありません。日々の仕事は現代で云う「役所勤め」と同じです。書類を作ったり申請書にハンコを押したりという毎日です。お城に勤めに行く時には、着物の上に裾の長い袴を着て行きます。かなり長いズボンのようなものですので歩き難いしろものですが、それが礼装でした。これに上着として肩衣をつけ上下セットで「裃」(かみしも)と呼ばれます。
 武士と云う名前ではあっても戦闘をする訳では無いので、こうした動き難い服装でも構わ無かったのでしょう。髪型を整えることも武士の嗜みで、ちょんまげスタイルでは頭の天辺を綺麗に剃っていないとカッコ悪いとされていました。不精ヒゲの様にちょんまげの廻りに短い毛が生えていては恥です。しょっちゅう頭を剃っていました。

 町人たちのオシャレグッズは羽織!? 

 町人の男性たちの服装も、女性と同じく質素な身なりをしていました。古着屋で購入した着物を大切に着るのが普通ですが、おしゃれとして「羽織」を上に着るのが粋(いき)でした。江戸時代265年間の間には羽織の流行が屡々変わり、裾の長いものが流行ったり短いものが流行ったり、袖の短いもの袖の無いものなど様々なものが登場したそうです。

 武家言葉とべらんめえ調で話された江戸時代の会話

 江戸時代には、中央政府が定めた共通語・標準語というものはありませんでした。従って、「方言」という考え方も無く皆が夫々使い慣れた言葉を勝手に使って居た訳です。
 江戸時代の初期には全国から何十万人もの武士たちが集められ、又、街作りの為に大工や土木工事の出来る労働者が各地からこぞって遣って来た為に、様々な地方言語が一気に江戸に侵入しかなり混乱した状態であったと推測されます。
 文献で残される資料は、一般的には文語体で書かれている為、口語でどの様な言葉使いが為されていたのかは好く分かっていません。各地の言語が混ざり合った混沌とした状態であったとは思われますが、特に江戸時代の初めの頃のことについては余り具体的には分かっていません。しかし江戸後期には、口語を使った文学も数多く登場した為、そうした史料から当時の言葉が大体分かっています。

 堅苦しい武家言葉 

 江戸時代に武士たちの使って居たものを武家言葉と言います。時代劇などで使われているので耳にすれば大体意味が分かります。感謝の意を表す場合の「かたじけない」、可愛い奴という意味で「うい奴」、お前はと云う意味で「うぬは」、いらっしゃるという意味で「おなり(である)」等がありました。武家の言葉は堅苦しく形式ばったもの言いが特徴的です。
 柔らかい江戸言葉としては、江戸時代から今でも残っているので耳にした事がある人も多いのが、江戸言葉・所謂「べらんめえ調」の話し方です。町人の間で使われた言語ですが、職人の使うものと商人の使うものとは異なっていました。「ヒ」と「シ」を入れ替えて発音するのが特徴で、東を「シガシ」「質屋」を「ヒチヤ」と読みます。「潮干狩り」は「ヒオシガリ」と読み、それが訛って「ヒヨシガリ」となりました。

 かなり乱れた言葉づかいをしていたので、意味不明!? 

 現代の江戸言葉は大体理解出来るものですが、江戸時代に実際に使われていた表現の中には現代人では意味をとれ無いものもあります。「浮世風呂」に描かれている女性たちの会話では「こうこう、おめえ、ゆうべは大酒屋か」「ああ、おめえは」「あれが口っぱたきなら、そっちは尻っぱたきだ」と云う遣り取りがあります。女性も相手に対して「お前(おめえ)」と使っていたようです。
「傾城買四十八手」に描かれている吉原の場面では「てめえ、もってきたなあなんだ。うめえものならくれろえ」「さあくいなんし」「おきやあがれ。温石か、おらあまた餅かとおもった」と云う遣り取りがあります。何となく分かるようで分かり難い会話ですが「持っているのはなんですか、おいしいものならくださいな」「さあどうぞ」「なんだ、温石(石を熱して布に包んだ暖房器具)か、餅かと思ったのに」と云う内容です。現代の表現とはかなり雰囲気が違います。

 出身を隠す為に生まれた「ありんす」 

 吉原などの高級遊郭では、独特の言葉「ありんす」が使われていました。これは、地方から買われて来た女郎たちが方言によって客に出身地を知られ、田舎の話をする事で「里心」を起こさせ無い様にする為だったと言われています。「です」「あります」の代わりに「ありんす」を使うなど独特の言い回しですが、次第に洗練され優美な表現として定着しました。

 時代劇では綺麗な現代的な表現に変えている!? 

 江戸時代の口語を忠実に再現してドラマや映画を作ると視聴者には意味が分かりません。その為、テレビ番組などでは、現代人が聞いても理解できる程度に綺麗に直してあります。使われてる通りの言葉使いをして居たわけではありません。上で紹介したような言葉でドラマ化しても、殆どの人はぽかんとしてしまうのではないでしょうか。

 ・江戸時代の代表的な文化と特徴についての豆知識

 江戸時代の文化は、ある意味町民が発展させた庶民の文化とも言えます。中世に流行した仏教芸術のような高尚なものはありませんし、古今和歌集などに代表されるような和歌文化や枕草子や源氏物語などのような文芸文化においても、江戸時代の作品は大衆的なものが多く見受けられます。しかし、逆の観方をすれば、一部の貴族階級の間にしか浸透していなかった文化芸術が、一般庶民の間にも広がりすそ野の広い発展をしたと見ることも出来るでしょう。
 演芸においても能や狂言のようなものから発展し、浄瑠璃や歌舞伎などの判り易く楽しいものが登場しています。

      

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 大衆に広がった文化

 江戸時代にはそれ以前の時代とは比べ物になら無いほどに文化が一般の人々に受け入れられました。芝居見物や相撲見物も町人たちが楽しめる程度の料金で見られるように為りましたし、役者や力士・遊女を描いた浮世絵版画(今で言えば、プロマイド写真)も、庶民的な値段で買えるようになりました。勿論全ての人が、こうした文化に触れられる程に豊かであった訳ではありませんが、少なくとも江戸に暮らす町人たちはチャンスを得ることが出来たのです。

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 身分を超えた交流がありました

 江戸時代は、士農工商の身分制度が確立し封建的な上下関係が厳しかったのですが、それでも大衆文化においてはそうした格差は意識されていなかった様です。大名が身をやつして町人の芝居を見に出かけ、身分の低い儒者の処に弟子入りして教えを乞うと言う様な事もありました。学術や芸術の世界では、社会的な身分は無視され実力で勝負出来る土俵があったのです。

 庶民的文化の繁栄を世の乱れとして幕府は取り締まった!?

 大衆的文化の流行は治世者に取っては「好ましく無いもの」とされ、しばしば幕府によって取り締まりや禁止令が発令されました。現代で言えば、アダルトビデオを取り締まったり風俗店の営業を規制したりするようなものだったのでしょう。
 しかし、このような取り締まりは殆ど効果が無く、一旦は鳴りを潜めるものの直ぐにまた流行を繰り返したようです。それだけ、江戸時代はエネルギーが溢れていたのでしょう。

 錦絵の流行

 江戸時代には錦絵と呼ばれる大衆的な版画が流行りました。初期の頃には墨一色の白黒でしたが、次第に色を重ねるようになり人気を集めました。歌舞伎役者や力士などの錦絵は飛ぶように売れ、現代のアイドルのような扱いをされました。又「江戸買物独案内」など、江戸の名店を網羅したショッピングガイドのようなチラシも刷られ広告・マーケティングも発展しました。

 大衆小説も流行りました

「東海道中膝栗毛」の十返舎一九「南総里見八犬伝」の滝沢馬琴「浮世床」の式亭三馬「好色一代男」の井原西鶴など、親しみ安い大衆的な文芸が登場し大人気となりました。

  江戸の女子たちは習い事好き

 踊りや三味線、生け花や茶道、義太夫、小唄や長唄、川柳や狂歌など、様々な大衆芸能の教室が登場し武家の奥方から町人の娘まで様々な階層が習い事に通いました。江戸時代のこうした各種文化は社交場としての銭湯で情報交換されて居た様です。各家庭に風呂の無い時代、殆どの人が銭湯通いをしていましたが、洗い場で互いの背中を流しながら「流行」について語りあったそうです。

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  ・江戸時代の識字率は世界でも断トツに高かった!? /span>

 江戸時代の鎖国政策などにより、我が国は世界的な産業革命に大きく後れを取りました。 しかし、明治の富国強兵によって瞬く間に世界に追い着き、経済力でも西欧諸国に肩を並べ軍事力の面でも清やロシアに勝利するほどの力を着けました。それは日本人の勤勉で実直な努力の賜物でもありますが、江戸時代においても絶対的な学力が極めて高く識字率は世界で最も高かったことも大きな要因です。
 江戸時代においては多くの子供が学校に通い「読み書きそろばん」と言われる基本的な学力を身に着けて居ました。貧しい町人の子ですら文字が読め、中国や朝鮮は勿論、イギリスやロシアなどに比べても識字率では大きく上回っていたのです。

     



 幕末の頃の識字率はなんと7割〜9割

 識字率について厳密な調査がある訳で無く、実際にどの程度であったのかは推測するしかありません。 どの国どの時代においても初等教育で最初に教えるのは「文字」です。文章の読み書きが出来なければ書物を使って学習する事が出来ません。それ故、就学率が識字率の一定の判断材料となります。
 江戸時代後期の我が国においては、江戸の就学率は70%〜86%程度だったとされていますので、少なくとも識字率はそれ以上だったと考えられます。

 イギリスの大工業都市では20%〜25%に過ぎなかった

 同じ時代のイギリスでは、大都市でも就学率は25%以下であり識字率は極めて低かったとされます。産業革命によって世界の工場と呼ばれるようになり最盛期を迎えた時代においてすら、下層階級の子どもの多くは文字を読む事が出来ず識字率は1割程度だったと言われています。

 フランスでは殆ど学校に通って居なかった!?

 我が国が江戸時代だった頃、1794年にフランスでは初等教育の無料化が実施されました。しかし、それでも10代の就学率は僅か1.4%と極めて低く識字率も高まりませんでした。勿論、富裕層の子弟は学校に通わず家庭教師によって教えられていたという事情もあります。しかし、そうした教育を受けられるのは極一部に過ぎず、国全体の識字率は我が国とは比べ物にならない程に低かったのです。

 武士で文字の読み書きができない者は居なかった

 江戸時代の政治・行政の担い手であった武士階級は、現代で言えば公務員に当たります。職務において「書類」は欠かせません。戦国時代から江戸時代初期までは「武力」が重要視されましたが、太平の世が長く続くと次第に「学力」重視に変わって行きます。必要な能力が学問によって得られるように為り、武士に取って学校に通う事は剣術を磨くこと以上に重要に為っていったのです。当然のことながら江戸時代の武士たちの識字率は100%でした。

        



 ニコライ堂のニコライも驚いた!?

 江戸時代の末期に我が国を訪れたロシア正教の宣教師ニコライは、8年間の滞在後ロシアに戻り手記を記しています。その中で、国民全体に教育が行き届いていることや、孔子(論語)のような高度なものを、知識階級は暗唱出来るほどに、又身分の低い者ですらかなり詳しく知っていることに驚いています。江戸時代の我が国においては、世界で類を見無いほどに教育が行き届き、識字率においてはダントツに世界一だったと考えられます。それが、文明開化の時代に花開き、今日のような世界トップクラスの経済力の国家へと結びついているのです。

 ・江戸時代のお医者さんは誰でも為れて資格試験も無し

 江戸時代においても医者は現代と同じように尊敬される職業で、幕府や藩によって様々な特典も与えられていました。当時は漢方医学が中心で、18世紀の後半以降はオランダから伝わった欄方医学が少しずつ流行し始めます。とは言え、町医者の殆どが漢方医学しか知ら無い為手術を行う事も無く、治療は脈を取って薬を処方することでした。

      




 誰でも医者に為れた 

 江戸時代には身分制度が厳しかった為に自由に職業選択は出来ませんでしたが、医者に限っては誰でも為ることが許されていました。それだけ、医術が尊重されていたのでしょう。貧しい町人の子供でも、ある程度頭の良い子であれば取り立てられることもあったのです。

 医者に為ればカゴに乗れた 

 医師は特別な身分であり、通常は上級の武士にしか許され無かった「カゴ」に乗ることが許されていました。江戸戸時代の診察は往診が殆どでしたのでカゴに乗って診に行く訳ですが、その代金は診察料に上乗せすることになり患者負担でした。

 医師には資格が無かった!? 

 現代では、医者に為る為には医学部を卒業した上で国家試験にパスしなければなりません。しかし、江戸時代にはそんな資格制度はありませんでした。特定の職業につくのに試験を受ける事は無かったのです。誰にでも医者の門戸は開かれており、おまけに資格試験が無いという事で、目先の利く町人が「医者になろう」と思うのは当然のことだったしょう。

 江戸には沢山の医者が居た 

 誰でも比較的容易に医者に為れた為、次々と志願する人が現れました。その為江戸時代後期の1820年頃には江戸の街だけで2500名程の医師がおり、人口400〜500人に1人は居るという過密振りとなりました。しかし、無試験で為れてしまう為に「無学にして医師と為り」と云う人も居て、ヤブ医者も少なく無かったようです。

 治療費は全額個人負担 

 江戸時代には健康保険制度などありません。診察費用は全て自分で支払わなければなりませんでした。その為、貧しい人々の中には病気になっても医者に罹る事の出来ない人も少なくはなく、社会問題化して行きました。

 貧しい人達の為に公共病院も設立された!? 

 1722年(享保7年)に江戸時代初の公共病院が設立されました。それが小石川療養所です。市中に設けられていた「目安箱」に入れられた町人からの投書が切っ掛けだったと言われます。そこでは、極貧の患者向けに無料で治療が施されました。入院収容人数は117人と定められており、明治の初めまで続く診療所となります。只、当初は貧しい人たちの救済の場だったものの、次第に不十分な治療が為されたり不正行為が横行したりして、入所を希望する町人の数は減って行ってしまいました。

 はやり病もあった!? 

 江戸時代には「江戸わずらい」という病気が江戸にだけ流行しました。患者は特に、地方から江戸に出て来た奉公人などに多かったそうです。実は、精白米ばかり食べた為にビタミンB1が不足して脚気に為ったのですが、当時はビタミンと脚気との因果関係など知られている筈もなく「奇病」として扱われて居ました。何故か江戸を去り地方に戻ると治ってしまうという「不思議な病気」とされていたのです。

       




 ・江戸時代のお風呂は混浴だったって本当!?

 江戸時代は銭湯の全盛期だったとも言えます。江戸時代の始まる少し前、徳川家康が江戸に入った翌年の1591年に最初の銭湯が出来ました。当初の入浴料は1文だったと言われますので、現代の価値にして数十円ほどだったようです。当時の風呂は混浴で、現代のように湯船に入るものでは無く蒸し風呂です。現代風にいえばミストサウナのようなものです。未だ湯を沸かして漬かると言う様な習慣は、殆どありませんでした。
 時代と共に木の桶に湯を張ってお湯に漬かる形式の銭湯が登場し、次第にそれが主流となっていきます。お湯を張るには大量の水を沸かさなければなりません。男湯と女湯とを分ければ、お湯も余計に必要です。銭湯経営者にとっては、ひとつの風呂に男も女も入れてしまえば経済的です。その為、入り口は男女別々なのに、湯船は男も女も一緒と云う混浴がとても多く為りました。

 江戸で風呂屋が栄えたのは?

 江戸は、人口が多いのに対して水道が十分整っていなかった為に慢性的な水不足状態でした。又、都市部の物価高の影響で薪代も高いと云う事情があり、町人が家に風呂を持つと云う事は出来ませんでした。更に火事が多く「火を使わない」ことが重要でしたので、裕福な商人たちの中にも自宅に風呂を作らず銭湯に通う人もいました。普通の宿屋にも風呂は無く、宿泊客も銭湯に行くしかありません。
 そんな事情から江戸では銭湯が大繁盛でした。風が強くてホコリが立つ為に、毎日風呂に入る必要もありました。朝夕2回入るという人も少なくは無く、江戸時代後期の1800年代初めの江戸には600軒もの風呂屋があったそうです。

 混浴の蒸し風呂ではちゃんと裸を隠していた!?

 江戸時代の前期までは蒸し風呂しかありませんでした。蒸気の中で身体を洗い温めたのです。当時の蒸し風呂は男女混浴が当たり前でしたが、素っ裸で入ると云うことは無かったようです。男性はふんどしを絞めたまま、女性は湯文字(腰巻)を着けて入ります。
 混浴ですので、お互いに多少は隠そうと云う事だったのでしょう。只、女性の着けていたのは下着のようなものです。胸は肌蹴ていましたし、パンティの無い時代ですので腰の周りに布を巻いて居るだけです。その為、屡々「事故」も起こってしまったようです。

 次第に素っ裸で入るように為った!?

 江戸時代初期の蒸し風呂の頃には、男女とも陰部を隠す為下着を履いたまま入るのが普通でしたが、次第に何も着けずに入るようになります。恐らく、お湯を張った湯船に漬かるのが普通に為ったことと関係があるでしょう。
 下着を着けたまま湯に入れば湯が汚れますので、フンドシや湯文字を取って入るようにと銭湯経営者が指導したのかも知れません。こうして混浴の風呂に男女が裸で入浴するように為りました。

 いかがわしいことも起こった!?

 男女が裸で入浴して居れば、欲情する人が居ても不思議ではありません。実際、混浴の風呂では性行為に及ぶものも少なからず居た様です。そうした風紀の乱れを危惧した幕府は、1791年(寛政3年)寛政の改革の中で混浴を禁止する旨のお触れを出しました。

 混浴では無くなっても、未だ混浴だった

 混浴が禁止されると、銭湯経営者は一日置きに男性の日、女性の日と分けて入浴させるようになりました。
しかし、それでは客が少なく為る為、湯船の上に板をはり、男女別々にして営業するように為ります。一応仕切りがある為混浴ではありませんが、区切られているのは湯の上だけ。浴槽内には仕切りが無い為、覗くのは簡単でした。結局、江戸時代を通じて混浴文化はずっと続いて居たのです。

 ・江戸時代のお風呂は庶民の社交場的なサロンでした

 江戸っ子はお風呂が大好きな人たちでした。 江戸時代の初期には新しい街づくりが始まり、全国から土木・建設作業員が上京しましたが、働いた後の土やほこりにまみれた身体を綺麗にする為に風呂が欠かせなかったのです。その為、銭湯が急発達し、江戸の町中に幾つもの湯屋が出来ました。
 朝晩2回入るという程の風呂好きは珍しく無く、銭湯は何時も流行っていました。そうした混雑を避ける為に、八丁堀の旦那方(与力や同心たち)は早朝に女湯に入る事もあったそうです。

 男湯にだけ2階があった!?

 江戸時代には自宅に風呂の無いのが普通でした。武士や裕福な商人たちですら銭湯通いをして居ました。
武士たちは銭湯に来る時にも刀を身に着けているため、入る前に刀をとらなければなりません。刀を置く場所が必要だった為、男湯にだけは2階に座敷が設けられていました。 只、混雑する銭湯の場合、空いている早朝に来て女湯に入る旦那衆が居た為に、女湯にも刀置場が設置されているところもありました。

 刀置場はサロンに為った!?

 元々は武士の為の刀置場として作られた2階のお座敷は、次第に用途が変化して行きます。銭湯が副業として2階席を活用するように為ったのです。囲碁や将棋、読み物を置いたりして武士に限らず誰もが楽しめるサロンにして、お茶やお菓子・酒などを供するようになりました。風呂の2階は入浴客の休憩所として流行りはじめ、身分に関係無く人々が歓談し楽しめるサロンに為っていきました。江戸時代の銭湯は身分に関係なく老若男女が集まる場所でしたので、職業や貧富の別無くまさに「裸の付き合い」の出来る場として栄えます。
江戸時代の人たちにとっては、風呂場は大切なコミュニケーションの場に為りました。

  銭湯の料金は100円〜200円くらい!?

 最初に江戸に銭湯が出来たのは1591年の事です。銭瓶橋(現在の千代田区大手町)の畔に伊勢出身の与一と云う人が開業しました。当時の入浴料は1文だったそうですが、寛永年間(1650年頃)には6文になり、寛政年間(1800年頃)には10文に為っています。当時の貨幣価値を現代に置き替えるのは難しいですが、1文を20円として、120円〜200円程度だったのでしょう。

 夜のお風呂は真っ暗闇!?

 現代でこそ風呂に入るのは夜と大体決まって居ますが、江戸時代には電灯がありません。提灯などの明かりはあったものの、遅い時間帯は真っ暗闇に近かったと考えられます。湯船に入る際に人の頭を踏み着けてしまったりブツカッタリと云う事が起こり得る為、掛け声を掛けて入っていました。
 式亭三馬の「浮世風呂」にも「田舎者で御座います。冷物で御座い、御免為さいと言い、或いはお早い、お先へと述べ、或いはお静かに、おゆるり等という類、即ち礼なり」とあります。声を掛けて湯船に入るのがマナーだったのです。

 マイ風呂桶もあった!?

 風呂で他人と桶を共用するのは嫌だと云う人も居るでしょう。 江戸時代にもそう云う人は居ました。そこで、風呂には「留桶」(とめおけ)と云うシステムがあり、自分の名前を書いた専用の桶をキープして置くことも出来ました。殆どの女性が留桶を持って居たそうです。

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 ・江戸時代の人はどのように避妊していたのでしょうか?

 人類の歴史の中で、「避妊」と云うのは大きなテーマでした。高度な避妊法が確立されている現代においても、若い男女が十分な知識の無いまま性行為をし望ま無い妊娠をしてしまうと云うケースは少なくないようです。 妊娠についての科学的な知識の乏しかった江戸時代には、迷信に近い方法も含めかなり幼稚な方法がとられていました。
 江戸時代の性に関する倫理観は、現代以上に緩やかなものだったと言われ「処女を守る」と言う様なお堅い感覚を持って居る女性は少なかった様です。その為、簡単に性行為に及び、結果としてかなり高い確率で妊娠をし中には中絶をせざるを得ないケースも多々あったようです。又、江戸時代には売春が合法的に認められて居ましたので、遊郭などの遊女・女郎たちに取っては避妊法はとても重要視されており、色んな手段がとられていました。

 兎に角洗えば何とかなる!?

 現代でもこの方法を取っているカップルが居る様ですが、膣内に入った精子を洗い流せば妊娠しないと考えられて居ました。実際には膣内で射精された精子は直ぐに子宮内に泳いで行ってしまいますので、行為の後で幾ら洗浄しても間に合う事は滅多にありません。戸時代にはそうした知識無かった為、兎に角遊女たちは洗って居たのです。遊郭の浴室やトイレには洗浄用の場所が設けられて居ました。
 この方法は一般の家庭でも取られており、子供を望ま無い夫婦や未婚のカップルは行為の後にマメに洗って居た様です。

 コンドームもあるにはあった!?

 男性用に「甲形」(かぶとがた)と云うべっ甲で作られた道具がありました。ペニスに装着してその内部で射精する装置ですが、べっ甲で出来ていたので装着感はとても悪く実用には向いていません。専ら「大人のおもちゃ」として遊女相手に活用されてた様です。その他、魚の浮き袋をコンドームの様に用いていたとも言われます。但し、強度が無い為、行為の最中に破れてしまうリスクはかなり高かったと思われます。

 ペッサリーもあった!?

 「詰め紙」と呼ばれる柔らかい紙を女性器の奥に丸めて挿入し、精子の侵入を防ぐと云う方法もとられていたようです。「揚げ底」(あげぞこ)とも呼ばれて居ましたが、吉野産の「吉野紙」と云う上質紙が人気でした。精子の侵入を防ぐと云う意味では一定の効果はあったと考えられますが、妊娠を確実に回避出来るほどの確実性はありません。

 避妊薬もあった!?

「朔日丸」(ついたちがん)と云う避妊薬があり、毎月一日に飲むと妊娠し無いとされていました。 江戸時代後期に流行った薬ですが、全く効能は無く殆どサギに近いものだったと考えられます。

 お灸で避妊できる!?

 江戸時代には、2月2日におへその下にお灸を据えると妊娠しないと云う、マコトシヤカナ説が信じられており、遊郭・女郎屋等では、毎年この日に為ると皆でお灸をしていたと伝えられています。恐らく、効果は全く無かったであろうと考えられます。
 因みに、江戸時代には結婚は親が決めるものでしたので、激しい恋の末に結ばれるという事は殆どありませんでした。それでも「恋」は存在し、若い男女は倉庫の裏や神社の境内にある林の陰・川沿いに停めた小舟の中等で性行為に及んだそうです。そういう場所での性交では、上で紹介した洗浄法すら使えません。殆ど避妊無しの状態だった為、中絶に至る場合も多かったそうです。

       




 ・侍たちの一寸意外な面白おかしい生き様記事一覧

 江戸のお侍さんは意外にも貧乏でした〜内職をするのは当たり前

 江戸のお侍さんと言えば身分が高くそれなりの優雅な生活をして居たと思われますが、下級武士たちになるとその生活はかなり質素なものでした。多くの下級武士たちは内職をして生活の足しにしていたのです。内職というと貧乏臭いイメージがありますが、江戸の彼らはどのような内職をして居たのでしょうか?

 最下級武士の年収は何と37万5千円!?

 時代劇などで、下級武士に対して「このドサンピン」等と云うセリフを吐くシーンが好く見られます。実はこの「ドサンピン」と云う言葉は、当時の最下級武士の1年間の給料が「三両一人扶持」だった事に由来しています。詰り「三両」のサンと「一人扶持」の一、即ちピンを合わせて「ドサンピン」と云う訳です。
 1両の貨幣価値を現代に置き換えるのはなかなか難しいのですが、当時の物の値段から換算するとおよそ10万円程度と考えられます。そして「一人扶持」と云うのは米五俵の事です。詰り、当時の最下級武士の給料は1年間で僅か30万円ほどの現金と五俵のお米だったと云うことに為ります。
 お米の値段を現代の貨幣価値に換算すると、お米一俵は1万5千円ほどです。という事は五俵だと7万5千円ほどと云うことに為ります。現金で頂く三両と合わせて、およそ37万5千円が彼らの年収ということに為ります。月収では無く飽く迄年収です。現代のサラリーマンの平均年収の10分の1以下です。

 お侍さんたちが行っていた意外な内職の数々

 流石にこれだけの給料で生活していくのは実質的に不可能で、当時の多くの下級武士たちは「内職」をしていました。当時、百石以下の下級武士たちは内職をする事を許されていたのです。彼らの行っていた内職には様々なものがありました。金魚や鈴虫、コオロギなどの養殖から、傘張りや提灯、凧などを作る仕事、或いは朝顔やツツジの栽培などありとあらゆる仕事を行って居ました。
 特に傘張りは時代劇などでそのシーンを見かけることが多いので、武士の内職と云うと傘張りを思い浮かべる人も多いことでしょう。このように彼らは様々な仕事を行っていましたが、それらの仕事は地域によって盛んな場所があり、代々木の鈴虫・コオロギ、下青山の傘張り等が有名です。
 明治以降の名物である「入谷の朝顔市」も、元を辿れば武士たちの朝顔栽培の内職から来て居る訳です。しかし、彼らには仮にも武士としてのプライドがある為に内職で作ったものを商人の屋敷まで売りに行く事をしませんでした。それらを卸問屋まで持って行って換金するのは、武家地の辻番の番人が副業として行っていました。武士たるもの、いかに懐事情が寂しくても商人に頭を下げる訳に行か無かったのでしょう。

 旗本でさえも決して豊かでは無かった懐事情

 こうした内職が許されたのは百石以下の下級武士だけだったのですが、実は下級旗本なども決して懐が暖かかった訳では無い様です。そこで彼らは三味線や踊りなどの腕を磨いて、高級旗本などが催す宴会でそれらを披露して「おひねり」を頂くと言う様な事をしていたようです。
 高級武士である旗本が、芸人まがいのことをしてお金を稼いでいたと云うのは驚きです。江戸時代では、農民ばかりが貧しい生活をして居たようなイメージがありますが、実は武士たちの生活も決して楽では無かったのです。

       




 江戸時代は農民でもお金を払えば武士に為れたッテ本当?江戸時代は

 ある程度の年齢の方は、江戸時代の人々は士農工商と云う四つの身分に分けられていたと学校で教わった記憶があると思います。しかし、現代ではそれらは学説的に否定されており、学校の教科書からも「士農工商」の項目は削除されて居ます。
 とは言え、江戸時代の職業が世襲制であった事には変わり無く、余程の事が無ければ武士の子は一生武士、農民の子は一生農民であった訳です。ましてや、農民が武士に為る等ということはあり得ないと一般には思われています。しかし、驚くべきことに世襲制である筈の武士の身分を農民がお金で買う事が出来たのです。

 武士に為る為の料金表が存在しました

 特に江戸後期に為ると、お金を出して武士の身分を得る人が多かったようです。それだけ武士と云う身分に憧れる人が多かったのでしょう。これらのお金で武士の身分を買った人々は「金上侍」と呼ばれました。驚くべきことに、藩によっては武士に為る為の料金を表にして居た所もあるようです。武士に為る為の料金表があるなんて信じ難いことですが、事実です。例えば独眼竜伊達政宗で有名な仙台藩などは次のような料金体系に為っていました。
 「百姓に帯刀を許す」のに必要な料金は50両「百姓に苗字を許す」のに必要な料金は100両「百姓が武士の戸籍に入るのを許す」のに必要な料金は250両。
 詰り、現代の貨幣価値に直して、およそ2500万円程度のお金を積めば百姓から晴れて武士に為る事が出来たと云う事です。しかし、余程の豪農でも無ければおいそれと百姓が出せる金額ではありません。矢張り、武士に為るにはそれなりに敷居は高かったと言えるでしょう。料金が余りに高く希望者が少無かった為か、後にこれらの料金は半額にされた様です。半額に為ったとはいえ高額である事には変わり無く、武士と云う身分を得るにはそれだけの価値があると仙台藩では考えられていたのでしょう。

 格安料金で武士に為れた盛岡藩

 この様に仙台藩で武士の資格を得るには、それなりの金銭的に高いハードルがあったのですが、同じく東北の盛岡藩の場合は仙台藩に比べるとかなり格安でした。40両から50両で武士の身分を買う事が出来た様です。
現代の貨幣価値に直すと、400万円から500万円程度と為りますので、仙台藩の料金と比べると大分割安感はありますし現実的な気がします。仙台藩が現代で言えば家1件分の料金なのに対して、盛岡藩は高級車1台分と言った処でしょうか。
 仙台藩と比べて大分割安だった盛岡藩の料金ですが、それでも余り希望者は居なかったようで、後にこの料金は3分の1に下げられたようです。130万円から170万円程度で武士の身分が買えてしまうと云うのは、何とも驚きです。何処の藩も財政事情が厳しかったのでしょうか、武士の身分をお金で売って居たという事実にも驚かされますが、それが最後は投げ売り状態だったと云う事に少なからぬ哀れみさえ感じてしまいます。

       




 侍たちは週休5日が当たり前だった!?

 現代の日本では週休2日が当たり前と為っていますが、昭和の時代には休みは週休1日が一般的でしたし、世界的にも日本人は勤勉であると言われ続けて来ました。しかし、そんな多忙な現代人に取っては何とも羨ましい限りですが、江戸時代の武士たちの中には何と週休5日でのんびり勤務の人も大勢居たのです。
 週休5日という事は、即ち1週間で経った2日しか仕事をし無かったということに為ります。当時の侍たちが、いかにタップリとプライベートな時間を持っていたかが容易に想像できるかと思います。

 「三日勤め」や「六日勤め」と 言った勤務形態

 江戸城の護衛や雑務に従事する御家人たちは「三日勤め」と云う勤務形態に為っていました。「三日勤め」というのは、当番一日に対して非番が二日のサイクルで公務を行うものです。しかも、当番の日も朝番・夕番・不寝番の三交代制でした。事務職の役人であっても、三交代こそありませんが二日出勤すれば1日の休暇が与えられました。
 幕末には、本丸に月に1日勤め、その他の勤番が五日という「六日勤め」という番方もあったようです。この場合ですと、まさに週休五日の計算になります。このように、江戸の下級武士たちには毎月20日前後の休暇があったことに為り彼らにはタップリと余暇がありました。

 休暇が多いのは内職をすることが前提に為っていたから

 彼らに何故それほどの休暇が与えられたのでしょうか?実は、下級武士の多くは非番の日の多くを内職に当てていたのです。当時の最下級武士たちの1年間の給料は「三両一人扶持」でした。「三両一人扶持」とは詰り、現金三両とお米5俵と云う事です。現代の貨幣価値に直せば、40万円弱と言った処でしょう。要するに年収が40万円弱と云う事に為ります。これだけでは流石に生活出来ないので彼らは内職に励んだのです。
 武士の内職というと傘張りを思い浮かべる人も多いと思いますが、それ以外にも鈴虫やコオロギの養殖をしたり、房楊枝を作ったり、提灯や凧を作ったりと様々な内職が行われて居た様です。そういったことを考えてみますと、「三両一人扶持」の最下級武士たちに取っては、勤番の日よりも寧ろ休暇の日の方が大変だったのかも知れません。武士という華やかな身分とは裏腹に、そういった苦労もあった訳です。

 湯屋でのんびりと余暇を過ごす武士もいました

 一方で、同じ武士でもある程度の収入があった中級以上の幕臣とも為れば、内職に日々追われるという事もなく有り余る余暇を武芸などの習い事や趣味、学問などに有効に使って居た様です。一方、余暇のある江戸勤番の下級武士たちにとっての一番の暇つぶしは、神社を参詣しながらの江戸見物でした。観光の合間に湯屋の2階でゴロゴロしたり、安い蕎麦をたしなんだりするのが彼らの密かな楽しみだったようです。
 本来であれば、武士が湯屋に通うことは許され無かったのですが、実際には湯屋は下級武士にとって暇つぶしの定番の場所だったようです。現代人でいえば、健康ランドでのんびりと疲れを癒すようなイメージでしょうか。なんとも羨ましい限りですね。

       




 武士は食わねど高楊枝は本当?〜質素だったサムライたちの食事事情

 武士は食わねど高楊枝は本当?〜質素だったサムライたちの食事事情身分の高い武士たちは、さぞや美味しいものを食べていたのではないかと思われ勝ちですが、実際には江戸の武士たちは贅沢をすることを禁じられており食事は意外にも質素なものでした。
 ある武士の日記には日々の食事メニューが克明に残されており、当時の武士ある日には、朝昼晩全ての食事が「お茶漬け」等という日もあったようです。ここでは、そんな江戸の武士たちの慎ましい食事事情について紹介してみます。

 将軍の側用人でさえも食事は質素なものでした

 食事が質素であったのは、薄給で生活が苦しかった下級武士ばかりではありません。将軍の側用人であった柳沢吉保でさえも、朝食が一汁三菜・夕食が一汁五菜の1日2食であったと言われています。元々江戸初期の頃は、戦国時代の名残から武士は朝と夕方の2食という形が一般的だったのです。
 しかし元禄の頃になると、武士も町人も朝昼夕の3度の食事が一般的に為っていました。そんな中、幕府は武士たちが贅沢に走るのを抑えるため、享保9年に「御触」を出しました。その御触では、旗本などの上級武士の場合でも、結婚などの祝儀で二汁六菜、それ以下の会合では一汁四菜以下にせよと命じられていました。旗本でさえもその程度ですから、その御触に従えばずっと位の低い小身などは一汁三菜以下に為ってしまいます。それほど江戸の武士は質素に拘ったのです。

 意外にも飲み食いに贅沢をしていた町人たち

 因みに江戸には武士とほぼ同じ人数の町人が住んで居ましたが、質素な武士たちを尻目に彼らは貧しいながらも「食い倒れの江戸」と呼ばれる程飲み食いだけは贅沢をしていました。江戸には当時「八百善」や「百川」等という高級料亭がありましたが、そう言った場所には旗本たちや御家人は全く縁がありませんでした。
そう言った高級料亭の主なお客は、諸藩の留守居や豪商と言った懐事情の暖かい町人たちでした。

       



 日記に残されたある武士の食事メニュー

 当時の武士たちの質素な食事振りが日記として残されています。武蔵野国忍城下(現在の埼玉県行田市)に住んでいた尾崎準之助と云う十人扶持の武士が残した「石城日記」には、食事のメニューが記載されています。ある年の六月のメニューを紹介すると以下のような感じです。

 六月十五日 朝食:なし 昼食:焼き貝 夕食:しじみ汁
 六月十六日 朝食:つみいれ汁 昼食:豆腐 夕食:豆腐
 六月十七日 朝食:ごぼう汁 昼食:ナス 夕食:鰹節 夜食:ゴボウ・ドジョウ・奴豆腐
 六月十八日 朝食:なし 昼食:八杯豆腐 夕食:八杯豆腐
 六月十九日 朝食:なし 昼食:なし 夜食:塩引きサケ・奴豆腐
 六月二十日 朝食:茶漬け 昼食:茶漬け 夕食:茶漬け
 六月二十一日 朝食:なし 昼食:なし 夕食:揚げ物・塩ナス 夜食:料理屋にて・玉子焼き・茶碗蒸 し・ウナギ・ナス甘煮・ほか1品

 これを見ても、いかに武士たちの食事が質素だったかがおお分かりでしょう。一日三食ともお茶漬けの日があったりして、栄養バランス的にもあまりよさそうな食事ではありませんね。只、六月二十一日の夜食に見られる様に、時々は仲間達と小料理屋で飲み食いをすると云う、一寸した贅沢を味わって居た様です。武士は食わねど高楊枝とは言え、矢張り本音は贅沢をしたかったに違いありません。

      




 岡っ引きに連れていかれる番所(自身番)は、本当は公民館だった!?

     江戸4.jpg

 時代劇の捕り物帳などでお馴染みの「岡っ引き」が「御用、御用」犯人を捕まえて連れて行く所と言えば番所です。江戸の町で罪を犯すと番所に連れて行かれたのです。現代でいえば警察署の取り調べ質のようなイメージがあるかも知れませんが、実はこの実はこの番所は、普段は自由に町民たちが出入りできる公民館として利用されていたようです。
 湯屋や床屋などと同じように町内の人に取っての一種の社交場だったのです。そこでは一体どの様なことが日常的に行われていたのでしょうか。

 治安維持の為に町内会費で賄われた自身番

 番所は正式名称を自身番と言い、各町内に簡易的な小屋を設置して家主や書役などが昼夜そこに詰めて町内の治安を守っていました。江戸の末期には1000か所近くあったと言われています。これ等に詰める番人たちは、夜回りをして不審人物を尋問する権利を与えられていたのです。自身番の設置費用や運営のための経費はすべて町内の人たちから集めた町入用と呼ばれる町内会費で賄われてしました。
 江戸時代後期になると自身番に火の見櫓が設置されるようになり、建物の中には捕り物の道具だけではなく消防活動のための道具も置かれるようになりました。いざ火事が起こった時には自身番の番人が消火活動も行っていたようです。現代でいえば、交番と消防署が合体したようなイメージでしょうか。

 普段から人の出入りの多い公民館のような所でした

 自身番では、これらの捕り物や消火活動の他に、様々な願書などへの捺印や喧嘩の仲裁、更には捨て子や行き倒れの人を保護するといった様なことまで行っていました。そのため、自身番には普段からたくさんの人が出入りをしていたようです。もともと町内の人がお金を出し合って運営施設ですから出入りは基本的自由である為、ある意味公民館的な場所でもあった訳です。自身番の中で将棋を指したり本を読んだりするものも多く、町民たちの憩いの場として大いに利用されていたわけです。
 もともと自身番は治安維持が目的であったために、例え夜であっても戸や障子を閉めてはいけない決まりでしたが、中には障子をしめ切って中で酒盛りを行うなどという不届き者もいたようです。こうなると、時代劇で岡っ引きにつれて行かれる怖い場所と云うイメージは全くありませんね。

 必要に迫られて増築されていったが、その後....

 ちなみに、この自身番の大きさはどの程度だったのでしょうか。元々は規格が決められており、間口が約2.7メートル・奥行きが3.6メートル・高さが4.8メートルというのが正式なサイズでした。様々なことが行われて居たわりには、サイズ的にはかなり小さな小屋といえると思います。
 しかしその後、専任の番人がそこの居住することが出来る広さに2階建てなどに増築されることが多くなりました。増築によって広くなる事で、自身番は社交場として益々快適な場所となって行きました。そのため、天保の改革の際には次に自身番を改築するときには、元の規定通りの大きさに戻すようにとの厳命が下りました。

      




 棄捐令で借金120万両を踏み倒した江戸の旗本や御家人

 江戸時代において地位が高いとされていた武士ですが、下級武士たちの生活はかなりきびしいものでした。生活のために傘張りなどの内職をする下級武士も多かったようです。内職をするのは当たり前生活の苦しい武士たちは、「札差(ふださし)」と呼ばれる米の仲介人から、相当な額の借金をしていました。
 そんな借金塗れの旗本や御家人たちの借金が、チャラに為ってしまうという事件が起こったのです。それが「棄捐令(きえんれい)」と呼ばれるものです。松平定信が寛政の改革の時に初めて発令した棄捐令では、何と120万両(1536億円)もの借金が棒引きに為ってしまったのです。これでは「札差」は堪ったものではありません。

 何故旗本や御家人は借金まみれになったのか?

 旗本や御家人たちの収入源は、夫々の家禄に応じて幕府から給料として年に三度支給されるお米です。これらの幕府から支給されるお米は「蔵取り米」と呼ばれていました。武士たちは、この「蔵取り米」中から自分たちで食べる分だけを残して、残りを米問屋に売却して現金に変えていた訳です。
 しかし、江戸の町の物価が高騰して行く中でも、幕府から支給されるお米の量は変わりません。更に、農業の技術が進歩したことによりお米が沢山採れるように為ると徐々に米価が下がって行きました。支給されるお米の量は変わら無いのに、物価の上昇と米価の下落と云うダブルパンチのお陰で武士たちの生活はどんどん苦しく為っていった訳です。そんな生活に困窮した旗本や御家人たちは、札差への借金を重ねて行った訳です。

 札差の本来の仕事とは?

 札差の本来の仕事は、勿論旗本や御家人にお金を貸すことではありません。札差は、元々は武士たちが幕府から支給された蔵取り米を運搬する事で収入を得ていました。旗本や御家人が幕府から支給されたお米を現金に換えるには、米問屋まで運搬しなければなりません。それを代行するのが、本来の札差の仕事だった訳です。面倒なお米の運搬を武士たちの代わりに行って、「札差料」と呼ばれる手数料をいただいていたわけです。
 又、運搬と同時に米問屋への売却も代行して行い、「売側(うりかわ)」と呼ばれる手数料も取っていました。詰り、この「札差料」と「売側」が本来の収入源だった訳です。しかし、武士たちの生活が苦しく為るにつれて、将来支給される予定の「蔵取り米」を担保にお金を貸すように為ったのです。そうして、札差は金融業者として徐々に力をつけていった訳です。利息は、当初年利で20%〜25%ほど取って居た様です。その後幕府によって、15%以下とするよう法定利息が決められました。
 しかし、実際には15%を多少超える程度の利息を受け取る事が認められて居た様で、実際には年利18%程度になっていた様です。現代の銀行のなどの金利と比べるとかなり高く、消費者金融の金利とほぼ同じ位といって好いでしょう。元々生活の苦しかった武士たちが、そんな高利で借金を繰り返した訳ですから益々生活が苦しく為っていったのは当然です。中には4年先や5年先の蔵取り米まで担保に入れて借金するものも現れ、旗本や御家人の借金は膨らんで行く一方でした。

 棄捐令で一度は救われた武士たちですが

 武士たちの借金が膨らんで行くのを、見かねた幕府はとうとう禁じ手を使うことに為ります。武士たちが札差にしている借金の内、借り手から6年以上のものについては全てチャラにし、それ以降の分は利息を3分の1に減らすと云うものです。これが所謂「棄捐令」と呼ばれるものですが、札差が貸し付けたお金120万両が棒引きに為ってしまったと言われています。
 現代で例えるならば、消費者金融から借り入れをして居る人の借金を、国がチャラにするようなものです。このような理不尽きわまり無い踏み倒しをされたのでは、札差たちも黙ってはいられません。それ以降は、武士たちからの借金の申込みを一切断るように為ってしまったのです。借金がチャラに為って、一時的には楽になった旗本や御家人たちですが、新たな借金ができなく為ってしまったことで再び生活が苦しくなりました。
 生活に困った武士たちの中には、追剥(おいはぎ)や盗人になる人まで居たと言います。一時凌ぎの政策では、何も解決にならないという好い見本が「棄捐令」であると言えるでしょう。






 今回は ここまで・






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