2018年05月01日
吉田松陰を尊敬すると言う人達
明治維新から150年・・・
これを記念する様なクイズ番組をテレビで遣って居ました。家族と夕食を採りながら見るとは無しに聞いていたのですが「吉田松陰を尊敬する幕末に強い・・・」と紹介された某中堅タレントが、中盤から俄然正解を続けてトップの座へ・・・その後は見てませんが、久しぶりに聞く吉田松陰の名で、彼を尊敬して止まないと公言する安倍晋三氏の姿を思い出してしまいました。
サテ、吉田松陰と言えば彼の妹(久坂玄瑞の妻)を主人公として描いたNHKの大河ドラマ「花燃ゆ」が最後迄人気が出ず不評のまま終了したのは何時の事だったろう・・・何度か視聴率回復の手が打たれたそうですが、到頭挽回出来ず最低の記録を作ってしまったとの事でした。(私はこれを一度も見なかったので一切の批評は出来ません)
元々この「花燃ゆ」の企画は、安倍晋三氏がNHKの会長に籾井氏を推薦したそのお礼の意味で企画したもの。松陰を尊敬する安倍首相の為に彼の選挙地の山口県を背景とした、原作も無い無名な松陰の妹を持ち出したものだった・・・と初めから多くの批判を浴びて始まった作品でした。
主人公である松陰の妹の資料も少なく準備期間も短く人物設定も雑なストーリーに視聴者の共感を得るのは難しかった様で、現在のNHK大河ドラマは、明治維新150年を記念して、人気女流作家と女流脚本家が描く「西郷(せご)どん」が比較的好評のうちに続いて居る様です。何たって幕末物は、今から時代が近い一大変革であった事で題材と為り易く、維新側と幕府側の夫々を描く多くの作品があり多くの人に人気があります。それに、国民的人気者の西郷隆盛を描くと為れば、幕末に興味の無い方々にも注目する事でしよう。このドラマの成功を陰ながら祈っています・・・
思い返してみると、この吉田松陰と云う人物程、その人物像を政治的・意図的に根本から大きく作リ挙げられた例は稀だろうと感じます。何故、何の目的で、この様に「神様・大人物」として祭り上げられたのでしようか?
それは、明治維新を成し遂げた松陰の門下生と名乗る人達が「偉大な指導者・教育者」とする架空の人物像を作り上げ、明治維新の正当性と権威付けに利用したものだった・・・と言われて居ます。更に戦前は、その愛国主義的考えや植民地主義、更に尊王思想の理想像として神格化され過分に語られ、多くの作家もそれに追従し多様な作品を出版しました。現在も、安倍晋三氏の様に心から尊敬する人達も居る訳です。ここで、私は「吉田松陰なる人物像」を改めて見て行こうと考えまする。先ずは、次のレポートを参照下さい。
参照 日本を守るのに右も左も無い(抜粋) 2012年08月07日
幕末の思想4 「吉田松陰は単なるテロリストに過ぎ無い」
幕末の思想家と言えば、先ず挙げられるのが吉田松陰。吉田松陰と言えば、維新の志士を多数輩出した松下村塾の主宰者にして維新の精神的支柱と為った偉大な思想家・教育者であり、正義を貫き「安政の大獄」の犠牲と為った悲劇の主人公・・・これが、私共が公教育によって教え込まれた吉田松陰である。が、実態は全く違って居た様だ。今日は、そんな吉田松陰の実態に迫って行こうと思う。
■吉田松陰、その人を見る
「・・・政府はこうして早くも欧米の圧力からの民族独立と云う課題を、隣邦朝鮮・中国への侵略と結び着けた。欧米には『信義』を立てると云う名で従属しながら、朝鮮・中国の侵略を目指すと云うのは、幕末に長州藩士の指導者吉田松陰が説いた事である。アメリカ及びロシアとの和親条約が結ばれた後の1855年、松陰が獄中から「同士一致の意見」として兄に送った「獄是帳」に曰く、
『魯(ロシア)墨(アメリカ)講和一定、我より是を破り信を夷狄に失うべからず。唯、章程を厳にし信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取り易き朝鮮満州支那を切り随え、交易にて魯墨に失う所は、又土地にて鮮満に償うべし』
と。木戸等は先師の教えに何と忠実であった事だろう・・・」
(井上 清著−日本の歴史(中)より引用)
「松陰の思想の基本が何処に在ったか?」
松陰は幼少時から、神国思想・尊皇思想を父から叩き込まれて居た・・・一般の多くの有識者に取って神国思想は一般的であった。それが松陰の中ではより以上に抽出・濃縮されて殆どその思考によって「がんじがらめに」為って居た。その彼が、外国を知りその脅威を肌で感じたその刹那に皇国の危機を感じた。その危機意識が松陰に「対外的膨張主義」を考え出させるに至る。
松陰が理想とする皇国は、天皇統治の元対外膨張をする事で光輝を得る。ここには、軍事力による侵略主義の性格が在る。この露骨な軍事力による海外雄飛は、ペリーの軍事的圧迫による開国要求と同じである。
(高橋文博著「吉田松陰」より引用)
これは、読めば判る様に(彼の思想の根本は)明治以降の政府の方針そのものだった。松陰の父親から受けた教育の所為もあるが、その思考は、アメリカやイギリス等の欧米諸国と同様植民地政策を取り乍ら欧米の干渉を排除するのがその方針であり、これが明治政府の基本方針と為った。明治政府のその方向性が誤って居たとしたら、それは松陰の思考の歪みによるものだろう。
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次に松陰の平等思想に付いて
好く松陰は「平等の思想を持って居た」と云う。しかし、その平等思想の中身を考えてみよう。松下村塾において門弟の身分の上下を問わ無かった点において確かに松陰は他の多くの武士とは違って居たであろう。しかしその発想、武士としての考え方は他の武士達と何ら変わら無い。
彼も幕府を廃し世の中を天皇を中心とした国に作り変えようとする場合に頼んだのは矢張り武士であった。平等であろうとしながらも武士階級とその他の『農工商』の違いを念頭に置いて居り、決して彼等と手を繋ごうと云う気持ちは無かった。(但し、これは松陰のみで無く他の多くの武士もそうであったが)武士である自分達の特権階級にしがみ付いてしまい、そこから抜けられ無かった。以下の文章を見てみよう。
「・・・だが、現実から遊離した自己の絶対化は、閉塞した状況を打開出来無い絶望と表裏する。松陰の次の言葉にはそうした様相が現れて居る。
『只今の勢にては諸侯は勿論捌けず、公卿も捌け難し、草莽に止まるべし。併し草莽も亦力なし。天下を跋渉して百姓一揆にても起こりたる所へ付け込み奇策あるべきか。・・・・』」
(高橋文博著 「吉田松陰」より引用)
この文章に示された様に松陰は、民衆を利用出来るなら利用しても良いと考えて居る様だ。しかし、民衆と手を取って戦おうとする様な気持ちは見られ無い。飽く迄民衆とは違う自分達の武士としての立場から抜け出られ無いで居る。ここら辺が松陰の限界と言える。そして、この師に教えられた伊藤博文や山形有朋等がこの限界を感じる事も知る事も出来ず唯弾圧するしか無かったのも当然。
■吉田松陰と云うウソ
一言で言えば、松陰とは単なる乱暴者の多い長州人の過激派若造の一人に過ぎ無い。今で言えば、地方都市の悪ガキと言った処で、何度注意しても暴走を止め無いのでショッ引かれただけの男。唯、仲間内ではホンの少し知恵の廻る処が在ってリーダーを気取って居た。
とは言え、思想家・教育者等とは程遠く、それは明治が成立してから山縣有朋等がデッチ上げた虚像なのだ。長州藩自体がこの男にはホトホト手を焼き遂には士分を剥奪して居る。詰まり、武士の資格が無いと見られた食み出し者だった。
松陰と言えば、誰でも「松下村塾」を開いて維新の「志士」達を育成した指導者と答えるだろう。松陰と松下村塾と云う言葉は一体と為って居り、私達は松陰=松下村塾と刷り込まれて居る。
実は、松下村塾とは陽明学者とも見られる叔父の玉木文之進の私塾である。安政2(1855)年、又も実家預かりの身と為ったままで叔父であり師でもある玉木文之進の「松下村塾」の看板を掲げ、久坂玄瑞や前原一誠達と交わる。これは、僅か3年で閉じられるが、世に言う吉田松陰=松下村塾と言う維新のシンボルとも云える言葉はこの時期の事を指して居る。
公教育では、久坂・前原以外に木戸孝允や高杉晋作・品川弥二郎・伊藤博文・山縣有朋等が門下生として教えを受け、維新の英傑を輩出した事に為って居るが、この事は大いに史実と異なる。木戸は明らかに門下生でも塾生でも無く、高杉も“門下生”と言うより“ダチ”と言った方が近い。
そもそも松陰の松下村塾とは、師が何かを講義して教育すると云う場では無く、同志が集まって談論風発「尊王攘夷」論で大いに盛り上がると云う場であった様だ。そう云う仲間のリーダー格が松陰であり、山縣有朋の様な何処にも教えを受ける場の無い境遇の者も集まる様に為り後輩も生まれて来たと云う事の様だ。(尤も松陰は、山縣の事を殆ど知ら無い)
安政5(1858)年、日米修好通商条約が締結されると、松陰は老中の間部詮勝の暗殺を計画した。それを公言する松陰に対し藩は再び彼を捕縛・投獄する。安政6(1859)年、幕府は松陰の江戸への送致を命令、松陰は伝馬町の獄舎にて斬首刑。満29歳(享年30歳)であった。
松陰は、大老・井伊直弼の暗殺も主張して居た。又、幕府転覆を堂々と主張し、藩に対して大砲を始めとする武器の支給を願い出たりして居る。兎に角、暗殺、暗殺と喚く。これが又、久坂や前原と言った松陰同様の“跳ね上がり”には受けた。
長州藩が、杉家の杉梅太郎(松陰の兄)に警告を出して居る。「妄動して止まざれば投獄あるのみ」藩や門下生と言われる者達の一族にしてみれば、松陰の言動は文字通り「妄動」で、久坂の一族等は、何とか久坂を松陰から離そうと苦労した。(久坂の妻は松陰の妹である・・・花燃ゆの主人公)
安政の大獄の名で、大老の井伊が松陰に目を着け彼を処刑した事に為って居るが、当時の松陰は世間に溢れ出した尊攘派の中の特に荒っポイ一人に過ぎず、井伊は松陰と云う男の事等知ら無い。松陰自らが役人にそれ等の計画や考えを持って居ると申し出たに過ぎ無かった。井伊は、松陰の処刑に付いて長州藩に意向を聞いて居るが、長州藩の回答が、松陰の行動を「暴発」とし「斬首止む無し」と云うものだった。
当時の幕閣にしても諸大名にしても、松陰処刑を殊更の事件とも何ともみて無い。不逞の輩が一人処刑されただけ。こう云う松陰を「師」であると崇め出したのは、維新が成立して暫く経ってからの事。
拾い上げたのは日本軍閥の祖、長州閥の山縣有朋。中間(ちゅうげん)と云う足軽以下の出自を持つ山縣は、自然と累進するに従い拠り所が欲しく為った。又、それが必要と感じた。権力欲の強い男は己を引き上げる為にこう云う事を遣る。これによって、吉田松陰=松下村塾は一気に陽の当たる場所へ躍り出た。後は、雪だるまが坂道を転がる様なもので、気が着けば松陰は「神様」に為って居た。
高杉晋作・久坂玄瑞・前原一誠等が、松陰の「遺志」を継いだ“跳ね上がり”であった事を述べれば、松陰の実像はもっと理解し易くなる筈。百歩譲って、松陰が何らかの思想を持って居たとしても、それは将来に向けて何の展望も無い虚妄と呼ぶに近いもので、只管倒幕の機会を窺って居た長州藩そのものに取っても松陰は単なる厄介者に過ぎ無かった。
例えば、松陰の外交思想と云うものは余り語られ無いが、実に稚拙なものだった。北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州・台湾・フィリピンを領有するべきだ・・・と云うのだ。これを実行するのが、彼の言う「大和魂」なのだ。一体、松陰はどう云う国学を勉強したのだろうか。
■「維新」の“真犯人”水戸藩の狂気(其の六 水戸の公家かぶれと司馬史観の罪)
作家の司馬遼太郎氏はこれに付いては大変な罪を犯して居る。司馬氏は、全ての暗殺を否定すると断言するが、その同じ舌で「唯、桜田門外ノ変だけは『歴史を進展させた』珍しい例外」であると断じ、このテロを高く評価する。「歴史を進展させた」と云う一言で、司馬氏がどう云うスタンスで幕末史を語って居るかが明白に顕れて居る。
司馬氏には、人物で言えば三つの過ちがある。坂本龍馬(司馬氏は「竜馬」と云う表記で逃げ道を作って居る)・吉田松陰・勝海舟の三人を高く評価した点である。司馬史観と云うものがあってその核に「桜田門外ノ変」とこの三人の存在があるとすれば、司馬史観とは大いなる罪を犯して居ると言わざるを得ない。そして、更にそれは創作された虚構に過ぎ無い。
以上 参照 おわり
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歴史上の人物の評価は、時が過ぎる毎に新たな真実が見出され吟味され変化し、中には人の手で脚色され大きく逸(そ)れ色々と異なる様々な評価も存在する。研究で新たな資料が出て来たり、作者の想像で色々な脚色が着けられるから、時代に依って色々と変遷するものだろう。
だから、好く「貴方の尊敬する歴史上の人物は?」と問われ「断然、坂本龍馬だ!」と答える人が居るが、それは殆どが司馬遼太郎署の「竜馬が行く」を読んで、小説の中の竜馬の考えや生き方に感銘し感激した訳であり、正確には「司馬遼太郎が描く竜馬を尊敬し好きだ」と言うべきだろう。無論、司馬氏だけで無く他の大勢の作家が龍馬を取り上げて居り、その集合した龍馬像を読んでのものでもあるのだろうが・・・
同じく、徳川家康や豊臣秀吉に織田信長等も色々な作者に依って区々な性格描写を生み出して居る。作者は苦労して資料を手繰(たぐ)り、エピソードを吸い上げ一つの人物像を形作る。そして作者の中でストーリーを練り上げて行くのだが、それがその人物の全てでは無い、飽く迄も作者の作り出した人物だ。
作者は、時代状況や人物像を語りながら≪何か≫を読者に訴えたいのであり、そこに描かれた人物像と実像には大きな違いが在って当然であり、それが創作と言う小説だ。私は別にそれを悪いと言ってるのでは無い。一人の人物の見方は作者に依っては色々な角度から見られるし、どの様な評価でも可能だから。
本当は史実に基づくものがベターなのだろうが、歴史とは勝者が作り出した「作り物」であるのはご存知の通り。私達は、古事記以来日本の勝者の作り物を見せられ聞かされ、それを日本の歴史だと教えられて来た。敗者には歴史を語る資格は無いだから後世には残ら無い訳です。私達は、その作り物の中に隠された真実を想像し感じ、少しでも本質に近づきたいと努力し続けるだけ。
年号や事件に出来事の概略はある程度正確に伝わるだろうが、その裏に隠されたものは、時代の前後や状況を研究して想像するしか無い。特に近代の幕末から明治維新への物語は、歴史も浅く資料も豊富にある様で、一人の作者でも同じ人物を幾通りにも描き、相当な作品が残されて居る。大きな時代の変化が作者の興味を引き起こすのてしょう。が、明治維新への評価の殆どが「幕府の没落で政治が怠り、新興の外様の下級武士が新たな時代を切り拓いた・・・」と評価して居ます。敗者である新選組を取り扱った作品でも「敗者の美学」「滅びる美しさ」を唄い、明治維新で日本は新たな文明国へと為った・・・と結ぶものが多い。
しかし、この明治維新と云う言葉はその当時には無く、昭和に為って国を憂いてクーデターを企てた右翼や軍の下級将校達が、今まで「ご一新」と呼ばれて居た幕末からの時代を「明治維新」と名付け、今回の行動を「昭和維新」と叫んで始まったものだった。
このご一新で、果たして庶民の生活が楽に為り文化的な生活へと向上したかどうかは人に依って大きく評価が異なる。特に一般庶民に取って新政府が自分達の生活を楽にしたと思ったのは数少ないと思う。富国強兵を唄い殖産興業を目指した新政府にはお金が在りませんでした。それには国民から税金を今まで以上取るしか無い。更に、開国し貿易を始めた事で日常必需品の物価が上がり生活が苦しく為る。増税と物価高で一般庶民の生活が豊かに為る訳は無いのです。
「明治は好かった・・・」とする司馬氏の思い入れは、自ら戦争体験を持つ人に取って如何なものでしようか。明治に為ってから戊辰戦争・西南戦争・日清・日露戦争・・・と太平洋戦争の敗北まで日本は戦争を続けたのです。これが、長州の吉田松陰の目指した植民地獲得の為の侵略戦争だとしたら・・・果たして一般庶民に取って明治は好かったのでしようか・・・そして、松陰は日本の未来に一体何を残したのでしようか・・・
松陰の残したこと・・・
戦前まで、吉田松陰は類まれな「愛国者・偉大な教育者・神様」と崇められました。多くの書籍や浪曲・歌謡曲まで、現在までも「素晴らしい人物・人格者」と持ち上げられて居ます。特に心からの天皇崇拝者・愛国者としてその方面では神様として尊敬されています。
天皇崇拝の思想は、水戸学と本居宣長の影響を強く受けて居ますが、諸事態の解決策としてテロ・暗殺へと短絡的に走るのは彼の持って生まれた信条なのでしよう。何せ、考えるより行動が先走るのは、無暗に脱藩して各地を旅したり、黒船に乗り込んで密航を企てたり・・・そして、直ぐに自首して掴まる・・・これらの繰り返しでした。
幕府単独の開国に怒り、老中の井伊や真部暗殺を計画し仲間に決起を促します。これに久坂や高杉が「反対!」と血判状で諫(いさ)めますが、彼等に絶交を言い渡し藩に決起・討幕の為の武器を要求します。抑えの利か無い松陰に藩は彼を投獄しますが、伝え聞いた幕府が反幕運動の情報を得ようと彼を江戸に呼びます。
参考人調べ程度の幕府の取り調べに「老中暗殺を計画した謀反人です、処刑してください!」と松陰は申し出ます。遠島程度を考えていた幕府は長州藩に「如何する?」と問うています。藩は「処刑しても構わ無い」と回答します。
その獄中で仲間に対して書かれたのが「北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州・台湾・フィリピンを領有するべきだ・・・」とするものでした。驚くべきなのは、これが明治以来の日本外交の本質を突いて居たことです。実に明治以降の日本は、松陰の目指す「天皇中心の軍国国家・侵略国家」への道を進んだ訳です。
松陰を祀り上げる事に為ったのは、天皇中心の中央集権・軍国国家・侵略国家に為ろうとする明治政府に取っては都合の好い人物だからでした。自分の死を投げうって国を愛し行動する・・・殖産し富を増やして全てを軍備に廻して強い軍隊を作り、周囲に侵略を続けて植民地として富を吸い上げよう・・・これに政府やメディアが飛び付き、彼をアレヨアレヨと神様に持ち上げるシナリオが出来上がったのです。
聖徳太子の様に神童であり、10歳で藩主の前で講義し年少で藩の海防を任される・・・彼の弟子が明治政府の要職に就く様な偉大な教育者・・・と彼の人格を作り上げます。ですから、松陰の真実を知ろうと彼の過去を調べても、特別なことは見当たら無い。癇癪で短気で人の意見に耳を貸さず意固地な青年だった・・・程度です、全てが作られたものなのですから。
最も熱心に彼を持ち上げたのが軍閥の総指・山縣有朋だと言われて居ます。最も、長州閥として他の多くの人達が明治政府の権威付けの為に大いに協力した事でしょう。素晴らしい思想の下に明治政府が作られ、指導者の権威を飾るに相応しい素晴らしい人物を作り上げた訳です。
実際の松陰本人では無く、作り上げられ脚色された松陰像を尊敬し愛し崇めたてるのは個人の自由です。作られ描かれた人物像は非の無い理想的な人格を得られますから。ですから、もし人に話すのなら「作り上げられ脚色された吉田松陰が好きだ」と言うのが正確なのでしょう。明治維新から150年、次々と今迄色々隠されて来たものが現れる事に期待して今回は終わります・・・
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これを記念する様なクイズ番組をテレビで遣って居ました。家族と夕食を採りながら見るとは無しに聞いていたのですが「吉田松陰を尊敬する幕末に強い・・・」と紹介された某中堅タレントが、中盤から俄然正解を続けてトップの座へ・・・その後は見てませんが、久しぶりに聞く吉田松陰の名で、彼を尊敬して止まないと公言する安倍晋三氏の姿を思い出してしまいました。
サテ、吉田松陰と言えば彼の妹(久坂玄瑞の妻)を主人公として描いたNHKの大河ドラマ「花燃ゆ」が最後迄人気が出ず不評のまま終了したのは何時の事だったろう・・・何度か視聴率回復の手が打たれたそうですが、到頭挽回出来ず最低の記録を作ってしまったとの事でした。(私はこれを一度も見なかったので一切の批評は出来ません)
元々この「花燃ゆ」の企画は、安倍晋三氏がNHKの会長に籾井氏を推薦したそのお礼の意味で企画したもの。松陰を尊敬する安倍首相の為に彼の選挙地の山口県を背景とした、原作も無い無名な松陰の妹を持ち出したものだった・・・と初めから多くの批判を浴びて始まった作品でした。
主人公である松陰の妹の資料も少なく準備期間も短く人物設定も雑なストーリーに視聴者の共感を得るのは難しかった様で、現在のNHK大河ドラマは、明治維新150年を記念して、人気女流作家と女流脚本家が描く「西郷(せご)どん」が比較的好評のうちに続いて居る様です。何たって幕末物は、今から時代が近い一大変革であった事で題材と為り易く、維新側と幕府側の夫々を描く多くの作品があり多くの人に人気があります。それに、国民的人気者の西郷隆盛を描くと為れば、幕末に興味の無い方々にも注目する事でしよう。このドラマの成功を陰ながら祈っています・・・
思い返してみると、この吉田松陰と云う人物程、その人物像を政治的・意図的に根本から大きく作リ挙げられた例は稀だろうと感じます。何故、何の目的で、この様に「神様・大人物」として祭り上げられたのでしようか?
それは、明治維新を成し遂げた松陰の門下生と名乗る人達が「偉大な指導者・教育者」とする架空の人物像を作り上げ、明治維新の正当性と権威付けに利用したものだった・・・と言われて居ます。更に戦前は、その愛国主義的考えや植民地主義、更に尊王思想の理想像として神格化され過分に語られ、多くの作家もそれに追従し多様な作品を出版しました。現在も、安倍晋三氏の様に心から尊敬する人達も居る訳です。ここで、私は「吉田松陰なる人物像」を改めて見て行こうと考えまする。先ずは、次のレポートを参照下さい。
参照 日本を守るのに右も左も無い(抜粋) 2012年08月07日
幕末の思想4 「吉田松陰は単なるテロリストに過ぎ無い」
幕末の思想家と言えば、先ず挙げられるのが吉田松陰。吉田松陰と言えば、維新の志士を多数輩出した松下村塾の主宰者にして維新の精神的支柱と為った偉大な思想家・教育者であり、正義を貫き「安政の大獄」の犠牲と為った悲劇の主人公・・・これが、私共が公教育によって教え込まれた吉田松陰である。が、実態は全く違って居た様だ。今日は、そんな吉田松陰の実態に迫って行こうと思う。
■吉田松陰、その人を見る
「・・・政府はこうして早くも欧米の圧力からの民族独立と云う課題を、隣邦朝鮮・中国への侵略と結び着けた。欧米には『信義』を立てると云う名で従属しながら、朝鮮・中国の侵略を目指すと云うのは、幕末に長州藩士の指導者吉田松陰が説いた事である。アメリカ及びロシアとの和親条約が結ばれた後の1855年、松陰が獄中から「同士一致の意見」として兄に送った「獄是帳」に曰く、
『魯(ロシア)墨(アメリカ)講和一定、我より是を破り信を夷狄に失うべからず。唯、章程を厳にし信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取り易き朝鮮満州支那を切り随え、交易にて魯墨に失う所は、又土地にて鮮満に償うべし』
と。木戸等は先師の教えに何と忠実であった事だろう・・・」
(井上 清著−日本の歴史(中)より引用)
「松陰の思想の基本が何処に在ったか?」
松陰は幼少時から、神国思想・尊皇思想を父から叩き込まれて居た・・・一般の多くの有識者に取って神国思想は一般的であった。それが松陰の中ではより以上に抽出・濃縮されて殆どその思考によって「がんじがらめに」為って居た。その彼が、外国を知りその脅威を肌で感じたその刹那に皇国の危機を感じた。その危機意識が松陰に「対外的膨張主義」を考え出させるに至る。
松陰が理想とする皇国は、天皇統治の元対外膨張をする事で光輝を得る。ここには、軍事力による侵略主義の性格が在る。この露骨な軍事力による海外雄飛は、ペリーの軍事的圧迫による開国要求と同じである。
(高橋文博著「吉田松陰」より引用)
これは、読めば判る様に(彼の思想の根本は)明治以降の政府の方針そのものだった。松陰の父親から受けた教育の所為もあるが、その思考は、アメリカやイギリス等の欧米諸国と同様植民地政策を取り乍ら欧米の干渉を排除するのがその方針であり、これが明治政府の基本方針と為った。明治政府のその方向性が誤って居たとしたら、それは松陰の思考の歪みによるものだろう。
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次に松陰の平等思想に付いて
好く松陰は「平等の思想を持って居た」と云う。しかし、その平等思想の中身を考えてみよう。松下村塾において門弟の身分の上下を問わ無かった点において確かに松陰は他の多くの武士とは違って居たであろう。しかしその発想、武士としての考え方は他の武士達と何ら変わら無い。
彼も幕府を廃し世の中を天皇を中心とした国に作り変えようとする場合に頼んだのは矢張り武士であった。平等であろうとしながらも武士階級とその他の『農工商』の違いを念頭に置いて居り、決して彼等と手を繋ごうと云う気持ちは無かった。(但し、これは松陰のみで無く他の多くの武士もそうであったが)武士である自分達の特権階級にしがみ付いてしまい、そこから抜けられ無かった。以下の文章を見てみよう。
「・・・だが、現実から遊離した自己の絶対化は、閉塞した状況を打開出来無い絶望と表裏する。松陰の次の言葉にはそうした様相が現れて居る。
『只今の勢にては諸侯は勿論捌けず、公卿も捌け難し、草莽に止まるべし。併し草莽も亦力なし。天下を跋渉して百姓一揆にても起こりたる所へ付け込み奇策あるべきか。・・・・』」
(高橋文博著 「吉田松陰」より引用)
この文章に示された様に松陰は、民衆を利用出来るなら利用しても良いと考えて居る様だ。しかし、民衆と手を取って戦おうとする様な気持ちは見られ無い。飽く迄民衆とは違う自分達の武士としての立場から抜け出られ無いで居る。ここら辺が松陰の限界と言える。そして、この師に教えられた伊藤博文や山形有朋等がこの限界を感じる事も知る事も出来ず唯弾圧するしか無かったのも当然。
■吉田松陰と云うウソ
一言で言えば、松陰とは単なる乱暴者の多い長州人の過激派若造の一人に過ぎ無い。今で言えば、地方都市の悪ガキと言った処で、何度注意しても暴走を止め無いのでショッ引かれただけの男。唯、仲間内ではホンの少し知恵の廻る処が在ってリーダーを気取って居た。
とは言え、思想家・教育者等とは程遠く、それは明治が成立してから山縣有朋等がデッチ上げた虚像なのだ。長州藩自体がこの男にはホトホト手を焼き遂には士分を剥奪して居る。詰まり、武士の資格が無いと見られた食み出し者だった。
松陰と言えば、誰でも「松下村塾」を開いて維新の「志士」達を育成した指導者と答えるだろう。松陰と松下村塾と云う言葉は一体と為って居り、私達は松陰=松下村塾と刷り込まれて居る。
実は、松下村塾とは陽明学者とも見られる叔父の玉木文之進の私塾である。安政2(1855)年、又も実家預かりの身と為ったままで叔父であり師でもある玉木文之進の「松下村塾」の看板を掲げ、久坂玄瑞や前原一誠達と交わる。これは、僅か3年で閉じられるが、世に言う吉田松陰=松下村塾と言う維新のシンボルとも云える言葉はこの時期の事を指して居る。
公教育では、久坂・前原以外に木戸孝允や高杉晋作・品川弥二郎・伊藤博文・山縣有朋等が門下生として教えを受け、維新の英傑を輩出した事に為って居るが、この事は大いに史実と異なる。木戸は明らかに門下生でも塾生でも無く、高杉も“門下生”と言うより“ダチ”と言った方が近い。
そもそも松陰の松下村塾とは、師が何かを講義して教育すると云う場では無く、同志が集まって談論風発「尊王攘夷」論で大いに盛り上がると云う場であった様だ。そう云う仲間のリーダー格が松陰であり、山縣有朋の様な何処にも教えを受ける場の無い境遇の者も集まる様に為り後輩も生まれて来たと云う事の様だ。(尤も松陰は、山縣の事を殆ど知ら無い)
安政5(1858)年、日米修好通商条約が締結されると、松陰は老中の間部詮勝の暗殺を計画した。それを公言する松陰に対し藩は再び彼を捕縛・投獄する。安政6(1859)年、幕府は松陰の江戸への送致を命令、松陰は伝馬町の獄舎にて斬首刑。満29歳(享年30歳)であった。
松陰は、大老・井伊直弼の暗殺も主張して居た。又、幕府転覆を堂々と主張し、藩に対して大砲を始めとする武器の支給を願い出たりして居る。兎に角、暗殺、暗殺と喚く。これが又、久坂や前原と言った松陰同様の“跳ね上がり”には受けた。
長州藩が、杉家の杉梅太郎(松陰の兄)に警告を出して居る。「妄動して止まざれば投獄あるのみ」藩や門下生と言われる者達の一族にしてみれば、松陰の言動は文字通り「妄動」で、久坂の一族等は、何とか久坂を松陰から離そうと苦労した。(久坂の妻は松陰の妹である・・・花燃ゆの主人公)
安政の大獄の名で、大老の井伊が松陰に目を着け彼を処刑した事に為って居るが、当時の松陰は世間に溢れ出した尊攘派の中の特に荒っポイ一人に過ぎず、井伊は松陰と云う男の事等知ら無い。松陰自らが役人にそれ等の計画や考えを持って居ると申し出たに過ぎ無かった。井伊は、松陰の処刑に付いて長州藩に意向を聞いて居るが、長州藩の回答が、松陰の行動を「暴発」とし「斬首止む無し」と云うものだった。
当時の幕閣にしても諸大名にしても、松陰処刑を殊更の事件とも何ともみて無い。不逞の輩が一人処刑されただけ。こう云う松陰を「師」であると崇め出したのは、維新が成立して暫く経ってからの事。
拾い上げたのは日本軍閥の祖、長州閥の山縣有朋。中間(ちゅうげん)と云う足軽以下の出自を持つ山縣は、自然と累進するに従い拠り所が欲しく為った。又、それが必要と感じた。権力欲の強い男は己を引き上げる為にこう云う事を遣る。これによって、吉田松陰=松下村塾は一気に陽の当たる場所へ躍り出た。後は、雪だるまが坂道を転がる様なもので、気が着けば松陰は「神様」に為って居た。
高杉晋作・久坂玄瑞・前原一誠等が、松陰の「遺志」を継いだ“跳ね上がり”であった事を述べれば、松陰の実像はもっと理解し易くなる筈。百歩譲って、松陰が何らかの思想を持って居たとしても、それは将来に向けて何の展望も無い虚妄と呼ぶに近いもので、只管倒幕の機会を窺って居た長州藩そのものに取っても松陰は単なる厄介者に過ぎ無かった。
例えば、松陰の外交思想と云うものは余り語られ無いが、実に稚拙なものだった。北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州・台湾・フィリピンを領有するべきだ・・・と云うのだ。これを実行するのが、彼の言う「大和魂」なのだ。一体、松陰はどう云う国学を勉強したのだろうか。
■「維新」の“真犯人”水戸藩の狂気(其の六 水戸の公家かぶれと司馬史観の罪)
作家の司馬遼太郎氏はこれに付いては大変な罪を犯して居る。司馬氏は、全ての暗殺を否定すると断言するが、その同じ舌で「唯、桜田門外ノ変だけは『歴史を進展させた』珍しい例外」であると断じ、このテロを高く評価する。「歴史を進展させた」と云う一言で、司馬氏がどう云うスタンスで幕末史を語って居るかが明白に顕れて居る。
司馬氏には、人物で言えば三つの過ちがある。坂本龍馬(司馬氏は「竜馬」と云う表記で逃げ道を作って居る)・吉田松陰・勝海舟の三人を高く評価した点である。司馬史観と云うものがあってその核に「桜田門外ノ変」とこの三人の存在があるとすれば、司馬史観とは大いなる罪を犯して居ると言わざるを得ない。そして、更にそれは創作された虚構に過ぎ無い。
以上 参照 おわり
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歴史上の人物の評価は、時が過ぎる毎に新たな真実が見出され吟味され変化し、中には人の手で脚色され大きく逸(そ)れ色々と異なる様々な評価も存在する。研究で新たな資料が出て来たり、作者の想像で色々な脚色が着けられるから、時代に依って色々と変遷するものだろう。
だから、好く「貴方の尊敬する歴史上の人物は?」と問われ「断然、坂本龍馬だ!」と答える人が居るが、それは殆どが司馬遼太郎署の「竜馬が行く」を読んで、小説の中の竜馬の考えや生き方に感銘し感激した訳であり、正確には「司馬遼太郎が描く竜馬を尊敬し好きだ」と言うべきだろう。無論、司馬氏だけで無く他の大勢の作家が龍馬を取り上げて居り、その集合した龍馬像を読んでのものでもあるのだろうが・・・
同じく、徳川家康や豊臣秀吉に織田信長等も色々な作者に依って区々な性格描写を生み出して居る。作者は苦労して資料を手繰(たぐ)り、エピソードを吸い上げ一つの人物像を形作る。そして作者の中でストーリーを練り上げて行くのだが、それがその人物の全てでは無い、飽く迄も作者の作り出した人物だ。
作者は、時代状況や人物像を語りながら≪何か≫を読者に訴えたいのであり、そこに描かれた人物像と実像には大きな違いが在って当然であり、それが創作と言う小説だ。私は別にそれを悪いと言ってるのでは無い。一人の人物の見方は作者に依っては色々な角度から見られるし、どの様な評価でも可能だから。
本当は史実に基づくものがベターなのだろうが、歴史とは勝者が作り出した「作り物」であるのはご存知の通り。私達は、古事記以来日本の勝者の作り物を見せられ聞かされ、それを日本の歴史だと教えられて来た。敗者には歴史を語る資格は無いだから後世には残ら無い訳です。私達は、その作り物の中に隠された真実を想像し感じ、少しでも本質に近づきたいと努力し続けるだけ。
年号や事件に出来事の概略はある程度正確に伝わるだろうが、その裏に隠されたものは、時代の前後や状況を研究して想像するしか無い。特に近代の幕末から明治維新への物語は、歴史も浅く資料も豊富にある様で、一人の作者でも同じ人物を幾通りにも描き、相当な作品が残されて居る。大きな時代の変化が作者の興味を引き起こすのてしょう。が、明治維新への評価の殆どが「幕府の没落で政治が怠り、新興の外様の下級武士が新たな時代を切り拓いた・・・」と評価して居ます。敗者である新選組を取り扱った作品でも「敗者の美学」「滅びる美しさ」を唄い、明治維新で日本は新たな文明国へと為った・・・と結ぶものが多い。
しかし、この明治維新と云う言葉はその当時には無く、昭和に為って国を憂いてクーデターを企てた右翼や軍の下級将校達が、今まで「ご一新」と呼ばれて居た幕末からの時代を「明治維新」と名付け、今回の行動を「昭和維新」と叫んで始まったものだった。
このご一新で、果たして庶民の生活が楽に為り文化的な生活へと向上したかどうかは人に依って大きく評価が異なる。特に一般庶民に取って新政府が自分達の生活を楽にしたと思ったのは数少ないと思う。富国強兵を唄い殖産興業を目指した新政府にはお金が在りませんでした。それには国民から税金を今まで以上取るしか無い。更に、開国し貿易を始めた事で日常必需品の物価が上がり生活が苦しく為る。増税と物価高で一般庶民の生活が豊かに為る訳は無いのです。
「明治は好かった・・・」とする司馬氏の思い入れは、自ら戦争体験を持つ人に取って如何なものでしようか。明治に為ってから戊辰戦争・西南戦争・日清・日露戦争・・・と太平洋戦争の敗北まで日本は戦争を続けたのです。これが、長州の吉田松陰の目指した植民地獲得の為の侵略戦争だとしたら・・・果たして一般庶民に取って明治は好かったのでしようか・・・そして、松陰は日本の未来に一体何を残したのでしようか・・・
松陰の残したこと・・・
戦前まで、吉田松陰は類まれな「愛国者・偉大な教育者・神様」と崇められました。多くの書籍や浪曲・歌謡曲まで、現在までも「素晴らしい人物・人格者」と持ち上げられて居ます。特に心からの天皇崇拝者・愛国者としてその方面では神様として尊敬されています。
天皇崇拝の思想は、水戸学と本居宣長の影響を強く受けて居ますが、諸事態の解決策としてテロ・暗殺へと短絡的に走るのは彼の持って生まれた信条なのでしよう。何せ、考えるより行動が先走るのは、無暗に脱藩して各地を旅したり、黒船に乗り込んで密航を企てたり・・・そして、直ぐに自首して掴まる・・・これらの繰り返しでした。
幕府単独の開国に怒り、老中の井伊や真部暗殺を計画し仲間に決起を促します。これに久坂や高杉が「反対!」と血判状で諫(いさ)めますが、彼等に絶交を言い渡し藩に決起・討幕の為の武器を要求します。抑えの利か無い松陰に藩は彼を投獄しますが、伝え聞いた幕府が反幕運動の情報を得ようと彼を江戸に呼びます。
参考人調べ程度の幕府の取り調べに「老中暗殺を計画した謀反人です、処刑してください!」と松陰は申し出ます。遠島程度を考えていた幕府は長州藩に「如何する?」と問うています。藩は「処刑しても構わ無い」と回答します。
その獄中で仲間に対して書かれたのが「北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州・台湾・フィリピンを領有するべきだ・・・」とするものでした。驚くべきなのは、これが明治以来の日本外交の本質を突いて居たことです。実に明治以降の日本は、松陰の目指す「天皇中心の軍国国家・侵略国家」への道を進んだ訳です。
松陰を祀り上げる事に為ったのは、天皇中心の中央集権・軍国国家・侵略国家に為ろうとする明治政府に取っては都合の好い人物だからでした。自分の死を投げうって国を愛し行動する・・・殖産し富を増やして全てを軍備に廻して強い軍隊を作り、周囲に侵略を続けて植民地として富を吸い上げよう・・・これに政府やメディアが飛び付き、彼をアレヨアレヨと神様に持ち上げるシナリオが出来上がったのです。
聖徳太子の様に神童であり、10歳で藩主の前で講義し年少で藩の海防を任される・・・彼の弟子が明治政府の要職に就く様な偉大な教育者・・・と彼の人格を作り上げます。ですから、松陰の真実を知ろうと彼の過去を調べても、特別なことは見当たら無い。癇癪で短気で人の意見に耳を貸さず意固地な青年だった・・・程度です、全てが作られたものなのですから。
最も熱心に彼を持ち上げたのが軍閥の総指・山縣有朋だと言われて居ます。最も、長州閥として他の多くの人達が明治政府の権威付けの為に大いに協力した事でしょう。素晴らしい思想の下に明治政府が作られ、指導者の権威を飾るに相応しい素晴らしい人物を作り上げた訳です。
実際の松陰本人では無く、作り上げられ脚色された松陰像を尊敬し愛し崇めたてるのは個人の自由です。作られ描かれた人物像は非の無い理想的な人格を得られますから。ですから、もし人に話すのなら「作り上げられ脚色された吉田松陰が好きだ」と言うのが正確なのでしょう。明治維新から150年、次々と今迄色々隠されて来たものが現れる事に期待して今回は終わります・・・
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