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2021年07月18日

【安楽死】死ぬ権利は、生きる希望になる。

日本では安楽死が認められていない。

しかしベルギーやオランダなど、
ヨーロッパの一部の国では安楽死が合法となっている。

スイスには安楽死ほう助機関「エグジット」がある。

ずっと苦しい生を送ってきた人にとって、
「死ぬ権利」は生きる希望になる。




「続くこと」はしばしば、良いこととして語られる。

命が続くこと、生き長らえることは尊い。
命が断ち切れてしまうことは悲しい。

そして、こう語られることもある。
「生きてさえいれば、なんでもできるんだから」

だから生きることはポジティブで、
死ぬことはネガティブでタブーな空気がある。



しかし、「終わりがないこと」は、すさまじい絶望になる。

ずっと苦しい生を送ってきた人にとっては、
命が続くことは地獄が終わらないのと同じだ。

「この苦しい生がいったいいつまで続くのか」
出口の見えないトンネルには、本当に出口がない。

なのに「死ぬ権利」は認められていない。
それは犯罪となり、多くの人の人生を傷つけてしまう。

「地獄を出るな」という重圧が、絶望に追い打ちをかける。



終わりがあることは、終わるまでの人生を輝かせる。

死ぬ権利があれば、
「この苦しい生をいつでも終えることができる」
と、気が楽になる。

終わりが決まっていれば、
その日までの時間の使い方も変わる。

なにしろ命が終わるのだから、
ただその日まで耐えたところで損だ。

「どうせあの日に終われるんだから」と開き直れば、
たいていの問題は小さく見えるし、恐れる必要もなくなる。




「人生が苦しい」「死にたい」と言う人に対して、
こう言う人もいる。

「かまってちゃん」
「自分だけが苦しいと思うな」
「もっとつらくても生きている人がいるんだから」


それはなにも間違っていない。
想像を絶するつらい状況でも、
懸命に生きている人はたくさんいる。

だけど、ありふれた返しをすると、
「つらさは本人だけがわかる、人と比べるものじゃない」

まわりからどう見えても、
心に抱えるつらさは本人だけが感じるもの。

むしろ、いつも笑顔で楽しそうに見える人ほど、
心の奥につらさを押し込めて耐えていることだってある。




個人的には安楽死の権利がほしいし、
日本でも認められたらいいなと思う。

犯罪者になってしまう人が出たり、
残された人が悲しんだり、簡単な問題じゃないこともわかる。

だけど、その人の生き方が尊重されるなら、
死に方だって尊重されてもいいはずだ。


死ぬ権利を実際に使うかどうかは別。

それでも、死ぬ権利は、
終わらない生の苦しみを救う、希望になると思う。




→あわせて読みたい
 「おすすめ本】『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版』〜PART2 いちばん理にかなった自殺タイミングはいつか』〜。



posted by 理琉(ワタル) at 21:22 | TrackBack(0) | 人生観

2021年06月01日

【ブログ900日連続更新】〜ブログもYou Tubeも続ける、表現が楽しいから〜。

本記事をもって、
ブログ900日連続更新を達成。



900記事目を執筆してから
今日までの間に達成したことは、

【You Tube】英訳つきMV:2作目『月と狼』完成。

また、
無料動画編集ソフト「AviUtl」を
使った作品としても2作目になった。




ちなみに、
「AviUtl」を使った1作目がこちら。


見比べると、
わずかながら編集スキルが上達している。



振り返れば、
淡々と続けてきたようで、
産みの苦しみを乗り越えたようでもある。


書きたい記事、
動画で表現したいイメージは
あふれている。

なのに、
頭の中でぐちゃぐちゃになって、
どれも出せないことも多い。



それでも、続ける。

自分の内面を、
作品として表現するのが楽しいから。


ブログはもとより、

動画制作という
楽し過ぎるものに出逢ってしまったから。





posted by 理琉(ワタル) at 19:23 | TrackBack(0) | 人生観

2021年05月09日

【900記事】ブログ毎日更新877日 〜挑戦すれば、何かを成し遂げられる〜。

本記事をもって、

900記事目の執筆と、
ブログ877日連続更新を達成。




800記事目を書いてから、
この100日間で新しく挑戦したことは、

  1. You Tube:英訳つきミュージックビデオの作成
  2. 野球2年目:投手に挑戦


挑戦すれば、行動すれば、何かを成し遂げられる。


ー目次ー
  1. You Tube:英訳つきミュージックビデオの作成
  2. 野球2年目:投手に挑戦
  3. 挑戦すれば、何かを成し遂げられる




1.You Tube:英訳つきミュージックビデオの作成

2020年12月に
You Tubeチャンネルを開設。

それまで使っていた
Windows標準搭載の「ビデオエディター」から
フリー動画編集ソフト「AviUtl」に変更。



ブログで英語シャドーイング学習をしていることを活かし、
英訳つきミュージックビデオの作成に挑戦。

完成した動画がこちら。


<参考サイト>
・ソフトのダウンロード
 AviUtlのお部屋

・ソフトの使い方
 AviUtlの易しい使い方



編集能力、構成力、演出、etc。
「まだまだだなぁ」と思う反面、
どこまで上達できるか、自分にわくわくした。


そして気づいてしまった。
動画作成があまりにも楽しいことに。


2.野球2年目:投手に挑戦

2021年5月から、
本格的に草野球を始めた。

1年目は投げ方の基礎から、
打球の追い方、捕り方を学んだ。

「いずれはマウンドに立ちたい」

そんな目標が芽生えても、
手の届かないような、遥か遠くに思えた。



野球を始めて2年目。

僕はいつの間にか、
打撃投手を務められるまでになっていた。

IMG_20210424_145613_463.jpg

「左投げでも、二遊間をやってみたい」
「投手に挑戦したい」


そんな目標を語っても、
誰ひとり否定せず応援してくれた。

僕は本当に、友達に恵まれている。




「2年後、マウンドで投げてるよ」

2年前の自分にこう言っても、
おそらく信じなかっただろう。




3.挑戦すれば、何かを成し遂げられる

どんな小さなことでも、
どんなに下手でも、
成功体験は自信になる。


たとえ、
思い描いた通りの結果ではなくても、

「やってみたい」を行動に移せば、
自分に何かが残っている。

挑戦すれば、行動すれば、
何かを成し遂げられる。




今できることは、
自信を「過信」にも「奢り」にもしないこと。

そして、
これまで通り、淡々と続けること。

今日まで
900の記事を書き続けてきたように。



posted by 理琉(ワタル) at 22:11 | TrackBack(0) | 人生観

2021年01月29日

【800記事】ブログ毎日更新777日 〜コツコツ、淡々と続ける。創作が楽しいから〜。

本記事をもって、

800記事目の執筆と、
ブログ連続更新777日を達成。




700記事目を書いてから、
この100日間で新しく挑戦したことは、



You Tube 動画作成を開始

理琉-Wataru- チャンネル



英語シャドーイング学習記事が100を超える

「ブログカテゴリ:英語学習」



コツコツ、淡々と、続けている。
コツコツ、淡々と、続けている、フリをしている。

しばしば、結果を焦る。
何のためにやっているのか見失う。

「誰かに届いてるんだろうか?」
「自分の言葉になんて誰も興味ないんじゃないか?」


毎日のように思う。

眠くなったり、肩が凝ったり、
目がかすんだりする。



そうして、たまに辛かったり、
投げ出してしまいたくなる。

それでも結局、投げ出すことができない。

作りたい、創造したい。
自分の気持ちを、世界に発信したい。
自分はここにいる、それを証明したい。




なにより、楽しい。



だから、これからも、創り続ける。

継続することに挫けそうになった時は、
こんな言葉に励まされながら。


何をやってもムダに思える時、
私は石工が岩を叩くところを見に行く。

100回叩いても岩にはひび1つ見られない、
ところが、101回目にようやく岩は2つに割れる。

岩を割ったのは最後の1打ではない。
その前に振り下ろされた100回なのだ。



ジェイコブ・リース

一羽のツバメが来ても夏にはならないし、
一日で夏になることもない。

このように、
一日もしくは短い時間で
人は幸福にも幸運にもなりはしない。



アリストテレス





posted by 理琉(ワタル) at 18:33 | TrackBack(0) | 人生観

2020年12月08日

【劣等感の克服】「勝ちを譲る練習」は、劣等感に苦しむ心を救う練習。

自分に劣等感を感じている人は、
勝ちたい人に勝ちを譲ることができない。

なぜなら、
勝負に勝つことでしか
自分の価値を見いだせないから。



勝ちたい人に
勝ちを譲れる人は知っている。

その勝負に負けたからといって、
自分の価値は下がらないことを。



ー目次ー
  1. 勝ちを譲れない人にとって”負け=無価値な自分”
  2. 勝ちを譲れる人は、勝ちたい人の劣等感を見抜く
  3. ”終わりなき競走人生”はずっと苦しい
  4. ”勝ちを譲る練習”は、劣等感から自分の心を救う練習

1.勝ちを譲れない人にとって”負け=無価値な自分”

勝ちを譲れない人は自分に自信がない。

だから相手と比較し、
優れていると証明することが
自分の価値を認める唯一の手段になる。


彼らにとって、勝ちを譲ることは、
比較して自分が負けることになる。

負けた自分は相手よりも能力がない、
能力がない自分の価値は下がってしまう。

そう思い込む。



だけど、それを認めるのは苦しい。

自分には価値がある、
相手よりも優れていると思いたい。

相手よりも優れていなければ、
自分の心を劣等感から守れないから。


2.勝ちを譲れる人は、勝ちたい人の劣等感を見抜く

勝ちを譲れる人は、自分の価値は
自分で決めていいことを知っている。

自分の価値は、相手との勝負や比較で、
必死に証明しにいくものではないことも。


その勝負での負けは、自分の価値に影響しない、
だから勝ちたい人に勝ちを譲ることができる。



勝ちを譲れる人は
勝ちたい人の劣等感を見抜く。


この人は
自分の優位性をアピールしてきてるんだ、
そうしていないと劣等感に押しつぶされるから。


そんな余裕のなさを見抜く。



そして、
勝ちを譲れる人は
勝ちたい人の悲鳴にも気づく。


「お願いだ、勝たせてくれ。
 勝つことでしか、押し寄せる劣等感に
 耐える方法がないんだ!」


そんな悲鳴に。

3.”終わりなき競走人生”はずっと苦しい

勝ちを譲れない人は、自分の価値を
勝負に勝つことで何とか保っている。

勝つこと、結果を出すことが叶う限り、
負けた時の劣等感に苦しまなくて済む。



だけど、
勝ちを譲れないままの人生は苦しい。

なぜなら、
自分は優れていると思い込むためには、
勝ち続けなければいけないから。

競争や勝ち負けを意識すると、他者全般、
ひいては世界のことを”敵”と見なすようになります。

たとえ敗者にならず、勝ち続けていようとも、
競争の中に身を置いている人は心の休まる暇がない。

敗者になりたくない。
そして敗者にならないためには
つねに勝ち続けなければならない。



『嫌われる勇気』”敵と仲間について” より


自分の価値を自分で認められず、
他者との比較ありきにしていると、

終わりなき競走人生からいつまでも逃れられない。

4.”勝ちを譲る練習”は、劣等感から自分の心を救う練習

「人生は常に勝負」
「勝ち続けることこそ生きがい」


それを生きる力にするのもいい。

勝つこと、成功することは、
大きな達成感と優越感を与えてくれる。



それに、
勝ちを譲れる人だって人間。
勝ちを譲る時に何も感じないわけじゃない。


劣等感から逃れたい気持ちも、
優越感に浸りたい気持ちもある。



だけど、
終わりなき競走人生が苦しいなら、
たまには勝ちを譲ったっていい。

何しろ、
自分の価値は自分で決めていいから。

自分の価値は
一時の負けなんかで下がらないから。

ひとたび競走の図式から解放されれば、
誰かに勝つ必要はなくなります。

「負けるかもしれない」
という恐怖からも解放されます。


『嫌われる勇気』”敵と仲間について” より



「勝ちを譲る練習」

それは、
競走人生から降りる練習。

そして、
劣等感に苦しむ自分の心を
救う練習でもあるんじゃないだろうか。








posted by 理琉(ワタル) at 18:10 | TrackBack(0) | 人生観

2020年11月24日

【ギリシャ神話・プロメテウス】不老不死は本当に幸せか。それとも永遠の退屈か。

古来より、多くの権力者が求めてきた
不老不死。

仮に不老不死を手に入れたとしたら、
本当に幸せだろうか。



たとえ若く健康で、
望むものは何でも手に入るとしても、
永遠に生きることは果たして幸せだろうか。

永遠の苦痛と退屈ではないだろうか。

不老不死を望む者たちが本当に欲しているのは、
「もう充分だと思うところまで生きること」

ではないだろうか。



ー目次ー
  1. 不老不死のプロメテウスが受けた”永遠の苦痛”
  2. プロメテウスが直面する”永遠の人間への絶望”
  3. 不老不死の裏返しは”永遠に死ねない”
  4. 不老不死の本音”すべてに飽きるまで生きたい”

1.不老不死のプロメテウスが受けた”永遠の苦痛”

ギリシャ神話、
先見の神・プロメテウス

彼は、人間と神との肉の分配について、
最高神ゼウスに申し立てをした。

  • 見た目は美味しそうだが、中身は骨ばかりの肉
  • 見た目はまずそうだが、美味しい部位を詰め合わせた肉

ゼウスは骨ばかりの肉を選んでしまい、
プロメテウスは美味しい肉を人間に与えた。



そこでゼウスは、
人間には肉を与える代わりに火を奪った。

プロメテウスは
天界から火を持ち出し、人間たちに与えた。

これに怒ったゼウスは、
プロメテウスを山頂へ縛り付け、
ワシに内臓をついばまれる刑に処した。

神は不老不死のため、
毎夜、ついばまれた内臓が復活した。

幸い、後にヘラクレスに助けられるが、
プロメテウスの苦しみは3万年も続いたという。


2.プロメテウスが直面する”永遠の人間への絶望”

プロメテウスは幸運にも、
永遠の苦しみから解放された。

もし助けが来なかったら
文字通り、永遠に苦しむことになる。

不老不死であるために。




プロメテウスが解放された後も、
人間は争い、憎み合い、奪い合った。

ずっと味方していた人間の愚かさに絶望し、
最後は他の神々と同じく人間たちを見捨て、
天界へ去ってしまう。



人間を作ったとも言われるプロメテウス。

彼は不老不死であるがため、
天界で今も人間に絶望し続けている。

それは果たして幸せだろうか。


天界で、人間に代わる喜びを
探し続けられるならいい。

もし、あらゆる喜びを探し尽くした時、
不老不死は永遠の退屈にならないだろうか。


3.不老不死の裏返しは”永遠に死ねない”

もし、天国で永遠に過ごせるとしたら、
不老不死は幸せだろうか。

これについて、
神に反逆した悪魔がこう語った話がある。
人間
「どうしてお前は神に反逆したんだ?」

悪魔
『よし、教えてやろう。
俺がここに座っているから、踊り回りながら
讃美歌を歌い、神の偉大さを称え続けてくれ。』

しばらくそうしてから、人間は言った。

人間
「もううんざりだ。交代してくれないか?」

悪魔
『俺もまさにそう言ったのさ』



『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』 より



人間は何十年、一生涯、
大好きな何かに没頭できる。

ただし、人間は複雑になり過ぎたために、
「飽きる」ことができてしまう。




何千年後、もうあらゆることに飽きたら、
そろそろ死んでもいいと思う時が来るかも知れない。

その時にも身体は若く健康、なのに死ねない。
なぜなら不老不死だから。




そうなったら、
天国に居たくなかった悪魔と
同じ気持ちにならないだろうか。

不老不死は永遠の退屈だ、
もううんざりだ、交代してくれないか?


と。

4.不老不死の本音”すべてに飽きるまで生きたい”

どんな喜びも、永遠に味わいたいと
思い続けるのは難しそうだ。

ということは、

不老不死を欲した者の本音は、

「永遠に死にたくない」

ではなく、

「もう充分だと思うところまで生きたい」

ではないだろうか。




大きな何かを成し遂げ、
この世のあらゆる快楽を味わい尽くすには、
人生はあまりに短い。

だから、
何もかもすべてに飽きるまで生きたい。

そして、永遠の退屈に襲われる前に、
安らかに死にたい。


それが望みなんじゃないだろうか。



不老不死を求めることで、
短すぎる人生と、自分に残された時間に、
必死で折り合いをつけてきたんじゃないだろうか。








posted by 理琉(ワタル) at 19:24 | TrackBack(0) | 人生観

2020年11月19日

【人生の価値と希望】希望はなぜ、人を生かす理由になり得るのか 〜希望は足し算・引き算では測れない〜。

人が、自分を生かそうとするのはなぜなのか。

空腹になったら食べたくなり、
体調を崩したら回復しようとする。

そうやって
生き長らえようとするのはなぜなのか。



人生なんて、

希望:苦しみ=1:9

くらいなのに。

なぜ、
たった1割の希望をそこまで信じられるんだろうか。

なぜ、希望は
残り9割の苦しみに耐える理由になるんだろうか。



ー目次ー
  1. 人生の大半は”悩み苦しみ、たまに喜ぶ”
  2. パンドラの壺が開けられても、生き続けた古代ギリシャ人
  3. 強制収容所でも、希望を信じ生き延びたフランクル
  4. 希望の力を疑い、希望を頼りに生きる自分への矛盾
  5. 人間にとっての希望は足し算・引き算では測れない

1.人生の大半は”悩み苦しみ、たまに喜ぶ”

人生の流れを
ものすごくざっくり言うと、

生まれる
大半は悩み苦しみ、たまに喜ぶ
納得いかないタイミングで死ぬ


この
「大半は悩み苦しみ、たまに喜ぶ」を巡る
壮大な暇つぶしとも言える。



人生の価値を
単純な快楽主義で考えるなら、

快楽−苦しみ=+
→生きる価値あり

快楽−苦しみ=−
→生きる価値なし


たまにやってくる喜びがいかに大きくても、
それ以外のほとんどが苦しい。

全体的にはマイナスなのに、
生き長らえたらそのマイナス期間が延びる。

なぜ、わざわざそんなことをするんだろう。

2.パンドラの壺が開けられても、生き続けた古代ギリシャ人

ギリシャ神話では、
人類最初の女性・パンドラが作られ、
地上へ送られた。

そこでパンドラは
開けることを禁じられた壺のフタを開け、
中から災いや病苦があふれ出た。

パンドラが壺のフタを閉めた時、
壺の底にただ1つ、希望だけが残った。

こうして人々は、
災い、悪、苦しみがあふれる世界を
希望だけを頼りに生きていくことになった。



「人生はほとんどが苦しみだ」

この神話を語り継いだ
古代ギリシャの人々は知っていた。

なのに、彼らは生きることを選んだ。
訪れるかわからない希望を信じて。


なぜだろう。

ほぼ苦しみ、希望は約束されていない。

それでも耐えて生き続けられるほど、
希望は大きいものだろうか。

苦しみと希望は、
単純な大きさの比較では測れないのか。




3.強制収容所でも、希望を信じ生き延びたフランクル

ヴィクトール・フランクルの
アウシュビッツ強制収容所での体験作品

『夜と霧』

明日にでも処刑されるかも知れない、
絶望の中で彼を生かしたのは希望だった。

ここを耐えれば、

パンを食べられる
煙草が吸える
家族に会える


かも知れないと。



訪れるかわからない希望の一瞬、
それよりはるかに長い絶望と苦しみ。

圧倒的に、

「快楽−苦しみ=−」

のはずなのに、なぜ希望は
苦しみに耐えるモチベーションになり得るのか。

単純に、享受できる時間の差だけでは
測れないんだろうか。




4.希望の力を疑い、希望を頼りに生きる自分への矛盾

こんなことを考える自分にも
大きな矛盾がある。

希望は不確定と疑うくせに、
自分だって希望を信じて生き長らえている。




希望:苦しみ=1:9

それは全体的に
生きる価値のない人生なんじゃないの?


こんなことを考えながら、

「そうですね、
生きる価値がマイナスですもんね。
じゃあ終わります。」

と言って終わらせていない自分がいる。



家族と絶縁し、天涯孤独になった。
無条件の愛情は幻想だと絶望した。

なのに

次にバスケができる日
次に野球ができる日

それを希望に生き長らえている。



結局、自分だって、1割の希望を頼りに
生き長らえてるんじゃないか。

そんな矛盾だらけの自分に、
人生の価値を語る資格はあるのか。




何なんだ。

なぜ、たった1割の希望は
9割の苦しみに耐える理由になるんだ?

なぜ人間は、
約束されてもいないことを
生きるモチベーションにできるんだ?


5.人間にとっての希望は足し算・引き算では測れない

生まれる
大半は悩み苦しみ、たまに喜ぶ
納得いかないタイミングで死ぬ


苦しみと希望の比率をいくら考えてみても、
自分がこのサイクルの中にいる事実は変わらない。

生き長らえる理由を疑う一方で、
自分だってその希望を頼りに生きている。



矛盾だらけの中で、結局は

「希望は足し算・引き算では測れない」

そして、

人間が本当に望む”希望の中身”は
単なる快感の総数だけではない


ということか。

「レバーを押せばいつでも快感が得られる」

それはラットにとっては
食事も忘れるほど夢中になる”生きる希望”だ。

しかし、それは人間にとって、
この世に存在する唯一の希望ではない。

レバーを押す実験装置は、
友情を育み、語り合い、睦み合い、愛し合うといった、
人間が真に切望する快感を私たちに与えることはないだろう。


『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本短縮版』 より



「苦しみの方が多いから終わりましょう」
「レバーを押せば快感を味わえる、なら生きます」

そんな単純な快楽で満足できないくらい、
人間の脳は複雑になり過ぎた。

いくらでも悩みのタネを思いつける一方、
希望だって無数に思い描ける。




だから人は生きられるのか。
とりあえず死なないだけなのか。

そんなことを考えながら、
次のバスケを、野球を目指して
練習に励む自分がいた。



posted by 理琉(ワタル) at 18:50 | TrackBack(0) | 人生観

2020年11月10日

【死と孤独】死より怖いものは孤独。真の孤独とは、誰も自分に興味がなくなった時。

死よりも怖いものは孤独だ。

真の孤独とは、
周りに誰もいなくなることじゃない。

自分も含めて、
自分の心に誰も興味を持たなくなることだ。

人は、死ぬことで孤独になるんじゃない。
人は、孤独になった時に死ぬんだ。



ー目次ー
  1. Dr.ヒルルクの言葉:”人はいつ死ぬと思う?人に忘れられた時さ。”
  2. 孤独への恐怖を表す言葉:”死ぬときは誰もが独り”
  3. 誰も自分に興味がないと悟った結果の”孤独死””自殺”
  4. 孤独を救うのは”たった1人の理解者””たった1つの生きがい”

1.Dr.ヒルルクの言葉:”人はいつ死ぬと思う?人に忘れられた時さ。”

ONE PIECE
麦わらの一味の船医・チョッパー。

彼の育ての親であり師・Dr.ヒルルクが、
死に際にこんな言葉を残した。

人はいつ死ぬと思う?
人に忘れられた時さ。


『ONE PIECE』16巻 145話”受け継がれる意志” より

彼は、死と孤独の順番が逆だと知っていた。

病気やケガで死ぬから孤独になるんじゃない、
人に忘れられ、孤独になった時、本当に死ぬんだと。




ヒルルクは不治の病と毒薬で、
身体の死は間近だった。

それでも彼にはチョッパーという、
自分の意志を受け継ぐ者がいた。

決して孤独じゃなかったから、
ヒルルクは死を恐れるどころか笑ってたんだろう。

だからこそ、最期に

おれが消えても、おれの夢は叶う
病んだ国民の心もきっと救える

と言ったんじゃないかな。




2.孤独への恐怖を表す言葉:”死ぬときは誰もが独り”

「死ぬときは誰もが独り」

この言葉は、死そのものよりも、
孤独になる恐怖を表しているのかも知れない。

死ぬことで
大切な人や生きがいと永遠の離別し、
生の世界から離れることが怖いんじゃないか。

「死ぬときはみな独りだ」

この主張は、
自分が死にかけていると気づいている人は誰もが、
寂しさや他者からの距離を感じるということに
すぎないのかも知れない。


それに気づいている人は
みな「独りで」死ぬのかも知れない。

『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本短縮版』より



死ぬときに発生する痛みや苦しみは
もちろん怖い。

ただ、それ以上に
自分が誰ともつながれなくなることが怖い。


「死ぬときは誰もが独り」には、
そんな意味が込められているように思える。

3.誰も自分に興味がないと悟った結果の”孤独死””自殺”

「孤独死」
「自殺」

残された者は、
悲しみの中でこんな言葉を口にする。

「命を粗末にするなんて」
「なぜ相談してくれなかったの」




なぜ、死に踏み切ったのか。

それは本人にしかわからないが、
1つ考えられるのは、

「誰も自分の気持ちになんか興味ない」
ことを確信してしまったからじゃないか。




家族が本当に心配しているのは、
私のことなんかじゃない。

”私を心配する献身的な家族”である自分だけだ。

私を心配するフリをすることで、
自分の不安を解消したいだけだ。


「私は立派な家族だ、存在意義があるんだ」と。



私にいちばん近しい者たちにさえ、
私の気持ちに興味を持たれることがない。

ならば、生きている限り、
この孤独から逃れることはできない。


そうして、終わらない孤独に絶望した末に、
彼らは死を選ぶんじゃないだろうか。

4.孤独を救うのは”たった1人の理解者””たった1つの生きがい”

よく、

「自己肯定感を持て」
「ありのままの自分を受け入れろ」


という言葉を見かける。
確かに、自分を認められないのは苦しい。

他人の評価でしか自分を認められないと、
承認欲求にずっと苦しむことになる。



ただ、
人は心と集団性を持ってしまった。

「誰も自分の気持ちに興味がない」

その絶望が生きている限り続くような状況で、
自己肯定感をいつまでも保てるだろうか。




たった1人でいい、たった1つでいい。

理解者がいる、熱中できることがあるだけで、
孤独ではなくなる。

そして、
”自分はまだ孤独じゃない”と思える限り、
もう少し生きてもいいと思えるんじゃないだろうか。




posted by 理琉(ワタル) at 19:10 | TrackBack(0) | 人生観

2020年10月31日

【行動できない人】手足を動かし練習する方が、何もせず口出しするよりはるかに簡単だ。

あなたが何かを達成したくて
練習しているとする。

そこへ口出しし、あなたを否定する、
何も練習しない者がいるとする。



手足を動かし練習するより、
何もせず口出しだけする方が、本来は難しい。

「世界的にも難解な言語である日本語を組み立て
わざわざあなたが凹むように誘導する」

ほら、すごく難しいでしょう?

だから、口を出されたあなたがやることは簡単だ。
手足を動かし、ただひたすら練習することだ。



ー目次ー
  1. 日本語は、とてつもなく難しい言語
  2. 全エネルギーの2割以上を、他人の否定に使う者たち
  3. 練習した疲れはすべて、自分の糧になる
  4. 口出しする者が、決してたどり着けない場所へ行こう

1.日本語は、とてつもなく難しい言語

  • アルファベット:26字
  • ギリシャ文字:24字
  • キリル文字:30〜33字


これに対し、日本語は

  • ひらがな:46字
  • カタカナ:46字
  • 常用漢字:2136字


しかも、
ひらがな・カタカナは付け足しも省略も自在、
漢字の読み方は無限。



「日本人は英語が話せない」

そう言われるばかりで、忘れがちなこと。

それは、
こんなに難解で自由すぎる日本語を操るのは、
とんでもなく難しいってことだ。

英語圏から見れば、日本語は
アラビア語や中国語と並んで”鬼門”の1つだ。


2.全エネルギーの2割以上を、他人の否定に使う者たち

「手足を動かして練習したら疲れる。
口を出すだけなんて疲れないじゃないか。」


そんなことはない。

口を出すまでの一瞬に
とてつもないエネルギーが掛けられている。



世界最高レベルに難解な言語からピックアップし、
瞬時に2つの目的を達成しなければならない。


  1. あなたを否定し上達を阻止する
  2. 自分の方が優れていることを思い知らせる



人間は、全エネルギーの2割以上を
脳で消費している。

その膨大な自分のリソースを
わざわざ相手を否定するために使っている。


近くの公園まで歩いたり走ったりするのと、
いったいどちらが疲れるんだろう。

3.練習した疲れはすべて、自分の糧になる

手足を動かし練習したら、息があがる。
身体も頭も疲れる。

ただしそれはすべて、自分の糧として積もる。



手足を動かし練習する者を落とすため、
難解な言語を必死で組み立てて口出しする。

頭はもちろん疲れる。
ただしその疲れは、自分に何も残してくれない。




口出しした相手が落ち込んだら、
その時だけでも安心感と優越感に浸れる。

だけど、
その場しのぎの安心感なんてすぐに枯渇する。

そしたらまた、次の獲物を探して彷徨う。




練習せず、口出しだけする人が
しているのはそれだけだ。

そして気づいたら、
手足を動かす者と口だけを動かす者には、
とんでもない差がついている。

4.口出しする者が、決してたどり着けない場所へ行こう

残念ながら、
あなたがどれだけ熱心に練習を続けても、
口出しする者にはどこかで出遭う。


重労働なのに自分のためにならないことを、
彼らは平気でしてくる。

「何を言われても気にしない」

それが難しいなら、落ち込んでいい。
落ち込んで、泣いて、怒っていい。



大丈夫。

あなたがやることは今まで通り、簡単だ。
決して口出しする側に回らず、練習し続けることだ。

練習の疲れはすべて、とてつもない推進力になる。
あなたをはるか遠いところへ連れて行くための。

他人にエネルギーを浪費する者たちが、
決してたどり着けない場所へ行こうじゃないか。




posted by 理琉(ワタル) at 01:19 | TrackBack(0) | 人生観

2020年10月26日

あなたの足を引っ張る人は、あなたに挑戦を諦めてほしい人。

あなたが何かに挑戦していたり、好きなことをして生きているなら。
人生で何度かは、こう言ってくる人に出遭わなかっただろうか。

「社会は厳しい」
「世の中は甘くない」
「お前にできるわけがない」




聞き飽きたという人もいるだろう。
他人の人生に口出しするなと、憤ったこともあるかもしれない。

「厳しい」だの「甘くない」だのと言ってくる人は、
”あなたのためを思って”などいない。

あなたの足を引っ張るのは、あなたに諦めてほしいから。

自分は怖くて挑戦しないまま、不満な人生を送っているのに、
あなたの挑戦が成功したら自分が惨めになるから。


足を引っ張ってくる人に何と言われうと、
あなたはやりたいことに挑戦し続ければいいんだ。


ー目次ー
  1. 足を引っ張る人は”不満と劣等感が強い人”
  2. 足を引っ張る人の標的は”自分と大差ないはずの人”
  3. 足を引っ張る理由は”置き去りにされるのが惨めだから”
  4. 足を引っ張られる時点で、あなたは認められている


1.足を引っ張る人は”不満と劣等感が強い人”

何かに挑戦するということは、
先が見えない中に飛び込むということ。

 ”わからない”という不安
 体験したことのない失敗
 たくさんの”できない”という挫折


これらが次々と降りかかってくる。



足を引っ張る人は

・何が起こるかわからない不安な未来
・自分がわかる範囲でそこそこの未来

これらを天秤にかけた結果、
自分がわかる範囲でそこそこの未来を選んだ人。



そして、劣等感と自己否定感が強い人。

 どうせ自分なんかが
 ”何が起こるかわからない不安な未来”を
 乗り越えられるわけがない。

そうやって自分の限界を自分で決め、
挑戦すること自体を諦めてきた人。


2.足を引っ張る人の標的は”自分と大差ないはずの人”

足を引っ張る人は、
自分よりはるかに能力が高い(と思っている)人には、
「お前にできるわけがない」と言わない。

なぜなら、自分が敵う余地がなく、
優越感に浸れるチャンスがないから。



足を引っ張る人が標的にするのは、

現時点で自分と同等か、
それほど能力に大差ない(と思っている)人。


なぜなら、手の届く範囲の誤差なら、
自分の方が上だと思えるから。

「お前と同等の能力の自分が諦めたんだ、
 だからお前にできるわけがないだろう」


こう言って、優越感に浸れる。



そして、あなたが挑戦の過程で失敗をしたら、
それを嬉々としてあげつらい、こう言う。

「だから”止めとけ”って言っただろう?」


3.足を引っ張る理由は”置き去りにされるのが惨めだから”

足を引っ張っても、自分の能力は何も変わらない。
むしろ、足を引っ張る労力を消費する。

にもかかわらず、なぜ足を引っ張るのか。

それは、
自分と大差ないはずの人が
自分が諦めた挑戦に成功したら、
諦めた自分が惨めになるから。




自分は
何が起こるかわからない不安な未来や、
変わることで直面する新たな挫折が怖くて、挑戦を諦めた。

その結果、予測できる範囲の不安を抱え、
ほどほどだけど不満な人生を送っている。

なのに、
自分と同じかそれ以下と思っている人が
自分が諦めた不安や変化に飛び込んだ。

そして、あろうことかそれを乗り越え、
手の届かないところへ登り詰めてしまった。




そしたら、惨めになる。
怖くて挑戦しなかった自分を正当化できなくなる。

ほどほどの不安、そこそこだけど不満、
そこでくすぶってる自分から目をそらせなくなる。


だから足を引っ張る。

諦めた自分を受け入れるのが怖くて。
くすぶってる自分と向き合うのが惨めで。

自分の敗北を認めることに通じるから
自分の野心を認められない。

しかし他人の優位を認められない。
自分が優位したいけれども優位ができない。

そうなれば妬んで他人の足を引っ張る以外に
生きる方法はなくなる。

『「妬み」を捨て「幸せ」をつかむ心理学』 より

 お願いだ、手の届く範囲から出て行かないでくれ。
 「お前よりはまだ上」だと優越感に浸れる存在のままでいてくれ。


彼らはきっと、心の奥底に響く叫びを、必死で隠している。




4.足を引っ張られる時点で、あなたは認められている

 足を引っ張ってくる人に何と言われようと、
 あなたはやりたいことに挑戦し続ければいい


僕はこんなことを書いておきながら、
僕は落ち込むときは落ち込むし、憤りを感じる。

だから、完全スルーできる人に憧れている。

それでも、僕のように完全スルーが難しいなら、
彼らが足を引っ張る理由を考えてみてはどうだろう。



この人は自分に自信がなくて、
”諦めてくれよ”と言っているのかもしれないな。

自分の劣等感を、惨めさを認めたくないのかな。

「置き去りにしないでくれよ」と
すがりついているのかもしれないな。




大丈夫。
足を引っ張る人が出てくるのは、
あなたの挑戦はすごいと認められている証拠だから。




→あわせて読みたい
 優しい人が突然いなくなるのは、我慢の限界を超えた時。




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posted by 理琉(ワタル) at 23:58 | TrackBack(0) | 人生観
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自閉傾向の強い広汎性発達障害。鬱病から再起後、低収入セミリタイア生活をしながら好きなスポーツと創作活動に没頭中。バスケ・草野球・ブログ/小説執筆・MMD動画制作・Vroidstudioオリキャラデザインに熱中。左利き。 →YouTubeチャンネル
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