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2020年11月19日

【人生の価値と希望】希望はなぜ、人を生かす理由になり得るのか 〜希望は足し算・引き算では測れない〜。

人が、自分を生かそうとするのはなぜなのか。

空腹になったら食べたくなり、
体調を崩したら回復しようとする。

そうやって
生き長らえようとするのはなぜなのか。



人生なんて、

希望:苦しみ=1:9

くらいなのに。

なぜ、
たった1割の希望をそこまで信じられるんだろうか。

なぜ、希望は
残り9割の苦しみに耐える理由になるんだろうか。



ー目次ー
  1. 人生の大半は”悩み苦しみ、たまに喜ぶ”
  2. パンドラの壺が開けられても、生き続けた古代ギリシャ人
  3. 強制収容所でも、希望を信じ生き延びたフランクル
  4. 希望の力を疑い、希望を頼りに生きる自分への矛盾
  5. 人間にとっての希望は足し算・引き算では測れない

1.人生の大半は”悩み苦しみ、たまに喜ぶ”

人生の流れを
ものすごくざっくり言うと、

生まれる
大半は悩み苦しみ、たまに喜ぶ
納得いかないタイミングで死ぬ


この
「大半は悩み苦しみ、たまに喜ぶ」を巡る
壮大な暇つぶしとも言える。



人生の価値を
単純な快楽主義で考えるなら、

快楽−苦しみ=+
→生きる価値あり

快楽−苦しみ=−
→生きる価値なし


たまにやってくる喜びがいかに大きくても、
それ以外のほとんどが苦しい。

全体的にはマイナスなのに、
生き長らえたらそのマイナス期間が延びる。

なぜ、わざわざそんなことをするんだろう。

2.パンドラの壺が開けられても、生き続けた古代ギリシャ人

ギリシャ神話では、
人類最初の女性・パンドラが作られ、
地上へ送られた。

そこでパンドラは
開けることを禁じられた壺のフタを開け、
中から災いや病苦があふれ出た。

パンドラが壺のフタを閉めた時、
壺の底にただ1つ、希望だけが残った。

こうして人々は、
災い、悪、苦しみがあふれる世界を
希望だけを頼りに生きていくことになった。



「人生はほとんどが苦しみだ」

この神話を語り継いだ
古代ギリシャの人々は知っていた。

なのに、彼らは生きることを選んだ。
訪れるかわからない希望を信じて。


なぜだろう。

ほぼ苦しみ、希望は約束されていない。

それでも耐えて生き続けられるほど、
希望は大きいものだろうか。

苦しみと希望は、
単純な大きさの比較では測れないのか。




3.強制収容所でも、希望を信じ生き延びたフランクル

ヴィクトール・フランクルの
アウシュビッツ強制収容所での体験作品

『夜と霧』

明日にでも処刑されるかも知れない、
絶望の中で彼を生かしたのは希望だった。

ここを耐えれば、

パンを食べられる
煙草が吸える
家族に会える


かも知れないと。



訪れるかわからない希望の一瞬、
それよりはるかに長い絶望と苦しみ。

圧倒的に、

「快楽−苦しみ=−」

のはずなのに、なぜ希望は
苦しみに耐えるモチベーションになり得るのか。

単純に、享受できる時間の差だけでは
測れないんだろうか。




4.希望の力を疑い、希望を頼りに生きる自分への矛盾

こんなことを考える自分にも
大きな矛盾がある。

希望は不確定と疑うくせに、
自分だって希望を信じて生き長らえている。




希望:苦しみ=1:9

それは全体的に
生きる価値のない人生なんじゃないの?


こんなことを考えながら、

「そうですね、
生きる価値がマイナスですもんね。
じゃあ終わります。」

と言って終わらせていない自分がいる。



家族と絶縁し、天涯孤独になった。
無条件の愛情は幻想だと絶望した。

なのに

次にバスケができる日
次に野球ができる日

それを希望に生き長らえている。



結局、自分だって、1割の希望を頼りに
生き長らえてるんじゃないか。

そんな矛盾だらけの自分に、
人生の価値を語る資格はあるのか。




何なんだ。

なぜ、たった1割の希望は
9割の苦しみに耐える理由になるんだ?

なぜ人間は、
約束されてもいないことを
生きるモチベーションにできるんだ?


5.人間にとっての希望は足し算・引き算では測れない

生まれる
大半は悩み苦しみ、たまに喜ぶ
納得いかないタイミングで死ぬ


苦しみと希望の比率をいくら考えてみても、
自分がこのサイクルの中にいる事実は変わらない。

生き長らえる理由を疑う一方で、
自分だってその希望を頼りに生きている。



矛盾だらけの中で、結局は

「希望は足し算・引き算では測れない」

そして、

人間が本当に望む”希望の中身”は
単なる快感の総数だけではない


ということか。

「レバーを押せばいつでも快感が得られる」

それはラットにとっては
食事も忘れるほど夢中になる”生きる希望”だ。

しかし、それは人間にとって、
この世に存在する唯一の希望ではない。

レバーを押す実験装置は、
友情を育み、語り合い、睦み合い、愛し合うといった、
人間が真に切望する快感を私たちに与えることはないだろう。


『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本短縮版』 より



「苦しみの方が多いから終わりましょう」
「レバーを押せば快感を味わえる、なら生きます」

そんな単純な快楽で満足できないくらい、
人間の脳は複雑になり過ぎた。

いくらでも悩みのタネを思いつける一方、
希望だって無数に思い描ける。




だから人は生きられるのか。
とりあえず死なないだけなのか。

そんなことを考えながら、
次のバスケを、野球を目指して
練習に励む自分がいた。



posted by 理琉(ワタル) at 18:50 | TrackBack(0) | 人生観

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自閉傾向の強い広汎性発達障害。鬱病から再起後、低収入セミリタイア生活をしながら好きなスポーツと創作活動に没頭中。バスケ・草野球・ブログ/小説執筆・MMD動画制作・Vroidstudioオリキャラデザインに熱中。左利き。 →YouTubeチャンネル
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